2022/6/26 ルカ福音書20:27~40 生きている者の神

・サドカイ人の復活否定
 サドカイ人とは祭司長一族らを中心とするグループです。彼らはモーセ五書だけを聖典として死者の復活を否定していました。彼らは主イエスの評判を貶めようとして、復活信仰を否定する論戦を挑んできました。それは律法の規定を盾にした詭弁で、夫と次々に死別して、結局7人の兄弟の妻となった女性は、復活のときに誰の妻になるかというものでした。

・この世の生命、復活の生命
 主イエスは「この世の子らは、めとったり、とついだりするが…死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません」と語ります。この世の生命と神の子たちの生命の違いを明瞭にしているのです。この世の生命の論理で、復活を云々することは誤りであるということです。

・生きている者の神
 さらに出エジプト記3章の柴の箇所で神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」として現れたことを示します。神は園の存在者であり、しかも契約の民との関わりを永遠に保ち、彼らを永遠に生かしていることを明らかにします。
「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」とあります。真実の神信仰に導かれた者たちは死に絶える生命ではなく、永遠の生命をいただき、たとい地上の生命が滅んだとしても復活に至ることを明確にしています。
 この死の時代に、私たちは復活信仰によって「生きている者」とされているので、心からの礼拝により生きた神を証ししましょう。
 

2022/6/19 父の日礼拝 Ⅱコリント1:3~6  慈愛の父 慰めの神

 ・慈愛の父 慰めの神
 聖書の神は厳格な神というイメージがありますが、その本質は「慈愛の父…慰めの神」です。特に私たちキリスト者にとっては、どのような時にも確実で深い慈愛と慰めを与える方です。 「慈愛」とは苦しみ悲しむ者に対して自分でも苦しみ傷んで受け止めるということです。「慰め」とは優しく適切な言葉をかけて相手を癒やすということです。

・父の神に学び、習う
 「自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができる」とあります。私たち自身には慈愛も慰めも欠けていても、自分が体験した神の慈愛と慰めを他の人に対して実践できるということです。
 私たちは地上の父親の性格と態度を継承しておりますが、 それ以上に霊の父、神の慈愛と慰めを知り、それを自分の子供に、また若い世代に対して実践することが大切です。

・父親の慈愛と慰めの実践
 ある心理学者が次のように語っています。「子供は…ほめられた記憶がないのも心の傷になっている可能性があります」と。そうでなくとも地上に生きる人間には、深い心の傷と悲しみがあります。父親たちは、神の慈愛と慰めによって、少しでも癒すことが使命として委ねられているのだと思います。
 


2022/6/12 ルカ福音書20:20~26 神のものは 神に

・カイザルに税金?
 主イエスの生命を狙う祭司長らは、義人を装った間者を送って、イエスを罠にかけ、ローマ総督にひきわたそうとと企みました。彼らは「カイザルに税金を納めることは律法にかなっているかどうか」との質問をし、どう答えてもイエスの立場を危うくしようとします。まさしく毒をはらんだ質問です。

・カイザルのものはカイザルに
 主イエスは彼らの企みを見抜いて対応しています。まずはデナリ銀貨を取り出させて、そこにカイザルの肖像と銘が刻まれていることを確認させます。それによって地上の政治経済の支配権はどこにあるかを示しています。そのようにして「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と返答します。

・ 神のものは神に
 しかし主イエスの強調点は次にあります。「神のものは神に返しなさい」です。人間は神に似せて創造され、神の肖像、神の銘が刻まれた「神のもの」です。表面的に装いながら世的悪意や欺きにうつつを抜かすことは、本来のあり方から逸脱した姿です。
 そこで「神のものを神に返す」とは、表面的にではなく、心から神を礼拝することです。詩篇51:16に「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。」とありますが、まさしくそのような礼拝です。
 

2022/6/5 ルカ福音書20:9~18 捨てられた石、礎の石

・ぶどう園のたとえ
 主イエスは旧約から新約にいたる救済史を「ぶどう園のたとえ」で語ります。ぶどう園主が農夫たちに契約によって貸付て、長い旅にでました。収穫期を迎えて主人はしもべを遣わしましたが、農夫たちは「袋だたきにし、何も持たせないで送り帰し」ました。その後、別のしもべ、三人目のしもべを遣わしても反逆心をエスカレートするだけでした。

・愛する息子の殺害と契約破綻
  最後に、主人は契約に対する誠実を尽くして「愛する息子」を派遣します。農夫たちは、その息子が跡取りだと分かると農園を略奪しようと殺してしまいます。主人はこの反逆と罪により、契約破綻とし、さらに罪に対する報いとして「農夫どもを打ち滅ぼし」、さらに「ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます」と。このたとえの「愛する息子」とは神の子キリストです。

・捨てられた石、礎の石
 主イエスは最後に旧約預言を示します。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」。旧約の民が捨てたキリストが、新約の救いの礎となったということです。
 これは単にユダヤの歴史について語ったことではありません。いつの時代にも、どこの地域でも、世の権力者たちはキリストを捨てます。それでも「神の目に選ばれた石」Ⅰペテロ2:4は、永遠の御国の民とされるのです。