2022/12/25 ルカ福音書2:8~20  天に栄光 地に平和

 ・喜びの知らせと主の栄光
 キリスト誕生の知らせは、主の使いによって野の羊飼いたちに伝えられました。彼らが夜番で羊の群れを見守っていた時「主の栄光が回りを照らした」とあります。
 「主の栄光」とは、神の圧倒的に優れた存在と御性質です。それが降誕の「喜びの知らせ」を携える御使いととにも地上で輝いたのです。

・天に栄光 地に平和
「いと高き所に、栄光が」「地の上に、平和が」 とは、御使いと共に現れた天の軍勢の賛美です。これらもまた御子の誕生によって、天からもたらされた祝福とその輝きです。御子は神の栄光をさらに輝かし、地上において永遠の平和を実現させるのです。

・私たちの内なる栄光と平和
 羊飼いたちは、御使いらと共に現れた天の輝きに恐れ驚きましたが、なおそれらは彼らの外側の現象でした。それが心のうちに刻まれたのは、御告げに従って御子キリストを捜し出し、受け入れたときです。そのとき彼らも、御使いたちのように「神をあがめ、賛美した」のです。

 私たちの前にも、同じ「喜びの知らせ」が提供されています。それが外側にあるだけなら、何の意味もありません。それを心から信じて、御子キリストに出会うとき、私たちのうちにも天の栄光、地の平和」が訪れるのです。

2022/12/18 ルカ福音書1:46~55 マリヤの讃歌

・マリヤの讃歌
 マリヤはエリザベツと出会ったときに、聖霊に満たされて神を賛美しています。いわゆるマリヤの讃歌です。彼女は「魂は主をあがめ…霊は…神を喜びたたえ」と全人的に神をたたえています。
 ルッターは、人間の体を神殿にたとえ、魂は聖所、霊は至聖所と語りました。マリヤは、その一切を神賛美で満たされている状態です。

・大きなこと
 その理由について「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったから」と証ししています。つまり「力ある方が、私に大きなことを」とは、キリスト受胎のことであることを告白しています。神が人の胎に宿るという奇跡は、地上の誰も体験することがない栄誉であり、あわれみの極致ですから、マリヤの霊と魂と体全体が賛美に満たされるのは無理もありません。

・主のあわれみは代々に
 マリヤは、自分のあわれみの体験は「主を恐れかしこむ者に、代々に及びます」と証ししています。つまり、キリスト誕生とともに神の国が出現し、世とは真逆の正義と審判が実現するということです。
 私たちはマリヤのように胎にキリストを宿すことはないのですが、キリストの霊が宿る神の宮とされています。この霊的事実を覚え、マリヤとともに霊と魂と体全体をもって、神を賛美しましょう。
 

2022/12/11 イザヤ9:1~7 ひとりのみどりご

・闇の中の光
 「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。」
 イザヤはBC700年ころの悲惨な時代に、未来のキリスト預言をしています。「やみ」とは、戦争、破壊、罪、死、そして悲惨と絶望が支配している時代のことです。いつの時代にも、「やみ」を「やみ」として知る者たちに「光」が照るのです。「光」とは救いであり、それに伴う二重、三重の「喜び」です。

・ひとりのみどりご
 「ひとりのみどりごが、私たちのために生れる。」
 イザヤの預言の中心は「ひとりのみどりご」です。アダム以来の罪と死の支配から人間を救い出すキリストのことです。彼は、世の誰か権力者、有力者のためのではなく、貧しい「私たちのため」の救済者です。
・不思議な助言者、力ある神…
「その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」」
 彼は赤ちゃんであり、ただの人間の姿を持って生まれますが、その名は想像を遥かに超えたものです。「不思議な助言者」とは、不思議なほどにすばらしい道を示す方ということです。「力ある神」とは、神としての無限の力で一切の敵からの救済者となるということ、「永遠の父」とは、永遠に信頼できる方ということ、「平和の君」とは、神と人、人と人の平和を司る主権者という意味です。
 私たちの肉の目には、いつでも「みどりご」は、小さく、無力な存在としてしか映りません。ただ信仰の目によってのみ、彼が宿す「大きな光」を見、「私たちのため」の救い主として「喜び」の中に入れられるのです。
 

2022/12/04 Ⅰコリント3:10~17 聖なる神殿

 ・キリストが土台
 パウロは教会を建物に例え、自分が「土台を据えた」と語っています。それは使徒としての使命かつ権利でした。その「その土台とはイエス・キリスト」とありますが、それは福音の真理と言い換えることができます。
「そして、他の人がその上に家を建て」とあります。 土台があっても、その上に家が自動的にたつのではなく、各時代に働き人らの説教と牧会により、また教会メンバーの奉仕によって目に見える形で建てられていくのです。

・建物と材質
 「この土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら」とあります。「金、銀、宝石」とは、神の知恵と御霊に属する人たちが用いる尊い材質です。「木、草、わら」は人間の知恵が混在した建て方、肉に属する人たちが用いた材質です。それらは人の目には、区別が付きませんが、神の審判の「日」に火の試練によって顕わにされます。

・聖なる神殿
「あなたがたは神の神殿…御霊が…宿って」とあります。旧約時代はエルサレムに神殿があり、そこに神の臨在があるとされていました。しかし旧約時代はすべて雛形で、本体は新約時代に顕わにされました。ただ教会のメンバーには、聖なる神の神殿との自覚がない場合が多いので、警告を与えているのです。
 私たちの教会もまた、聖なる神の神殿としてこの地に建てられています。すでに据えられている土台の上に、恐れと愛をもって、良い材質の教会を建てていきましょう。

2022/11/27 1コリント3:5~9 成長させたのは神

 ・アポロとは?パウロとは?
 先に「肉に属する人」に対して信仰の成人を「霊に属する人」と表現していました。さらに使徒は「霊に属する人」のものの見方を示しています。
 「アポロとは何…パウロとは何…」とあります。コリント教会の人々は、教師たちを過大視していたので、その真の立場と役割を霊的な視点で見るように促しています。

・成長させたのは神
「私が植えて、アポロが水を注ぎ」とあります。パウロが福音宣教によって教会を植え付け、アポロは水を注いで成長を促したということです。それらも現象だけ見れば大切な役割です。しかし、現象に現れない最も大切な存在者を見失ってはならないということです。「成長させたのは神」ということです。
 さらに「植える者と水を注ぐ者は、一つ」とあります。神は成長させてくださるだけではなく、教会の誕生から成長に至るまで、一切の権利と責任をもっておられる唯一の方です。
 
・あなた方は神の畑、神の建物
 「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑…」とあります。すべて「神の」所有と働きのもとにあるということです。ひとりの神のみが、教会の主であり、働いておられる方であり、報酬と裁きをなす方です。
 私たちもこの神のもとで、植えられ、育てられ、御国での報酬に預かる者たちです。霊的な洞察を明確にして、一人の神のみを恐れ、愛して、一人の神の教会を築いてゆきましょう。  

2022/11/20 Ⅰコリント3:1~4  肉の人と御霊の人

・御霊の人と 肉の人
 パウロは、この箇所で「御霊に属する人」と「肉に属する人」という2つのタイプのクリスチャンについて語っています。「御霊に属する人」とは、福音信仰を通して与えられた御霊がその人の中心的原理となっている人のことです。いわば、大人のクリスチャンです。 
 それに対して「肉に属する人」とは信仰を通して御霊を受けて入るのですが、なおお生まれながらの人のように肉の世界に生きている人のことです。いわば霊的な「幼子」です。

・今でも無理、肉の人
  パウロはコリント宣教したときには、人々は改心して間もなく、世的体質のままだったので、信仰の初歩をしかも平易な語り方で伝えました。「乳を与えて、堅い食物を与えませんでした」とはそのことです。しかし「実は、今でもまだ無理」と手厳しいです。彼ら自身は、自分たちこそ「御霊に属する人」で霊的大人と自認していたのですが、その尊大な鼻を砕いています。「肉に属する人」は、厳しく指摘しなければ気が付かないからです。さらに教会の分派状態も「肉」の結果であることを指摘しています。

・肉の人から御霊の人に
 これは私たちの場合もまったく同様です。私たちもまた信仰を通して御霊を受けているのですが、私たちのうちに働く「肉」の力に翻弄されるのです。そこで自分のうちに働く「肉」の原理を認めて、御霊の人となるべく、「十字架のことば」を真摯に受け止め、御霊の人として絶えず、献身姿勢を保つ必要があるのです。(ローマ8:5~6)

 

2022/11/06 1コリント2:10~13 御霊による啓示

 御霊による啓示
 神の民は「神の知恵」を与えられていますが、それは「御霊によって…啓示」とあります。御霊は旧約聖書では世の終わりに注がれると預言されていましたが、今や、信仰者に与えられています。御霊は、神の霊ですから父の神の「深みにまでおよばれる」とあります。

・神の賜物を知るため
 人間の場合でも、その人の心のうちは、その人自身の「霊」以外には誰も知ることはできません。それと同じように「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」とあります。
 神は、私たちに御霊を与えて下ったのは「賜ったものを、私たちが知るため」とあります。神は私たち一人一人を愛しておられるので、プライベートに神の愛と賜物を知らせようとしておられるのです。

・御霊のことは御霊によって
 「御霊のことばをもって御霊のことを解く」とあります。御霊の領域は人間には到達も介入もできない世界です。ただ神の御霊のことばに従って解釈し、受け取る以外には方法はないのです。
 私たちはすでに「御霊のことば」として聖書が与えられています。ですから聖書を正しく読むことが、御霊のことを解くための基本的手段です。しかし、さらに自分の思いと高ぶりを砕いて、切に導きを求めるときに、御霊は私にとってのキリストを明瞭に心に照らし出します。

2022/10/30 Ⅰコリント2:6~9 神の知恵 キリスト

 ・「成人」の知恵
 パウロは世の知恵を否定しながらも、「成人の間で、知恵を語る」とします。「成人」とは「十字架のことば」を無条件で受け入れる信仰者のことで、「知恵」とは「神の知恵」です。また同じ「知恵」でもやがて廃れる「世の知恵」とは、全く別種の永遠の真理としての知恵であるとしています。
 
・隠された奥義 神の知恵
「隠された奥義」とは、「神の知恵」は新約に至るまで誰にも知られることがなかったことを示しています。また世の人々には完全に隠されている知恵ということです。主イエス・キリストの十字架の出来事は、何よりの証拠です。キリストこそ「神の知恵」であったのに、世の権力者たちがこぞって十字架に押しやったのです。

・神の知恵 キリスト
 最後にパウロは、イザヤの預言を引用して、「神の知恵」は世の人々には、まったく計り知れない知恵であることを示しています。それはただ「神を愛する者のために、神の備えてくださったもの」なのです。
 主イエス・キリストは「神の知恵」「神の奥義」そのもので、私たちの救いとなり、益となるために定められている方です。私たちは、全面的に「神を愛する」姿勢を正して、その方の素晴らしさに目と耳、さらに心を開きたいと願わされます。

2022/10/23 1コリント2:1~5 神の力による信仰

 ・宣教のはじめ
 パウロは宣教のはじめという視点でも、教会の原点を示しています。まず「すぐれた言葉、すぐれた知恵を用いて」を述べ伝えなかったということです。反対に「神のあかし」としてふさわしく「イエス・キリスト…十字架につけられた方の他は、何も知らないことに決心した」とあります。キリストの救いのことのみをしっかりと語ったのです。

・御霊と御力の現れ
 またパウロ自身も、コリント伝道の際に、人間的には「弱く、恐れおののいていた」と証言します。しかし、その分、パウロの宣教のことばには、人間的粉飾はなく、率直でした。そこに「御霊と御力の現われ」があったのです。パウロの霊力などではなく、素朴な福音宣教の結果です。

・神の力による信仰
「人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるため」とあります。信仰のはじめは、また信仰の原点であり、土台です。「神の力」はいつの場合でも、人間の知恵によるのではなく、純粋で素朴な福音宣教を通して働きます。
 このようにしてパウロは、福音を語る者と聞く者の基本姿勢を確認しています。私たちは、神の御霊、神の力を求めますが、それはいつの時代も、巧みなことばや知恵にあるのではなく、ただキリストの福音そのものによるのです。

2022/10/16 Ⅰコリント1:26~31 主にあって誇れ

・信仰の原点…召し
 互いに分派を作っていたコリント教会の人々に対して、パウロは「あなたがの召しのことを考えて」と語りかけています。「召し」とは、神に呼ばれて救いに入れられたことで、その時の状態を思い起こすようにということです。
「この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく…」と、彼らの多くは社会的に、決して優れた者たちではなかったのです。「世の知者」であった場合でも、「召し」はその知恵の愚かさと虚しさを知らされた時だったのです。その信仰のはじめは同時に、信仰姿勢の原点です。

・だれをも誇らせない
「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」とあります。神の「召し」と「選び」の目的が示されています。
 さらに「神の御前でだれをも誇らせないため」とあります。「だれでも」は、直訳「すべての肉」です。あえて人間を「肉」と表現して、神との区別を明確にしています。創造者に対して、被造物は誇ってはならないのです。誇ることは、罪の闇を深めるだけです。

・誇る者は主にあって誇れ
「誇る者は主にあって誇れ」とエレミヤ書が引用されています。エレミヤは「新しい契約」の預言をしましたが、それがキリストにあって成就したことが明言されています。新しい契約の祝福は、ただ「キリストにあって誇る」人々の中で、顕わにされるのです。  
 

2022/10/9 1コリント1:18~25 十字架のことば

 ・十字架のことば
 「十字架ことば」とは、福音のことです。世の多くの者たちは「キリストが十字架にかかった」との内容に躓き、「愚か」と断じて滅びにとどまります。しかし「十字架のことば」は、神によって、心開かれて信じるに至った私たちにとっては「神の力」として、罪をきよめ、新しい生命を作り出します。

・宣教のことば
「知恵ある者の知恵を滅ぼし」とイザヤ書の預言を引用して、聖書に一貫した神のお取り扱いを示しています。 神の前では、いつの場合でも、知者の知恵は滅ぼされ、賢者は愚かとされるのです。
「十字架のことばの愚かさ」が「宣教のことばの愚かさ」21と言い換えられています。「宣教のことば」とは神の救いの公布ということです。それは人間の知恵も努力も必要なく、世の知者には「愚か」とみなされます。しかしそこに世の知者を退ける神の知恵があります。

・キリストは神の力
「十字架のことば」「宣教のことば」の愚かさによって提示されるのは「キリスト」です。キリストは十字架につけられ、全世界に宣教されている神の救いそのものです。どの国民にとっても躓き、愚かとみなされるのですが、召された者たちには、そこに神の力と知恵が顕わにされるのです。
 召された私たちは、ただ世の知恵を排してキリストによってのみ教会を作るのです。

2022/10/2 Ⅰコリント1:10~17 教会の一致

 ・教会の一致
「みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保って」とあります。キリスト信者はキリストにあって兄弟姉妹どうしであり、霊的に1つのもとされており、それゆえに具体的な形で一致を作り保っていくようにとの勧めです。この「教会の一致」の勧めは、ヨハネ福音書17章で主イエスご自身が切に祈っているテーマです。

・キリストが分割されてはならない
 ところがコリント教会では、際立った形で一致が失われ、互いのグループが対立している状態でした。
「私はパウロに…私はアポロに……私はケパに…私はキリストに」といった状態でした。
 そこでパウロは福音は、そのままキリストの体としての教会の中で実践されなければならいことを示します。ですから、教会の分裂は「キリストを分割する」というような冒涜的行為であることを示して諌めています。

・十字架がむなしくならないため
「キリストの十字架がむなしくならないために」とあります。キリストの福音は、いわゆる十字架の性質を持っており、まずは人間的知恵や誇りが砕かれてから、そのまま純粋に据えられる神の真理です。人間の知恵、誇りによって歪曲されて受け取られたのでは「十字架がむなしく」なるのです。
 これは、コリント教会だけではなく、私たちの教会も、深く探られなければならない点です。

2022/9/25 召天者記念礼拝 詩篇90篇 神の人モーセの祈り

 ・永遠の住まい
 詩人は神に対して「私たちの住まい」と告白しています。住まいとは安全と養いと平安の場であり、ただ神を「住まい」として、そこ身を避けることは、私たちの地上での幸いの秘訣です。私たちの神は、天地創造の神であり、世界の力、権威、原理の上にある方であり、全てにまさる真の神だからです。

・ 外の世界
 他方「住まい」の外では、神の厳しい世界が展開しています。「あなたは人をちりに帰らせて」とあるように、アダムの子孫としての現実です。さらに「あなたの御怒りによって消えうせ」と、罪人としての宿命もあります。それは一般的にそうであるということだけではなく、私たち一人一人の「不義」と「秘めごと」を神は知り、その結果としての裁きを下すのです。

・知恵の心
「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」とあります。絶対者である神のもとにある人間の現実をよく覚えて、それにふさわしく毎日を過ごす術を求めております。また「知恵の心」とは、圧倒的絶対者のもとで恵みを抱いて生きる「知恵の心」ということです。
 本日は、召天者のことを覚えるとともに、地上における人間の生涯を振り返るときです。共にみ言葉と聖霊により「知恵の心」を獲得しましょう。

2022/9/18 Ⅰコリント1:4~9 キリストとの交わり…教会

 ・キリストにある言葉と知恵
 パウロはコリント教会に与えられた神の恵みを感謝しています。具体的には福音を通して、神とキリストについての言葉と知識が豊かになったことでした。人間の集団は言葉と知識によって独自性を作っていきます。教会はキリストにある言葉と知識で世の言葉と知識と区別された信仰集団です。それが世にあって聖いということです。

・キリストにある賜物と待望
「キリストについてのあかし」とは福音のことです。福音による恵みはさらに霊的な賜物という形で具現化されていきます。預言の賜物、癒やしの賜物、治める賜物など教会には色々な賜物が現れてきます。それによって他者の徳を建て上げ、教会を形成することになります。教会の成長には、この賜物がさらに豊かにされていくことが大切です。
「熱心に…キリストの現れを待って」とは、再臨待望です。教会はこの世に凛として建てられ、さらに永遠の希望を灯す群れです。

・キリストとの交わり
最後に「…キリストとの交わりに入れられ」とあります。 これも福音による神の恵みです。交わりとはコイノニアですが、愛による深い交わりを意味します。教会は地上に存在するのですが、霊的にキリストの愛に深く結び付けられているのです。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛」とありますが、教会はまさしく永遠のもとに置かれています。

2022/9/11 Ⅰコリント1:1~3  コリントにある神の教会

・使徒パウロ
「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召された 」とパウロは手紙の前文で自己紹介をします。使徒とは、そのキリストによって公式に派遣された者たちのことで、パウロは最後に加えられた異邦人の使徒でした。キリスト教会の主はキリストご自身ですが、具体的にはこの使徒によって建て上げられるべき群れです。
 
・コリントにある神の教会
 コリント教会はパウロの第2次伝道旅行の際に建てられました。商業都市であり、かつ古代の伝統を持つ都市でしたから、その後、教会にも様々な背景を持つ人々が加わっており、また様々な問題を抱えていました。しかしパウロは教会の基本的姿として「神の教会」「キリストにあって聖なるものとされた」と語っています。さらに「聖徒として召され」とあります。ちょうど出エジプトの民のように神による贖いを受けた後に神の民、聖徒として、実際的に整えられて、約束の地に召されているのと同じです。そして新約こそ真の出エジプトで、世界のそれぞれの教会は、共に1つの集団として、終わりの日に向かうのです。

・恵みと平安
 恵みと平安は、ただ神の元にあるもので、それによって群れは危害から守られ、絶対的な祝福に預かります。ちょうど荒野の民とともにあった「火の柱、雲の柱」のようです。
 

2022/09/04 ルカ福音書22:54~62 ペテロの否認

・ペテロの否認
 役人たちは主イエスを捕縛した後に、大祭司の家に連れ行きました。ペテロは遠く離れて後をついていき、人々の中に紛れて、焚き火の周りに腰を下ろしていました。
 すると女中がペテロを見つけて「この人も、イエスといっしょにいました」 と証言します。それに対してペテロは打ち消して言います。「…私はあの人を知りません。」女中さんだから、軽く言い逃れできると考えたのです。

・ 二、三回目の否認と鶏鳴
 しばらくしてほかの男が「あなたも、彼らの仲間だ」と語った時、ペテロは、なかば本気に「「いや、違います」と自分とイエスの関わりを否定します。三人目が来て、より断定的に語ります。「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」それに対してペテロは「あなたの言うことは私にはわかりません」と徹底して、自分とイエスの関わりを否認するのです。

・罪認識と真の救い
「彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた」とあります。それと同時に、ペテロは主イエスの予告を思い出して、明確に自分の肉の弱さと罪深さを認識しました。「外に出て、激しく泣いた」とは、その現れでした。しかし彼は、その体験を通して、自分の贖い主としてのキリストを明確に知ることになったのです。
 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 」 Ⅰヨハネ4:10
 

2022/8/14 ルカ福音書22:31~38 イエスの執りなし

 ・サタンの試み
 「シモン、シモン」と主イエスはペテロの元の名を呼んで、サタンの試みについて予告しています。彼は第1の弟子との自覚を持っていましたが、なおその信仰は肉的側面が多かったのです。
「サタンが…ふるいにかけることを願って聞き届けられ」とあります。これまで彼らは主イエスの恵みのバリヤーのもとにあったのですが、一時的にそれがることを神があえて許されたということです。不可解ですが、試みの中で人は、より真実な信仰を宿すからです。

・イエスの執りなし
「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈り」とあります。主イエスの執りなしの祈りはサタンの訴えよりも優先されます。そして主イエスの恵みは、試みの中で、より深く作用するのです。そもそも主イエスの苦しみと十字架の死は、私たちの大祭司となるためのみ業でもあったからです。

・兄弟たちを力づけるため
「だから…立ち直ったら、兄弟たちを力づけて」とあります。先に、キリストの執りなしとあわれみを受けた者は、自分でも、人を思いやる賜物を獲得することになります。その賜物で、兄弟たちを力づけることが使命であるということです。
 私たちの時代でも、サタンの試みがありますが、その中でも主イエスの執りなしとあわれみは最強です。それによって立ち直った者たちは、他の兄弟たちを力づける使命を担っているのです。

2022/8/7 ルカ福音書22:24~30 神の国のリーダー像

 ・だれが一番?
 「この中でだれが一番偉い?」とあります。主イエスの弟子たちはもうすぐ神の国が実現すると思い、そのときに、自分たちの中でだれが一番優れていて、リーダーとなるのにふさわしいかという論議していたのです。
 主イエスは「だれが一番偉い」という論議自体を否定することなく、まずは、神の国のリーダーは、この世の王たちやリーダーたちとは、異なることを明確にします。

・神の国のリーダー像
 次に神の国のリーダー像について語ります。「一番偉い人は一番年の若い者のように」「治める人は仕える人のように」と。「仕える」とは、自分を低くして他の人の必要に応えるということです。
 主イエスは、ご自分のリーダーとしての本質は、それであったことを示すために、この食事の席であえて腰に手ぬぐいを下げて、弟子たちの足を洗っていたのです。

・神の国の王権
 「あなたがたに王権を与えます」とあります。 主イエスが父の神から受けた王権を、使徒たちもまた主イエスとともに受けるということです。その権威は、今の時代でも、隠れているのですが、たしかに聖霊によって現れるのです。
「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」Ⅱテモテ2:12とあるとおりです。

2022/7/31 ルカ福音書22:7~22 過越の食事

・過越の食事
 主イエスは弟子たちに過越の食事の準備をさせましたが、弟子たちが行ってみると神によって聖別された客間が用意されていました。
 主イエスはその過越の食事を切望していた事を証し、それが十字架前の最後の食事であること、また未来の神の国での再会を約束する食事であることを示します。

・主の聖餐
 主イエスが次に示されたのは、主の聖餐でした。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだ」とみ言葉を語ってから、パンを弟子たちに与えています。ここに十字架と復活という御業の意味が明確にされ、霊的に提供されています。
 「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約」とあります。ブドウの杯も、み言葉とともに与えられています。それはパンの場合と同様、見えるみ言葉として提供されています。「新しい契約」とは、律法による旧約ではなく、キリストによる恵みの契約ということです。

・信仰が大切
 この聖餐について、カトリック教会では、キリストの体と血が化体したもので、キリストそのものとします。そこでは信仰は軽視され、霊的な意味も失われがちです。
 聖書では、パンとブドウの杯は、あくまでも象徴で、それを信仰によって受けることが大切であることを強調しています。信仰によらなければ、ユダのように滅ぶのです。
 

2022/7/24  ルカ福音書22:1~6  ユダの裏切りとサタン

・過ぎ越しの祭前に
 「過ぎ越しの祭」「種なしパンの祝い」とは、出エジプトを記念した祭りで、将来の真の出エジプトを待望するためのものでもありました。それはキリストによって実現するのですが、誰も予想できない形で進行します。

・ユダの裏切りとサタン
 「イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった」とあります。彼は12弟子の一人で主イエスが祈りつつ選んだ者たちの一人でした。しかしそのような人物に、サタンが入ったのです。
 聖書では悪の中心的存在をサタン、あるいは悪魔と表現しています。ルカの福音書では後半部でこの名称が用いられています。サタンとは霊的な存在で、肉体をもつ人間に絶大な力で作用し、支配しようとします。そして、神の救いの業にことごとく敵対します。

・藍より出て藍よりも青
 「彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした…」。ユダはサタンに駆り立てられて、祭司長らに金銭でイエスを売ります。その結果、弟子集団は内部から崩壊し、主イエスは十字架の死に貶められていきます。
 しかしサタンの勝利はつかの間で、かえって試みを通して、滅ぶべきものは滅びの色を濃くし、信仰を保つ者は、新しい救いの生命を濃くするのです。Ⅰペテロ5:10「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者と」とあります。
 

2022/7/17 ルカ福音書21:20~36 油断せずに祈る

 ・エルサレム滅亡の預言
 主イエスはエルサレム滅亡について預言し「そのとき…山へ逃げなさい 」と語ります。実際にAD70年にエルサレムはローマ軍によって包囲されて陥落し、神殿も破壊されます。そのときにキリスト者たちはこの警告に従って近くの町に逃れました。

・キリスト再臨
 主イエスはさらに世の終わりに現れる天変地異の前兆について触れます。「諸国の民は…不安に陥って悩み…恐ろしさのあまり気を失い」とあります。しかしそのときこそ、キリスト再臨と贖いの完成という希望の時となります。「からだをまっすぐにし、あなたがたの頭を上に上げ」とは、文字通りのスタイルを取るというより、強い希望を抱くべきことを示しています。

・油断せずに祈る
 「放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んで」とありますが、キリスト者であっても、世との関わりが強くなるときに、霊的に眠り、このような危機的状態となります。
 そこで「いつも油断せずに祈っていなさい」とあります。「油断せずに」とは、夜番の歩哨が眠らないでいることを意味する言葉です。ちょうどそのように、世の楽しみや煩い事にとらわれて、霊的に眠らないようにということです。
 「祈り」とは、神を怖れて信じ、期待するという、霊の営みです。私たちは「祈り」によって、世の眠りから免れて、再臨待望の灯火を保つことができるのです。

2022/7/10 ルカ福音書21:5~19 時の終わりに

・神殿を前にして
「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると」感嘆していた人々に対して主イエスは、その破壊されることを予告します。そして真の信仰は、目に見える神殿に依存するような形式的なものではないことを示し、さらに目まぐるしく変遷する時代の中で、内なる確信として培われていくことをしめします。

・時の終わりに…信仰の確立と証
 時の終わりは、すぐに来るわけではなく、それまでに様々な困難がやってきます。偽キリストによる惑わしがその一つです。彼らは人々がパニック状態のときに現れてきますが、その際に、キリスト者は何が真理であるかを判別して、そこにしっかりと立つ必要があります。
 また迫害の時があり、人々は偶像や世の流れに染まるように強制します。そうしたときに、キリスト者は聖霊に励まされて、証をすることで、自分の心の内に不動の信仰を養っていきます。

・世の終わりに…忍耐
 キリスト者の困難は、一時のものではないので忍耐が要請されます。信仰にしっかりと踏みとどまるということです。そして、キリスト者は困難から逃げることではなく、むしろ忍耐して信仰にしっかりと踏みとどまることで、自分の生命を勝ち取ることができるのです。
 私たちは安穏とした信仰生活を願いますが、主イエスのみ心は、困難な時代にあって、一人一人がしっかりと信仰に立つことです。
 

2022/7/3 ルカ福音書21:1~4  銅貨二つの尊さ

 ・献金箱の前で
「イエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた」 とあります。献金箱は婦人の庭にあったのですが、そこでの光景です。金持ちたちが多額の硬貨を投げ入れたのは目でも音でも分かりました。それで本人も周囲の者たちも、その信仰を評価していました。「ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れ」とありますが、その場合も、目と耳で、その小さな額がわかり、人々は蔑む傾向がありました。

・銅貨二つの尊さ
 しかし、主イエスは、人々とは異なった評価をしています。「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」と。その理由は「みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたから」とあります。つまり献金の価値は、金額の大小ではなく、目に見えない信仰と献身の大小にあるとしたのです。
 貧しいやもめは一レプタでも大きな心の痛みでしたが、神を信じて更に一レプタ銅貨を捧げて、神を礼拝したのです。

・痛みと尊さ
 私たちも、このやもめにはかないませんが、痛みがあったとしても、神を第1とするにふさわしい信仰と献身を具現した形で献金をいたしましょう。神は、それを高価で尊いとしてご覧になられるからです。

2022/6/26 ルカ福音書20:27~40 生きている者の神

・サドカイ人の復活否定
 サドカイ人とは祭司長一族らを中心とするグループです。彼らはモーセ五書だけを聖典として死者の復活を否定していました。彼らは主イエスの評判を貶めようとして、復活信仰を否定する論戦を挑んできました。それは律法の規定を盾にした詭弁で、夫と次々に死別して、結局7人の兄弟の妻となった女性は、復活のときに誰の妻になるかというものでした。

・この世の生命、復活の生命
 主イエスは「この世の子らは、めとったり、とついだりするが…死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません」と語ります。この世の生命と神の子たちの生命の違いを明瞭にしているのです。この世の生命の論理で、復活を云々することは誤りであるということです。

・生きている者の神
 さらに出エジプト記3章の柴の箇所で神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」として現れたことを示します。神は園の存在者であり、しかも契約の民との関わりを永遠に保ち、彼らを永遠に生かしていることを明らかにします。
「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」とあります。真実の神信仰に導かれた者たちは死に絶える生命ではなく、永遠の生命をいただき、たとい地上の生命が滅んだとしても復活に至ることを明確にしています。
 この死の時代に、私たちは復活信仰によって「生きている者」とされているので、心からの礼拝により生きた神を証ししましょう。
 

2022/6/19 父の日礼拝 Ⅱコリント1:3~6  慈愛の父 慰めの神

 ・慈愛の父 慰めの神
 聖書の神は厳格な神というイメージがありますが、その本質は「慈愛の父…慰めの神」です。特に私たちキリスト者にとっては、どのような時にも確実で深い慈愛と慰めを与える方です。 「慈愛」とは苦しみ悲しむ者に対して自分でも苦しみ傷んで受け止めるということです。「慰め」とは優しく適切な言葉をかけて相手を癒やすということです。

・父の神に学び、習う
 「自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができる」とあります。私たち自身には慈愛も慰めも欠けていても、自分が体験した神の慈愛と慰めを他の人に対して実践できるということです。
 私たちは地上の父親の性格と態度を継承しておりますが、 それ以上に霊の父、神の慈愛と慰めを知り、それを自分の子供に、また若い世代に対して実践することが大切です。

・父親の慈愛と慰めの実践
 ある心理学者が次のように語っています。「子供は…ほめられた記憶がないのも心の傷になっている可能性があります」と。そうでなくとも地上に生きる人間には、深い心の傷と悲しみがあります。父親たちは、神の慈愛と慰めによって、少しでも癒すことが使命として委ねられているのだと思います。
 


2022/6/12 ルカ福音書20:20~26 神のものは 神に

・カイザルに税金?
 主イエスの生命を狙う祭司長らは、義人を装った間者を送って、イエスを罠にかけ、ローマ総督にひきわたそうとと企みました。彼らは「カイザルに税金を納めることは律法にかなっているかどうか」との質問をし、どう答えてもイエスの立場を危うくしようとします。まさしく毒をはらんだ質問です。

・カイザルのものはカイザルに
 主イエスは彼らの企みを見抜いて対応しています。まずはデナリ銀貨を取り出させて、そこにカイザルの肖像と銘が刻まれていることを確認させます。それによって地上の政治経済の支配権はどこにあるかを示しています。そのようにして「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と返答します。

・ 神のものは神に
 しかし主イエスの強調点は次にあります。「神のものは神に返しなさい」です。人間は神に似せて創造され、神の肖像、神の銘が刻まれた「神のもの」です。表面的に装いながら世的悪意や欺きにうつつを抜かすことは、本来のあり方から逸脱した姿です。
 そこで「神のものを神に返す」とは、表面的にではなく、心から神を礼拝することです。詩篇51:16に「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。」とありますが、まさしくそのような礼拝です。
 

2022/6/5 ルカ福音書20:9~18 捨てられた石、礎の石

・ぶどう園のたとえ
 主イエスは旧約から新約にいたる救済史を「ぶどう園のたとえ」で語ります。ぶどう園主が農夫たちに契約によって貸付て、長い旅にでました。収穫期を迎えて主人はしもべを遣わしましたが、農夫たちは「袋だたきにし、何も持たせないで送り帰し」ました。その後、別のしもべ、三人目のしもべを遣わしても反逆心をエスカレートするだけでした。

・愛する息子の殺害と契約破綻
  最後に、主人は契約に対する誠実を尽くして「愛する息子」を派遣します。農夫たちは、その息子が跡取りだと分かると農園を略奪しようと殺してしまいます。主人はこの反逆と罪により、契約破綻とし、さらに罪に対する報いとして「農夫どもを打ち滅ぼし」、さらに「ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます」と。このたとえの「愛する息子」とは神の子キリストです。

・捨てられた石、礎の石
 主イエスは最後に旧約預言を示します。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」。旧約の民が捨てたキリストが、新約の救いの礎となったということです。
 これは単にユダヤの歴史について語ったことではありません。いつの時代にも、どこの地域でも、世の権力者たちはキリストを捨てます。それでも「神の目に選ばれた石」Ⅰペテロ2:4は、永遠の御国の民とされるのです。
 

2022/5/29 ルカ福音書19:41~48 神の訪れの時

・イエスの嘆き
 オリーブ山からエルサレム全景を見渡すことができますが、そのエルサレムに近づいたときに、主イエスは「その都のために泣いて」とあります。シクシクと言うのではなく、大声を上げて泣いたのです。旧約でも預言者たちは、しばしばエルサレムのために嘆げいていますが、主イエスの反応も全く同じでした。それはまた、神ご自身の激しい嘆きの姿です。

・神の訪れの時を知らず
 イエスの嘆きの理由は、人々が「神の訪れの時を知らなかった」ということです。つまり神の子キリストが平和の主として到来したのに、彼らはそれとは認めずに、神に反逆したままで、神の子を拒絶したからです。その結果、エルサレムは外敵によって徹底して破壊され、民も滅ぼされることになるのです。

・祈りの家/強盗の巣
 実際に主イエスがエルサレム神殿に入ったときに、そこが「商売の場となっている有様を目撃しました。宮聖めの後に、そこは「祈りの家」であるべきなのに「強盗の巣」にしていると指導者たちを責めます。
 現代も主イエスは、み言葉とともに私たちのもとに訪れます。そのときに私たちは神の平和と恵みをそのまま受け入れる「祈りの家」でなければなりません。決して人間的な思いと罪の欲望に満ちた「強盗の巣」にしてはならないのです。
 

2022/5/22 ルカ福音書19:28~40 ろばの子の召命

 ・エルサレムへ
 「イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って」とあります。エリコからエルサレムまでは約25キロ1000mの高低差を上っていくことになります。オリーブ山中腹は、その峠となり、眼下にエルルサレムが眺望できます。主イエスは、エルサレムを前にして、公式に、神のキリストとして入城の準備をします。

・ろばの子の召命
 主イエスは細やかに2人の弟子に命じて、村でろばの子を見つけてくるように語ります。もし「なぜ、ほどくのか」と尋ねる人があったら「主がお入用なのです」と言うようにと…。弟子たちが行くと案の定、ろばの子の所有者たちが「なぜ」と詰問するのですが、弟子たちは「主がお入用なのです」と告げると引き渡してくれました。主イエスは、すべてに優先する「主」だからです。

・ろばの子に乗って
 「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちはみな…喜んで大声に神を賛美し」とあります。弟子たちが、神を賛美したのはイエス・キリストの入城であり、到来でありましたが、名馬ではなく、柔和なろばの子に乗ってやってきたキリストを喜んだのです。
 現代でも、キリストは霊によって人々に届けられますが、その際にも非力であっても、柔和な器を用いられるのです。ただその器に求められることは、召命感です。

2022/5/15 ルカ福音書19:11~27 一ミナの重み

 ・一ミナずつの下僕たち
 主イエスは、主人と一ミナずつ与えられた下僕たちのたとえを話します。そしてご自分が再臨する時までの期間、弟子たちが与えられた賜物を用いてご自身のために奉仕し、忠実に仕える大切さを示します。一ミナとは、当時の貨幣単位で、一デナリの100倍、1タラントの60分の1の価値です。大きくはないのですが、決して小さくはない賜物です。

・最臨時のしもべたち
 主人が「王位を受けて帰って来たとき」に、下僕たちはそれぞれ、自分の働きと忠実さについて審判をうけています。はじめの下僕は1ミナで10ミナを儲けたと報告しました。王となった主人は「よくやった。良いしもべだ」「小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者に…」と祝福と報いを与えます。次の下僕は1ミナで5ミナ儲けたと報告し、同じように祝福と報いを受けます。
 しかし、もうひとりは、1ミナを預かったのにそれを用いないで「ふろしきに包んでしまって」いたと報告します。その結果、彼は王によって厳しい裁きを受けています。

・一ミナの重み
  現代の私たちも、キリストからそれぞれ一ミナずつの賜物を与えられています。それは大きくはないのですが、決して小さくはない価値を持っています。そして、それを用いて忠実に仕えることで、この地上でキリストとの接点を保ち、また再臨の時まで、そのように仕えることが期待されているのです。

2022/5/8 母の日礼拝 創世記21:14~21 母ハガルの場合

 ・母ハガルの場合
 聖書では、母の子離れのテーマが多くあります。ハガルの場合もその一例です。奴隷であったハガルはサラの逆鱗に触れ、息子イシュマエルとともに荒野に追放されることになりました。アブラハムは「非常に悩みましたが、神の啓示と祝福を信じて、二人にパンと水の革袋を持たせて送り出しました。

・荒野をさまよい
 「彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた」とあるように、ハガルには行く宛もなく、厳しい荒野をさまよい歩くしか術がありませんでした。「水が尽きたとき」とは生命も尽き果てようとしていたときです。彼女は、自分の力では守ることはできないと考えて、子どもを放棄して、遠く離れてただ泣くだけの状態になりました。この世にある母と子の厳しい現実です。

・神がハガルの目を開かれ
 しかし母が手放した時、本来の保護者であり守り手である神が前面に出てきます。つまり「神は少年の声を聞かれ」とあるとおりです。この体験が、母ハガルの子育ての姿勢を180度転換させます。それは「神がハガルの目を開かれた」体験となりました。そして神中心に物事を考え、自分は子どもを神から委ねられた母という視点になったときに、現実の子育てでも「目が開かれて」展望が開かれたのです。そのようにして、彼女は井戸を見つけ、子を養い、立派な青年に育て上げました。

2022/5/1 ルカ19:1~10 ザアカイの改心

・ザアカイ
 主イエスがエリコに入った時の物語です。そこに取税人のかしらで金持ちのザアカイという人がいました。彼は職業柄、アウトローで罪人として人々に嫌われていましたが、主イエスに対して興味をいだいていました。しかし背が低かったので、人垣で見ることができません。そこで先回りして、いちじく桑の木に登って待ってイエスの通り過ぎるのを待っていました。

・いちじく桑の木の上で
 「イエスは、ちょうどそこに来られて…上を見上げて」とありますが、ザアカイに先んじていたのは主イエスの方でした。「木の上」はザアカイの孤独な傍観者としてのスタンスでしたが、主イエスの方が、彼に先んじて、彼を見、救いの対象として覚えていたのです。
 「ザアカイ。急いで降りて来なさい」とは、主イエスの救いの招きに対する応答のあるべきスタイルを示しています。それに対して、ザアカイもまた、素直に「急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎え」ています。

・ザアカイの改心
 さらにザアカイは、主イエスとの出会いを通して、徹底した改心と悔い改めにふさわしい行いを実行しています。「財産の半分を貧しい人たちに…だまし取った物は、四倍にして返し…」とあるとおりです。
 そのザアカイに対して主イエスは次のように宣言します。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」
 

2022/4/24  ルカ福音書18:35~43  ある盲人の信仰

 ・ある盲人
 主イエスがエリコに近づいた時の出来事です。ある盲人が道ばたで物乞いをしていましたが、イエスが通りかかるという噂を耳にしました。彼は以前から、主イエスの業と説教について聞いていて、心の中に信仰が養われていました。
 そこで彼は大声で「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫びました。「ダビデの子」とは神の子キリストを意味します。その方が惨めな自分をもあわれんでくださるという信仰からの叫びでした。彼は先の役人とはことなり、「あわれみ」の意味をよく知っていました。

・「ますます…叫び」
 例によって、主イエスの周囲にいた弟子たちは、彼とその叫びを煩わしいものとしてたしなめましたが、その妨げにも関わらず、彼は「ますます…叫び立てた」とあります。「叫び立て」とは単に感情的ではなく、意志的信仰に基づく叫びで、彼の強い信仰の現れです。また妨げの中で、その信仰が強められたことの現れです。

・「あなたの信仰があなたを…」
 主イエスは彼を呼び寄せてから、改めて、彼のニーズを明確にしてから癒やしの言葉を語られます。さらに付け加えて「あなたの信仰があなたを直した」と語られます。癒やしの力と恵みは神によるのですが、それはいつの場合でも、心からの「あなたの信仰」がその管となり「あなたを直す」ことになるということです。「直した」とは、直訳は「救った」です。

2022/4/17 イースター礼拝 マルコ福音書16:1~8 墓石が動いて

 ・墓石が動いて
「安息日が終わったので」マグダラのマリヤたちは、イエスの体に香油を塗るために、墓に向かいました。いわば過去のイエスの追憶に向かったのです。彼女たちは、大きな墓石をどのようにして動かしたらよいのかと心配を抱えていましたが、しかし墓に着くと大きな墓石がすでに転がされていました。

・「あの方はよみがえられました」
 彼女たちは、墓に入ったところ、イエスの体はなく「真っ白な長い服をまとった青年が右側にすわっているのが見え」ました。その青年(御使い)は、空の墓の意味について次のように語ります。
「あの方はよみがえられました。ここには おられません。」
 空の墓について、色々な人々が様々な解釈をします。しかし、この言葉は神の言葉であり、神の解釈であり、どのような人間の解釈よりも真実です。

・ガリラヤへ
 さらに御使いは「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。…そこでお会いできます。」と告げます。ガリラヤは弟子たちの故郷で、イエスとの思い出の場所です。しかし御使いが示す「ガリラヤ」は新しいガリラヤであり、未来における復活のイエスと出会いを意味します。
 この後、み言葉に従って弟子たちと女性たちは、ガリラヤに向かい、そこで約束の通りに、復活のイエスに出会い、礼拝します。そこでも主イエスはみ言葉を告げて、弟子たちの心を未来に向けています。

2022/4/10 ルカ福音書18:31~34 「人の子」のミステリー

 ・エルサレムに向かって
「エルサレムに向かって…すべてのことが実現される…。」主イエスは、弟子たちをそばに呼んで、エルサレムで実現する「人の子」の出来事について伝えます。 エルサレムはダビデによって建てられた町でアブラハム契約、ダビデ契約による救いの実現する場所として預言者たちが一様に預言している場所です。

・「人の子」の受難と復活
「人の子は…引き渡され…殺します。」ここで「人の子」とあるのは、キリストのことです。しかし、主イエスは栄光のキリスト観と区別するために、あえて「人の子」という称号を用いています。人々の考えとは異なり、「人の子」は敗北者のようにして異邦人に引き渡されて、虐待されて殺されます。
「しかし、人の子は三日目によみがえり」とあります。人の子は砕かれ、死んだ後に、神の全能の力によって復活し、神のキリストであることが明らかにされるのです。

・「人の子」のミステリー
「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。…このことばは隠され…」とあります。弟子たちは、世的キリスト像ばかり求め、体質的に俗悪であったからです。
 しかし彼らが「人の子」のミステリーが顕にされるときがやがて来ます。それは「人の子」が、預言どおりに十字架上で死んで復活した後です。さらに彼ら自身の世的キリスト像と肉的人生観が打ち砕かれたときです。そのときに、神は彼らの目の覆いを取って栄光のキリストを示されるのです。

2022/4/3 ルカ福音書18:28~30

・ペテロの言葉
「私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました」。主イエスが富める役人に語った言葉を聞いて、ペテロは、自分たちが家を捨てて主イエスに従っていることをアピールしています。彼らは赤貧の漁師たちだったので、それが比較的容易だったのです。後に富める者たち、高位の者たちも弟子集団に加わりますが、彼らの場合も「自分の家を捨てて」は弟子の条件としました。

・神の国の法則…捨てる
 ペテロの言葉に対して主イエスはさらに「捨てる」ことの大切さについて畳み掛けて語られます。
「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者…」と財産と家だけではなく、身近な人間関係にもメスを入れています。実際に誰もが、家族などとの身近な人間関係を心の支えとし、生きがいとしています。しかし地上の一切の関係よりも神の国がより優れた価値として、優先されることが大切なのです。

・神の国の法則…受ける
「この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを…」。地上のものを「捨てる」ことによって、神の国の祝福がもたらされるという約束です。それは地上の祝福にも及び、かえって捨てたものの「幾倍かを受け」るのです。さらに後の世の永遠のいのちの獲得も約束されています。
 世に断捨離ということが言われますが、何よりも神の国中心に一切の断捨離をし、それでもってより多くの祝福を獲得いたしましょう。
 

2022/3/27 ルカ福音書18:18~27 ある金持ちの役人

・ある金持ちの役人
 「ある役人」が主イエスのもとにきて「永遠のいのち」獲得の手段について、質問しています。「役人」とは、ユダヤ議会の一員、あるいは指導者の一員のことです。彼はイエスのもとに来て、イエスのような尊い存在となり、それでもって永遠のいのちを獲得できると考えいました。しかし、それは彼の思い上がりであり、浅はかな神観に基づく願いでした。

・1つ欠け、すべての欠け
 主イエスは役人の浅はかな考えを指摘しています。「尊い」とはただ神だけで、人間に使うべきではないのです。神と人間との間には永遠の乖離があります。
 さらにまた彼は律法を「守っております」と主イエスに対して返答していますが、それも思い上がりであり、表面的には守っているように錯覚していても、その本質からは程遠かったのです。つまり一つの欠けは、全体の欠けなのです。役人は「持ち物を全部売り払い…」の言葉を聞くと「非常に悲しんだ」とあります。

・ラクダと針の穴
 「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしい」とありますが、たしかに人間的な善行と蓄財によっては神の国に入ることも、永遠の生命を獲得することもできないのです。ただ必要なことは、イエスを神の子キリストと心から信じて、一切を神に差し出すことだけです。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

2022/3/20 ルカ福音書18:15~17 子どもと神の国

・子どもたちが
「人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た」時のことが記されています。弟子たちは、幼子たちはイエスには相応しくないとして、それを妨げようとしました。彼らは、子どもたちは無力で、価値がなく、主イエスの宣教の妨げになると考えたからでした。 その弟子たちの考えと態度は、この世の中では一般的なものです。

・子どもと神の国
 「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて」とあります。イエスの思いは、弟子たちの思いとは、いつの場合でも、異なっているようです。さらにこの機会を捉えて、「神の国は、このような者たちのものです」と真理を明らかにしています。神の国とはイエスの福音の中心テーマでしたが、弟子たちにはなかなか理解しにくい世界でした。しかし幼子たちの姿と態度は、まさしく神の国に招かれる者たちのあるべき姿と態度そのものだったのです。

・子どものように神の国を
 「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
「子どものように」とは、自らの無力さの自覚、全面的に相手を信頼する心と態度です。神がイエスを通して無償で神の国を提供しておられます。その神の国に入る者たちの資格は、何かの能力や功績を差し出すのではなく、ただ自分の無力さを覚えて、信頼して受け入れることです。
 

2022/3/13 ルカ福音書18:9~14 自分を高くする者は

 ・自己義認の誤り…パリサイ人
 主イエスは「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」の誤りを示すために例話を語ります。その例話で語られるのは「ひとりのパリサイ人」です。彼は宮に登って祈るのですが、隣の取税人を見下し、自分の義を神の前に主張しています。「この取税人のようではない…私は週に二度断食し…十分の一をささげております」と。

・ある取税人
 「ところが、取税人は遠く離れて立ち…自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」とあります。取税人とは、ローマ帝国のもとでユダヤ人から税を取り立てる人々でした。彼らは律法を知らずアウトロー、罪人として、人々に蔑視されていました。そこで彼は神の前に相応しくない罪人であると自己認識をして、ただ神にあわれみを求めています。

・自分を高くする者 低くする者
「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。」と、主イエスの言葉は、いつでも人の思いと異なっています。神の御前ではいつでも「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。
 この例話は単に、パリサイ人のことを語っているだけではなく、キリストの弟子たちに対する警告として語られています。私たちも人との比較で自己義認する体質があるので、注意しなければなりません。

2022/3/06 ルカ福音書18:1~8 失望せずに祈る

 ・失望せずに祈る
 主イエスは弟子たちの基本姿勢として「いつでも祈るべきであり」と教えています。祈りは創世記以来、堕落した人間が神との接点をもつ唯一の手段でした。また信仰者たちが具体的に神の臨在と恵みを信じて生活する姿です。また「失望してはならない」とありますが、失望感に打ち勝って祈り続けることで、信仰が純化され、実際に神が、祈りにこたえてくださるからです。

・尊大な裁判官とやもめ
 主イエスは絶えず祈ることの大切さを悟らせるために尊大な裁判官とやもめの話をします。その裁判官は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」だとしても、やもめが繰り返し訴え続けるなら、根負けして訴えを取り上げるというのです。絶え間ない訴えには、だれでも腰を上げることになるのです。

・まして神は
「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のために…」とあります。 確かに旧約聖書以来、神の民は困難に直面してきました。詩篇にはその時の切なる祈りが記録されています。そして神は、たしかに選民の祈りのとおりに救い主を遣わしてくださいました。それは現在も、未来も、全く同じです。  
 私たちも色々な困難に直面していますが、そのときこそ失望せずに祈ることが大切です。神は速やかに祈りに答えてくださり、またキリストの再臨で、さらに大きな救いを与えてくださいます。

2022/2/27 ルカ17:22~37 人の子の日に

・人の子の日
 主イエスは「人の子の日」がどのようにして到来するかについて、弟子たちに語っています。「人の子の日」とはキリスト再臨の時という意味です。
 再臨までにいろいろな偽キリストが出現しますが、それに惑わされないよう注意します。さらに「人の子」は「いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように」到来すると預言しています。

・ノアの日、ロトの日
 その時は「ノアの日に」あるいは「ロトの時代に」に起こったことと同様です。「人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て」とあり、「…売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが…火と硫黄が天から降って」すべての人を滅ぼしたのです。

・ 人の子の日に
 そこで主イエスは「ロトの妻を思い出しなさい」と心の備えを促します。ロトの妻は御使いの忠告にもかかわらず「うしろを振り返った」ために裁かれて塩の柱になりました。そのように「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保つ」のです。
 私たちの時代も「食べたり、飲んだり…売ったり、買ったり、植えたり、建てたり」している時代です。しかし、私たちは日常の営みの中でも、聖書の歴史を貫かれてきた真理を覚え、未来に対しての正しい展望を持つべきです。つまり世の者は滅び、ただキリストにある者だけが生命を得て残されるということです。
 

2022/2/20 ルカ福音書17:11~19 引き返したサマリヤ人

・十人のらい病人
 主イエスがエルサレムに向かう途中の出来事です。十人のらい病人が遠く離れたところから、イエスにあわれみを求めました。そこで主イエスは求めを聞き入れて「祭司に見せなさい」と語りました。
 らい病人たちは「行く途中でいやされた」とありますが、たしかに主イエスの言葉はらい病をも癒やし、きよめる力があることが分かります。

・引き返したサマリヤ人
 「そのうちのひとりは…引き返して来て」とあります。彼はまず、感謝すべきは癒やし主であるイエスと気づいたのです。さらに「イエスの足もとにひれ伏して感謝し」とあるのは、彼がイエスが神の子キリストと信じて、礼拝している姿です。
 「彼はサマリヤ人…」とあります。彼は本来ならユダヤの宗教から遠く離れていた人物でした。それゆえにかえってイエスが神の子キリストという真実に霊的に気づくことができたのです。それによって彼は単にらい病の聖めだけではなく、罪からのきよめを獲得しました。

・真の礼拝者
 「…九人はどこに」と主イエスは悲しみと戸惑いを表しています。その九人とはユダヤ人たちで彼らは祭司のところに向かい、その後、ユダヤ社会に同化して、世的幸いを得たのです。しかしそれでは決して、霊的に罪の汚れからは救われないのです。ただ「神をあがめるため」イエス・キリストを通しての礼拝に引き返す者だけが、誰であれ新しい時代の真の礼拝者です。
 

2022/2/1 ルカ福音書17:5~10 信仰の業と謙遜

 ・信仰の業
 使徒たちが「信仰を増してください」と願ったときに、主イエスは「からし種ほどの信仰があったなら…桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになる」と語り、小さくとも純粋な信仰の大切さを説きました。そのような信仰を神は、喜ばれるからです。

・しもべの謙遜さ
 また主イエスは弟子たちの謙遜さの必要についても語られます。つまり、「しもべが野らから帰って来たとき」でも、しもべは主人の食事のために仕えるのが当然で、いつも謙遜に仕えることが要求されるということです。しもべはあくまでもしもべであって、全権は主人にのみあるということです。

・神の僕たちの謙遜
「あなたがたもそのとおりです」と、主イエスは神のしもべたちも同じように謙遜が必要であることを示します。実際に、神は創造者にして贖い主であり、私たちは、被造物であり贖われた者たちだからです。そして、私たちは神のしもべとして仕えることが出来ること自体が幸いなことだからです。もし、自分の功績や権利を主張することになれば、それは神の恵みからの逸脱となるのです。
 「私たちは役に立たないしも…なすべきことをしただけです」とは、いつの場合も、私たちにとって幸いな告白であり、信仰生活の基本姿勢です。

2022/2/6 ルカ福音書17:1~4 つまずきと赦し

 ・つまずき
 世において「つまずきが起こるのは避けられ」ません。しかしキリストにある兄弟に対して「つまずきを起こさせる者は、忌まわしいもの」と厳しく戒められています。特に「小さい者たち」をつまずかせる者は「石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」と、特に厳しく戒めています。教会の交わりのメンバーは誰であれ、キリストによって贖われた「高価で尊い」存在なのです。

・罪の赦し
 「兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい」とあります。世は罪に満ちているので、キリスト者であっても罪に陥ることがあります。その際に、見てみぬふりをするのではなく「戒める」という態度が真実な愛だということです。それによって「悔い改めた」なら、それによって兄弟はキリストの贖いを体験して、回復する機会となるからです。
 また「一日に七度…赦してやりなさい」とは徹底した赦しの姿勢を示しています。そのようにして罪による被害者も教会も「赦し」という態度を通して、具体的な形で自分が受けたキリストの赦しを証しします。

・神の教会
 使徒20:28に「神(キリスト)がご自身の血をもって買い取られた神の教会」とあります。私たちの教会は単なる世のサークルとは異なり、神の愛と生命が宿る交わりです。そこで、私たちは罪に対しては厳しく、赦しの愛に関しては徹底して、教会の交わりを形成していくように召されているのです。

2022/1/30 ルカ福音書16:19~31 金持ちと貧乏人ラザロ

 ・金持ちと貧乏人ラザロ
 続けて、主イエスはこの世の富の用い方について例えを通して教えています。「ある金持ち」は自分だけのために贅沢な暮らしをしていました。それに対して「貧乏人ラザロ」は全身おできで、金持ちの門前に寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で空腹を満たしたいと切望していました。

・死と逆転
 やがて貧乏人は死んで天国のアブラハムの懐に連れて行かれました。金持ちも死んで葬られたのですが、気がつくとハデスに下って苦しんでいました。死によって、二人の状態は逆転していたのです。金持ちは苦しみの中から、天国のアブラハムに叫び、ラザロを遣わして乾ききった舌に少しの水を与えるようにと願います。しかし、アブラハムは答えて互いの間には「大きな淵」があって行き来できないことを告げます。生前の行いが一切を決定していたのです。

・聖書
 そこで金持ちは、自分の兄弟たちのためにラザロを送ってくれるように願いますが、アブラハムはそれを否定して断言します。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と。
 私たち人間は、罪人で、心底、自己中心と世俗に染まっています。その罪の泥沼から逃れて抜け出るためには、ただ聖書とそこに啓示されたキリスト以外には、救いの手段はないのです。

2022/1/23  ルカ福音書16:1~13  不正な管理人の話

 ・不正な管理者の話
 主イエスは、主人によって解雇を言い渡された不正な管理者の話をしています。彼は次の就職口を得るために色々と考えて、よい知恵が浮かびます。「主人の債務者たちをひとりひとり呼んで」債務減額の証文を新たに作らせて恩を売り、その債務者たちの家を、次の就職口にと画策したのです。そのことは、別に、主人の損失ではなかったので、主人は、管理人の抜け目なさほめたというのです。

・不正の富で友を獲得する
 そこで主イエスは「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」と語ります。「不正の富」とは地上の富ということで、それ自体はマモンで、偶像的な存在になります。しかしそれを霊的な手段のために用いるときに、もはやマモンではなるということです。むしろ霊的に有益なものとなり、「永遠の住まい」の保証となることを示しています。

・不正の富と「まことの富」
 また「不正の富に忠実」によって「まことの富を任せる」られるとありますが、「まことの富」とは「アーメン」で永遠の富を意味します。確かに、それは信仰によって獲得するのですが、その信仰を地上の生活の中でも具体的に働かせることの重要さについて語られているのです。

2022/1/16 ルカ福音書15:25~32 もうひとりの放蕩息子

 ・兄息子
 たとえの後半は放蕩息子の兄に焦点が当てられています。彼は弟とは異なり、父の家に留まり、父の戒めに従い、かつ父に仕えて仕事を忠実にこなしていました。弟が帰ってきたときも、彼は畑で農作業をしていました。しかしこの日は、帰ってきて家に近づくと弟の帰還を喜ぶ音楽と踊りの音が聞こえたとあります。

・もうひとりの放蕩息子
 彼は事の次第を聞くと「おこって、家にはいろうともしなかった」とあります。彼は父のために戒めを守り真面目に働いているのに何の報いもない。それに対して放蕩息子の弟が帰ってきたときに、宴会をして大喜びをするのは、不公平であるというのです。
・父の愛、神の愛
 父は兄に対して父の裁断に何の不公平がないことを説明します。また表面的な義ではなく、さらに重要な親の愛の観点から、父親が弟息子の帰還を「楽しんで喜ぶのは当然」と語っています。また「おまえの弟」と表現して、兄息子もまた、父とともに弟の帰還を喜ぶべきであることを諭します。
 このたとえは、単にパリサイ人らの態度を非難して語られているだけではありません。さらには、私たちキリスト者同志の交わりのあり方を示しています。私たちも自分の義によって兄弟に不満を感じたり、怒ったりするものです。しかし人間的義よりも神の愛が優先されるべきで、私たちもそれに習うことが、要請されているのです。

2022/1/9 ルカ福音書15:11~24 放蕩息子のたとえ

 ・放蕩息子のたとえ
 主イエスは悔い改めの大切さを放蕩息子の例えを通して語っております。ある人に2人の息子がいて、弟息子が父の財産を受け取るやいなや遠い国に旅立ちます。そこで放蕩三昧によりお金を使い果たして、食べるのにも困るほどのどん底状態に陥ります。

・悔い改め
 このどん底状態の中で、弟息子は「我に返り」ます。それは自分がどのような状態でも、豊かなる父との関係にあることに気づくということでした。「立って、父のところに」行って、悔い改める決意をします。それは自分の罪を認め、心からの方向転換を明確にすることです。心の転換はいつの場合でも、全人と人生をも転換させます。
・父の愛
 息子が自分の父のもとに向かった時「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」とあります。父の愛の歩み寄りは、息子の帰還に先んじています。そこに父の愛の大きさが現されています。父は、彼を息子として迎え入れ、最高のもてなしと喜びで祝ったのです。ここに悔い改めて帰還するものに対する神の姿がが見事に描かれています。
 私たちは世という遠い国にいる者たちで、何らかの放蕩息子的存在です。新年のはじめ、まず心からの悔い改めによって、父なる神のもとに立ち返る姿勢を明確にしたいです。そして父の愛と祝福に満たされて、一年の初めの一歩としましょう。

2022/1/2 ヘブル4:14~16 恵みの御座に

 ・偉大な大祭司
 新年、初詣で神社仏閣を尋ねる人が大ぜいおりますが、私たちにはイエスが共におられることは心強いことです。彼は、何よりも「もろもろの天を通られた 偉大な大祭司」であると明示されています。どのような霊的権威や力よりも優れた方であり、私たちのために、神との仲介者となってくださる方ということです。

・私たちの弱さに同情
 「弱さ」は地上に生きる人間の現実の有様です。力の弱さ、心の弱さ、病気などの肉体の弱さ、罪に対する弱さなどです。その弱さ故に、私たちは苦しみ悩むのです。しかし「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」とあるこも心強いことです。つまり、私たちの弱さが接点となり、彼のうちに同情が起こるからです。

・ 恵みの御座に
 「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。「大胆に」とは、心から信じてということです。「恵みの御座」とは、キリストおられる天の御座ですが、私たちは霊的に、そこに招かれているのです。そこではいつでも、さながら福音書の世界のとおりに、イエスによる恵みの注ぎがあるのです。その恵みは、心の慰めとともに、新年の具体的な導きと歩む力となります。