2018/1/28 使徒の働き2:1~13 聖霊がくだる



・五旬節(ペンテコステ)
 「五旬節」とは過越の祭りから50日目の祭りで、旧約ではモーセが律法を受けた日とされています。弟子たちは主イエスの命令通りにエルサレムに留まり「一つの所に」集まっていました。彼らはみ言葉を聞き、祈り、賛美する集団でした。この集まりは教会の原型といえます。そして教会にはいつの時代にも、キリストの恵みの約束が実現します。

・聖霊がくだる
 聖霊は突然、彼らに下りました。「天から、激しい風が吹いてくるような響き」「炎のような分かれた舌が…ひとりひとりの上にとどまった」とあります。誰も疑うことがないように、聴覚的に視覚的に明瞭に分かるように聖霊がくだったのです。

・聖霊に満たされて
「みなが聖霊に満たされて」とあります。信じ、集った「みな」が満たされたのです。彼らはそれぞれが導かれた言語で神をたたえ、キリストを証ししたようです。それは聖霊によって全民族が神によって受け入れられて福音が提供されたことを示します。また聖霊は一人一人の内に働いて、志を立てさせて、その人ならではの証しを委ねられたことを意味します。
 そのことはまた、現代の私たちの内にも聖霊が下って満ちており、一人一人をキリストの証しに召しておられることを意味します。

2018/1/21 使徒の働き1:6~13 教会と証し



・神の国とは?
 弟子たちは主イエスに対して、イスラエルの国を再興することについて問うています。彼らはイエスによって神の国が創設されることを信じていたのですが、それは目に見える王国で、地の国のように力と敵意によって創られると考えていたのです。主イエスが地上に留まっているかぎり、弟子たちは誤りから解放されることがなかったのです。

・聖霊と神の国
 そこで主イエスは「聖霊が望まれるとき」に神の国が地上にもたらされることを約束します。聖霊は目に見えない神で、父と子の神から送られる方です。その時に、人は正しく神のことばを理解し、新しい人に創り変えられます。「力を受けます」とはみことばの理解の力と証しの力ということです。肉的な人ではなく、聖霊によって真実の神の国を創ることができるのです。

・教会と証し
「…地の果てまでわたしの証人」とあります。「証人」とは見たこと、体験したことをそのまま証しする人のことです。ですから、「キリストの証人」とはキリストと御業をそのまま証しする人のことです。教会はキリストを証しする群れであり、その証しによる神の国です。
 世の中には色々な集団や団体がありますが、教会は、力や敵意によるのではなく、ただキリストの証しと愛と和解の務めを担い、神の国の働きを担うのです。

2018/1/14 使徒の働き1:1~~5 キリストの証人ABC



・使徒の働きと著者
 使徒の働きの著者は、ギリシャ人の医者ルカです。彼は福音書においてイエス・キリストの「行いの始め」について書き、使徒の働きでは、その後のことを記しています。

・キリストの証人…目撃と聖書
 「イエスは…四十日の間、彼らに現わて、神の国のことを語りご自分が生きていることを使徒たちに示された」とあります。弟子たちが肉眼で見、聖書全体からキリストの復活を確信するように訓練したのです。

・聖霊のバプテスマ
 主イエスは聖霊のバプテスマについても語っています。ヨハネのバプテスマは「悔い改めと洗い」のしるしの儀式でした。「聖霊のバプテスマ」は単なる儀式ではなく、聖霊が罪を焼き尽くし、その人をまったく新しい人に変革する出来事です。それはキリストの復活を信じた人々に約束された霊でした。

・キリストの証人ABC
 最初の弟子たちは、このようにキリストの証人としてのABCによって訓練されて、やがて大々的な宣教活動を繰り広げることになります。私たちの場合は、キリストを肉眼で見ることはできません。しかし聖書と信仰生活から復活について確信を強め、心の目でキリストを見る経験をつんできました。すべてキリストの証人としてのABCの訓練でした。今は、さらなる聖霊の満たしを待ち望むだけです。

2018/1/7 イザヤ40:27~31 新しい力を得て



・主を見上げる
 私たちは、つい失望したり、つぶやいたりすることがあります。そのようなときにはいつの場合にも、近視眼的に物事を見ているときです。そのようなとき、視線をかえて主を見上げることが大切です。主を見るとき、主について聞くとき、私たちはいつの場合でも、まったく別の世界に招き入れられます。

・永遠の神
 「主は永遠の神、地の果てまで創造された方」とあります。「永遠の神」いつの時代にも、どこにいっても神であるということです。神にとって隠れているところはなく、その力がおよばない部分はありません。しかも「疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける」とあります。神はいつの時にも、「疲れた者」「精力のない者」小さな者、貧しい者たちに力を与える神として厳として存在します。

・新しい力を得て
主を待ち望む者は新しく力を得」とあります。主なる神を待ち望むことは信仰者の基本姿勢です。その姿勢さえ保てば、新しい力を得ることができ、そこからスタートするのです。
 「鷲のように」とありますが、神がくださる生命力は野生の中に見いだすこともできます。鷲はじっと待ち望むことによって、前よりも優れた新しい翼を獲得します。それによって勢いよく、気流をとらえて舞い上がることができるのです。

2017/12/28 詩篇146編 主をほめたたえて



・主をほめたたえよ
 「ハレルヤ」の「ハレル」とは「ほめたたえる」「ヤ」は「ヤーウェ/主」を短縮したことばです。さらに「主をほめたたえよ」と、同じ命令がくり返されています。それは強い呼びかけと言うことです。「私のたましい」とは「私の中心」です。また「わたしは生きているかぎり、主をほめたたえよう」と、人生のすべてで主なる神をほめたたえ、賛美する決意を表しています。

・人間に頼ってはならない
 「君主たち」とは力と能力ある者たち、さらに私たちの場合は国家ということになります。それは万能で「ゆりかごから墓場まで」私たちの福祉を支えてくれるという錯覚がありますが、人間が作った者であるかぎり脆いのです。また家族や友人でも人間であるかぎり依存しきることはできません。そこから失望、恨み、つぶやき、ねたみの悪も起こってくるのです。

・主をほめたたえて
 さらに詩人は、「主に望みを置く」幸いについて語っています。主なる神だけが、私たち小さい者に目を留めて、恵み、支え、救ってくださるからです。
 世の中では、大晦日に大掃除をし、また除夜の鐘を聞きながら煩悩を取り去るということを言います。しかし私たち神の民は、主なる神以外の誇りや執着を除き去り、ただ主のみを賛美することで心を満たすべきです。初めも「主をほめたたえよ」と始まり、終わりも「主をほめたたえよ」でというのが神の民の生のスタイルです。