2017/8/27 エレミヤ4:23~28,14:20~22 絶望と希望



・天地と虚無
「私が地を見ると…形もなく、何もなく」とあります。エレミヤは神の裁きの結果、単にユダヤ一国の滅びだけではなく、天地そのものが虚無と化すことを預言します。人間もまた神の怒りによって、消えてなくなり、その生活環境も虚無と化している様が描かれています。

・罪と絶望/虚無
 人間の罪の結果、世界が崩壊し虚無と化すことについて、聖書は一貫して示しています。ノアの方舟のはなし、ソドムとゴモラの滅び、そして最後の審判です。それは誰も推測できないほど徹底したものです。しかし預言者エレミヤは特別な啓示によって、まざまざとしたかたちで知らされています。そのことは、預言者自身の心を甚だしい絶望と虚無に陥れることになります。
・神と希望
 そのエレミヤは、どのようにして絶望と虚無感から立ち直ることができるたのでしょうか。それはただ、神の全能性と良さ(恵み)を知らされ信じたことによります。人間の本質について知ればしるほど、人は絶望します。ただ神の本質を知り信じることによってのみ、人は希望をもつことができるのです。
 「私たちはあなたを待ち望みます14:22。「イスラエルの望み」17:13とありますが、これらはエレミヤの必死の信仰告白です。そして、エレミヤの生涯の中で、次第に、希望の萌芽に、さらに花と実を造っていくことになるのです。
 私たちの21世紀は繁栄を誇っていますが、人間の罪と限界を知り、人の心には絶望と虚無感が宿っています。この時代に、私たちも強固な希望を宿し、証ししていきましょう。

2017/8/20 エレミヤ4:19~22 預言者と痛み



・預言者と痛み
「私のはらわた…私は痛み苦しむ」とエレミヤは自分の内なる苦しみを表現しています。「腸」とは内蔵のことですが、それが物理的にも痛むほどに彼は激しい心の痛みを覚えています。さらに「私の心臓の壁よ。私の心は高鳴り」と心臓までもが、破けるほどに鼓動している様を表現します。

・仲介者としての痛み
 エレミヤの痛みの原因は、第一に民の罪に対する怒りです。彼らは幾ら諭してもかたくなに罪を続け、ついに神の裁きを招いているのです。痛みの原因の第二は、民に対する愛ゆえです。罪深い民であるけれども、なお捨てきれずに愛し、それゆえに神の裁きを前にして、激しく痛んでいます。
 これはエレミヤが神と民の間に立って仲介者の働きをしているからでした。彼は痛みつつ、神にとりなしているのです。

・神の痛みを体現する
 エレミヤの痛みは、彼自身の正直な感情でした。しかし彼の痛みは、彼自身の痛みだけではなく、彼を預言者として任命した神の心の痛みを体現していたと言えます。実際に、エレミヤ31:20に「わたしのはらわたは彼のためにわななき(別訳:痛み…主の御告げ。」とあります。彼は言葉で神を知らせただけではなく、彼の痛みと涙によって神の愛を現していたのです。
 私たちキリスト者は、エレミヤとは異なった時代に生きており、何よりも救いの喜びによってキリストを証しします。しかし同時に、同胞のために痛みを覚えて祈り、証しすることも大切です。

2017/7/30 エレミヤ2:1~13 若いころの誠実



・若いころの誠実
 神は民との関係を婚姻関係にたとえて語っています。「若かったころ」すなわち、出エジプトと荒野の40年の間は、基本的に民は神に対して「誠実(ヘセド)」を尽くし、献身的な愛をもち、従順であったと。そして神も民に対して誠実を尽くし、聖なるものとして、外敵から守ったのです。神はその時代の民の姿をクッキリと心に刻み、覚えていました。

・むなしいものにより、むなしく
 ところが「乳と蜜の流れる地」カナンにはいった途端、民は主なる神を捨てて、土着の偶像神バアルを慕うようになりました。それは「むなしいもの」「無益」なものでした。その結果、自分たちも「むなしいものとなった」とあります。それは空っぽの人間と言うことで、本来の人間性を失い、生活を破綻させ、神に捨てられて滅びに定められた物と言うことです。

・初めの誠実と愛に立ち返る
 旧約の民が、堕落と罪に突き進んでいた原因について、2つのことが指摘されています。困難なときに、神を呼び求めなかったこと、指導者たちが神のことばを教えなかったことです。
 エレミヤの預言は、同時代の人々には受け入れられませんでした。しかし破滅と捕囚の憂き目にあった後代の者たちは、その預言から教訓を得て、神に立ち返ることができました。しかもその立ち返り方は、徹底していたのです。
 私たちは新約の民ですが、同じように、絶えずみことばに促されて「初めのころの誠実、愛」に立ち返るべきです。