2014/4/20 ルカ福音書24:13~35 エマオへの途上



・エマオへの途上
 主イエスが復活したその日、2人の弟子がエマオの町に下っていく途中でした。そこに主イエスが現れたのですが、彼らは心が閉ざされていたために気づかず、心を暗くしていました。肉のままの人は、復活の主イエスが側にいたとしても、それと気づくことがないのです。

・聖書全体から解き明かす
 そこで主イエスは「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされ」ました。さらに、エマオで、彼らは主と共に食事をしましたが、その時にようやくキリストを認めることができたのでした。それは聖書を通してキリストを信じ、互いの交わりを持つ者たちの中に聖霊が働いて、新しい人にしたからです。
 
・心は内に燃えて
「…聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
 聖書はただ読むだけでは、何の力もないのですが、キリストの光の下で読むときに、その意味が明らかにされ、そこに宿される復活の生命が読む者の心に注がれます。それによって、死んだように絶望状態の者の心でさえも、燃やされ、新しく生かされるのです。

・私たちも心燃やされる
 エマオ途上の2人の弟子は、私たち信仰者の姿です。聖書からも信仰の交わりからも離れている時、目は遮られ、心は暗くなります。しかし聖書に向かい、そこにキリストを見いだすことによって、心燃やされ、新しい展望を得るのです。

2014/4/13 ルカ22:39~46 ゲッセマネの祈り



・ゲッセマネの祈り
 十字架前夜、主イエスは弟子たちと共にオリーブ山のゲッセマネの園で祈りの時を持ちました。そこは静かな場所でしたが、主イエスにとっては霊的な激戦地となり霊の「空間が歪む」ほどの激しさでした。

・杯を取りのけて
 主イエスの初めの祈りは「この杯をわたしから取りのけてください」でした。主イエスは人間となり肉の弱さを持っていたので、「わたしの願い」として、どうしても十字架の苦しみは避けたかったのです。しかし、父の神のみこころは変わず、わたしの願いは厳として拒絶されたのです。

・わたしの願いではなく
 しかし、主イエスの祈りの基本姿勢は「わたしの願いではなく、みこころのとおりに でした。このためについにはご自分を徹底的にへりくだらせて父の御心に従う決意をしたのです。それは屈辱であり、苦難の道でしたが、父の御心に従う決意をしたときに、新たな力と展望に満たされました。

・私たちの恵みの御座
 ゲッセマネの祈りは、私たち信仰者の祈りの助けと模範のためと言えます。ヘブル4:15「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とありますが、私たちも試練の中で誘惑に陥らないように祈りの座に着くべきです。そこはもはや孤独や苦難に満ちた場ではなく、主イエスの助けと励ましと導きの座となっているからです。

2014/4/6 ヨハネ福音書6:30~40 わたしがいのちのパン



・「天からのパン」解釈
 「群衆」は主イエスに対して「天からのパン」を求めます。しかしその内容は肉的であり、ただ自分たちの欲望を満たすための要求でした。
 そこで主イエスは、彼らの理解の誤りを指摘します。旧約聖書ではマナなどの肉の食べ物が与えられましたが、そこで暗示されていることは霊的なことであると言うことです。

・天からのまことのパン
 主イエスは「天からのまことのパン」を与えると語ります。それは霊的なパンで、それこそ「天からのパン」です。そしてすべての時代に、すべての人間の心に生命を与えるのです。生命とは永遠の生命(ゾエー)で地上のいのち(プシュケー)と異なります。
・わたしが生命のパン
 さらに「わたしがいのちのパン」と主イエスは語ります。「わたしは…です(エゴ エミー)はヨハネ福音書で7回出てきます。いずれも主イエスが絶対的存在者、神であることを示します。また「わたし」と語られるのは「あなた」に対してであり、あなたとの絶対的関係を求める啓示です。ここでは「あなた」にとって絶対的な生命のパンであることを示しています。

・わたしに来る者は
 「わたしに来る者」「わたしを信じる者」とは、目に見えない主イエスを霊の渇きを覚えて求め、その言葉を信じる者のことです。その人は彼の「生命のパン」を受け、「決して飢えること」も「渇くこと」もないのです。

2014/3/30 ヨハネ福音書6:22~30 無くなる食物 生命の食物



・群衆
 翌日、群衆は主イエスを執拗に追い求めました。彼らはパンの奇跡を通して主イエスの力を知り、主イエスを王に担ぎ上げて、ユダヤ国家独立を成し遂げようと考えていました。しかし、その動機は、純粋な信仰ではなく、世的野望でした。

・なくなる食物のためではなく
 主イエスは彼らに対して、その求道の誤りを鋭く指摘し、さらに語ります。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
 確かにパンは無くなり、それを食べて生きる地上の生命も滅び去ります。そのためにだけ、努力しても、その生涯は空しいものとなります。


・生命の食物のため
 「永遠のいのち」とは神由来の生命のことです。無くなることも滅びることもなく、それを持つ者を神の子とし、彼の内に聖さと正しさと愛を生み出す生命です。
 人は元々、神のかたちに似せて創造されましたが、それは単に地上の食物を得ることで、確立するのではなく、永遠のいのちを獲得することによって完成するのです。

・イエスを信じることだけ
 永遠のいのちを得る手段は「神が遣わした者を信じること」とあります。つまり、永遠のいのちは、人間の方から様々な業を積み上げて獲得できることではなく、ただ主イエスを信じるだけと言うことです。主イエスのみが真正な神の子なのです。