2010/12/26 詩篇124篇 神は私たちの味方

・一年を振り返る
 2010年ももうすぐ過ぎ去ります。世の中でもすでに色々な形で一年を回顧しています。「暑」という一文字で括る人、衆目を集めた出来事を10大事件として掲げるなど様々です。
 しかし私たちには信仰の視点で一年を回顧することも大切なことです。

・「もしも」的回顧
 詩篇124篇では「もしも」的回顧法を用いて、「私たちのために」主が如何によくしてくださったかを覚えています。「もしも主が私たちの味方でなかったなら」、「あの時この時はどうなっていただろうか。」という風にです。
 私たちも、自分の一年についてこの回顧法を適用したとき、どのようなイメージが浮かび上がるでしょうか。主が私たちの味方ででなかったなら、私たちは試練と悪と罪によって滅んでいたでしょう。

・神は私たちの味方
 しかし、詩人は神が私たちの味方であったから「私たちは・・・鳥のように助け出された」と証しします。
 鳥が弱い存在であるように、神の民もそのままでは弱い存在です。周囲には色々な危険と試練と誘惑があります。しかし神が私たちの味方であるから、私たちはどのような危険の中でも守られ、助け出されたのです。
 神が私たちの味方であったという事実を覚えて、古き一年に感謝し新しい年の希望としましょう。

2010/12/12 イザヤ9章 大きな光

・大きな光
 イザヤは苦しみと闇の中にあるガリラヤについて預言します。それは将来与えられる「大きな光」についてでした。
 光は温もりを与え、明るさを与え、生命を与え、道を照らします。人は苦しみの中で救いの光を求めるものです。「大きな光」とは、神から地上の人々に与える救い主キリストのことです。キリストは「大きな光」として、私たちを照らすのです。

・「私たちのため」の「みどりご」
 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」とあります。「みどりご」は聖書の中心であり、世界と宇宙の中心です。その方が特に「わたしたちのため」、私たちの家族の一員のようにして誕生するのです。彼は世界の主ですが、同時に私たちの家族であり、友であり、どのようなことがあっても私たちから離れることがない方です。

・助言者、神、永遠の父、平和の君
 「その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」」
 彼は肉の目では小さく、卑しい存在ですが、信仰の目で見るときに「私たちのために」あらゆる恵みを備えた方で、まさしく私たちのための「大きな光」です。

・万軍の主の熱心
 神は愛と熱心さで、私たちの大きな光としての「みどりご」を提供しておられます。その熱心さを覚えて、私たちは信仰の目を見開いて、彼を受け入れ、素直に光に照されるべきです。

2010/12/5 イザヤ7:14 処女降誕の預言

・動揺と恐れの中で
 BC730年頃、南ユダ王国は危機の中にありました。北に隣接する二つの王国が攻めて来ようとしていたのです。この時の王はアハズでしたが、王も人々も目に見えるものに頼り、偶像神を崇めるようになり、堕落していました。
 「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」と、その時の状況が描写されています。目に見えるものにのみ、頼ろうとする人々の心はいつもこのようです。

・処女降誕の預言
 そこでイザヤは、一つのしるしを与えます。それが処女降誕の預言です。
 「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」
 処女とは「アルマー」という言葉で、聖書中すべてにおいて処女である若い女性を意味します。イザヤは注意深くこの言葉を用いています。
 処女が男の子を産むというのは奇跡です。しかもこの子は神の子キリストであることが9章から明らかになります。神は奇跡的誕生を通して、アハズ王だけではなくすべての人々に対して、ご自分の救いと臨在を示そうとされたのです。

・インマヌエル
 「インマヌエル」とは「神は私たちと共におられる」という意味です。この名の通り、処女降誕によって誕生したイエスは神の子であり、私たちとともにおられる神です。
 私たちは処女降誕の奇跡をそのまま受け入れることは、この神の救いと愛と恵みの一切を獲得することに繋がるのです。

2010/11/28 ローマ3:25 なだめの供え物

・神の怒りと「なだめ」
 神と人間には、根本的な関係が存在しています。神は怒り、人間は恐れるという関係です。神は聖く、義なる方であるので、違反を犯した罪人を裁かずにはおかれないのです。
 そこで、旧約聖書以来、神の側から「なだめ」の手段が示されました。小鳥を、羊などを「なだめの供え物」として殺して血を流すことでした。それによって神の怒りが去り、恵を回復することができると考えられたのです。

・イエス・キリストの十字架
 しかしながら、旧約の「なだめの供え物」は不完全で神の怒りも人の恐れも取り去ることができませんでした。そこで神は真のなだめとしてキリスト・イエスを地上に遣わし、十字架の死にまで到らせたのです。怒りを受けるものは、痛み、苦しみを受け、捨てられるのですが、彼は徹底した「なだめの供え物」として十字架の死を全うしました。その一切が、神のドラマとして起こったのです。

・二乗の義と招き
 十字架の「なだめ」を通して現された「神の義」は、人知を遙かに超える義でした。ただご自分を義とするだけではなく、相手をも義とするもので、いわば二乗の義、超然とした義でした。
 このようにして神は「神の義」を公に示し、同時に、私たちたちを切実な思いで招いておられます。「怒りが去ったから、愛の元に来なさい」と。私たちは「なだめの血」を信仰という器で受け、そして神の御元に近づくことができるのです。

2010/11/21 ローマ3:23~24 ただ神の恵みによる

・すべての人は罪を犯した
 「すべての人は罪を犯した」とあります。アダムの子孫であるすべての人間は原罪をもっていますが、また個々の罪を犯します。行いにおいて、心の思いにおいて、すべて汚れています。肉からの者は、自分の欲とエゴにとらわれ、神に対して罪を犯さないではいられないのです。
 
・神からの栄誉を受けられず
 「栄誉」とは、良いと認められて得る特権です。人間社会では、それぞれが相手を受け入れて、何らかの栄誉をもって生きていけます。そこで、神の前でも何らかの栄誉に値していると錯覚します。
 しかし、神の前ではすべて罪人なので、だれも栄誉に預かることはできず、神の国から除外されます。
 
・ただ神の恵みにより
 人の救いは、ただ神の恵みによります。百パーセント神の恵みによってなされるということです。 神の恵みによるプレゼントはイエス・キリストです。彼は百パーセントの善さを持ち、百パーセントの良き業をなしました。その一切が私たちの救いのためのプレゼントになります。

・神の恵みに浸る
 私たちが「神の恵み」に浸るためには、まず人間の業を一切放棄しなければなりません。そこでは何ら神を喜ばせることはできず、むしろ嫌悪されるのだと言うことを認めて、神の前に静まることです。
 礼拝において、心を神に向け、神の恵みの世界を凝視することです。その時、神が私たちに差しだしておられるキリストのすばらしさが、聖霊によって明らかにされるのです。

2010/11/14 ヨハネ15:13 アホチュウ物語


少し昔のことです。関西のある町にアホチュウさんという少年がおりました。アホチュウというのは名前ではなくあだ名でした。町のみんなが「アホチュウ、アホチュウ」と呼んでいました。アホチュウさんはといえば、そのあだ名があまり好きではありませんでした。それでよく一人で町をぶらぶらしていました。

 アホチュウさんの町には、1つのふみきり踏切がありました。それは「開かずの踏切」でした。ある時に、アホチュウさんが「開かずの踏切で」留められているときに、町の牧師さんが近づいてきて神の救いを伝えました。
 アホチュウさんは自分の心が汚いと思っていたので、すなおにイエス様の救いを信じました。信じたアホチュウさんに、牧師さんはみことばをあげました。「人がその友のためいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれもっていません。」
それから数年が過ぎました。アホチュウさんは船乗りになっていました。ある時に、船は嵐にあい、船底を岩にぶつけて穴があいてしまいました。水がどんどん入り込んできます。

 それを見たアホチュウさんは、とっさに穴をふさごうとしました。その間に、他の船員達は船の上に逃げることができたのです。船はだいぶ傾きましたが、何とか沈没せず、無事に港に着いたのでした。





2010/11/7 ローマ3:21~22 律法とは別の義

・「今」という時
 「しかし、今は・・・」とあります。「今」とは、預言者たちが示した「主の日」のことです。その時、旧約以来のすべての預言が成就し、律法とは別の「神の義」が明らかにされるのです。
 また「今」という時は、それは歴史上の1点を示すと同時に、福音が宣教されるすべての場と時を意味します。礼拝の場も、「今」という時です。この時、特別に神の恵みと霊が豊かに溢れるのです。

・律法とは別の義
 「神の義」とは、神が受け入れ「神の国」に入る基準のことです。旧約聖書の時代、それは律法によって示されていました。それは外側から私たちに対して要求する義でした。また律法による義を完全に満たす人間は誰もいません。
 そこで神は「律法とは別に」「しかも律法と預言者によって」預言して「神の義」を示しました。この「別の義」こそが旧新約の主たる流れであり、中心となるのです。

・キリストを信じる「神の義」
「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」とあります。
 「別の義」は、人間の業を要求しません。ただキリストを信じる信仰による義です。信じるだけで神によって受け入れられ、神の国の民とされると言うことです。
 この義(=救い)は、一民族の枠を超えて、すべての民族、すべての人に提供されており、何の差別もありません。
 この「神の義」は、今、私たちに提供されており、ただ信仰によって受け取ることができるのです。

2010/10/31 ルカ19:1~10 樹上の求道者

・取税人の頭のザアカイ
 ザアカイはエリコの町の人で、取税人の頭でした。取税人は、アウトローの階層の人々であったことと、強引な取り立てのため、一般の人々には嫌われていました。また罪人と見なされ、ユダヤ人の考える神の国からは除外されていた人々でした。
 
・樹上の求道者
 主イエスが来たときに、ザアカイは「どんな方かを見ようと」「前方に走り出て、いちじく桑の木に登」りました。
 そのままでは、彼は熱心さをもっていましたが、樹上の求道者でした。自分では一方向で主イエスについて観察するだけだからです。そのままであったなら、主イエスを頭では知っているのですが、救いの中には決して入っていないのです。

・あなたの名を知るイエス
 ところが、イエスは求道者ザアカイのことを先に覚えており、愛の対象としてその名を心に刻んでいました。
 このことは「カナンの女」、「バルテマイ」「長血の女」の物語でも共通する点です。そして私たち一人一人の名も同じようにして、求める先に愛し知っておられるのです。

・「降りて来なさい」
 「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と主イエスは呼びかけます。遠く離れて、自分だけでイエスを知っているだけでは不十分です。「降りて」イエスの前で信仰を明瞭に告白する必要があるのです。
 主イエスは私たちに対しても名を呼び、「急いで降りて来なさい」と同じ呼びかけをしておられます。

2010/10/24 ローマ3:9~20  義人はいない

・罪を直視すること
 病気でも何でも原因を直視することなく、放置していると死に到ります。しかし、いち早く原因を直視するときに問題の解決につながります。
 それと同じように、私たちは自分の罪を直視し、それが如何に深刻な物であるかを理解するときに、はじめて私たちは神の救いをしっかりと受け取ることができます。

・義人はいない
 私たちが自分の罪を直視する手段は、第1に神の言葉に照らすことです。詩篇に「義人はいない。一人もいない。」とあります。神は霊なる方で心の奥底まで調べる方です。この神の前に正しい人は誰もいないと言うことです。
 これらのことは、御言葉の光の中で自分自身の実態を顧みるとき、より明瞭になります。

・全的堕落
 「全的堕落」とは、完全に徹底して罪に堕落しきっていると言うことです。私たちの心の中も、語る言葉も、業をなす手足も、一切合切が堕落しきっていると言うことです。
 また自分の力でも、堕落状態から抜け出る力が全くなく、むしろ神に対して刃向かう者であるということです。

・神の裁きに服する
 これらの霊的現実を認めることは、私たちにとって辛いことですが、しかし自分が全くの罪人で惨めな人間であると認めるときに、私たちの心の目に、救い主キリストの十字架が明瞭に示されることになるのです。

2010/10/10 ローマ3:1~8 神は真実、義

・様々な人間的詭弁
 ユダヤ人の問題から初め、パウロは色々な人間的詭弁(きべん)について取り扱っています。詭弁とはまさしく危険な理屈であり、神と神の救いの世界をねじ曲げ、私たち自身を暗黒の世界に落としかねないのです。
 私たちの信仰が落ち込んでいるときに、私たちは何らかの詭弁の虜になっている場合が多いのです。

・神観の基本・・・神は真実
 ある者たちは、ユダヤ人のうちに不信仰があるから、彼らに御言葉を委ねた神も不真実であると断じます。人間の思いは、色々な詭弁を生み出します。
 それに対してパウロは、くどくどと説明することなく「神は真実な方であるとすべきです」と断言します。これは物事の考え方の大前提で、一切の考えはここから始めるべきなのです。

・神観の基本・・・神は義(善)
 「怒りを下す神は不正ではないか」という人間的詭弁も取り上げています。神についての心の内から出てくる人間的論理はいつも、神に対する反逆が含まれています。
 「絶対にそんなことはありません」と答えます。「神が義である」ということも、神学の大前提です。この前提で物事を考えるときに、整理され、私たちも幸いに入れられるのです。それは座標軸と同じでX軸とY軸を真っ直ぐに据えることで正しい図が描かれるのです。神についての基本が正しく心に設定されることで幸いなる人生観を描くことができると言うことです。

・詭弁は悪と滅びに到る
 神についての曲がった考えは、やがて自分の悪を正当化するに到ります。このような者は「当然罪に定められるのです」。
 私たちは、自分の口を閉じ、ただ絶対的神の真実、義、善を心から受け入れるべきです。その恐れと服従により、私たちも神の義と善に入れられるのです。

2010/10/3 ローマ2:17~29 心の割礼

・ユダヤ人の律法と割礼
 ユダヤ人は旧約の民です。彼らは律法を持ち割礼という肉の印をもつことを誇りとしていました。しかし、旧約は業の契約であり、民が律法を完全に守ることで有効となる契約です。もし、律法を破っているなら、契約が反古となり割礼も何の意味もなくなるのです。
 そしてユダヤ人の実態は、律法の言葉から遠く離れ、律法に違反しており、彼らが誇る肉の印も意味を持っていませんでした。

・旧約は新約のひな形(模型)
 本来、旧約はひな形(模型)であり、限界がある救いの契約です。ユダヤ人は旧約の中で限界を知り、よりすぐれた救いを求めるべきでした。事実、神は先に目に見える模型を示し、次に目に見えない本体を与えようとされていたのです。エレミヤ31:31~33に「新しい契約」とあるのがそれです。ところが、ユダヤ人は目に見える律法と割礼に執着していたのです。その結果、主イエスを十字架に付け、キリスト者を迫害していました。

・心の割礼
 新しい契約の印は「御霊による、心の割礼」です。それは目に見える印ではなく、心に刻まれる目に見えない印です。ここに模型と本体、旧約と新約の性格の違いが明瞭になります。
 私たちがキリストを信じたとき、新しい契約を結んだことになり、その結果、聖霊によって心の割礼を受けます。それは目に見るどのような印や誇りよりすぐれたもので、神の子としての印、祝福の基となります。
 私たちは見えることにとらわれる存在で、礼典、礼拝式、奉仕などを神の民の印としがちです。しかし本体は目に見えない心の印であることを忘れてはならないのです。

2010/9/26 ヘブル12:1~3 雲のように囲む証人たち

(召天者記念礼拝)

・雲のように囲む証人たち
 「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んで」とあります。私たちの召天者たちもまた、私たちを取り囲む証人たちです。彼らの生涯と信仰は教会の歴史にしっかりと刻まれており、いつの時代も私たちの信仰の戦いをコーチし応援してくれるのです。
 私たちは召天された兄姉の面影と信仰を思いながら、明瞭に、その励ましを受けたいのです。

・競技を重荷と罪を捨てて走る
 証人たちは「一切の重荷とまとわりつく罪を捨て」るように私たちをコーチします。重荷とは世に対する未練や欲、煩いです。それらは私たちの信仰競技に際して、私たちの負担となって信仰を弱らせるのです。罪を犯し続けていれば、それは私たちの足にまとわりつきちょっとしたことで躓き、信仰から離れさせてしまいます。

・忍耐をもって走る
 証人たちは皆、「忍耐をもって走り続けて走り続け」て、肉体が贖われて天に凱旋しました。忍耐や我慢などナンセンスと思う時代ですが、信仰は運動競技と同じように忍耐が必要であることを覚える必要があります。試練の中で忍耐する者だけが、勝利者となり、天に凱旋できるのです。

・イエスの道から目を離さない
 証人たちが一様に証する対象は、イエスとその生涯です。イエスはただ苦しまれたのではなく、「ご自分の前に置かれた喜び」から目を離さずに忍耐を全うして、凱旋しました。
 私たちはイエスが踏み固めた道を進んでいくのです。その志を明瞭にする者のために、イエスは聖霊によって励まし、力を与えて、勝利者としてくださるのです。

2010/9/19 詩篇92篇 感謝はよいこと

・感謝はよいこと
 私たちの幸せの秘訣は、お金や物に執着するよりも、感謝の心を持つことです。感謝は心に秘めているだけではなく、はっきりと表現することが大切です。
 子どもが親に、また祖父母に感謝を表すときに、その逆に親達が子どもに対して感謝を持つとき、そこに幸せが広がります。家庭生活は、感謝の心と言葉で豊かになるのです。

・主に感謝することは良いこと
 「主に感謝すること」も大切なことで、これこそが第1になすべき感謝です。神は天地を創造して私たちのためにすべて「良いもの」を備えてくださっているのです。さらに「主」とあるように、私たちのために一人子を遣わした贖い主です。
 この恵みと真実を当たり前のようにして受けて過ごすのではなく、明瞭な感謝の言葉を表すことが大切です。
 「良い」とは神が全面的に受け入れてくださっているという意味です。贖いと創造の目的にかない、神御自身がこよなく喜んでくださるのです。また神の民も「良く」生きることになるのです。

・主の家の木々のよう
 「なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます」
 なつめやしの木の葉は、いつも青々として茂っています。レバノンの杉は真っ直ぐに限りなく育っていきます。主の恵みを信じて、感謝を表す者たちはそのような存在です。
 さらに「主の家に植えられ・・・年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく・・・」とあるように、神の愛顧の中でこの世でも、後の世でも永遠に栄えるのです。この雄大な展望を持って毎日を進んでいきましょう。

2010/09/12 ローマ2:1~16 裁く人ではなく

・すべて他人を裁く人
 神の前で弁解の余地がない第2種は「人を裁く人」です。その典型がユダヤ人でした。彼らは律法を知っていることをいいことに、自分たちはすべての異邦人よりも義人であると思い上がっていました。そして律法に基づいて人々を裁き批判していたのです。しかし、実際は自分たちも同じようなことをしていたのです。

・自己義認の人々
 彼らは自己義認の人々で、人の悪を非難することで自分の正しさを確認していたのです。しかし彼らの判断力は曲がっており、人の欠点だけを取り上げ、自分の悪については目をつむっていたのです。
 彼らは神の前に立つことなく、ただ人との比較により相対的に自分を義としていたに過ぎなかったのです。これはユダヤ人だけではなく、すべての人が持つ傾向です。
 
・裁きを免れることはできない
 使徒は彼らに対する神の裁きを明示します。神は律法を持っている知っているという基準ではなく、それを行ったかどうかを基準として裁きます。その時には、心の底に隠れたことも顕わにされて裁かれるのです。
 私たちは、「裁きの日」の前に自分の実態を神の前で知らされることが大切です。

・裁く人ではなく慈愛の人として
 「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」とあります。私たちが神の前に自分の罪を認めるときに、神は裁くのではなく、深い慈愛を示し、寛容の心をもって、私たちの罪を赦し、完全に洗って下さいます。そして私たちは神の慈愛を受けて、私たち自身も慈愛の人に変えられていくのです。

2010/09/5 ローマ1:21~32  神否定と腐敗 

・神否定の人々
神は被造物を通してご自分をはっきりと知らせているのに、多くの人は神の存在を否定しています。それは光を遮断することであり、その結果、人は「思いがむなしくなり・・・心は暗くなった」のです。
 それは生きる意味と目当てを見失うこと、全く的外れな考え方、生き方をするということです。さらに本来は、神に照らされて生きるべき心が光を失なって暗やみにさまようということです。

・偶像崇拝の罪
 人は価値を持って生きる存在ですが、真理の神を見失うときに、愚かな偶像を崇めるようになります。それは金や銀、鉄や銅の神々、木や石の神々です。また目に見える人を神のように敬ったり、愛おしんだりします。
 私たちの社会では死者が仏壇や神社で祭られ、死霊を崇拝しています。自分たちでは科学技術と経済で他民族よりもすぐれていると自負しながら「愚かな者」となっています。

・悪と腐敗
 「恥ずべき情欲」は当時の社会で広がっていた罪悪です。誰もが悪で倒錯であると思うことをしないではいられない惨めな状態です。これは神を認めないゆえ、神が悪の中に放置した結果です。
 また「むさぼり、妬み、悪意、殺意、高ぶり・・・」といった心の悪も、心が暗くなった結果、悪の中に放置された結果です。

・神に立ち返り礼拝すること
 神が願うことは、私たちが神のもとに立ち返ることです。悪に染まった私たちをも、神はあわれんで受け入れて下さいます。そして新しい神の生命に満たし、子どもとしての祝福をくださるのです。

2010/08/29 ローマ1:19~21 宇宙よりも大きな神 


・宇宙より大きな神は見えず
 「神を見せてくれ!」という人がいますが、真実な神は目で見ることはできません。それは神が宇宙よりも大きな方だからです。目で見えるものは、みな宇宙よりも小さく、劣った存在です。
 神が目に見えないと言うことは、神が物質を超越した永遠の存在者であり、能力とご性格においても、目に見える存在を遙かに凌駕していると言うことです。目に見えないと言うことが天地創造の神の条件です。

・被造物によって知られる神
 しかし大きな神の存在と「神の目に見えない本性」は「被造物によって知られる」のです。
 芸術作品でも機械でもその創作者は存在し、作者の能力と性格が作品に反映されます。丁度そのように、宇宙という無限の世界、地球と生命という神秘的な存在の背後には、それらを超越した創造者が存在するのです。本来ならば、これは誰が見ても明らかなことです。

・進化論の限界と誤り
 近現代は進化論者がまかり通っています。彼らは宇宙内で宇宙、地球、生命の現象を観察/実験して、進化という仮説を立てています。
 しかし進化論は宇宙と生命のメカニズムを説明しますが、その第1原因を見いだすことはできません。それは宇宙の外にある大きな神のみが啓示することができるのです。天地創造の第1原因、つまり創造者は聖書の神のみです。

・大いなる神を礼拝する
 神は被造物を通して御自身を認め礼拝することを願っておられます。そのことを通して、私たちは神のひとり子キリストの贖いの尊さもまた、深く理解できるようになるのです。

2010/08/15 ローマ1:18 天からの怒り

・神の怒り
 福音を通して神はご自分の救いを啓示していますが、それ以外の所では神の怒りをアップとばかりに顕わにされます。神は聖く正しい方なので、それに反するものに対して、怒りを発せざるを得ないのです。
 聖書では、至る所に神の怒りと裁きが示されています。ノアの洪水、ソドムとゴモラの滅び、荒野の屍、エルサレムの陥落などです。

・神の怒りの対象
 神の怒りの対象は「不義を持って真理をはばんでいる人々」です。天地創造の神を神として認めず、偶像を崇める人々、また「自分を神」のようにみなす傲慢な人々です。
 今はお盆のシーズンですが、これも「真理をはばむ」行為です。進化論者が世界と人間の生成に神を排除するのも「不義」です。

・天からの啓示
 「天からの啓示」とは、あまねく知らされていること、すべての民族、すべての時代に対しても向けられているということです。つまり、私たちの時代、私たち一人一人も天を見上げれば、神の怒りを明瞭に見いだすと言うことです。
 私たちが神の怒りを知ることは、ショッキングで辛いことです。しかし霊の現実を直視することで、私たちの救いの道が示されます。  

・福音の下に逃れること
 神は怒りと裁きという左手の支配から、恵みと赦しという右手の支配に逃れることを願っておられます。
 天路歴程のクリスチャンのように、自らと家族に下ろうとしている神の怒りに気づき、福音とそこに啓示される十字架の下に逃れるべきです

2010/08/08 ローマ1:17 義人は信仰によって生きる

・要求する神の義ー律法
 聖書には2種類の神の義が示されています。1つは石に文字としてしるされた「神の義」です。これは外から要求し、人が努力しながら、項目すべてを守るように命令します。しかし、守れないときに、罪人として容赦なく裁きます。
 旧約の歴史は、人は律法を通して「神の義」を獲得できるかを実験した歴史です。結果は不可でした。

・与える神の義ー福音
 福音は預言を通して予知され、律法の後に与えられました。人間は自分の行いに絶望してからでないと、福音を通して提供されている「神の義」に対して心を向けないからです。これは人間の努力によるのではなく、神が提供し、与えたところの「神の義」です。裁く義ではなく罪人をも義とするいわば「二乗の義」です。

・啓示
 この「神の義」は福音のうちに「啓示」されています。人は啓示された「神の義」を発見して、受け取ることにより、それを自分のものとすることができます。さらに、それを獲得した者たちは、神のあらゆる祝福を受けて、内側から変革されていきます。
 
・義人は信仰によって生きる
 この神の義は、ただ信仰によって受け取ることができます。信仰だけが、神からの賜物を受け取ることができる器です。
 キリスト者の生涯は信仰で始まりますが、信仰によって成長していきます。信仰によって、罪の赦しを受け、信仰によって永遠の生命にあることを覚え、信仰によって神の愛を確信して歩むのです。

2010/08/01 ローマ1:16 福音を恥じとせず

・福音は恥か
 ユダヤ人は律法の業と人間の功績を求めました。ギリシャ人は学問の蓄積と洞察を重んじました。ところが、福音は十字架の言葉に過ぎず、信仰による救いを主張します。ですから当時の人々は福音を恥とするような感覚がありました。

・福音を恥とせず
「私は福音を恥とは思いません」
 使徒パウロはユダヤ人とギリシャ人の恥の感覚を知っていました。しかし意志的に恥の思いを否定します。マイナスの感情によって、真理を曲げられてはならないのです。
 恥とする人間の文化には救いはなく、ただ福音のうちにしか救いはないのです。

・福音は神の力
 「福音をを恥とせず」断言する理由があります。それは福音は、人間のものではなく、人間の外側の神からもたらされる救いだからです。パウロは聖書から、使徒たちの証言から、そして何よりも自分自身の体験と啓示から知っていました。

・信じるすべての人にとって
 また「信仰」と言うことも、人々が恥じとする要素でしたが、それこそが神の力を自分のものとする唯一の手段であることを体験的にも知っておりました。パウロは異邦人宣教をしていましたが、彼が行くところどこででも、ただ福音を信じるだけで、人々は救いの喜びを証しし、事実、新しい人に変えられていたのです。
 私たちも福音に込められている神の救いの力を覚えて、はっきりと「福音を恥とせず」と告白すべきです。

2010/07/25 ローマ1:8~15  福音の負債

・福音は「私とあなた」関係を創る
 使徒は会ったことがないローマ教会に対して、大変、親しげに手紙を書いています。彼らの信仰について感謝し、彼らのことを絶えず思い、彼らのために切に祈っています。
 ここに福音を媒介にして、「私とあなた」関係を創出されていることを見ることができます。その関係は良き人格関係です。

・御霊の実を産出
 使徒は離れて「あなたがた」のために祈るだけではなく、「道が開かれて」直接、「あなたがた」と交わることを望んでいます。道とは良き道で互いにすばらしい交流ができるということです。福音を媒介とした交わりができるときに、そこに御霊の実が産出され、互いの益になるのです。

・福音の負債
 「私は・・・返さなければならない負債を負っています」とあります。「負債」と言う言葉で示しているのは強い責務、使命感です。福音とは神の祝福と力の源泉ですから、そこから「あなたがた」の中に創造される「よきもの」は計り知れないのです。先に知ったものは誰でも隣人に対して「負債」を負っているのです。

・私たちも隣人に負債あり
 私たちは福音の内に秘められた力と祝福について、まだ十二分に目が開かれていない面があります。しかし福音の内には神の力と祝福が凝縮されています。それを引き出すには、実際に、あなたの隣人との間に、福音を媒介とした交わりを創っていくことです。「負債」と言うほどの使命感を持つとき、そこから産出される実も豊かとなります。

2010/7/18 ローマ1:2~4 神の福音

・神の福音
 福音とは、神が私たちに伝えようとする最高の良き知らせです。人の福音はやがて廃れますが、神の福音は永遠の喜びと生命をもたらします。
 福音は旧約聖書から新約聖書に到るまで、聖書全巻を貫き、その主題です。私たちが聖書を読むとき、キチンと福音として理解し、それを自分のものとするときに、それは良い知らせとして心に響くのです。

・神の子キリスト
 福音の中心は神の子キリストです。彼の本質は神の子ですが、私たちのために同じ肉を持つ人間となって地上に下りました。
 「肉によればダビデの子孫」とあります。神はアダムに代わって新しい人間の代表なる「男の子」について聖書において一貫して預言されました。それがダビデの子孫ということです。彼は「私たちのために」生き、十字架上で私たちの罪を担うほどに、私たちを愛しています。
 「御霊によれば」とあります。キリストの本質は「死者の中から復活」する力を持つ神の子です。死で終わる方ではなく、彼の内には常に神の力、復活の生命が働きます。私たちも福音の中にキリストを見いだすときに、神の愛と永遠の生命と力を見いだすことができます。

・信仰によって
 福音を聞くだけでは、キリストは私たちの外にあるだけです。信仰によってキリストは私たちの内に住み、私たちのものとなります。「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で・・・信じるなら、あなたは救われる」ローマ10:9とあるとおりです。

2010/7/11 ローマ1:1~7  使徒パウロから

・しもべパウロ
 「キリスト・イエスのしもべパウロ」とあります。かつてパウロは律法を持つ自由人と自認していました。実態は罪の奴隷でした。しかしキリストと出会い、愛によって捕らえられました。それ以来、彼はキリストのしもべとして、徹底してキリストに従い、全く新しい人間像を造りました。

・使徒として召され者
 具体的にパウロは、使徒としての召命に答えていきました。それは困難を伴う働きでしたが、あらゆる努力しながらも、キリストの声に従い使徒としての務めをなしたのです。その結果、どの使徒たちにも劣らない働きを成し遂げキリストに似た人格を作りました。
 
・福音のために選び分けられた者
 「福音のために選び分けられ」とあります。福音によって生きるように聖別された者でした。福音は自分を養い、不必要な部分を切り落とす力があります。そのようにして世の人とは異なる際だった人格と生活スタイルを形作ります。

・召された聖徒たち
 私たちもまた「召された聖徒たち」です。キリストのしもべとしてキリストのために生き、それぞれの召命の声に忠実に答え、福音によって自らを聖別していくときに、私たちもまた神の子とされ、神の作品に造り変えられていくのです。現代社会は価値観が崩壊している時代ですが、この時代に輪郭のはっきりした人間像を提供することになるのです。

2010/7/4 マルコ14:1~7 ナルドの香油

・ナルドの香油
 一人の女が「純粋で、非常に高価なナルド油」をイエスの頭に注ぎました。香油は女の奉仕の質を象徴しているようでした。人間的不純な意図が何一つ含有せず、自分の命をささげきるような奉仕と言うことです。ナルド油と共に、女の奉仕の香りが漂っているのです。

・弟子たちの憤慨
 「何人かの者が憤慨し」とあります。彼らは表向きは貧しい人たちのことを思っているようですが、実際は人間的欲が隠れていました。いくら良い奉仕と言っても、人間的欲や意図が付きまとっていたのでは、奉仕は嫌な臭いも付きまといます。

・イエスの評価・・立派と
 「わたしのために、りっぱなこと」と主イエスは、女の奉仕を評価します。女は主イエスから受けた恵みの応答として、香油を注ぐ奉仕をしただけだったのです。女もまた、自分のニーズにあった自分のための有り余る贖いを受けていたのです。
 主イエスは御自身の恵みの応答としてなす心からの奉仕をすべて快く受け取って祝福してくださいます。

・福音の記念の香
 「福音が宣べ伝えられる所なら・・記念となる」。福音とは、主イエスの恵みと救いを入れる器です。福音が伝えられ、受け入れられるところでは、いつでも救いが実現します。そして応答としての奉仕によりキリストの香りが漂うのです。 

2010/6/20 創世記22:1~14 父親の価値観

・試練において
 神は「全焼のいけにえとしてイサクを・・・ささげなさい」と命令し、アブラハムを信仰の試練にあわせられました。試練の中で、信仰者はますます神に対する姿勢を整えていきます。アブラハムはみことばに対して即座に応答します。翌朝早く、イサクを連れて神の山に向かいます。

・父の態度・・・刀と火
 三日目にその山が見えたので、アブラハムはイサクと二人だけで山に向かいます。イサクには薪を背負わせ、自分は「火と刀」を手にとって進んでいきました。
 「火と刀」は息子を完全に神にささげようとする信仰と献身の姿です。子供は父の背中を見ると言われますが、イサクはそこに父の神信仰を見ています。

・父と子の会話
 アブラハムとイサクの会話は父と子の会話の理想型です。子の質問に父は優しく威厳をもって答えています。子には色々な不安や恐れがあります。しかし父は「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださる」と神の恵みに対する全幅の信頼を告白しています。子は、父の態度と言葉を通して父の価値観を知り、それを自らの価値としていきます。

・父親の価値観
 現代社会は病んでいますが、それは社会全体が真実の価値観を喪失しているからです。この時、キリスト者の父は子供たちに自らが尊しとする方を真実で明瞭な形で知らせていくべきです。

2010/6/13 マルコ13:1~13 最後まで耐え忍ぶ

・初臨から再臨までの時代
 主イエスは弟子たちに対して初臨から再臨までの時代について展望を与えます。その時代はもやはエルサレムの神殿中心の時代ではなくキリストの弟子たちの時代/教会の時代です。しかしそれは産みの苦しみの時代で、その苦しみを通して教会は完成と栄化に向かうのです。

・惑わされない、あわてない
 この時代、多くの偽キリストが登場してキリスト者を惑わそうとします。また戦争や地震、飢饉の時代もあって、サタンは神の臨在を疑わせてあわてさせようとします。
 私たちは短絡的な判断をしないで、神の前に静まって祈り正しい判断をする必要があります。

・福音を証する
 苦しみの時代は、福音が拡大するときです。あらゆる機会が福音宣教のための好機となります。教会は、時が良くとも、悪くとも福音宣教を心掛けるのです。「あらゆる民族に宣べ伝えられなければ」というのが、神のビジョンです。

・聖霊に頼る
 福音の証は、人間の業ではありません。聖霊が伴って私たちに代わってあかしさせてくださると言うことを信じるべきです。証だけではなく、私たちの生活の全般は聖霊の導きの中にあり、あらゆる時が好機とされ、その人自身も聖められます。

・最後まで耐え忍ぶ
「最後まで耐え忍ぶ人は救われます」とみ言葉の通りです。忍耐する中で、聖霊の御業は完全に完成に向かい、神の救いの世界は成熟、完成するのです。

2010/6/6 マルコ12:38~44 礼拝の心得

・律法学者の偽善に対する警告
 主イエスは律法学者たちの偽善に気をつけるように警告されます。彼らは自分の敬虔さ、権威、優越さを人の面前にアピールするためにのみ心を配っていました。「長い衣を着て歩き回ったり、広場であいさつされる・・・会堂の上席、宴会の上座が大好き」でした。しかし偽善は人の目はごまかせても、神の目には悪として判断され、「人一倍きびしい罰を受ける」のです。

・貧しいやもめの献金
 正反対の例として「やもめの献金の話」が紹介されています。貧しいやもめがレプタ銅貨2つ(約100円)を投げ入れました。それは金額としては小さいものでしたが、貧しいやもめにとっては「生活費の全部」でした。主イエスは「どの人よりもたくさん投げ入れた(献金した)」と最大限の評価を与えました。

・礼拝の心得
 この2つの物語を通して、主イエスは私たちに礼拝と信仰生活の心得を示しておられます。第1に、私たちは偽善であってはならないと言うことです。人の目を気にしてばかりでは、いくら人の評価を得たとしても、神の前では「きびしい罰」を受けることになります。
 それに対して、私たちの奉仕、ささげ物が、いくら小さいものでも、神様の前に精一杯捧げたものならば、神は「善し」としてくださるのです。目に見えない神を信じて、心からのささげ物をすると言うことが大切なのです。

2010/5/30 1ヨハネ5:14 お母さんの祈りは聞かれた


■神に対する確信としての祈り
 私たちは神を信じています。その具体的な姿は「神はその願いを聞いてくださる」という確信に基づいた信仰生活によって現されます。次に祈りの確信によって歩んだ人の証を紹介します。
 **** ***
Nさんは12才の長女、9才と8才の男の子を持つお母さんでした。よく証し祈る方でした。男の子が買い物の帰り道に50円玉を落としたことがありました。Nさんはその子とともに祈り、暗くなるまで探し続けてついに見つけたことがありました。

■それから数年後、Nさんは顎下に悪性黒色腫の癌ができました。それが他の部分にも転移して闘病生活が始まります。初めて入院したときに、「これから神によって派遣されて伝道旅行に行く」という思いが与えられていました。そのように入院生活の間に同室の人々など16人の魂が救いに導かれました。

■しかしこの間、Nさんの気がかりは子供たちのことでした。特に長女のムちゃんのことでした。ムちゃんは自分がお母さんのようになって弟たちの面倒を見ないといけないと思い。気負いとプレッシャーでかえって家事が嫌いになり、皆と衝突するばかりだったからです。お母さんは祈りました。

■2年半の闘病後、お母さんは息を引き取りました。ムちゃんは「お母さんは天国に行ったのだ」と確信してはいても、お母さんの病気の苦しみや自分の身勝手さを思いおこしては心の傷になっていました。

■けれども数年後、お母さんと同じようにして祈りながら過去を振り返ったとき、お母さんのすべての祈りは今も働き、その通りに聞かれているのだと気がつきました。多くの人が救われたこともそうですが、その他に、兄弟が仲良くなり、さらにムちゃんもが家事が大好きになっていることなどもです。

2010/5/23 Ⅱ列王記5:1~14 ナアマン将軍のきよめ 

・ナアマン将軍
 本日の箇所は、BC800年頃の物語です。当時、旧約の民は北イスラエル王国と南ユダ王国に分断していました。ナアマン将軍はさらに北アラム王国の軍人です。
 彼は英雄でしたが、らい病にかかっていました。当時は誰も癒すことができず、ただ預言者のみが癒すことができるという話を聞いて、北イスラエルに出かけます。

・ナアマン将軍の誤り
 彼が預言者エリシャのもとに行ったときに、預言者は使いを通して「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい・・・。」と語りました。ところがナアマン将軍は、由々しい病気は、自分自身の多くの代価と努力、癒す者の誠意と目に見える手段を尽くさなければならないという先入観とプライドがありました。そこで「怒って帰途に」つこうとしました。

・ナアマン将軍のきよめ
 ところが部下たちのことばによって思い直し、ただ「神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した」のです。「すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった」のです。 聖めと救いは、人間の努力や功績によるのではなく、ただ神のみことばを信じ、従うことでなされるのです。

・キリストにあるバプテスマ
 私たちのバプテスマも、全く同じです。キリストのみことばを信じ、みことばに従って水に浸ることで、きよめと救いは与えられ、同時に、生涯にわたる証印になるのです。

2010/5/16 マルコ12:28~34 神への愛 隣人への愛

・神への愛
 「どの命令が一番大切ですか」との律法学者の質問に対して、主イエスは申命記6:5以降を引用して答えます。「心を尽くし・・・あなたの神である主を愛せよ。」
 これは私たち人間のすべてによって神を愛するように命じたものです。私たちは自己愛に満ちていますが、それを砕いて徹底して神を優先して愛するようにと言う命令です。

・隣人への愛
 次に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と。
 隣人とは家族や友人、同じ民族のことですが、さらにすべての人という意味もあります。神への愛は具体的に隣人愛で現されるように命令されています。
 私たちは自己中心で自己の益のためには必死になり、それを優先するものです。それと同じように隣人の益を求めるようにと言うことです。
 イエスはあえてこのように語ることにより、律法の世界での命令はそのまま神の国において適用されるべきことを明瞭にしたのです。

・神に愛され、救われてから
 律法学者もイエスの回答に賛同しますが、主イエスは「あなたは神の国から遠くない。」と言われただけでした。
 愛の命令は語っただけでは絵に描いた餅で、実践されなければ意味がないのです。その意味で、律法学者は「遠くはない」が、神の国には行っていないことを明示しています。
 神の国は確かに愛の王国ですが、そのためには、私たちが先に、神によって愛され、キリストの救いを受けなければなりません。そのためには自分の罪の深さを覚えて自らに絶望し、ただ神の愛の中に生きることです。

2010/5/9 Ⅱテモテ1:3~7 母からの良心と信仰

・私たちが産み育てるべきもの
 使徒パウロは人を育てる基本として、「きよい心と正しい良心と偽りのない信仰」が大切であると述べています。そこからすべての良いものが生まれ出るからです。
 このことは母親と私たちが、目ざすべきポイントです。世の中では知的肉体的能力や様々な技巧が求められるのですが、それ以前に生み育てるべきことから目を離してはなりません。

・きよい良心
 私たちは目に見えることを優先しますが、それでは心と良心は様々な欲と罪に汚れますし、たえず思い煩いの虜になって力を失います。
 「きよい心と正しい良心」とは何よりも目に見えない神に対する一途な心ですが、それは神との交わり、神を見続ける中で養われます。神御自身がきよく、正しい方だから、ご性格が映し出されるからです。
 母親が「きよい心と正しい良心」をもって子どもたちと交わるときに、子どもたちの中にも同じ心が映し出されるのです。

・純粋な信仰
 「純粋な信仰」は「偽りのない信仰」ということです。信仰生活と言いながら、外面の細々としたこと、人の目だけを気にしているならそれは偽りの信仰です。どのような時にも、神を信頼し、神に従うという内なる決意の中で「純粋な信仰」は養われます。
 「そのような信仰は・・・祖母ロイス・・・母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っている」とあるように、私たちの子たちにも映し出されていくのです。「きよい良心」にしろ「純粋な信仰」にしろ良い心は、次世代にも確実に伝播していくのです。

2010/5/2 マルコ12:18~27 アブラハム イサク ヤコブの神

・復活論争
 サドカイ人とは、祭司階級の人々で律法(モーセ五書)だけを受け入れ、死人の復活を否定している人々です。彼らは結婚についての詭弁を用いて復活を否定しようとします。七人と結婚した女は「復活の際・・・だれの妻なのでしょうか。」と。

・聖書と神の力は復活を示す
 主イエスは聖書と神の力は信仰者の復活を示していることを明示します。「人が死人の中からよみがえるときには・・・天の御使いたちのようです」と。
 地上の結婚は肉の弱さゆえの制度です。復活の時、天ではさらにすぐれた生命と絆が与えられます。「御使いたち」はさらにすぐれた生命と絆によって神と結ばれ、互いも結ばれています。復活のことを、地上の枠内で考えてはならないのです。 

・アブラハム イサク ヤコブの神
 さらに主イエスは「モーセの書にある柴の箇所」(主エジプト3:6)から「私はアブラハム イサク ヤコブの神」との言葉を取り上げます。神は族長たちに交わりを与えましたが、それは地上の生涯に留まらないのです。地上の生涯が終えた後にも続き、彼らは神の生命によってなお、生きているのです。神は契約の愛において永遠で、死に勝利する復活の力を有する方です。

・復活信仰に生きる
 私たちの時代は、地上のことだけの時代です。人々の心は、やがて来る死に対する恐怖と不安に満ちています。この時代、私たちは永遠の絆と復活の生命を下さる神を信じ、その礼拝者として生きることが許されているのです。

2010/4/25 マルコ12:13~17 神のものは神に

・試みと罠
 パリサイ人とヘロデ党の者たちは、税の問題でイエスをためして罠に落しいれようとしました。パリサイ人は異教徒の支配者に税を納めることを嫌い、ヘロデ党は賛成していました。イエスが税を納めることに賛成すれば、パリサイ人が不敬虔と言ってイエスを非難でき、反対すれば皇帝に対する反逆者といって訴えることができます。 

・カイザルのものはカイザルに
 イエスは銀貨をもってこさせてそこにカイザルの肖像と銘が刻まれていることを確認させます。そして 「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」と。
 イエスは世の権力者に税金を納めること、その支配の中で生活することを認めているということです。ローマ13:1にも「存在している権威はすべて、神によって立てられたもの」とあるとおりです。
 
・神のものは神に
 「神のものは神に返しなさい。」
 人間の心は神の形に似せてつくられ、それは神のものです。それは誰が何といおうと神に返さなければならないと言うことです。このように主イエスは、神の領域は、絶対に不可侵であることを宣言しているのです。

・私たちの日常と礼拝
 私たちはこの国と社会の中で生活しています。また家庭や職場があります。毎日の生活でそのしきたりに従うことは大切なことです。しかし週1回の礼拝は、一切の世の煩いを避けて、「神のものは神に返す」ために、イエス・キリストの神に礼拝するのです。

2010/4/11 マルコ12:1~12キリストを礎石とする

・ぶどう園のたとえ
 主イエスは「ぶどう園のたとえ」を通して、「神の国」の祝福がユダヤ人から取り去られたこと。そして異邦人に与えられるようになったことを示します。
 神はユダヤ人たちに対して預言者たちを送り、さらにはひとり子キリストを送って誠実と恵みを示しました。ところがユダヤ人たちは殺して反逆心と邪悪さを顕わにしたのです。その結果、神の国は彼らから取り去られ異邦人に渡されたのです。

・見捨てた石が礎石に
「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。」
 主イエスは、別のたとえで捨てられたキリストが異邦人教会の「礎の石」となったことを示します。キリストはユダヤ人たちによって捨てられ殺されましたが、復活して新しい教会の礎石となったのです。神は初めから異邦人の救いを計画しており、それはユダヤ人の反逆により「奇跡的に」実現しました。
 今や、キリストは異邦人に、そして私たちの教会にも救いの礎として提供されています。すべて私たちに対する神の愛とみ力によっています。

・キリストを礎石とする
 私たちはキリストを礎石として教会生活、信仰生活を築き上げるべきです。そのためにはどのような時にも彼に信頼することが大切です。慌てて業をなすのではなく、静まって信じ続けることです。また「自分の思い」「人間的な欲」を中心とするのではなく、徹底して神の言葉と御心を求めることです。行いと思いにおいて聖さを保つことです。さらに礼拝を通して霊のいけにえをささげることです。(Ⅰペテロ2:4~6)

2010/4/4 イースター礼拝 ヨハネ20:24~29 見ずに信じる者は幸い


・疑り深いトマス
 主イエスが復活してから使徒たちに現れたとき、トマスだけはそこにいませんでした。「私たちは、主を見た」との使徒たちの言葉を信じることなく、彼は次のような暴言を吐きました。「私は、その手の釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」
 トマスは超自然の世界を受け入れず、ただ見る触るの世界だけにこだわるところがある人間でした。しかしそれは誤りであり、不信と反逆を増大させる態度です。

・トマスの悔い改めと信仰告白
 主イエスはそのトマスを愛し覚えておられました。彼の前に現れて、傷ついた手とわき腹をさらします。
 トマスは即座に、イエスの愛を知ると共に悔い改めました。もはや触って確かめるなどと言う不遜なことはしませんでした。
 「私の主。私の神。」との信仰告白は彼の悔い改めから生まれました。

・見ずに信じる者は幸い
 主イエスは「見ずに信じる者は幸いです」と語ります。自分の感覚ではなく、聖書の言葉を通して信じることの大切さを示しております。復活も永遠の生命も神の国も、目に見えない世界です。感覚だけで知ろうとする時に限界があり、不信が生まれます。それはただ「見ずに信じる信仰」だけで知ることができる世界なのです。
 聖書は、神が私たちのために、復活の生命、神の愛、永遠の希望を与えようとしていることを知らせているのです。

2010/3/28 ヨハネ19:28~37 十字架からの血潮

・十字架
 イエス・キリストは神の子ですが、その最後は十字架上での死でした。福音書ではイエスが十字架に付けられたことがくり返し明記されています。十字架は最低最悪の者の死刑に用いられる道具で、「十字架」という言葉で、すでに主イエスがどれほどの苦しみと侮辱を忍耐したかが分かります。

・贖いの完了
 十字架上で主イエスは「わたしは渇く」と語られました。その言葉は預言の成就をしめすものでしたが、同時に主イエスが肉体において極限の苦しみと渇きを覚え、心と魂でも悲痛でどん底に落とされていたことを示します。
 また主イエスは苦しみを全うした後に、「完了した」と宣言されました。すべての人のための罪の贖いが完了したと言うことです。神の子として無限の価値ある方が、無限の苦しみと死によってなだめと贖いが全うされたと言うことです。

・十字からの血潮
 「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した」時、「血と水が出て来た」とあります。血は完全な贖いの血として、水は聖めとしてすべての人に提供されたと言うことです。この血の本質は霊的な贖いの力ということです。
 「血による、また信仰による、なだめの供え物」ローマ3:25とありますが、主イエスの血を私たちが受けるには「信仰による」のです。ただ心の砕き、一切の邪念と高ぶりを捨てること。虚ろにして心より受け取ることです。そこに神の血潮による贖いと聖めが実現します。

2010/3/21 マルコ11:12~20 祈りの家

・いちじくの木
 主イエスはいちじくの木に実がなっていなかったので、それを呪いました。この出来事は、神のためになんの実もなさなかったエルサレムと神殿に対する呪いを暗示します。

・宮きよめ
 宮きよめの出来事は神殿の異邦人の庭で置きました。異邦人の祈りを無視して、商売がなされていたのです。主イエスは彼らを「追い出し」「腰掛けを倒し」「通り抜けることを・・・お許しにならなかった」のです。
 このようにして、主イエスは神殿が商売や欲のために用いられるべきではなく、聖別されるべきところであることを強く示しているのです。

・「祈りの家」
 「祈りの家」とは、神との交わりの場、聖なる空間という意味があります。旧約の神殿は、ユダヤ人だけではなく異邦人にとっても神との交わりの場です。新約においては、教会がその役目を果たしています。
 教会には、色々な側面があります。互いの交わり、集会、会議などなどです。しかし教会の本質は神との交わり、つまり霊的な礼拝と祈りです。このことを見失ってはなりません。

・世における「祈りの家」
 世の人々は、不安とおののきの日々を過ごしており、「聖なるもの」を渇望しています。教会は何よりも「祈りの家」となって世に聖なる空間を提供しています。「地の塩、世の光」との御言葉がありますが、まさにそのとおりです。

2010/3/14 マルコ11:1~11 ロバの子に乗った王

・ロバの子
 主イエスはロバの子に乗ってエルサレムに入城しようとされます。それはゼカリヤの預言に従ったことと共に、神の国の姿を示すためでした。ロバの子は純真です。小さく、弱く、それゆえ柔和です。小さい者、弱い者、痛みを持つ者がまず招かれる国、それが神の国なのです。
 
・「主がお入り用なのです」
 ロバの子には地上の所有者があります。ロバの子を連れ出そうとするときに「なぜそんなことを」という人がいるのです。しかし主イエスこそ、一切の支配者であり、真の所有者です。また最も有効に用いることができる方です。「主がお入り用なのです」という言葉と、召命をだれも拒絶できません。
・ロバの子に乗った王
 主イエスがロバの子に乗って、エルサレムに入城されたときに、人々は「ホサナ・・・」と叫んで喜び迎え入れました。世の王たちとは異なって柔和さを持ち、小さい者、弱い者を受け入れる王であることを知ったからでした。

・私たちもロバの子
 現代も人々の前に主イエスを運び、神の国を知らせるのは、ロバの子のような人々です。小さく、弱く、従って柔和さを持つ者です。
 その小ささのゆえに「なぜ、わたしが」と戸惑うことがあっても「主がお入り用」と覚えるなら、精一杯の心で主イエスのご用のために自分をささげるべきです。その時、主イエスもその人を担ってくださいます。

2010/3/7 マルコ10:46~52 盲人バルテマイの信仰

・盲人バルテマイ
マルコ福音書においてバルテマイ物語は1つの信仰の典型を描いています。
 バルテマイはテマイの子で誇りある人でしたが、盲人であるためエリコ町外で物乞いをしていました。それは彼にとって苦痛で辛い生活でしたし、また人間としての深い絶望感と疎外感を覚える生活でした。

・バルテマイの信仰
 イエスの一行が町を出て彼の前を通りがかったときに、彼は「ダビデの子のイエスさま。わたしをあわれんでください。」と叫び始めました。彼はイエスが神の子であり、恵みとあわれみの神であると信じたのです。
 彼の信仰の徹底さは、大勢の者たちが彼をたしなめても、必至に叫び続けたという態度に現されています。人の少しの反対で信仰の求めを諦めるのは、本当の信仰ではありません。

・イエスのあわれみ
 しばしば、イエスは初めに素っ気ない態度を取られます。それは求める者の心に信仰が熟成される時を待ってのことです。イエスは恵みの神としてすぐにでも私たちを救いたいと願っています。しかしイエスの恵みと救いを受け取る手段は信仰のみなのです。
 バルテマイの信仰の姿を見て、即座にイエスは彼を呼んで、「目が見えるように」します。「あなたの信仰があなたを救った」とは、彼の求め続ける信仰姿勢です。

・私たちの信仰
 この物語は肉眼の癒しを描いていると同時に、私たちの心の目が開かれることを目的にしています。神の第1の願いは、私たちの心の目が開かれることで、その時にバルテマイと共にイエスがはっきり見えて、イエスに仕え従う幸いを覚えることができるのです。

2010/2/14 マルコ10:35~45 「神の国」の姿勢

・ゼベダイの子たちの頼み事
 ゼベダイの子たちは、エルサレム入城を前にして、神の国が実現すると感じ、イエスの栄光の座で高位につくことができるように頼み事をしました。誰にでも、人の先に立ちたいという願いはあるのです。
 主イエスは彼らの内に神の国について誤った考えがあることを知りつつも、「人の先に立ちたい」という願いを受け止めます。そして主イエスは彼の「杯」と「バプテスマ」を共にするべきことを確認します。

・地上の国と神の国は原理が違う
 さらに弟子たちすべてに対して、地上の国と神の国は原理が全く異なることを示します。地上の国では、支配者は自己を中心にして人々を支配しようとし、その結果、争いが絶えません。
 しかし神の国では先に立つ者は、自己を神に従わせて小さくし、人々に仕えます。人々も互いが互いに使えようとします。そこには平和が宿ります。

・「神の国」の姿勢
 「人の子」とは神の子キリストのことで、彼は「神の国」の王です。彼は人となって地上に来て、ご自分で人々に仕えることで、神の国の姿勢を示します。その仕え方は徹底しており、実に十字架の死に至ります。
 私たちは、彼の姿から学ぶだけではなく、自ら彼の贖いを受け、彼に仕えていただくことで、「仕える」心と姿勢を身につけることができるのです。

2010/2/7 マルコ10:23~31 ラクダと針の穴

・裕福な者には「何と難しいことか」
 主イエスの時代の人々は、裕福な者こそが神の国に近いと考えていました。裕福なのは神の祝福のしるしであり、神殿ですぐれた犠牲を捧げることも寄進もでき、富が現世と来世の幸いの保証になると考えていたのです。
 しかし主イエスは「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう」と再三に渡って語られます。

・ラクダと針の穴
 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 ラクダはユダヤで見られる最大の動物です。体高が2メートル以上あり巨大です。「針の穴」は裁縫で使う針の穴で今も昔も、身近にある最も小さい穴です。ラクダが針の穴を通ることができないことは、一目瞭然です。
 主イエスはこのたとえを通して「裕福な者が神の国にはいることができないことをユーモアを交えて、弟子たちに示しています。たとえによって、自分たちの考えの愚かさがクッキリと映し出されるのです。
 そして地上の富によって神の国には入れず、本当の幸福も勝ち取ることができないと分かるに従って、神の国の真理が、いよいよ明瞭にされます。

・神にはできる
 「人にはできないことですが・・・神にはできるのです。」
 神のみが、愚かな人間を神の国に入れる奇跡をなすお方です。神はひとり子イエス・キリストを遣わして、彼によって入国する道を備えられました。私たちはただ、一切の富も誇りも捨てて、彼を信じる信仰によって入らせていただくのです。

2010/1/31 マルコ10:17~22 金持ちの青年の話

・金持ちの青年
 イエスの元にきた人は金持ちの青年役人であったようです。財産家で身分が高く、生まれも能力も「良い」人でした。彼は「永遠の生命」を求めてイエスの元に来ましたが、「尊い先生」という呼び方に、彼の求道手段が垣間見られます。「尊い」とは「良い」「善」等という意味があり、彼は自己愛の上に多くの「良さ」を積み上げて、「永遠の生命」に到ると考えていたのです。
 しかし主イエスが指摘するように神だけが「尊く」「良さ」「善」であるお方です。人間には「尊さ」などなく、自己の芯が腐っているのです。青年の求道手段は、根本的に誤っていましたし、律法の本質からも遠く隔たっていました。

・青年の求道心の誤り
 主イエスは青年の求道心の誤りを見抜き、彼自身も気づくように語ります。
 「あなたには、欠けたことが一つあります。・・持ち物をみな売り払い」
 自己愛による求道は自己矛盾に陥ります。神が求める「良さ(善)」はそれを捨てる隣人愛であり、ただイエスと恵みを受けることによってのみ可能です。

・青年の悲しみとイエスの慈しみ
 青年は自己を捨てきれずに[悲しみながら立ち去り」ますが、その姿はすべて自己愛を芯に自分を「良く」しようとする者の姿です。
 またイエスの眼差しは、そのような「私たち」が自分の誤りに気づいて、彼のもとに立ち返ることを切望する愛の眼差しです。

2010/1/24 「子どものように」が条件 マルコ10:13~16


・「子どもたちをわたしのところに」
 人々がイエスの元に子どもたちを連れてきたときに、弟子たちは彼らをしかりました。弟子たちの考えでは、子どもたちのような社会的にも、能力的にも取るに足らない者は、王であるイエスのもとに来る資格がないと考えたのです。
 しかし主イエスは弟子たちの態度に対して憤っていわれました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。」と。

・神の国は地上の国と異なる
 地上の国では、どこに加入するにも人間の力、資格、能力、財産、経験などが求められます。それらは自分を高ぶらせますが、神を崇めることはないのです。
 しかし神の国では、あらゆる面で地上の国の原理とは全く異なります。神の国は、主イエスと御業によってもたらされ、神と恵みが支配します。そこではかえって、人間の力、能力、経験、功績などは、邪魔で妨げになります。むしろ子どもたちのように、自分の無力を前提に、恵みを信じてただ受け取る姿勢が大切になります。

・神の国は「子どものように」が条件
 「子どものように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこに、はいることはできません」
 神の国に入るには「子どものように」が条件になります。それは自分の功績、経験、能力は、除外すること。むしろ自分の前に提供されているイエスと御言葉を、恵みのプレゼントであるとして、受け入れると言うことです。神の国の「みことばはあなたのちかくにある」(ローマ10:8)からです。

2010/1/17 夫婦のきずな マルコ10:1~12


・頑なな時代の夫婦関係
 モーセ律法の時代は、人々の心が頑ななために、仮の夫婦の規定が定められていました。その1つが離別についてです。申命記24:1にあるように妻に落ち度があったときに離婚状を書いて離別することが許されていたのです。
 また妻は夫の所有物のように取り扱われる面がありました。そこでは夫婦本来の人格関係は見失われます。

・夫婦のきずなの回復
 主イエスはパリサイ人らの質問に答えて、新しい夫婦のきずなについて語ります。それは創造の秩序の回復であるとともに、愛に基づく新しい夫婦関係です。
 神は人を、男と女とに創造されました。両者は性の違いがありますが、互いが神の形と尊厳を持ち、人格的に対等な存在です。夫婦としての男と女も同様です。夫婦の場合は何よりも深い人格的きずなで結ばれるものとして出会わされるのです。「一心同体」と言う言葉は、そのことを示します。

・新しい夫婦のきずな
 夫婦の創造の形は、主イエスを通して新しい生命と愛が注入されます。主イエスは十字架の死を通して神と人との愛のきずなを回復されました。この愛=アガペーをまずは、夫婦の間で育まれます。
 生来の人には、エロスとフィリアの愛があります。どちらも自己中心的な愛で、自分がよしと思うときだけ好意を持つ愛です。しかしアガペーの愛はそれらの超えた愛です。
 夫と妻はすべてにおいて違う人間です。そこで対立や葛藤が生じることもあります。その違いもアガペーの愛を育てる契機となるのです。

2010/1/10 イザヤ42:1~3 理想の人


・理想の人
 現代は価値観を見失い、同時に理想の人間像を喪失した時代です。聖書は神が求める「理想の人間像」を提供しますが、イザヤ書42章の「しもべ像」もその1つです。「しもべ」はメシヤ(キリスト)御自身ですが、また彼を信じて「神の子とされた人々」に対して神が求めておられる人間像です。

・自己中心を否定
 42章前半で、イザヤは「しもべ」について、7つの否定形を用いています。それは人間的な荒々しさや、虚栄、気ままさ、自己中心などの否定を意味しています。肉的な態度の徹底的否定を通して、神の「しもべ」像を浮き出させているのです。
・優しさ
 この中で注目されるのは「彼はいたんだ葦を折ることもなく・・・」という姿です。痛んだ葦は少しの刺激で完全に折れてしまいます。「くすぶる燈心」は少しの粗雑さで消えてしまいます。人間はみな痛んでおり、弱さを持ちます。しかし彼は人間の弱さを知り、限りない優しさを持つ方なので、さらに痛めることなく生命を新生させるのです。

・忍耐
 「彼は衰えず、くじけない。」時代の中で神の御心を遂行しようとするときには、色々な困難が伴います。そこで衰えそうでも衰えず、くじけそうでもくじけない忍耐力としぶとさが必要なります。それはただ神に信頼し切る信仰心から生まれます

2010/1/3 主を待ち望む イザヤ40:27~31


・現実とつぶやき
 「なぜ言うのか・・」とイザヤは人々のつぶやきを指摘しています。人々は目先の現実ばかり見て困難を覚え、つぶやいていたのです。
 私たちもただ目先の現実だけにとらわれていたら、いつの間にか、自分の心は呟きと不安と不信仰の巣と化してしまいます。

・永遠の神を見上げる
 「あなたは知らないのか・・・主は永遠の神」。信仰者が忘れてはならないことは、神の言葉を聞き、神に教えられ、神を見上げると言うことです。その時に肉眼で見て早合点した現実とは異なる世界が見えてきます。神は永遠の神であり、人間の思いと力を遙かにこえた方です。
 御自身が永遠であるだけではなく、神の民にその力と生命を与えようとしておられる方なのです。それは神が民にとって恵み(ヘセド)の神であると言うことです。「疲れた者には力を与え」るのです。

・主を待ち望む
 神の恵み(ヘセド)に対して、私たちはどのような誠実(ヘセド)を示したらいいのでしょうか。それはただ「主を待ち望む」という信仰姿勢のみです。主を信じ続けると言うことです。色々な困難がやってきますが、その中で信じ続けることで信仰は鍛えられていきます。

・鷲のように翼をかって
 イザヤは主を待ち望む者がどのような恵みと生命を受けるかについて見事なイメージを提供します。それは空飛ぶ鷲です。鷲の羽は傷ついたときなど自然と抜け落ちます。完全に回復するまでに数ヶ月かかりますが、その間、じっと待ち続けるのです。回復した羽は、以前よりもつやがあり、力ある羽となります。丁度その鷲のように、主を待ち望む者は恵みの気流を一杯に受け上昇するのです。