2010/3/28 ヨハネ19:28~37 十字架からの血潮

・十字架
 イエス・キリストは神の子ですが、その最後は十字架上での死でした。福音書ではイエスが十字架に付けられたことがくり返し明記されています。十字架は最低最悪の者の死刑に用いられる道具で、「十字架」という言葉で、すでに主イエスがどれほどの苦しみと侮辱を忍耐したかが分かります。

・贖いの完了
 十字架上で主イエスは「わたしは渇く」と語られました。その言葉は預言の成就をしめすものでしたが、同時に主イエスが肉体において極限の苦しみと渇きを覚え、心と魂でも悲痛でどん底に落とされていたことを示します。
 また主イエスは苦しみを全うした後に、「完了した」と宣言されました。すべての人のための罪の贖いが完了したと言うことです。神の子として無限の価値ある方が、無限の苦しみと死によってなだめと贖いが全うされたと言うことです。

・十字からの血潮
 「兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した」時、「血と水が出て来た」とあります。血は完全な贖いの血として、水は聖めとしてすべての人に提供されたと言うことです。この血の本質は霊的な贖いの力ということです。
 「血による、また信仰による、なだめの供え物」ローマ3:25とありますが、主イエスの血を私たちが受けるには「信仰による」のです。ただ心の砕き、一切の邪念と高ぶりを捨てること。虚ろにして心より受け取ることです。そこに神の血潮による贖いと聖めが実現します。

2010/3/21 マルコ11:12~20 祈りの家

・いちじくの木
 主イエスはいちじくの木に実がなっていなかったので、それを呪いました。この出来事は、神のためになんの実もなさなかったエルサレムと神殿に対する呪いを暗示します。

・宮きよめ
 宮きよめの出来事は神殿の異邦人の庭で置きました。異邦人の祈りを無視して、商売がなされていたのです。主イエスは彼らを「追い出し」「腰掛けを倒し」「通り抜けることを・・・お許しにならなかった」のです。
 このようにして、主イエスは神殿が商売や欲のために用いられるべきではなく、聖別されるべきところであることを強く示しているのです。

・「祈りの家」
 「祈りの家」とは、神との交わりの場、聖なる空間という意味があります。旧約の神殿は、ユダヤ人だけではなく異邦人にとっても神との交わりの場です。新約においては、教会がその役目を果たしています。
 教会には、色々な側面があります。互いの交わり、集会、会議などなどです。しかし教会の本質は神との交わり、つまり霊的な礼拝と祈りです。このことを見失ってはなりません。

・世における「祈りの家」
 世の人々は、不安とおののきの日々を過ごしており、「聖なるもの」を渇望しています。教会は何よりも「祈りの家」となって世に聖なる空間を提供しています。「地の塩、世の光」との御言葉がありますが、まさにそのとおりです。

2010/3/14 マルコ11:1~11 ロバの子に乗った王

・ロバの子
 主イエスはロバの子に乗ってエルサレムに入城しようとされます。それはゼカリヤの預言に従ったことと共に、神の国の姿を示すためでした。ロバの子は純真です。小さく、弱く、それゆえ柔和です。小さい者、弱い者、痛みを持つ者がまず招かれる国、それが神の国なのです。
 
・「主がお入り用なのです」
 ロバの子には地上の所有者があります。ロバの子を連れ出そうとするときに「なぜそんなことを」という人がいるのです。しかし主イエスこそ、一切の支配者であり、真の所有者です。また最も有効に用いることができる方です。「主がお入り用なのです」という言葉と、召命をだれも拒絶できません。
・ロバの子に乗った王
 主イエスがロバの子に乗って、エルサレムに入城されたときに、人々は「ホサナ・・・」と叫んで喜び迎え入れました。世の王たちとは異なって柔和さを持ち、小さい者、弱い者を受け入れる王であることを知ったからでした。

・私たちもロバの子
 現代も人々の前に主イエスを運び、神の国を知らせるのは、ロバの子のような人々です。小さく、弱く、従って柔和さを持つ者です。
 その小ささのゆえに「なぜ、わたしが」と戸惑うことがあっても「主がお入り用」と覚えるなら、精一杯の心で主イエスのご用のために自分をささげるべきです。その時、主イエスもその人を担ってくださいます。

2010/3/7 マルコ10:46~52 盲人バルテマイの信仰

・盲人バルテマイ
マルコ福音書においてバルテマイ物語は1つの信仰の典型を描いています。
 バルテマイはテマイの子で誇りある人でしたが、盲人であるためエリコ町外で物乞いをしていました。それは彼にとって苦痛で辛い生活でしたし、また人間としての深い絶望感と疎外感を覚える生活でした。

・バルテマイの信仰
 イエスの一行が町を出て彼の前を通りがかったときに、彼は「ダビデの子のイエスさま。わたしをあわれんでください。」と叫び始めました。彼はイエスが神の子であり、恵みとあわれみの神であると信じたのです。
 彼の信仰の徹底さは、大勢の者たちが彼をたしなめても、必至に叫び続けたという態度に現されています。人の少しの反対で信仰の求めを諦めるのは、本当の信仰ではありません。

・イエスのあわれみ
 しばしば、イエスは初めに素っ気ない態度を取られます。それは求める者の心に信仰が熟成される時を待ってのことです。イエスは恵みの神としてすぐにでも私たちを救いたいと願っています。しかしイエスの恵みと救いを受け取る手段は信仰のみなのです。
 バルテマイの信仰の姿を見て、即座にイエスは彼を呼んで、「目が見えるように」します。「あなたの信仰があなたを救った」とは、彼の求め続ける信仰姿勢です。

・私たちの信仰
 この物語は肉眼の癒しを描いていると同時に、私たちの心の目が開かれることを目的にしています。神の第1の願いは、私たちの心の目が開かれることで、その時にバルテマイと共にイエスがはっきり見えて、イエスに仕え従う幸いを覚えることができるのです。