2011/5/22 ローマ6:1~4 バプテスマの秘義

・キリストとの結合を示す
 福音の反対者から「信じるだけで行いが伴わなくても良いのか」という批判がありました。それに対して、パウロは信仰の意味をバプテスマを通して示します。
 私たちはキリストを信じるときに、ちょうど水の中に入れられるようにキリストの中に入れられて、霊的に結合するのです。

・キリストの業との結合・・・死
 さらに、キリストとの結合とはキリストの業との結合です。キリストは十字架につけられて死に、葬られました。丁度そのように、私たちが水に入れられるのはキリストの死に結びつけられて、古い人と罪に対して死んだのです。
 信じることは変哲がないように思われますが、実際には神による根本的変革に入れられることなのです。

・キリストの業との結合・・・復活
 さらに、キリストの復活と結合することです。神の栄光の一切はキリストの復活に凝縮して示されました。ですから、私たちがキリストを信じるときに、キリストの復活と同じように新しく生き返り、「新しい生命」に生きるのです。

・霊的世界に合致させる
 さらに信じることは、霊的世界に入れられるだけではなく、その通りに生きる意志です。ですから、意志的に罪に対して死に、キリストにならって新しい歩みを志すようになるのです。

2011/5/15 ローマ5:18~21 恵みも満ちあふれ

・罪の支配
 「一つの違反」「ひとりの人の不従順」によって、「すべての人」が死と罪の支配に入れられました。そこでは如何にあがいても、人は滅びと悲惨な状態から逃れることはできません。これを原罪とも、全的堕落ともいいます。まったく人間の性質が罪に腐り果て、いかなる努力も虚しい状態です。

・恵みの支配
 それに対して「一つの義の行為」「ひとりの従順」によって、「多くの人」が義と認められて恵みと生命の支配の中に入れられます。如何に極悪な人間でも、如何に深刻な罪でも、むしろ罪が深ければ深いほどに恵みは注がれ、支配が強力に働きます。恵みとは、値しない罪人に大して与えられる愛だからです。
・律法を通して罪が増し加わる

 神が律法を与えらたのは、人間が生来、罪の支配の中にあることを知らせるためでした。「殺すな、姦淫するな、盗むな」・・・、あるいは「愛せよ」との命令の中で自分の行いにおける違反、心の中の罪を認めざるを得ないです。さらに人間存在の根底にある原罪を認めざるを得ないのです。

・恵みも満ちあふれ
 しかし、罪の1つ1つ、さらに原罪を認識ときに、その認識がが深ければ深いほどキリストの「恵みも満ちあふれ」るのです。恵みはいつの場合でも、罪の認識の中で働くからです。
 私たちの人生、あるいは信仰生活において危機の時があります。それは自分の罪深さ、弱さが深く認識されるときですが、そのときにこそキリストを見上げるべきです。

2011/5/1 ローマ5:12~17 アダムとキリスト

・アダムにある連帯性
 聖書はアダムにある連帯性について述べています。アダムを通して罪が入り、さらに罪によって死が全人類に広がったという連帯性です。罪と死は、アダムという最初の人に起因しているのです。
 現代の私たちも、アダムとの絆ゆえに罪の支配にあえぎ、死の恐怖におののいているのです。

・キリストにある連帯性
 キリストとキリスト者の間にも連帯性があります。それは恵みであり霊の賜物です。その恵みとはキリストの人格と業を原因として与えられます。神の一人子であり、十字架の死に到った代価ということで、永遠の価値があります。それはキリストを信じる信仰だけで、値なしに与えられます。
・キリストはアダムに優る
 アダムは土から造られた者であり、キリストは神の一人子です。両者の尊厳には格段の差があり、キリストはアダムに優ります。それと同じようにして、キリストにある恵みと賜物と生命は、アダムにある違反と罪と死に優ります。それこそ天と地の違いです。

・すべて「災い転じて益」
 私たち信仰者は一方では、アダムに連なる肉を持ちます。そこには違反と罪と死が日々働き、私たちを打ち付け、苦しめ、恐怖と不安にさらします。
 しかしながら信仰によりキリストにとどまっている限り、罪と死の力を機縁としてキリストにある恵みと生命の原理が、完全に覆い尽くします。すべて「災い転じて益となる」です。