2018/10/28 使徒の働き18:1~17 コリント宣教


・コリントへ
 コリントの町は、ペロポネソス半島の付け根にあり、交通の要所、かつアカヤ州の州都で、多くの人口を持つ栄えた町でした。パウロはそこでアクラとプリスキラというユダヤ人クリスチャン夫妻と出会います。彼らは同業者であったため、パウロは彼らの仕事を手伝い、彼らはパウロの宣教活動の手助けをします。孤立していたパウロは、彼らによって励まされて宣教活動を続けることができました。

・コリント宣教
 コリントの町でも、パウロはユダヤ人会堂で福音宣教をしました。しかし彼らは福音を拒んだので、「今から私は異邦人のほうに行く」と宣言して、別の場所で異邦人に福音を語りました。「多くのコリント人も聞いて信じ、バプテスマを受けた」とあります。そのことは、すでに旧約聖書で預言されていたことでしたが、パウロにとっては、驚きの体験だったと思います。

・「わたしの民がたくさんいる」
 「ある夜、主は幻によって…「恐れないで、語り続けなさい。…この町にはわたしの民がたくさんいるから」と語ります。パウロの心に一抹の不安と恐れがあったようです。しかしこのみ言葉をとおして、福音宣教は人間的な思いでなすのではなく、主イエスの命令であり、厳かな務めであることを思い知らされました。 
 私たちの町にも「主イエスの民がたくさんいる」ことは、確かです.私たちも恐れや不信仰によって黙ることなく、信仰と厳かさを覚えて、福音宣教を続けることが大切です。

2018/10/14 使徒の働き17:16~34 アレオパゴスの説教


・アテネにて
 17章はパウロがアテネで福音宣教をしたことが記されています。アテネは古代ギリシヤ文化の中心でしたが、当時もその名残を留めていました。パウロの説教はヘレニズムとヘブライニズムの出会いと言うことで注目されます。まずパウロの反応は町を歩きながら、偶像で満ちていたので憤りを覚えたことから始まっています。

・アレオパゴスでの説教
 さらにパウロはアレオパゴスに連れて行かれて、そこで弁明する機会が与えられています。彼は巧みに接点を持ちながら語ります。第1に「宗教心」、さらに「知られない神に」という祭壇を取り上げています。どの民族も宗教心を持っていても、それが腐敗しているので神を明確に見いだすことはできません。ただ未知の神にあこがれるだけというのが現状なのです。

・悔い改めと裁き
 そこでパウロは、明確に、天地創造の唯一神を示し、石や金属で造られた偶像神から離れるように促します。それは、もはや猶予の期間は過ぎて、神は諸民族に悔い改めを奨励しておられるからです。さらに「ひとりの人」を遣わして、その方を基準として、最後の審判がなされることを予告します。
 人々は、死者の復活のことを聞いたときにあざ笑い離れていきますが、神によって心照らされた人々は信仰にはいります。ここでも福音は「神を見ることのみを願う人々にとっては、十分な光があり、反対の気持ちを持っている人々にとっては、十分な暗さがある」は真実でした。

2018/10/7 使徒の働き17:1~15 テサロニケ宣教


・テサロニケへ
 パウロはピリピから、エグナティア街道にそって、160キロ程西のテサロニケに向かいます。この町は、マケドニヤの州都で、56万の人口を擁し、当時としては大きな町でした。この町にはユダヤ人会堂があり、そこでユダヤ人と異邦人求道者に福音を語るために向かったのです。

・聖書に基づいて論じ
 パウロの語り方について「聖書に基づいて論じた」とあります。ユダヤ人や異邦人求道者は旧約聖書を知っており、そこを福音宣教の基点としています。「論じた」とありますが、それは相手の質問や意見に対して、丁寧に対応して、イエスの福音を旧約聖書全体の理屈に合う首尾一貫した教えとして示したということです。
 「説明し、また論証した」とあります。イエスの御業とご人格を聖書全巻から、分かりやすく語り、明々白々たる真理であることを丁寧に示したということです。

・「よくわかって」
 パウロの語ることに、しっかりと耳を傾けた人々は「よくわかって」、イエスこそキリストと受け入れます。このことは、この後の宣教地ベレヤでも同じでした。「非常に熱心にみ言葉を聞き…聖書を調べた」とあります。その結果「多くの者が信仰にはいった」のです。
 福音宣教を通して、神の民と敵対者が分離されるのですが、それは聞く姿勢によってであることが分かります。

2018/9/30 召天者記念礼拝 「復活の証人」 マルコ12:18~27


・生ける神
 主イエスはサドカイ人たちとの復活論争において、出エジプト記3章をとおして、神がどのようなお方であるか示しています。
 そこではモーセが羊飼い時代にシナイ山に赴いたときに不思議な光景を目撃したことが記されています。「火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった 」とあります。つまり神は常に生きておられる方であることです。

・生きている者の神
 しかしまた、ここでは神のもう一つのご性格が啓示されています。「神がその燃える柴の中から語りかけて『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』 」とあります。このことばは、神が民との関係をもけっして絶えさせることがない方であることを示されまています。主イエスはこの言葉を引用して、死者の復活の証明としています。つまり「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」とあるとおりです。神は信仰によって御民とした者をいつまでも覚えておられて、必ず復活に至らせるということです。

・復活の証人
 私たちの教会の召天者たちも、見える形ではその姿を見ることができませんが、神に覚えられ、神と共に生きている人々です。真実な神は、主イエスによって、その約束の通り新しい肉体の復活に至らせてくださるのです。そこで召天者たちは、私たちにとって、復活の証人として、声なき声で証し続けています。