2021/6/20 創世記22:1~14 父の価値観…火と刀

 ・アブラハムの試練
 「…あなたの愛しているひとり子イサクを全焼のいけにえとして…わたしにささげなさい」と神はアブラハムを試練にあわせます。試練によって彼の信仰を試し、また神の恵みの大きさを新たに示すためです。
 この命令に対してアブラハムは従順に従い、イサクを連れて「神がお告げになった場所へ出かけて行った」とあります。

・父の価値観…火と刀
  「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた」とあります。三日間はさながら巡礼の旅で、神を思い自らを思うときでした。そして「その場所が見える」とことで従者らを残し、アブラハムは息子イサクに薪を負わせ、自分は手に火と刀をもって進んでいきます。その姿の中に、アブラハムが神を恐れ神第1とする信仰心を見ることができます。

・ 信仰告白…アドナイ・イルエ
 山に向かっている時、息子イサクは父親に問います。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」 この問いに対して父アブラハムは「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と返答しています。これはごまかしではなく、アブラハムの心からの信仰告白で、「アドナイ・イルエ」ということです。
 このとき、父の信仰は子イサクの心に投射されることになり、イサクもまた父の信仰と価値観を継承することになったのです。
 

2021/6/13 ルカ福音書11:45~54 律法専門家と知識の鍵

 ・律法の専門家も忌まわしいもの
 主イエスは律法の専門家たちに対しても「忌まわしいものだ」と3回畳み掛けます。彼らは色々な規則を作っていましたが、その世界は表面的な敬虔だけで、実態は、神を恐れることも憐れみもない世界でした。彼らは人間社会の中で、権威と力を持ちたいだけだったのです。

・預言者たちを殺した先祖と同じ
「あなたがたは、預言者たちの墓を建てている。しかし、あなたがたの先祖は預言者たちを殺した」とあります。ここでも律法専門家たちが、預言者たちを敬う素振りをしながら実態は、先祖と同じように神に敵対し、神が派遣した預言者の迫害者、殺害者であることを避難しています。さらには「預言者の血の責任を、この時代が問われる」とあります。それは主イエスを捨て去ることで、彼ら自身も神の民としての立場から捨て去られ、新しい民が起こされることになると宣告しています。

・知識の鍵を持ち去り
 さらに「知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げた」と避難しています。「知識のかぎ」とはキリストによる信仰義認の教理です。彼らは人間的な高ぶりと歪曲のために、聖書の専門家でありながら、聖書を理解せず、聖書が伝える救いの鍵を自らも理解できず、民にも提供しなかったのです。
 ローマ11:20に「… 高ぶらないで、かえって恐れなさい」とありますが、私たちも同じ轍を踏まないように恐れをもって知識の鍵を保ちたいと願わされます。

2021/6/6 ルカ福音書11:37~44 内側のきよめ

 ・外側のきよめよりも
 主イエスが食事の前に「きよめの洗い」をしないのを見て、食事に招いたパリサイ人はつまずきを覚えて驚きました。しかし主イエスはその反応を見て、彼らパリサイ人たちを厳しく非難します。つまり「あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです」と。

・内側のきよめ
 さらに「とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります」とあります。「うちのもの」とは、何よりも私たち自身の心の内側のことを意味します。この部分がきよめられて、神に捧げられることが肝要なのです。そのための手段は、彼らの前に立つイエス・キリストの贖いであり、心からの悔い改めです。

・「忌まわしい」から転換
 「だが、忌まわしいものだ。パリサイ人…」と続きます。 主イエスの言葉にも関わらず、頑なに外側のきよめ、捧げもの、評判によって自己義認するパリサイ人らに対する痛烈な非難です。また、後のキリスト者たちに対する警告の言葉という意味もあります。
 つまり私たちの場合も、内側ではなく外側の敬虔スタイルでよしとして自己義認に陥っている場合があります。そこで、常に心の内側を照らされ、悔い改めによってきよさを回復する必要があります。詩篇51:17にも「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」とあるとおりです。

2021/5/30 ルカ福音書11:33~36  福音と「健全な目」

 ・「あかり」と光
 はじめに、主イエスはご自身が神の光であって、暗やみを照らし、生命を与える方であることを明言します。またご自身は隠されておらず、福音を通して、世にも私たちにも、明々白々たる形で示されていることを告げます。実際に、私たちに対しても福音を通して、キリストは提供され、光として私たちの前に輝いています。

・健全な目
「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るい」とあります。「からだ」とは心を中心とした人間存在全体(全人)のことを意味し、それは罪と悪に染まって暗い存在です。「目」とは肉眼と心の目を意味し、外側にあるキリスト(光)を内側に受け入れる唯一の手段です。そこで「目が健全」であることで「全身も明るく」なります。「健全」とは単焦点ということで、世の欲とダブってはならないということです。

・気をつけなさい
 「あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい」とは、すでにキリストを受け入れた人々に対する警告です。私たちはすでにキリストを受け入れて、全人が明るくされています。しかし、私たちの目は悪くなる傾向があり、その結果、「からだ」全体も暗やみなる場合が多いのです。そこでいつも、「目の健全」さを保つように「気をつける」必要があります。つまり絶えず、世の欲と煩いよりも、キリストを求める心を保ち続けることです。