2013/5/26 ヨハネ福音書1:29~31 見よ、神の小羊

・「見よ」
 ヨハネは「見よ」と言って、人々に対して神の世界に心の目を向けて、その世界を知るようにと促しています。
  ヨハネは常人とは異なり、神の眼差しで世界を見る賜物を受けていました。それで「見よ」と言って、他の人々も彼と同じように、彼が見ていた霊的世界を知るように促しているのです。

 ・神の義と人の罪
  ヨハネが与えられていた神の眼差しとは、第1に、御言葉と聖霊に照らされて、神の義と聖を知らされていたと言うことです。第2には、世、すなわちすべての人間が深刻な罪の中にあることを知っていたことです。第3には、罪人である人間が、確実に裁かれる存在であることです。

・世の罪を取り除く神の小羊
  また、彼はそれらをバックグランドにしてイエス・キリストを見いだしました。イエスは表面的には、常人であり、際だった姿ではありませんでした。しかし、ヨハネはイエスが「世の罪を取り除く神の小羊」であることを知りました。それはすべて聖霊の導きにより、聖霊によってよく「見た」からです。

 ・信仰生活で「見る」こ
と  「見る」ことは大切なことであり、よく「見る」ことによって対象を深く洞察できるのです。それはイエスについても同じです。つまり、私たちが毎日、聖書を読むことで、また現実の罪の狭間で、「イエスを見る」時に、私のための「神の小羊」としての姿が際だつのです。

2013/5/19 ヨハネ1:19~24 荒野で叫ぶ者の声

・バプテスマのヨハネ
  バプテスマのヨハネはイエス・キリスト到来の先駆けとなって、荒野で悔い改めのバプテスマを説いた人物です。
 彼の人気は大きく、人々に「キリストかも?」と待望されていました。しかし彼自身は自分の使命を明瞭に認識し、きっぱりと「私はキリストではありません」と言明しました。

 ・荒野で叫ぶ者の声
  また自分の使命は「「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声」であると語ります。つまりキリスト到来の準備のために、人々の心を悔い改めに導き、待望心を持たせる役目であるということです。自分自身は何ら実体はなく、ただ人々を促す「声」であるということです。

 ・あの方は盛んに、私は衰え
  「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」ちょうど、花婿の友人が花婿到来の際に退く情景です。そのようにして、花婿と花嫁はめでたく出会います。
  バプテスマのヨハネは、自分の弟子たちの前で、イエス・キリストの栄光を示し、自分を衰えさせました。事実、歴史もその方向に動きます。

 ・私たちの心の内でも
  私たちの周囲には色々な人々がおり、色々な形で「私」に影響を与えています。また「私」自身もその人々に対して依存しています。
  しかし神の御心は、その人々は手段であって、彼らを通して「私」がキリストと出会うことを願っておられます。そこで「私」自身も、祈りの中で人から離れ、ただ「キリスト」を第1とする信仰姿勢を確立して行くことが大切です。

2013/5/12 Ⅰコリント13:4~13 シャクナゲ色の母の愛

・シャクナゲ色の母の愛
  母の日の頃、シャクナゲの花が咲きます。薄紅色の花は、母の愛の優しさ、親しみ、美しさにピッタシだと常々思います。
  母の愛が良い色に染まっていくためには、日頃の労苦が付きものです。「愛は寛容であり、愛は親切で…」とありますが、これらの愛は決して楽ではありません。自分が砕かれるのと比例して、私たちの内に生じるのです。

 ・永遠の愛の色
 母の愛が、キリストの愛によって深められ、純化されるときに、その愛もまた「決して絶えることがありません」。
  現代の母は、色々な能力や知識が要求されるのですが、子どもとの間で育まれる愛ほど、価値あるものはありません。地上の賜物も、能力も、財産もすべて廃れていく中で、愛のみは「絶えることはない」のです。

 ・ある母の愛
  東日本大震災のおりに、ダウン症の孫を助けて、自らは津波にながされた女性がいました。孫が車に乗るのを見届けてから、名を呼んで「バンザイ、バンザイ」と叫んだそうです。
  ダウン症の子の母は、後でその話を聞かされました。初めは、父を責め、ダウン症の子どもを生んだことを悔やんでいました。しかし、孫を助けるために自分の生命を捨てた母の愛、また愛の中で生かされている子どもの柔和な笑顔を見ているうちに、少しずつ心の傷が癒されたということです。
  キリスト者の母の場合は、何よりもキリストの愛によって、愛が強められ、深まるのです。

2013/5/5 ヨハネ福音書1:18 父のふところにおられるひとり子の神

・神を見た者はいない
  「宗教の種」とは、人間には生まれながら神を求める心があるという意味です。しかしその「宗教の種」は腐っていて、完全に神の姿を創り出すことができないのです。
  そこで神は旧約時代から1つの民族を通してご自身の啓示を与えられました。それでも、神についての片鱗にすぎず、直接に「神を見た者はいない」のです。

 ・父のふところのひとり子の神が
  「ひとり子の神」とは、胎内から生まれたと言うよりも、父を起源として生まれたひとりの神という意味です。父の神と同質なので、父を十二分に受け止めることができます。
 「ふところにおられる」とは、最も親密に、最も愛の中におかれている状態を表します。そのようにして父を直接に知っていたのです。

 ・最後で完全な「説き明かし」
  「ひとり子の神」が地上に来られたのは、「神を解き明かす」ためです。それは、ご自分の一切をさらけ出し、生涯の業を通してなされました。また弟子たちと個人的に交わりながら、あらゆる機会を捉えて「説き明かした」のです。
  彼の「説き明かし」だけが、完全であり、最後の説き明かしです。その他は、偽りであり、誤りです。

 ・イエスの元で神を知る
  私たちが「ひとり子」の説き明かしを受けるためには、私たち自身も子と同じように「父のふところ」に飛び込み、留まることが大切です。そのときに、子を通して、父の愛を受け、父の御姿がクッキリと心に刻まれるのです。

2013/4/28 ヨハネ1:14~17 ひとり子の栄光

・「ことば」は人となって
  「ことば」は神であるのに、人の姿を取られました。そして「私たちの間に住み」ました。つまり約二千年前のユダヤで誕生し、ガリラヤのナザレでヨセフとマリヤの子として育ちました。  この地上での具体的な生涯を通して、彼の神としてのご人格と業が明瞭に示されました。

 ・ひとり子の栄光
 彼は「父のみ元から来られたひとり子としての栄光」を現されたのですが、それは「恵みとまこと」でした。これらは、旧約以来、神のご性質して啓示されてきましたが、彼において完全に現されたのです。つまりは、神であるのに人となられたこと、十字架の死にまでも至られたということにおいてです。

 ・「恵みの上に恵み」を受けた
  福音書記者は、イエスに愛された弟子でしたから、その豊かさを良く知り、また「恵みの上に恵みを受けた」と証言しています。しかし、それは彼だけではなく、すべての時代のすべての人が受けることができます。彼を信じるときに、大海のような恵みがやって来るのです。

 ・「恵み」を見いだす
  そこで、私たちは他の何ものでもなく、まず第一に福音に向かうべきです。そこにイエスが啓示されており、彼と出会うことができます。さらに、彼の内にある「まことと恵み」をいただくことができるのです。その恵みのみが、私たちにとって益となるものであり、私たちを生かすのです。