2012/12/23 ルカ2:8~20 天に栄光 地に平和

・闇の世界
  クリスマスに登場するのは、ヨセフとマリヤ夫妻、羊飼いたちです。彼らは、世の辛さ、貧しさ、惨めさを嫌と言うほど味わっていた人々でした。ですから、クリスマスの夜の風景は、彼らのおかれた世の闇を暗示しているといえます

。 ・天使の御告げ
  その彼らに御使いたちが現れて、新しい時代の到来を告げています。御使いガブリエルは御子の誕生を告げ、「天の軍勢」は御子よって興る新しい世界を示しています。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
  新しい時代は、天地創造者である神に栄光が帰され、また神の民こそが、平和に満たされるということです。

 ・「天に栄光 地に平和」
 新しい救いの世界は、ただ幼子イエスを通して実現します。彼は人の目にはただのチッポケで貧しい赤ちゃんですが、聖霊によって心の目が開かれた人々には、「神の栄光」の輝きそのものであることが明らかにされます。
  羊飼いたちは御使いの言葉を信じて、幼子の正体を見いだして、互いに喜び、そして神を賛美して、救いの世界に入れられています。

 ・イエスによって描く
  私たちにも、福音によって御子が提供されています。それは目に見えない存在ですが、御使いの言葉に従って御子をよく見つめるときに、救いの世界が輝いています。私たちは、御子を信じることで、その世界に入ることができ、私たちの内にも御使いたちの賛美が生まれてくるのです。

2012/12/16 Ⅱコリント8:9 クリスマスの恵み

・クリスマスの恵み
  恵みとは、相手のために良くし、相手を生かし、その心を喜ばせることです。そして、それが受け入れられたとき、与える側にとっても、受ける側にとっても、それは良いこととなり、喜びとなります。  神はキリストを通して、私たちに対して恵みを示されました。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」とあるとおりです。
 キリストの富とは、神の子として立場と権威、聖さと義、あらゆる祝福です。しかし、それらを捨てて、貧しくなられました。つまり、人として地上に誕生し、最後はすべてを奪われて十字架の死にまで至りました。呪われた者、もっともに貧しく、卑しい者とされたのです。

 ・恵みの交換
  これらは「あなたがたのため」とあるとおり、私たちの貧しさをその身に受け、私たちに一切の富を与えるためでした。
  これは恵みの交換です。つまり、対等のものではなく、富と貧しさ、聖さと汚れ、癒しと傷と、安楽と重荷という相反するものの交換です。この交換によって、私たちは富む者となるように招かれているです。

 ・恵みを受け入れる  クリスマスの時は、キリストが貧しい姿で地上に誕生したことを記念するときであり、その恵みがクッキリと現されるときです。私たちはもう一度、神がキリストを通して差しだしておられる恵みを覚え、心から受け取りましょう。

2012/12/9 イザヤ30:15 立ち返って静かに

・世にある人間
 神様は人間が2つの世界に依存して生きるように創造されました。第1は神の世界、次に被造世界(世)です。人は堕落以降、神との交わりを避け、目に見える世界に向かうようになりました。しかし、そこは罪の世界、滅びの世界、決して平安はありません。

 ・立ち返って静かに
 「立ち返って静かに」とイザヤは語ります。「立ち返る」とは、振り向くと言うことですから、私たちの心の目を世から離して、神に向くようにと勧めています。神こそが、私たちの心の目を向ける第1の対象です。
 その際に「静かに」する必要があります。私たちの神経を刺激していた世の煩い、囚われの思いを沈める必要があります。その「静かさ」の中で、神のみことば、神の御顔の光が顕わにされるのです。その交わりの中で、神が愛と全能の力で「あなた」を救ってくださることが分かります。

 ・落ち着いて信頼する
 次に「落ち着いて信頼する」とあります。「落ち着く」とは、周囲のことに煩うことなく、心を穏やかにすることです。「信頼する」とは、大丈夫だと信頼して心を安らかにすることです。神の前では熱狂も、頑張りも必要なく、ただ「落ち着いて信頼する」ことが大切なのです。
 神は、内側からも力を与えてくださり、私たち自身を通して、問題を克服させてくださるのです。

2012/12/2 イザヤ28:16 礎の石イエス

・旧約の世界と基礎
  あらゆる建造物には、礎が据えられます。それは重要なことです。極端を言えば、見える部分は氷山の一角であり、その下には大きな基礎があると言うことです。
  丁度そのように、旧約の世界にも目に見える社会と国家の背後には、礎がありました。それはモーセを通しての契約の箱であり、それが安置されたエルサレム神殿でした。

 ・礎の石イエス
  「私はシオンに一つの石を礎として据える」とあります。神は古いものをよしとせず、それとは別の礎を据えることを示します。それは「試みを得た石、堅く据えられた礎の尊いかしら石」とあります。つまり新しい救いの世界の礎です。
  この新しい「礎の石」とは、イエス・キリストのことで、彼は確かに「試みを得た石」「尊いかしら石」です。つまり、処女マリヤから生まれ、十字架の死にまでも従い、三日後に復活しまして、公に神の子として証明された方です。これ以前にもこれ以降にも、このような盤石な礎はありません。

 ・信じる者はあわてることがない
 「これを信じる者は、あわてることがない」とあります。信仰とは、契約のサインと同じです。つまり「イエスこそ神の子で、私の救いです」と心で信じ、口で告白するのです。その信仰で、神は「私」をイエスという礎の上に置いてくださり、どのような危機からも救ってくださるのです。地上の様々な危険から救い、罪と死の脅威からさえ救い出すのです。

2012/11/18 イザヤ27:1~6 時が来れば

・「その日」のレビヤタン
  「その日」神の民を脅かし、訴えるレビヤタン(サタン)が罰せられます。同時に神は御民を「麗しいぶどう畑」として守り、育み、最高の実を作られます。  このことは旧約時代と比較すれば180度の変化で、すべてイエス・キリストの贖いによって成就することです。このお取り扱いの変化は、御民の喜びであり歌となります。

 ・「麗しいぶどう畑」の歌
  神は「麗しいぶどう畑」を愛情深く見守ります。「絶えずこれに水を注ぎ」「夜も昼も見守って」います。成長の害となる「いばらとおどろ」を踏みつぶします。そのようにして最上の実を育て上げます。
  丁度そのように神は、私たち信仰者と教会を絶えず見守り、愛の業を日々なしておられます。

 ・和を結ぶ
 神は私たちに対して「わたしの」守りに頼るように促します。その条件は信じ、信頼し、「和を結ぶ」ことです。「和を結ぶ」とは、実際に平和の業をなすことです。つまり偶像崇拝を止め、神を第1とした生活スタイルと礼拝を持つことです。

 ・時が来れば
  「時が来れば、ヤコブは根を張り…」とあります。神は御民を日々、守り育てていますが、目に見える変化は「時」が来なければ、しっかりと判別はできません。
  そこで私たちに必要になることは神の約束を信じて、神の「時」を待つことです。「時が来れば」、私たちも「花を咲かせ…実を満たす」のです。

2012/11/11 志の堅固な者と全き平安

・私たちの「強い町」…神の都
 「その日」とは、イザヤにとっては未来の時代ですが、私たちにとってはまさに「今の時」です。この時代に、神は私たちのために「強い町」を建設されました。
  それは目に見える城塞都市ではなく、イエス・キリストを基礎とする霊的な町で、目に見えるいかなる守りよりも強固です。また「ハデスの門」もそれに打ち勝つことができません。

・志の堅固な者
  「強い町」である「神の都」に入ることができる者は、「誠実(アーメン)を守る正しい民」とあります。それは「信仰によって義と認められた者」ということです。さらに「志の堅固な者」です。それは神に心をしっかりと向けて「信頼し続ける人」のことです。

 ・全き平安
  「全き平安」とは、「シャローム、シャローム」ということです。それは地上の力によっては獲得することができません。ただ、神の圧倒的な恵みの力によって実現します。
 地上には必ず患難があり、目に見える「シャローム」は永続しません。しかし「全き平安(シャローム シャローム)」は地上の患難の中でこそ、実現していきます。つまり信仰者の志は、患難の中で強化されていくからです。ローマ5:3~5に次のようにあります。 「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す…。この希望は失望に終わることがありません。」

2012/11/4 イザヤ25:1~9 希望の神

・私の神
  「主よ。あなたは私の神。」とあります。「あなた」と「わたし」の関係は、人格関係を表し、互いの信頼関係で成り立ちます。イザヤは神に対して絶対的信頼を置き、その信頼感の中で祈り、賛美し、崇めています。その関係は、神が招いてくださった結果、成立するものであり、イザヤはその招きに対して、身を投げ出すように応答していました。

 ・砦である神  イザヤが主なる神を信頼するのは、実際に信頼に値する神だからでした。まず、「横暴な者たち」をしずめ、「弱っている者」「貧しい者」たちのために砦となってくださるからでした。神の民は、世において「弱っている者」「貧しい者」です。世の力にたよらず、悪と組むことがないからです。

 ・死を滅ぼす神  さらにイザヤは神である主は、「永久に死を滅ぼされる」神と告白します。神は全知全能であること、御民に対して限りない愛と恵みを注がれること、この2つの信仰によって、この究極の告白をしています。
  この箇所は1コリント15:54 に引用されていますが、主イエス・キリストの贖いによって明瞭にされた真理です。

 ・希望の神  「待ち望んだ私たちの神」とあります。それは希望の神と言うことです。人は期待が裏切られたり、希望を失うときに、崩壊していきます。しかも世のものは必ず期待を裏切ります。ただ私たちに対して、「あなた」「アバ、父」と呼ばせてくださる神のみが、私たちの希望なのです。

2012/10/21 イザヤ14:12~15 「暁の子」と傲慢

・暁の子
  「暁の子」とは金星のことで、暁の空にひときわ輝く星です。イザヤは地上の権力者、特にバビロンの王をこの星にたとえました。確かに、彼は当時の世界を征服し、最高の輝きを放っていました。しかし、それだけではなく高慢と傲慢の光もそれ以上に放っていました。地上の権力者の光は、みな虚栄の光を放ちます。それはまたサタンの持つ光です。

・「神のように」という傲慢
  「いと高き方のようになろう」つまり「神のようになろう」という思いは、傲慢の極みです。聖書では、人間の罪の本質として描いています。これは単に昔の王たちの傲慢の姿だけではなく、現代人の姿です。
  この時代は個人が自由を持ち、それぞれが自分の世界を持つことが可能です。その闇の世界で、どこまでも傲慢な自我をを太らせ、勝手に輝かせることが可能なのです。しかしそれは罪の暗闇に輝くだけです。

 ・傲慢の末路
 「あなたはよみに落とされ」とあります。よみとは神から見放された者たち、死者たちのおぞましい世界です。暗闇の中に輝く者の死後は、天国ではなく、「よみ」であり「穴の底に落とされるだけです。  それゆえ私たちは決して傲慢の罠にはまってはならず、その結末をよく覚えることが大切です。

 ・神をのみ輝かす 
  また私たち自身としても、虚栄をはったりすることなく、ただ神にのみ栄光を帰することに心を傾けることが大切です。そこで、礼拝を重んじ、礼拝の場において、私たちの自我を砕き、神に心からの賛美をささげるのです。

2012/10/14 信仰告白「キリストの再臨」


・終末論とキリストの再臨
日本福音自由教会信仰告白第11条に次のようにあります。
「わたしたちの主イエス・キリストの御自身による千年王国前の、切迫した再臨を信じる。この「祝福に満ちた望み」は信者の個人的生活と信仰に重大な意義をもつものである。」
聖書の歴史観は、神による最初があって神による最後があるというものです。しかも「キリストによって」とあるのが特徴です。二千年前にキリストが地上に来られたことを初臨といい、終末における到来を再臨といいます。

・千年王国前の再臨
 黙示録20章にキリストが再臨した後に、信仰者らがキリストともに千年の間、世界を支配するという啓示があります。信仰者は裁かれることなく、キリストのさらなる愛の中におかれると言うことです。
 無千年王国説、千年王国後再臨説をとる教会もありますが、私たちは前千年王国説の立場に立ちます。

・切迫した再臨/祝福の望み
 「目を覚ましていなさい」とあるように、聖書では切迫した再臨について啓示しています。私たちは聖書の歴史観、人生観にしっかりと立ち、「五人の賢い娘たち」のように忍耐深く待つという姿勢を保つべきです。この世の煩いや欲に捕らえられて、キリストの再臨を忘れ、信仰の灯火を消してはならないのです。

2012/10/7 イザヤ11:1~9 エッサイの根株から


・エッサイの根株から
 ちょうど、花や果樹などの品種を作るように、神は人間を選びに選んで、ご自分の御心の器を到来させます。「エッサイの根株」とは、そのような人物であり、アブラハム、ダビデの子孫として到来します。しかも、ダビデ王朝が切り倒された後に、到来する人物キリストです。
 そして、木に実がなるように、「根株の新芽」には、「主の霊」が留まります。そのようにして神の器とされるのです。


・キリストは完全な霊を受ける
 キリストに留まる霊はまさに「主の霊」であってこの世の諸々の霊とは区別される聖なる霊です。また主の霊は主なる神の心と精神そのものですから、完全な「知恵と悟りの霊」です。さらに主の霊は天地創造をなし、歴史を支配する霊ですから、一切の「はかりごとと能力の霊」です。また主なる神ご自身の霊ですから愛する者にご自分を知らせ、また神と交わるに際してのふさわしい姿勢を教えます。つまり「主を知る知識と主を恐れる霊」です。以上7項目が上げられていますが、完全なる霊であるということです。
 新約聖書ではナザレのイエスに聖霊が鳩のように下り、彼こそキリストであることを証ししています。

・私たちにも主の霊が注がれる
 主なる神が、キリストを備えられたのは、彼を仲介にして、私たちにも霊を分け与えるためです。私たちは本来は罪人で悪い実しか持ちません。しかしキリストに結びつくことで、新しい人にされ、霊の実を結ぶことができるのです。ちょうど、接ぎ木された枝のようにです。

2012/9/30召天者記念礼拝 マルコ12:18~27 生きている者の神

・サドカイ人との論争
  主イエスは、サドカイ人たちとの論争を通して明瞭に「死者のよみがえり」を主張されました。サドカイ人たちはモーセ五書だけしか聖典として認めておらず、そこだけからは「死者のよみがえり」の教理を見いださせないと主張しました。そこで主イエスは、あえてモーセ五書の一つの箇所から「死者のよみがえり」を示します。旧新約全巻を貫き、聖書は「死者のよみがえり」を語っているのです。

 ・アブラハムの神、イサクの神…
  出エジプト記三章に「燃える柴」の箇所があります。モーセがミデヤンの羊飼いの時、ホレブ山で燃える柴の光景を見ます。それは燃えているが燃え尽きないので、不思議に思って近づくと、神の啓示がありました。
  「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」  父祖たちは神を信じ、神との交わりを持ちましたが、それは地上の生涯で終わることなく、永遠の絆となっていたのです。そしてちょうど燃え尽きることがない柴のように、信仰者たちは生かされているのです。

・生きている者の神
  世々の信仰者たちは、「死者のよみがえり」の希望ゆえに困難と迫害を甘んじて、信仰を貫きました。私たちの召天者たちも、その信仰のゆえに、神に覚えられ、生かされています。そして、来るべき日に私たちとともに「死者の中からよみがえる」者と定められています。

2012/9/23 イザヤ10章 絶対主権の神

・アッシリヤ王の高慢
  イザヤの時代、アッシリヤ帝国は諸国を侵略し、空前絶後の領土を持つようになっていました。それとともにアッシリヤ王の高慢も自分を神とするほどに高じていました。彼はイスラエルの神を無視して「私は自分の手の力でやった。知恵でやった。私は賢いからだ。」と公言していました。これはすべて高ぶる者の思いであり、姿です。




 ・絶対主権者の神  そこでイザヤは、イスラエルの神こそが絶対主権者の神であることを宣告します。彼はただの道具であって、高ぶってはならないのです。 「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは…おごることができようか。」  





 ・神が神として明らかに  神はご自分こそ真の神であり、絶対主権者であることを歴史を通して明らかにされます。事実、この宣告の後にアッシリヤの王はあえなく滅びます。また歴史上でも、驕る者や高ぶる者は、つかの間に歴史の流れの中に消え去るのです。ただ聖書の神のみが、真実の神、力ある神として明らかにされるのです。


 ・力ある神に立ち返る 私たちの時代も、人々は力ある人、豊かな社会、強力な国家に頼ります。あるいは自分だけを信じると豪語する者もいます。しかし、ただ頼るべき方は、長い歴史を通してご自分を絶対者、救済者として啓示しておられる聖書の神以外にはないのです。



2012/9/9 イザヤ9章 平和の王キリスト

・大きな光
イザヤの時代に、アッシリアが北イスラエルに侵略して3分の2の地域を占領しました。それは旧約の民にとっては、苦しみであり、闇の体験でした。  しかし神は闇の中でこそ光を示されます。イザヤが啓示されたものはこの世のどのような闇にも打ち勝つ「大きな光」でした。
・一人の嬰児  「ひとりのみどりご」とは小さく、へりくだり、柔和な存在を表しています。しかし、彼の上に神の十全の恵みと力が注がれ、その一切は「私たちのため」に用いられます。
  また彼はアブラハムの子孫、ダビデの子孫として預言されてきたキリストです。彼は新しい人間の代表として立てられています。 
・平和の王キリスト  「みどりご」には、二面性があります。見た目は小さいのですが、実は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」 とされています。彼は人々に知恵を与え、どのような悪と危険からも救い、どのような時にも受け入れ、完全な平和と幸いを与えます。






 ・信仰の目で見る  私たちにとってもキリストは、しばしば小さく、弱く、存在が薄いように思われます。しかし信仰の目で彼を見るとき、彼は私たちをも新しい人に創り変え、日々「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」として伴ってくださるのです。

  

2012・8・19 イザヤ6章 贖いと召命



・聖なる神
  ウジヤ王の死んだ年(BC742年)、イザヤは国の将来に危機感を持っていました。その時に、神である主を見るという体験をしています。
  高いところに神の王座があり、セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。」と賛美していました。神こそが絶対の聖い方で、そこには人間が立ち入ることができないことを示していました。



 ・人間の罪と汚れ
  イザヤは主なる神を見た時に、自らのくちびるの汚れと罪がしめされました。「ああ、私は、もうだめだ。」と思ったのです。神の聖さに照らされて、自分の実態に気づきます。それはいつの場合にも、罪に汚れた存在です。
  イザヤの場合は、預言者としての召命を覚えていたので、「くちびるが汚れている」ことは、致命的でした。

 ・贖いと召命
 しかし、主なる神によって罪が示されることは、幸いなことでした。イザヤは天の祭壇から取られた「燃えさかる炭」によってくちびるの汚れと罪が聖められたのです。それはイエス・キリストの贖いの予兆です。
  その後、神の召命がありましたが、彼は自発的に応答しました。神によって聖められた者は、いつの場合でも、神の業に対して自発的な応答があるのです。






2012/9/2 イザヤ7:1~14 インマヌエル

・動揺と恐れ
  南ユダのアハズ王と民は、敵のアラム軍が北イスラエルに駐屯しているという情報を聞き、非常に動揺しました。彼らは主なる神ではなく、目に見える偶像や大国を頼りにしていたのです。目に見える物を頼る人々は、危機に際して、動揺しうろたえるのです。

 ・神の臨在と救いの勧め
 神は、そのような王と民に対して語ります。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません」「心を弱らせてはなりません」4。また「あなたが信じなければ、長くたつことはできない。」
 神は、どのような時にも、民と共にあり救うことができる方です。目先の危機にうろたえることなく、信仰を保つべきなのです。




 ・処女懐胎の印
  さらに主なる神は、アハズ王に神臨在の印を求めるように促します。アハズ王はそれを拒みましたが、神はイザヤを通して処女懐胎の印を預言します。この預言は、約730年後にマリヤによって成就します。
  処女懐胎の印を通して、神は御民と共に存在すること、しかも無限の力と愛とをもって、どのような危機からでも救ってくださることを示しています。
・インマヌエル 
 「その名をインマヌエルと名づける」とあります。意味は「神は私たちとともにおられる」です。そのなのとおり、神は21世紀の私たちとも共におられて、どのような危機からも救ってくださるのです。私たちは信じて、心の静かさを持つことによって、現代に神を証するのです。 
 


2012/8/12 信仰告白 教会について

・第八条・・・真の教会
  「真の教会がイエス・キリストにある救いの信仰を通し、聖霊により新生し、そのかしらであるキリストの体に結合されているすべての人により構成されるものであることを信じる。」
 
  真の教会とは、全世界全歴史に広がる一つのキリストの体であり、地の国と対峙する神の国のことです。その民は、神の一切の祝福を相続する者たちです。私たちは元来、地の国の者ですが、ただ「信仰を通し」、その民になります。



 ・第九条・・・地方教会会員
  「真の教会の会員である者のみが地方教会会員資格をもつものであることを信じる。」  真の教会に属する者は、抽象的に存在するのではなく、具体的な目に見える地方教会を形成し、そこに属します。私たちの場合は真の教会に属する者として、具体的に桶川福音自由教会を形成し、そこに属しているのです。この地方教会も、また一つのキリストの体です。
  具体的に地上におかれた教会には、多くの試練や苦難がありますが、その中で戦闘の教会として、キリストのために戦います。






 ・第十条・・・地方教会の自治
  「イエス・キリストが教会の主であり、かしらであること、またすべての地方教会がキリストのもとに個々の業務を決定し、つかさどる権利をもつものであることを信じる。」 教会の主は、いかなる地上の権威でも、外部の権威でもありません。ただ目に見えないキリストです。会員一人一人が御言葉と祈りを通して示された御心と判断が、教会活動に反映されます。これが地方教会の自治であり、また自律(オートノミー)です。 ですから、私たちの教会では個々人がキリストにあって成長することが大切であり、また互いの自発性と献身が極めて大切であるということです。

2012/8/5 イザヤ5章 ぶどう畑の歌

・ぶどう畑の歌
  預言者は、失恋歌のように「ぶどう畑の歌」を歌います。その主人公は神ご自身です。神は、最上の土地に、最高のぶどうの苗木を植え、労力と投資を惜しまず、至れり尽くせりで甘いぶどうがなるのを待ったが、「ところが、酸いぶどうできてしまった」というのです。「あり得ない」「想定外」な結果になったということです。
  そこで神はそのぶどう畑を放置し、一切の恵みを断ち切ると宣言します。それは当然の報いで、誰も異議を唱えることはできません。  

 ・イスラエルとユダの罪
  ぶどう畑の歌は、神とイスラエル/ユダの関係を歌ったものです。神はモーセを通して彼らをエジプトからカナンの地に導き、律法に基づいた契約と恵みを与えて、祝福を与えました。ところが、彼らは神を恐れて、律法を守るどころか、悪と欲望に満ちた国に成り下がったのです。その結果は、裁きと旧約の廃止以外はありません。


 ・原罪と神の小羊
  聖書は、彼らが堕落してしまった原因として、原罪ということを顕に示します。原罪は、私たちの奥底に隠れていて、律法によってでなければ明らかになりません。(ローマ7:7)人は、自らの内にある原罪の存在を知って、初めて律法を越えた、優れた救いを待望することになります。
  そこで預言者は、律法よりも優れた救いとしてのキリスト預言を明瞭にしていきます。その旧約の預言を受けて、新約聖書のヨハネ福音書1:29に次のようにあります。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」





2012/7/29 イザヤ4:2~6  シオンに残された者

・主の若枝
  神はアブラハムを選び、さらにダビデを選び、その子孫を通して万民に救いを与える契約を与えてきました。「主の若枝」とはその子孫、すなわちキリストです。

 ・シオンに残された者
  「シオンに残された者」とは、元来、外敵の侵入の中で、シオンに残された者を意味しました。しかし預言者が意味しているのは、世の誘惑、試練、偶像崇拝、つまずきのなかでも、信仰を守り通した人々のことです。神は、「若枝」によって「残された者」を聖とみなし、シオンの永遠の市民としてくださいます。

 ・シオンでの聖めと臨在
  シオンとは神の特別な恵みが注がれる場を象徴しています。そこで神は、「裁きの霊と焼き尽くす霊」によって、「残された民」の罪と汚れをことごとく除き去ります。またすべての会合に臨在を示し、求める者たちを一切の危険と試練から守ってくださるのです。


 ・現代のシオン/教会
  イザヤが預言するシオンとは現代の教会であり、「残された者」とはキリスト者のことです。エペソ1:22~23に神は教会にキリストを与えられたこと、またキリストによって一切を満たして下さると約束してくださっています。
  毎日の生活の中で、私たちも世の誘惑、試練、偶像礼拝、つまずきに直面します。しかしその中で信仰を保つときに、「残された者」として神に覚えられるのです。  さらに信仰による教会の礼拝と会合に主キリストは霊を注いで聖めをなさり、また雲となり火の輝きとなって臨在を現されます。

2012/7/22 イザヤ2:10~22 神にのみ栄光

・「その日」の裁き
  聖書の歴史観は、はじめがあり、終わりがあるというものです。神は正義の神であり、その基準に従って、「その日」に徹底的な審判を下されます。
  多くの者たちは裁きの対象となり、「主の恐るべき御顔」「ご威光の輝き」を避けて、逃げ惑うというのです。それはさながら、日陰の虫たちが突然太陽に照らしだされた時のようです。

 ・すべての高慢が低くされる
  主なる神が、特に裁きの対象とするのは、「高ぶる者」「高慢な者」です。また木々を偶像化する者たち、山々を偶像化する者たち、全て主なる神以外の者を崇拝する者たち、人間の文明を誇り、主なる神を排除する者たち、人間とそのエゴに執着する者たちです。

 ・神のみに栄光  そして「その日」には、「主おひとりだけが高められる」とあります。主は天地創造の神であり、絶対的な支配者です。また主なる神だけが良さと優れた性質をもち、卓越した知恵と力に満ちた存在者です。
 すべては主なる神を高め、たたえなければならないのです。被造物も主なる神を高め、一切の栄光を帰すときに調和と幸いを回復するのです。

 ・「その日」を前に  私たちは、「その日」の裁きの前に、預言者を通して警告が与えられています。そこでそれを良く覚えて、自分の高慢を砕いて、へりくだるべきです。またキリストをとおして救いの道に導いてくださっている神を心より崇めるべきです。

2012/07/15 イザヤ2:1~5 「終わりの日」に

・「終わりの日」に
  イザヤも他の預言者たちも、共通に預言するのは「終わりの日」についてです。神は歴史の主であり、一切を支配します。主なる神の支配は、「今の時」には隠されていますが、「終わりの日」には、明々白々と顕にされます。

 ・主の家の山
  「主の家の山」とは、神殿があったエルサレムのことです。「今の時」は、周辺の強国に絶えず侵略され、その神も宗教も軽んじられていました。しかし「終わりの日」には、どの山よりも高く「そびえ立つ」と預言されます。それは世界のどの宗教よりも、どの神々よりも、格段に優れた宗教と神として、本来の姿を現すということです。

 ・主のことばが出て
  「終わりの日」に、主なる神の救いは、世界中の民族に対して、開かれます。そこで万民はそこに向かい、救いの道、救いの言葉を切望するのです。
  その道、また言葉とは主イエス、キリストの救いの言葉、福音です。彼は預言に基づいて到来した救い主であり、彼の言葉はことごとく純粋で、真実です。すべて求める者に与えられます。

 ・主の光に歩もう  現在に至るまで、多くの民族がキリストの福音を求めて、その救いにあずかっています。キリストご自身が光であり、永遠の命です。そして救われる者たちは光のなかに入れられます。
  私たちの民族は、遅れて「主の家の山」に向かっていますが、自分自身で意思し、また互いに「主の光に歩もう」と励まし合いましょう

2012/7/08  イザヤ1:1~9,18~20 罪が緋のようでも

・イザヤ書
  預言者イザヤは紀元前740~690年ころにかけて活躍しました。内憂外患の時代で、外からはアッシリア帝国の進出、内では神殿礼拝と律法主義に限界が見られた時代でした。

 ・旧約時代と隠された反逆心  「わたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった」と非難しています。神が民をカナンの地に招き入れ、旧約律法を与えて祝福したのですが、反対に彼らの反逆心は増大したということです。
  彼らは神殿と律法の諸規則を持っていましたが、表面的に守るだけで、普段の生活で悪をなしていました。つまり表面的宗教生活で自己義認をなし、決して悔い改めることなく行いと心は罪に満ちていました。

 ・来たれ、論じ合おう
 「来たれ、論じ合おう」とあります。神が一人一人をご自分の前に招いています。そこは何も偽ることはできない神の法廷です。そこで神は私たちの罪を明瞭にされます。次には、神の絶対的恩寵を徹底して、私たちの心と魂に示そうとしておられるのです。

 ・罪が緋のようでも
 「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」  神の前で私たちの罪は緋のように赤々と示されます。しかし同時に、それらが全く清められて、純白の雪のようにされるのです。
 神のもとには、私たちの想像をはるかに超えた恵みと聖めが用意されているからです。それはイエス・キリストによる贖いです。

2012/7/1 ローマ16:17~27 サタンを踏み砕く

・学んだ教え
  最後に、使徒は「学んだ教え」から離れないように、強く勧告します。それはイエス・キリストの福音です。神が預言者たちに啓示し、イエスご自身も宣教した「教え」です。そこに一切の救いの宝と生命が隠されているのです。

 ・異端と分裂を避ける
  教会には、色々な悪が忍びこんできます。特に、「教えにそむいて、分裂とつまづきを引き起こす人たち」を警戒する必要があります。
  「教え」は教会にとって、遺伝子のようなものです。それが健全であれば、健全なキリストの体としての教会が、建て上げられます。しかし、それが傷ついたり、曲げられたりした時に、教会も傷つき、さらに分裂と躓きまで起こってくるのです。

 ・サタンを踏み砕く
  色々な背きを起こす人々の背後にあるのはサタンです。サタンとは敵対者という意味であり、神の業に敵対し、人間の心に背きの思いを吹き込みます。その結果、世の中に色々な汚れ、腐敗、争い、戦争まで起こってきます。
  しかし、私たちが「福音の教え」を忠実に学び、それに従って生きるときに、「サタンを踏み砕く」ことになります。そして「平和の神」の臨在が際立って現れるのです。

2012/06/24  礼典について

・聖礼典
  信仰告白第7条は礼典についてです。「水の洗礼および主の聖餐が現代の時代における教会により守らるべき礼典であることを信じる。しかしそれらは救いの手段としてみなされてはならない。」  日本福音自由教会では、礼典は水の洗礼と聖餐の2つです。これらは聖書において明記されている礼典です。礼典は主イエスの救いの恵みを見える形で示し、見えるみ言葉と言われます。それを信仰によって心の内側に受け取ります。

 ・水の洗礼
  聖書では、実際に洗礼が施された場面が記されていますし、マタイ福音書28章では主イエスご自身の命令があります。  ローマ6章によると、信仰者はキリストと共に死んで一切の罪を聖められたこと、またキリストと共に生き返り新しい命を受けていることを示します。目に見える形では、牧師が水の洗礼を授けますが、霊的には主イエスご自身が授け、聖霊が受洗者の罪を洗い新生させます。

 ・主の聖餐
  マタイ26章、Ⅰコリント11章などに聖餐式の記述があります。その主題はイエス・キリストの救いです。み言葉とともにパンとぶどう液が提供されます。パンはキリストの体、ぶどう液はキリストの血を象徴します。陪餐者は信じつつ食し、飲みます。それによって霊的なキリストの生命と血が内側に提供されます。これらはすべて、信仰によって霊的な食物となるのです。私たちにとってキリストこそ真の食物です。

20120617 父の日礼拝 ルカ15章 放蕩息子の話から

・父子関係の乖離
  放蕩息子の話を見ると、父と子供たちの間に心の乖離があることが分かります。弟は財産を受け取るとさっさと遠くの地に赴きます。兄の方は父とともに暮らしていましたが、心では離れていました。
父は子供に対してどうしても厳しい父として見られがちです。それは子供を躾ける、訓練するという役割から、必然的なことでした。また子供は成長過程で、プライドと過度の自立心を持ちます。その結果、互いに心の乖離が起こるのです。

・父子関係の回復
  弟は、早速、社会で挫折し、全く落ちぶれます。そこで自分の驕った心を悔い改め、心を父親に向け、父のもとに向かいます。
  父親は、自分から走り寄り、子供を抱きかかえて心からの愛情を示します。これが父と子の心の出会いとなります。
兄の方は、その対応に不満を漏らしますが、父は兄息子に対しても、彼に対する愛を知らせるのです。

 ・父子の心の出会い
父は子供に対して、優しさと愛の側面も現して伝える必要があります。厳しさ以上に、こちらの方が重要なのです。
この父の姿は、神に重なります。私たち父親は、神のあり方に習いながら、初めて父親としての使命を全うできるのだと思うのです。

2012/6/10 イザヤ12:1~6 喜びの発信

・「その日」と福音宣教
  「天から神の怒りが啓示されている」とあります。人間は罪深いため、その生涯は神の怒りの下におかれています。
しかし「その日」とは、神の「怒りは去り」「慰め」が来る日のことで、主イエス・キリストの十字架の贖いによって実現します。同時に福音宣教が始まるときです。福音には十字架の贖いが凝縮されています。

 ・救いの泉から喜んで汲む
  「その日」とは今であり、私たちは「喜びながら救いの泉から」汲みます。つまり私たちが福音を聞いて、理解し、それを心に受け入れるなら、福音は私たちの心の中で救いの泉となります。
  私たちの毎日はまた、神の怒り、試練、戦い、苦しみの連続で、さながら旱(ひでり)のようです。しかし福音は渇いた心に救いの水を与えます。そしてその時々に応じて、慰めと力と励ましを与え、喜びをよみがえらせ、愛の神が私たちと共にいることを知らせます。

 ・喜びの発信
  私たちの福音宣教は私たちの信仰生活の体験を基点として始まります。それは「喜びの発信」です。  私たちは礼拝で、諸集会で、毎日の生活で救いと喜びを証するのです。それは自発的になすことであり、また命令されていることです。
  世の人々は、むなしい偶像崇拝をし、不道徳の中を歩み、なお、神の怒りの中におかれています。私たちは明瞭な喜びで、神の救いと臨在を証しするのです。

2012/6/3 ローマ16:1~16 教会の風景

・教会の風景・・・その1
  ローマ書最終章で、パウロは挨拶をしていますが、ここに福音によって立つ教会の風景を垣間見ることができます。  パウロはケンクレヤ教会の女執事フィベについて紹介し、ぜひ彼女を助けるようにと要請しています。彼女もまた良く人を助ける女性でした。「助ける」とは「傍にいる」、「傍に行く」という意味合いを持ちます。教会では、助けを必要としている兄弟姉妹の傍に、即行く風景がよく見られたのです。

 ・教会の風景・・・その2
  プリスキラとアクラのことが紹介されています。彼らはパウロの同労者であり、パウロの伝道旅行の当初から協力した夫妻です。「自分のいのちの危険を冒して」福音のため、人のために奉仕する人たちでした。  「あなたがたのために非常に労苦したマリヤ」とあります。ローマ教会の創設のときから、陰(かげ)になり日向(ひなた)になって労苦したのです。 ローマ教会には、このような人々が何人もいましたが、彼女はその代表格でした。  強いられてではなく、自発的に主イエスに仕える姿、しかも主と同じ労苦を喜んでなす人々でした。

 ・教会の風景・・・その3
  またローマ教会の多くは罪悪のどっぷりと浸っていた人々でした。しかし福音を信じて、偶像崇拝とその慣習の絆を断ち切り、また臨在される主イエスに心から献身していたのです。その内面の変化が、外側の交わりに現されていたのです。

2012/5/27 Ⅱペテロ1:20 神の言葉

・神の言葉はいつも力がある
 Ⅰペテロ1:24「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。25しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
 人間も人間の言葉も、やがて廃れるものですから、根本的には頼りになりません。けれども、神の言葉は、いつでもどこでも、信じる者にとって、頼りになり、力になります。

 ・聖書は神の言葉
 Ⅱペテロ1:20「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。21なぜなら、 預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
  神は、ご自身の言葉を聖霊をとおして、預言者たちに与えました。モーセ、サムエル、ダビデ、イザヤ、エレミヤなど、すべて預言者です。彼らは、神から受けた言葉を聖書に書き残しました。また預言者と共に使徒たちも言葉も、同じく神からの言葉です。
  私たちは預言者と使徒の言葉を聖書という形で与えられています。この聖書の言葉は、すべて神の言葉で、今の時代の私たちに向けて語られています。ですから、その意味を正しく理解し、心に刻み、御言葉によって完全な救いを得ましょう

2012/5/20 ローマ15:22~33 交わり・コイノニア

・パウロとコイノニア
  使徒パウロはローマ教会の人々との交わりを切望していました。イスパニア宣教の途中にローマに立ち寄り「あなたがた」によって力づけられたいと思ったのです。
  また教会間で交わりが保たれるよう努力しました。貧しいエルサレム教会のためにギリシャの諸教会が献金するよう要請したのです。

 ・コイノニアの意味
 交わりを聖書の言葉でコイノニアといいます。三位一体の神が信仰者をご自身の交わりに招いてくださっているのです。さらに神との交わりを背景にして、信仰者同士が互いに聖い交わりを持つことをコイノニアといいます。

 ・コイノニアの内容
  コイノニアの内容は、第1に福音と信仰の交わり。第2には祈りの交わり。第3に労苦を共有する交わり。第4に物をやり取りする交わりです。私たちは1つのコイノニアにあずかっているしるしとして、聖餐式をもちます。

 ・平和の神の臨在
  信仰者は1人で存在するのではなく、コイノニアの中で存在し、育まれ、成長します。そこに「平和の神」が臨在されます。
  私たちは桶川にある聖なるコイノニアに招かれています。そこで、より祝福され、より平和の神の臨在にふさわしい交わりを作っていきましょう。

2012/5/13 母の日礼拝 マルコ7:24~30

・女性の求め
  主イエスがツロ・フェニキヤ行ったときに、ギリシャ人の女がひれ伏し、願い続けました。小さい娘が「汚れた霊」につかれ、誰にも癒してもらうことができなかったのです。

 ・主イエスの拒絶
  しかし主イエスは彼女の求めを拒絶して次のように語ります。「子供たちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです。」  子供たちとは、ユダヤ人のことを意味し、小犬とは異邦人の女あるいはその娘のことです。少々、侮蔑した言葉です。

 ・女の信仰
   それでも女性は引き下がらずに次のように切り返します。「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」。  自分を小犬にしてへりくだり、徹底して主イエスのあわれみを求めています。また「パンくず」ほどの恵みでも癒されるという強い信仰が見られます。
  主イエスは、女性の信仰に驚きます。「女が家に帰ってみると・・・悪霊はもう出ていた」とあります。

 ・子育てと信仰
 この女性の信仰は、子育てをする母たちが、共通して要請される信仰です。毎日の生活で、子どもたちは色々な「悪霊」の脅威にさらされ、時にはひどく困難な問題が起こってくるのです。その時、祈りが答えられないからといってへこたれることなく、どこまでも祈り続けることです。そのときに、母の信仰も飛躍し、子どもも癒されます。

2012/5/6 ローマ15:7~21 異邦人の救い主

・異邦人の福音
  ユダヤ人は聖書の宗教はユダヤ人のものであるという考えがありました。他方、異邦人はユダヤ人に遠慮する形で福音を受け入れている傾向が見られます。
  そこで使徒パウロは、福音は旧約聖書以来、ユダヤ人と共に異邦人に向けられていることを示します。

 ・異邦人の教会
 さらに神は異邦人のためにパウロを福音による仕え人、また祭司としました。そこにレビ系の祭司という枠を超えた異邦人教会の姿を見ることができます。
  パウロ以降も、神は異邦人教会に働き人をおこし、福音による宣教と聖餐を施させます。また信仰者すべてが祭司とされて、教会全体が「異邦人の光」とされています。

 ・異邦人の供え物
  異邦人教会でも、神はささげ物を求められます。それは信仰者たち自身が福音を理解して受け入れ、自発的に自分をささげることです。それは神のご意志に対する従順ということです。それは彼らにとっても、幸いとなる姿です。

 ・来たれ、異邦人の救い主
   「来たれ、異邦人の救い主」とは、AD4世紀のアンブロシウスの詩ですが、そこには敬虔な信仰姿勢が告白されています。  「私たちは、異邦人はチリにすぎぎない存在です。しかし神は見捨てられず、心の戸の外に立ってたたいています。」
  そこで私たちは心から告白するのです。「どうぞ、私の心にお入りください。私はすべてを献げます」と。

2012/4/29 ローマ15:1~6 強い人も弱い人も

・強い人と弱い人
  私たちには色々な点で、格差があります。力がある強い人と弱い人、能力がある人とない人、持つ人と持たない人というふうにです。世の中では、強い人は自分を誇り、弱い人は苦しむだけという矛盾が生じがちです。  また信仰者の場合も、信仰の自由だけを主張すると個人主義が行き過ぎて、強い者が弱い人に関知しない自己中心に陥る危険性があります。

 ・強い人は隣人の弱さをになう
  しかし「力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべき」です。また「隣人を喜ばせ、その徳を高めるため」に力を用いるべきです。それは強い人の力は隣人のために用いるために与えられた神の賜物だからです。

   ・キリストにならう  「キリストでえ、御自身を喜ばせることはなさらなかった」とあります。むしろ私たちが受けるべき裁きを自ら進んでその身に受けて、十字架の死にまで到りました。キリストは私たちの贖い主であるだけではなく、私たちの道しるべです。私たちが救われたのは、小さいキリストになるためです。

・強い人も弱い人も 教会には色々な点で強い人と弱い人がいますが、互いが互いの弱さをになうべきです。その関係がキリスト体の強い関節になり、一致が生じます。  またそこに聖霊が豊かに注がれ、「心を一つにして、声を合わせて」神をほめたたえるようになるのです。

2012/4/22 ローマ14:13~23 キリスト者の自由


・躓かせない配慮
 「兄弟にとって躓きとなるものを置かないように」とあります。教会に対して寛容であるだけではなく、さらに積極的に愛の配慮を持つようにと言うことです。
 バリヤフリーという言葉がありますが、教会では色々なところで信仰の養いの妨げとなる障害が取り除かれなければなりませんが、その決意が大切です。

・キリスト者の自由
 確かにキリスト者は信仰によって何を食べても何を飲んでも自由が与えられています。ルッターはキリスト者は何者にも束縛されない王であるとまで言っています。しかしながら、その自由を自己主張のために用いるのではなく、隣人の愛のために用いることの方が大切なのです。つまりキリスト者の自由は、神への愛、隣人への愛に向かう自由なのです。

・神の国は義と平和と喜び
 神の国は世の終わりに完成しますが、すでに今の世において、教会という形で現れています。教会は神の国であり、神の国のあり方で交わりを築くところです。
 神の国は「義と平和と聖霊による喜び」とあります。それはキリストがそうであったように、相手をおおうほどの義、自分から和解して作る平和、相手も含んだ喜びということです。神の国の民として、与えられた自由をふさわしく用いましょう。

2012/4/15 信仰告白第6条 救いについて

・救いについて
  信仰告白第6条は「救いについて」です。この背景には、次の二つのことがあります。つまり人間が罪人で神の怒りの下にあること、また罪と死の支配の中にあって悲惨な状態であるということです。

 ・キリストの血と復活が基盤
「キリストの血と復活が、救いの基盤」とあります。神の子キリストの血は無限の贖いの価値を持ちます。無限の高貴な方が、無限の苦しみの中で死んで流された血だからです。  さらにキリストの復活は、彼が死をのみ込む力を持ち、無限の生命の保有者であることを示します。

 ・信仰のみ
神が用意された救いの基盤に、私たちが預かることができるのは、神が定めた手段によります。それが信仰です。「御子を信じる者が…永遠の生命を持つ」とあるとおりです。  異教異端では、努力、めい想、悟り、難行苦行で救われることを説きますが、信仰のみが救われるための「狭い門」です。


 ・義認と新生/救い
  キリストの贖いを通して、私たちの罪はキリストに、キリストの義
は私たちに転嫁されます。それによって私たちは神の怒りから逃れます。  またキリストの死と復活により、聖霊が私たちに与えられますが、聖霊は私たちを新生させ、罪と死の支配から生命の御霊の支配の中に入れます。私たちの生涯は、この原理によって、栄光の姿に変えられていくのです。これが救いです。

2012/4/8 ヨハネ11:1~27 私は甦りです

・ラザロの死
  ラザロはキリスト信者で、私たちの代表として登場しています。彼は重病になり危篤状態でした。しかし主イエスはすぐには赴かず、愛しているがゆえに「なお二日とどまられた」のです。
  「主イエスは病気は癒せるが、死に対しては無力である」という不信仰を正して、より飛躍した信仰に導くために、あえて訪問を遅らせたのです。

 ・この病は死に至らず
  「この病気は死で」終わらずと語られます。主イエスを信じる者は、天の戸籍に名前が刻まれていて、彼は神に覚えられており、常に生きています。彼らにとって肉体の死は眠りに過ぎません。そして、その死の只中で神の生命と栄光がクリヤーに示されます。ラザロの場合も然り、私たち信仰者の場合も然りです。

 ・私は甦りです
  「わたしは、よみがえりです。いのちです・・・」とあります。「わたしは・・・です」とはエゴ エミーというギリシャ語のことばで、神としての存在者を示します。主イエスは神であり、絶対的な甦りの生命を持っています。生命の火は尽きることがなく、消えたと思われるときにも、より勢いよく燃え上がります。

 ・「あなた」は信じますか?
  「信じますか」とはマルタだけではなく、私たちに対しての問いです。キリストの甦りの生命はご自分だけのものではなく、信仰によって彼との接点を持つ者たちにも分け与えられる溢れる生命なのです。あなたはこのことを信じますか。

2012/4/1 マタイ27:33~50  なだめの十字架

・なだめの十字架
 主イエスは神の子であり罪のない方であるのに、ゴルゴダの丘で十字架に付けられました。十字架は身分が低い極悪人のための死刑執行の道具です。  主イエスの十字架は、私たちの罪の身代わり、また贖いのためでした。贖いはなだめによって実現します。なだめとは、神の怒りと処罰としての苦しみを一身に受けると言うことです。

 ・「捨てられる」苦しみ
  主イエスは十字架上で様々な苦しみを受けます。鞭打たれはりつけ磔にされるという肉体的な苦しみもさることながら、その苦しみの本質は「捨てられる」という苦しみでした。  まずユダに裏切られ、弟子たちに見捨てられました。ご自分の民であるユダヤ人には「十字架につけろ」との憎しみに満ちた叫びの中、捨てられました。  極めつけは、父の神によって捨てられたことです。「エリ エリ レマサバクタニ」とは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」との意味です。これは詩篇22:1の預言の成就と言うことだけではなく、主イエスご自身の悲痛な叫びでした。

 ・怒りは去り、愛が注がれる
  主イエスの十字架のなだめによる贖いは、私たちの罪を完全に取り除き、神の怒りから解放します。私たちには色々な負い目や痛みがありますが、十字架を仰ぐときに、怒りは去り、神の愛が来て、私たちをおおうのです。

2012/3/25 ローマ14:1~12 信仰の弱い人を受け入れる

・信仰の弱い人、強い人
同じ主イエスを信じていても、信仰の強い人と弱い人は存在します。また「それぞれ」にはそれぞれの信仰姿勢があります。何を食べるか食べないかでも異なります。 しかしその些細なことが、大きな問題になってしまうことがあります。強い人が弱い人に対して自分の信仰を強要したり、また反対に弱い人が強い人を裁いたりするのです。

 ・信仰の弱い人を受け入れる
私たちが兄弟の信仰を侮るとき、私たちは自分の分を超えているものです。その兄弟の主人はイエス・キリストご自身であって「あなた」ではないのです。 また主イエス・キリストは「あなた」が弱いと思っているその人を支えておられ、確実に立た、成長させることができるのです。

 ・それぞれの信仰の自由が大切
食べるだけではなく、信仰生活全般において 大切なことはそれぞれが主の前に確信をもって判断することです。人の言葉を恐れる必要はないのです。それぞれが、主イエスから直々の信仰の自由をいただいているのです。 また弱い信仰の人であっても神の恵みの中で、「主イエスのため」に存在し生きる者とされています。それは尊いものなので、その信仰に干渉することは極力さけるべきです。 主イエスは私たちが自由を持ち、ただ主イエスのために生き、死めものとなるために、死んで生きて下さつたからです。

2012/3/18 ローマ13:11~14 キリストを着る

・今という時を知る
  聖書には、一つの歴史観があります。それは将来に救いが完成するイエスの再臨の日があるということです。教会は、その「日」を目ざしながら地上に存在しています。  再臨の時は、いつか分かりませんが勢いよく接近しています。私たちは、「今」の意味を覚えて、生活スタイルの転換が求められています。

 ・光の武具を身に付けるとき
  「やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか」  「やみのわざ」とは、この地上の様々な欲や快楽や汚れた業のことです。地上に執着しているときに、これらの虜になります。救いにはいるためには、まずその一つ一つを捨てることが大切です。そして、「光の武具」を装着するのです。これはやがて到来する神の国にふさわしい装着物です。つまり神の聖さと神が喜ばれる生活スタイルを身に付けることです。

・キリストを着る
 「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」  「キリストに従う」「キリストに学ぶ」という勧めよりも、より徹底しています。役者が役作りのために、原作を読み解釈し、試行錯誤して主人公になりきる場合があります。ちょうどそのように、私たちはキリストの言葉から学び、解釈し、黙想し、祈り、試行錯誤して、キリストの生き方、生活スタイル、人との関わり方、心と思いを自分のものとしていくようにということです。

2012/3/11 ローマ13:8~10 愛は律法を全うする

・キリスト者の社会倫理
  キリスト者の社会倫理は、かつての律法のように、細々とした形だけの規定ではありません。むしろ状況倫理であり、基本的な心構えでもって様々な状況に対処します。その第1に「何の借りもあってはいけません」です。「借り」とは、「負い目」ということで、金銭を借りるということだけではなく、様々な害や迷惑を与えて負い目を持つということをも意味します。そのようにして、良い市民として振る舞うのです。

 ・愛の負い目を持つ
 第2は、「愛の負い目」を持つことです。キリストが私たちを愛してくださったように、私たちは先に隣人を愛する姿勢を持つと言うことです。愛とは、隣人を助け、癒し、建て上げる愛で、すべて隣人の益となることをなし、幸せを願うことです。この時に、世に氾濫している自分本位の愛と混同してはなりません。

 ・愛は律法を全うする
  旧約時代の律法の根本精神は愛でした。そして「愛は律法を全うする」のです。愛はまた、人間社会にあるすべての道徳規範の根本精神です。私たちはキリストから神の愛を学び、教会において愛の訓練を受け、さらに世において真実の愛を行使して生きるのです。  世の道徳規範は形骸化したり、希薄化してしまうのが実情です。世の人々も、キリスト者の真実な愛と愛に基づく行動を期待しているのです。

2012/3/4 ローマ13:1~7 上に立つ権威

・上に立つ権威
 ここで「上に立つ権威」とは、国の政治システムのことを意味します。私たちの国では、国民の総意として法と政治システムが存在します。それもまた私たちの「上に立つ権威」です。  それは異教徒が携わっている場合が多いのですが、「神によらない権威はなく」、すべて「神によって立てられたものです」。それ故、教会はそれらを重んじます。神は教会の主ですが、また世界の支配者であり、彼らを通して世を支配しておられます。

 ・「神のしもべ」であるから従う
  国家の政治システムと法に仕える人々は「神のしもべ」であり、その働きは基本的に「神のしもべ」としての働きです。私たちは彼らを重んじるべきです。  彼らはまた、私たちに益を与えるための「神のしもべ」であり、私たちが地上の生涯を平安で敬虔に過ごすことために奉仕しているのです。ですから、「良心のために」進んで従うべきです。

 ・国家と為政者のために祈る
  しかしながら、国家には悪が潜んでいることも覚えておくべきです。ヨハネ黙示録に描かれているように、時に国家が悪魔的獣に支配され、私たちの信仰の世界に土足で踏み込んでくることがあります。その時には、神とキリストに対して「死に到るまで忠実」が私たちの姿勢です。しかしそうならないように、国家と為政者のために祈る必要があります。

2012/2/26 ローマ12:17~21 悪に対する処方箋

・悪に対する処方箋・・悪を報いず
  私たちは地上で生活する限り悪との遭遇があります。その際に、私たち自身は自分のうちから出てくる悪にもサラされます。そこで「悪に悪を報いることをせず」の態度が肝要です。  また善と平和の民にふさわしい対応が必要です。「すべての人が良いと思うことを図ること」「すべての人と平和を保つこと」です。

・復讐してはならない
  「復讐」とは、昔は悪に遭遇した際の正義の手段でした。異教徒間でも律法でも、その規定があります。しかしキリストの民は、それを放棄します。「自分で復讐してはいけない」のです。キリストがそうであったように、キリスト者は神の復讐をではなく平和の大使です。どのような時にも神の平和を証しします。  悪は神に対する反逆ですから「神の怒りにまかせる」のです。正義の神は悪をいつまでも野放しにされることはありません。

 ・善をもって悪に打ち勝つ
  私たち自身の悪に対する対応としては「善をもって悪に打ち勝つ」以外の方法はありません。「敵が飢えたら食べさせ」「渇いたなら、飲ませる」のです。このような対応から、悪の権化も神のものとされる場合も起こってきます。初代教会もそうでしたし、後の福音宣教もこの方法で進展してきました。  キリストを土台として建てられる教会は平和の都そのものであり、神御自身が守られる場所です。

2012/2/19 ローマ12:15~16   一つ心で

・いっしょに
  「喜ぶ者・・泣く者といっしょに」  人には感情があるので、喜ぶときも、悲しむときもあります。その時に「いっしょに」と勧められています。喜びは「いっしょに」ということで、さらに大きくなります。悲しみは「いっしょに」で慰められるからです。また私たちが「いっしょに」喜び泣くときに「キリストがいっしょに」にいてくださいます。

 ・1つ心で  さらに「互いに一つ心に」とあります。人はみな違う考え方とビジョンを持っていますが、あえてキリストゆえに一致することが求められています。教会祝福の試金石になります。  具体的には「高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応」するように勧められます。「身分の低い者」とは、小さい者、弱い者というようながあります。  「順応する」といいますのは、歩調を合わせてということです。そのように心がけることで、キリストの心を自分たちの心とする教会が形づくられていきます。(ピリピ2:3~5)

・とこしえの祝福
 「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(133:3)と詩篇にあります。 一つ心の教会の姿は、旧新約の時代を通じて理想とされてきたありかたです。私たちはキリストの姿勢から、その心を学び続け、実現に向かっていきましょう。

2012/2/12 創世記1:26~27,3:6 神のかたち・人間

・神のかたちに創造
 創世記1:27にあるとおり「人間は神のかたちにつくられ」ました。神のかたちとは人格を持つ存在と言うことです。人間は人格を持つことで、神と交わり、人間どうしてでも愛によって交わりを保つのです。  さらに神のかたちである人間は尊厳を持ち、そのことが道徳の根源となります。十戒にしるされている「殺してはならない・・・」はこの啓示によります。
 
・神に対して堕落して死んだ
  「神のかたち」であることは、神の御言葉と霊によって保たれていました。ところがその断絶が生じます。神ではないものの言葉に惑わされて堕落するのです。  堕落の結果、罪と死が全人類に及びます。そして自分の力や知恵では立ち返ることができない状態になりました。  さらに堕落は深刻で根深く、「神のように」という傲慢、また神に対する反逆心が宿るようになります。

 ・新生による霊的生命(神のかたち)の回復
  「聖霊による新生を通じてのみ救いと霊的生命を与えられる」とあります。つまりイエス・キリストを信じるときに、人は聖霊によって新生すると言うことです。この時に、人は再び神の言葉と霊的生命の中で神のかたちを回復することになります。むしろ神の子キリストに似たものとされるので、初めのかたち以上の回復となります。もはや罪も死も、新しい生命を破壊することはできません。

2012/2/5 ローマ12:11~14 霊に燃え

・霊に燃え
  教会は地上に建てられたキリストの体です。この箇所でも、教会における生活スタイルを示しています。  「勤勉で怠らず、霊に燃え」とあります。キリストが頭なのですから、与えられた聖霊の賜物と力を用いて、私たちは精一杯に奉仕するのです。そのようにして聖霊の生命が顕わになり、私たちも周囲の人々も教会に宿る新しい生命を知ります。

 ・希望の光を灯す
  「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」とあります。私たちの国籍は地上ではなく神の国にあります。ですから、すべての試練に際して御国を待望し、忍耐して、希望の光を灯すのです。祈りは、私たちの心に希望を灯すよき機会となります。

 ・暖かい交わり
  「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」とあります。「協力し」とはコイノニアという文字でキリスト者同士の親密な交わりを意味します。互いの足りなさに対して、互いに助け合う中で暖かい交わりが生じます。冷たい世において人間の暖かさは人を生かします。また外国人に対するもてなしは大切なコイノニアの要素です。

 ・神の国の兆し
  世はドンドン冷え、暗くなっている時代です。教会の中で、共に霊を燃やし、希望の光を灯し、暖かさを作りましょう。そのようにして周囲の人々も神の国の到来を知らせることになるのです。

2012/1/29 ローマ12:9~10 偽りのない愛で

・偽りのない愛で
 教会は、神が愛を注がれる場です。また神の愛を実践する場です。その時、上辺だけの偽りの愛ではなく、純粋な愛を実践すべきです。その愛は、信仰心から滲み出るものですから、信仰生活の中で、絶えずキリストに向かい、そこからくみ出すのです。

 ・具体的な愛・・
 「悪を憎み善に親しむ」とあります。聖書において、善悪は十戒に明記されています。それは隣人に対する愛の具体化です。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽るな、貪るな、父母を敬え」、さらに与えるという積極的な行いが加えられます。これは具体的な愛の姿です。悪を嫌って離れ、善に対しては糊のように付着して生活することです。

 ・兄弟愛を持って
  兄弟愛とは仲のいい家族の中で見られる兄弟同士の愛、親子愛の姿です。信仰者は神の家族ですから、良き父、良き長子キリストにならって互いに愛し合うと言うことです。兄弟愛によって、私たちが1つになるときに、キリストの臨在が顕わにされます。また世の人々も教会に純金のように希な愛があることを知ることになるのです。

 ・愛は教会の旗印
  ある聖歌に「御旗は愛なり」という歌詞があります。確かに教会の旗印は愛ですから、妥協することなく、純粋な愛を、教会生活の中で求め続けていきましょう。

2012/1/22 ローマ12:3~8 キリストの建立

・恵みによる教会形成
  パウロは自分に与えられた「恵みによって」人々に勧めています。それは旧約の律法と対比され、新約の民のあり方の基本です。そしてまた教会形成の基本です。教会は、一人一人が喜び、生き生きとしながら奉仕して建て上げるのです。

 ・恵みの奉仕姿勢
  教会はキリストの体にたとえられます。1つの体には色々な器官があり、それぞれが調和して機能することで、健全になります。そのためには「だれでも、思うべき限度を超えて思い上がらず」「慎み深く」考えることが大切です。そのようにして、自分にとっても大きな負担とならず、他の人の奉仕を妨げることがない喜びと調和が生まれます。

 ・恵みの信仰に応じて
  また具体的な奉仕について「預言」「奉仕」「教える」「勧め」「分け与える」「指導する」「慈善」などがあります。それらは「信仰に応じて」為すべきです。つまり、神様に祈って示された通りに為すと言うことで、人間的な思いは極力排除すると言うことです。

 ・キリストの建立
  寺院などを建てることを建立すると言いますが、私たちは今の時代にキリストを建立するのです。しかし聖書的な教会は建物ではなく、互いの信仰と奉仕によって建て上げるキリストの体です。  人々は「今の時代にキリストがおられたら!」と言いますが、教会がそのキリストの体なのです。

2012/1/15 ローマ12:1 心の一新

・世と調子を合わせない
私たちの体質には、肉の力、自我の力、「この世」の力が大きく作用しているために、改心してからも、それらと調子を合わせて生活してしまいがちです。  しかし心の芯にキリストを迎え入れた者たちは、「この世」の流れに流されたままではいけません。

・心の一新  
「心の一新」とは、基本的な思いと判断を全く変えると言うことです。つまり世的で肉的なことに向けていた思いを神に向けると言うことです。ベクトルという言葉が用いられることがありますが、思いの方向と力を最大限に神に向けるということです。この姿勢から様々な考え方や生活の変化が起こります。

・自分を変える
 かつて私たちは自分で自分を変えることはできない惨めな存在でした。しかし今は、神の恵みの力の中に生かされています。そこで自分で自分を変えるということが促されています。  ちょうど蝶やトンボがサナギから成虫に変身するように、私たちも「心を尽くし、思いを尽くして」自分を変えていくのです。

・御心を知る  
私たちが神に対して心をしっかりと向けたときに、神はさらに具体的な御心を示して下さいます。それは神に喜ばれる完全な道です。私たちはその御心に従って、私たち自身の内と周囲に神の国を到来させるのです。

2012/1/08 ローマ12:1 私たちの霊的礼拝

・神の愛が先行する
 「そういうわけですから」とあります。それはこれまでパウロが論じてきたことを受けています。つまり神が私たちを愛して、御子キリストを与えて下さったということです。つまり、神が先に私たちのために一切を与えて、私たちを受け入れて下さっているということです。このことが、私たちの礼拝の前提となります。

・私たちも心とからだを捧げる
 次に、神は私たちの側で応答することを願っています。つまり自分の心とからだを生きた供え物として捧げるという礼拝行為です。そもそも神が私たちを救って下さったのは、そのためだったのです。  私たちは受動的な存在であるだけではなく、能動的で機能を持つ者として存在しています。それらはただ神のために用いるということで、永遠の充足感と幸福感を持つことができます。つまり生き甲斐を見いだすということです。

・私たちの霊的礼拝
 「霊的礼拝」とは、キリストの福音に「ふさわしい礼拝」ということです。神が先に愛し、御子キリストを与えて下さったので、今度は、その神を第1の価値として、私たちの一切を捧げるのです。  私たちの時代は、価値を失い、生きる意味も曖昧になっています。こうした中、私たちが霊的礼拝をきっちりと捧げることは私たち自身の生活の軸となります。同時に、世の人々も、私たちの礼拝式を通して、神の愛とキリストの贖いの尊さを知るようになるのです。