2010/9/26 ヘブル12:1~3 雲のように囲む証人たち

(召天者記念礼拝)

・雲のように囲む証人たち
 「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んで」とあります。私たちの召天者たちもまた、私たちを取り囲む証人たちです。彼らの生涯と信仰は教会の歴史にしっかりと刻まれており、いつの時代も私たちの信仰の戦いをコーチし応援してくれるのです。
 私たちは召天された兄姉の面影と信仰を思いながら、明瞭に、その励ましを受けたいのです。

・競技を重荷と罪を捨てて走る
 証人たちは「一切の重荷とまとわりつく罪を捨て」るように私たちをコーチします。重荷とは世に対する未練や欲、煩いです。それらは私たちの信仰競技に際して、私たちの負担となって信仰を弱らせるのです。罪を犯し続けていれば、それは私たちの足にまとわりつきちょっとしたことで躓き、信仰から離れさせてしまいます。

・忍耐をもって走る
 証人たちは皆、「忍耐をもって走り続けて走り続け」て、肉体が贖われて天に凱旋しました。忍耐や我慢などナンセンスと思う時代ですが、信仰は運動競技と同じように忍耐が必要であることを覚える必要があります。試練の中で忍耐する者だけが、勝利者となり、天に凱旋できるのです。

・イエスの道から目を離さない
 証人たちが一様に証する対象は、イエスとその生涯です。イエスはただ苦しまれたのではなく、「ご自分の前に置かれた喜び」から目を離さずに忍耐を全うして、凱旋しました。
 私たちはイエスが踏み固めた道を進んでいくのです。その志を明瞭にする者のために、イエスは聖霊によって励まし、力を与えて、勝利者としてくださるのです。

2010/9/19 詩篇92篇 感謝はよいこと

・感謝はよいこと
 私たちの幸せの秘訣は、お金や物に執着するよりも、感謝の心を持つことです。感謝は心に秘めているだけではなく、はっきりと表現することが大切です。
 子どもが親に、また祖父母に感謝を表すときに、その逆に親達が子どもに対して感謝を持つとき、そこに幸せが広がります。家庭生活は、感謝の心と言葉で豊かになるのです。

・主に感謝することは良いこと
 「主に感謝すること」も大切なことで、これこそが第1になすべき感謝です。神は天地を創造して私たちのためにすべて「良いもの」を備えてくださっているのです。さらに「主」とあるように、私たちのために一人子を遣わした贖い主です。
 この恵みと真実を当たり前のようにして受けて過ごすのではなく、明瞭な感謝の言葉を表すことが大切です。
 「良い」とは神が全面的に受け入れてくださっているという意味です。贖いと創造の目的にかない、神御自身がこよなく喜んでくださるのです。また神の民も「良く」生きることになるのです。

・主の家の木々のよう
 「なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます」
 なつめやしの木の葉は、いつも青々として茂っています。レバノンの杉は真っ直ぐに限りなく育っていきます。主の恵みを信じて、感謝を表す者たちはそのような存在です。
 さらに「主の家に植えられ・・・年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく・・・」とあるように、神の愛顧の中でこの世でも、後の世でも永遠に栄えるのです。この雄大な展望を持って毎日を進んでいきましょう。

2010/09/12 ローマ2:1~16 裁く人ではなく

・すべて他人を裁く人
 神の前で弁解の余地がない第2種は「人を裁く人」です。その典型がユダヤ人でした。彼らは律法を知っていることをいいことに、自分たちはすべての異邦人よりも義人であると思い上がっていました。そして律法に基づいて人々を裁き批判していたのです。しかし、実際は自分たちも同じようなことをしていたのです。

・自己義認の人々
 彼らは自己義認の人々で、人の悪を非難することで自分の正しさを確認していたのです。しかし彼らの判断力は曲がっており、人の欠点だけを取り上げ、自分の悪については目をつむっていたのです。
 彼らは神の前に立つことなく、ただ人との比較により相対的に自分を義としていたに過ぎなかったのです。これはユダヤ人だけではなく、すべての人が持つ傾向です。
 
・裁きを免れることはできない
 使徒は彼らに対する神の裁きを明示します。神は律法を持っている知っているという基準ではなく、それを行ったかどうかを基準として裁きます。その時には、心の底に隠れたことも顕わにされて裁かれるのです。
 私たちは、「裁きの日」の前に自分の実態を神の前で知らされることが大切です。

・裁く人ではなく慈愛の人として
 「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」とあります。私たちが神の前に自分の罪を認めるときに、神は裁くのではなく、深い慈愛を示し、寛容の心をもって、私たちの罪を赦し、完全に洗って下さいます。そして私たちは神の慈愛を受けて、私たち自身も慈愛の人に変えられていくのです。

2010/09/5 ローマ1:21~32  神否定と腐敗 

・神否定の人々
神は被造物を通してご自分をはっきりと知らせているのに、多くの人は神の存在を否定しています。それは光を遮断することであり、その結果、人は「思いがむなしくなり・・・心は暗くなった」のです。
 それは生きる意味と目当てを見失うこと、全く的外れな考え方、生き方をするということです。さらに本来は、神に照らされて生きるべき心が光を失なって暗やみにさまようということです。

・偶像崇拝の罪
 人は価値を持って生きる存在ですが、真理の神を見失うときに、愚かな偶像を崇めるようになります。それは金や銀、鉄や銅の神々、木や石の神々です。また目に見える人を神のように敬ったり、愛おしんだりします。
 私たちの社会では死者が仏壇や神社で祭られ、死霊を崇拝しています。自分たちでは科学技術と経済で他民族よりもすぐれていると自負しながら「愚かな者」となっています。

・悪と腐敗
 「恥ずべき情欲」は当時の社会で広がっていた罪悪です。誰もが悪で倒錯であると思うことをしないではいられない惨めな状態です。これは神を認めないゆえ、神が悪の中に放置した結果です。
 また「むさぼり、妬み、悪意、殺意、高ぶり・・・」といった心の悪も、心が暗くなった結果、悪の中に放置された結果です。

・神に立ち返り礼拝すること
 神が願うことは、私たちが神のもとに立ち返ることです。悪に染まった私たちをも、神はあわれんで受け入れて下さいます。そして新しい神の生命に満たし、子どもとしての祝福をくださるのです。

2010/08/29 ローマ1:19~21 宇宙よりも大きな神 


・宇宙より大きな神は見えず
 「神を見せてくれ!」という人がいますが、真実な神は目で見ることはできません。それは神が宇宙よりも大きな方だからです。目で見えるものは、みな宇宙よりも小さく、劣った存在です。
 神が目に見えないと言うことは、神が物質を超越した永遠の存在者であり、能力とご性格においても、目に見える存在を遙かに凌駕していると言うことです。目に見えないと言うことが天地創造の神の条件です。

・被造物によって知られる神
 しかし大きな神の存在と「神の目に見えない本性」は「被造物によって知られる」のです。
 芸術作品でも機械でもその創作者は存在し、作者の能力と性格が作品に反映されます。丁度そのように、宇宙という無限の世界、地球と生命という神秘的な存在の背後には、それらを超越した創造者が存在するのです。本来ならば、これは誰が見ても明らかなことです。

・進化論の限界と誤り
 近現代は進化論者がまかり通っています。彼らは宇宙内で宇宙、地球、生命の現象を観察/実験して、進化という仮説を立てています。
 しかし進化論は宇宙と生命のメカニズムを説明しますが、その第1原因を見いだすことはできません。それは宇宙の外にある大きな神のみが啓示することができるのです。天地創造の第1原因、つまり創造者は聖書の神のみです。

・大いなる神を礼拝する
 神は被造物を通して御自身を認め礼拝することを願っておられます。そのことを通して、私たちは神のひとり子キリストの贖いの尊さもまた、深く理解できるようになるのです。

2010/08/15 ローマ1:18 天からの怒り

・神の怒り
 福音を通して神はご自分の救いを啓示していますが、それ以外の所では神の怒りをアップとばかりに顕わにされます。神は聖く正しい方なので、それに反するものに対して、怒りを発せざるを得ないのです。
 聖書では、至る所に神の怒りと裁きが示されています。ノアの洪水、ソドムとゴモラの滅び、荒野の屍、エルサレムの陥落などです。

・神の怒りの対象
 神の怒りの対象は「不義を持って真理をはばんでいる人々」です。天地創造の神を神として認めず、偶像を崇める人々、また「自分を神」のようにみなす傲慢な人々です。
 今はお盆のシーズンですが、これも「真理をはばむ」行為です。進化論者が世界と人間の生成に神を排除するのも「不義」です。

・天からの啓示
 「天からの啓示」とは、あまねく知らされていること、すべての民族、すべての時代に対しても向けられているということです。つまり、私たちの時代、私たち一人一人も天を見上げれば、神の怒りを明瞭に見いだすと言うことです。
 私たちが神の怒りを知ることは、ショッキングで辛いことです。しかし霊の現実を直視することで、私たちの救いの道が示されます。  

・福音の下に逃れること
 神は怒りと裁きという左手の支配から、恵みと赦しという右手の支配に逃れることを願っておられます。
 天路歴程のクリスチャンのように、自らと家族に下ろうとしている神の怒りに気づき、福音とそこに啓示される十字架の下に逃れるべきです

2010/08/08 ローマ1:17 義人は信仰によって生きる

・要求する神の義ー律法
 聖書には2種類の神の義が示されています。1つは石に文字としてしるされた「神の義」です。これは外から要求し、人が努力しながら、項目すべてを守るように命令します。しかし、守れないときに、罪人として容赦なく裁きます。
 旧約の歴史は、人は律法を通して「神の義」を獲得できるかを実験した歴史です。結果は不可でした。

・与える神の義ー福音
 福音は預言を通して予知され、律法の後に与えられました。人間は自分の行いに絶望してからでないと、福音を通して提供されている「神の義」に対して心を向けないからです。これは人間の努力によるのではなく、神が提供し、与えたところの「神の義」です。裁く義ではなく罪人をも義とするいわば「二乗の義」です。

・啓示
 この「神の義」は福音のうちに「啓示」されています。人は啓示された「神の義」を発見して、受け取ることにより、それを自分のものとすることができます。さらに、それを獲得した者たちは、神のあらゆる祝福を受けて、内側から変革されていきます。
 
・義人は信仰によって生きる
 この神の義は、ただ信仰によって受け取ることができます。信仰だけが、神からの賜物を受け取ることができる器です。
 キリスト者の生涯は信仰で始まりますが、信仰によって成長していきます。信仰によって、罪の赦しを受け、信仰によって永遠の生命にあることを覚え、信仰によって神の愛を確信して歩むのです。

2010/08/01 ローマ1:16 福音を恥じとせず

・福音は恥か
 ユダヤ人は律法の業と人間の功績を求めました。ギリシャ人は学問の蓄積と洞察を重んじました。ところが、福音は十字架の言葉に過ぎず、信仰による救いを主張します。ですから当時の人々は福音を恥とするような感覚がありました。

・福音を恥とせず
「私は福音を恥とは思いません」
 使徒パウロはユダヤ人とギリシャ人の恥の感覚を知っていました。しかし意志的に恥の思いを否定します。マイナスの感情によって、真理を曲げられてはならないのです。
 恥とする人間の文化には救いはなく、ただ福音のうちにしか救いはないのです。

・福音は神の力
 「福音をを恥とせず」断言する理由があります。それは福音は、人間のものではなく、人間の外側の神からもたらされる救いだからです。パウロは聖書から、使徒たちの証言から、そして何よりも自分自身の体験と啓示から知っていました。

・信じるすべての人にとって
 また「信仰」と言うことも、人々が恥じとする要素でしたが、それこそが神の力を自分のものとする唯一の手段であることを体験的にも知っておりました。パウロは異邦人宣教をしていましたが、彼が行くところどこででも、ただ福音を信じるだけで、人々は救いの喜びを証しし、事実、新しい人に変えられていたのです。
 私たちも福音に込められている神の救いの力を覚えて、はっきりと「福音を恥とせず」と告白すべきです。

2010/07/25 ローマ1:8~15  福音の負債

・福音は「私とあなた」関係を創る
 使徒は会ったことがないローマ教会に対して、大変、親しげに手紙を書いています。彼らの信仰について感謝し、彼らのことを絶えず思い、彼らのために切に祈っています。
 ここに福音を媒介にして、「私とあなた」関係を創出されていることを見ることができます。その関係は良き人格関係です。

・御霊の実を産出
 使徒は離れて「あなたがた」のために祈るだけではなく、「道が開かれて」直接、「あなたがた」と交わることを望んでいます。道とは良き道で互いにすばらしい交流ができるということです。福音を媒介とした交わりができるときに、そこに御霊の実が産出され、互いの益になるのです。

・福音の負債
 「私は・・・返さなければならない負債を負っています」とあります。「負債」と言う言葉で示しているのは強い責務、使命感です。福音とは神の祝福と力の源泉ですから、そこから「あなたがた」の中に創造される「よきもの」は計り知れないのです。先に知ったものは誰でも隣人に対して「負債」を負っているのです。

・私たちも隣人に負債あり
 私たちは福音の内に秘められた力と祝福について、まだ十二分に目が開かれていない面があります。しかし福音の内には神の力と祝福が凝縮されています。それを引き出すには、実際に、あなたの隣人との間に、福音を媒介とした交わりを創っていくことです。「負債」と言うほどの使命感を持つとき、そこから産出される実も豊かとなります。