2020/11/22 ルカ8:26~39 その名は レギオン

 ・悪霊につかれた男
 主イエスがガリラヤ湖の向こう側のゲラサ人の地方に着いたときに、悪霊につかれた男に出くわしました。彼は着物も着ずに墓場に住んでいました。悪霊は彼を凶暴にし、荒野に追いやり、悲惨な状態におとしめていました。

・その名はレギオン
 主イエスが彼の名を問うたとき彼は、「レギオン」と答えました。男の名ではなく、悪霊の名です。レギオンとはローマ軍団のことで、大勢で、強いことを示します。それほどの悪霊が、一人の人間に取り付いていたというのは驚きです。悪霊がレギオンであるぶん、この男の悲惨さと苦しみは計り知れません。
 主イエスは悪霊を追い出すときに、豚の群れに入ることを許しました。それと同時に、豚の大群は狂乱化していきなり崖を駆け下りて湖で溺死しました。

・救いと証
 悪霊につかれていた人が正気に戻ったときに、イエスのお供をしたいと願い出ました。自分自身の救いを通してイエスの愛を知り、感謝と従順の生涯を送りたいと願ったからです。しかしイエスは「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」と語られました。
 私たちは、レギオンなどに取り憑かれた経験はありません。しかし罪の奴隷であった点は、似ています。しかもその贖いは豚どころではなく尊いイエスの血によったのです。

2020/11/15 ルカ福音書8:22~25 湖上の嵐とイエス

 ・湖の向こう岸へ
 主イエスは弟子たちに「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と旅の目的地を示されました。一行は舟で漕ぎ出しましたが、イエスご自身は舟の中で眠ってしまいました。それは神の子であり、同時に人の子としての姿でした。

・湖上の嵐とイエス
「ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった」とあります。この時弟子たちは、慌てふためいてイエスに助けを求めました。主イエスが眠った状態では何の権威も力もないと目先で判断したのです。
「イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった」とあります。主イエスの神の子としての権威を示し、自然の力と諸々の権威に優る力をしめされたのです。更に弟子たちの不信仰をもたしなめておられます。

・「いったいこの方は…?」
 弟子たちはイエスの力と権威を目の当たりにして「いったいこの方はどういう方なのだろう」と驚きを顕にしております。それまでも彼らなりに信仰を持っていましたが、主イエスは彼らの信仰以上のお方であることを目の当たりにし、神の子としての信仰を深めることになったのです。その霊的体験は後の明瞭な信仰につながります。
 私たちも人生の中で色々な危機に遭遇しますが、度毎にイエスに対する信仰を深めていきましょう。

2020/11/8 ルカ福音書8:19~21 神のことばと霊の家族

 ・地上の家族
 主イエスに会おうと、母マリヤとユダ、ヤコブなどの兄弟たちがやって来て、面会を求めたことがありました。普通の、家族であることは、どのような人間関係よりも優先され、その面会は即座に受け付けられます。というのは、ユダヤ社会では特に家族関係は重視されていたからです。 
 
・神のことばと霊の家族
 この時、主イエスは群衆に向かって「私の母、私の兄弟とは神のことばを聞いて行う人たち」と語られました。 主イエスが言う「私の母、私の兄弟」とは、地上の血縁によるのではなく、神のことばによる新しい家族、霊の家族ということです。その関係は「神のことばを聞いて行う」こととしています。つまり地上の何よりも優先して、神のことばを聞き、献身してそれに従うということです。

・霊の家族としての教会
 私たちは教会において「神のことばを聞いて行」っています。具体的には礼拝で説教と聖餐式、更に交わりがそれです。イエスの家族とされることは、神の子とされて愛され天の相続と祝福に預かることです。
 世においては、地上の家族のしがらみ、社会的ないろいろな人間関係があります。しかしイエスの家族としての立場を第1のこととして尊び、その祝福を確実にするべきです。

2020/11/1 ルカ福音書8:4~15「 種まきのたとえ」

 ・種まきのたとえ
 主イエスは神の国が、どのようにして拡大していくかを「種蒔きのたとえ」で示しています。「種を蒔く人」とは、小麦などを蒔く農夫のことですが、当時の播種は大雑把であったので、「道ばた」「岩の上」「いばらの真中」などに種が落ちることがありました。そのような悪い場所を例示しながら、種は「良い地」のみしっかりと育つことを示しています。
 
・種蒔き…不適切な土地
 主イエスは弟子たちにたとえの意味を開示します。まず種とは「神のことば」とし、「道ばたに落ち…踏みつけられ空の鳥が来て食べてしまった」とは悪魔によって聞く人の心からみことばを持ち去るからと。「岩の上に」とは、すぐに喜んで信じるが、「試練のときに身を引いてしまう」と。「いばらの真中」とは、みことばが「この世の心遣いや富みや、快楽によってふさがれる」人です。これら3つの不適切な例は、いずれの場合も神の国の祝福と生命に至りません。

・良い地
 「良い地に落ちるとは」「正しい、よい心でみ言葉を聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる」とあります。「正しい、良い心」とは、みことばを誠実かつ素直に受け入れ、深く思い巡らして、心の奥底にまで刻む人です。また世の誘惑と快楽よりみことばを優先して信じ守り、忍耐して従うのです。そのようにして神の国の祝福と生命を獲得するのです。