2013/6/23 ヨハネ1:43~51 いちじくの木の下で

・ナタナエル
  ナタナエルがピリポから主イエスについて聞かされたとき、「ナザレから何の良いものが出るだろう」と一蹴しました。先入観と偏見があったのです。しかし実際に、「来て、見た」時に、その偏見は取り除かれました。

 ・本当のイスラエル人
  主イエスはナタナエルを見たとき、即座に「…ほんとうのイスラエル人」と語られました。それは神を信じて、メシヤの到来を切に求め、祈る人のことです。
 多くのイスラエル人たちは、血統と律法に安住して、心の中の信仰が失われていました。その中で、ナタナエルの信仰姿勢は際だっていました。

 ・いちじくの木の下で
  「どうして私をご存じなのですか」との問いに、主イエスは「…あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と語られました。そこは預言書(ミカ4:4、ゼカリヤ3:10)によるとメシヤの時代の敬虔な者たちの集うところとされ、そこで彼は神に切なる祈りを捧げていたのです。その真実な彼の姿を、主イエスは「見て」おられたのです。
  その言葉を聞くやナタナエルは、即座にイエスこそメシヤであることを知り信仰告白をします。

 ・私たちも
  現代は、敬虔な人柄や祈りが軽んじられる時代です。しかしこの時代でも、主イエスはそのような人々を「見て」おり、彼らにご自身を知らせ、またすばらしい御業を現されるのです。

2013/6/16 コロサイ3:18~21 お父さん頑張って

・家族の絆の危機
  現代は家族の絆がドンドンと緩み出し、それが不幸の原因となっています。色々な事件の背後には、家族関係の破綻があることがあります。それは私たちの社会に、家族の絆を支える不易不動の信仰と価値観が不在だからです。  

 ・父権の自覚
  家族の絆には、夫と妻、親と子どもの関係がありますが、父親は全体の要となります。父親の立場と権威が確立されるときに、家族の絆は盤石になります。
  父権は、ただ主イエスによって授けられる権威で、父親はそれをしっかりと自覚し、その自覚の中で子どもとの関係を築くのです。

 ・生かす父権
  しかし、主にある父権は律法的に命令するだけのものではありません。むしろ子どもを生かすための権威です。ですから、常に子どもの主張にも耳を傾ける必要があります。 「子どもをおこらせてはいけません」とあるとおりです。
 父親の有無を言わせない教育では、「気落ちして」子どもは心傷ついてしまいます。

 ・癒し、祝福する父権
  主にあって癒す父権であることも覚える必要があります。父は厳めしいようですが、意外に癒す存在です。それは子どもの言い分にも耳を傾け、子どもの思いを受け止めるときに実現します。  父子が和解する時に、子どもは主に喜ばれ祝福された者となります。

2013/6/9 ヨハネ1:35~42 イエスとの交わり

・何を求めているのですか
  二人がついて来るのを見て、主イエスは「あなたがたは何を求めているのですか」と尋ねます。この問いで彼らの求めを明確にしようとされたのです。
  それに対して二人は「ラビ、今どこにお泊まりですか」と問います。彼らは何よりもイエスご自身と新しい世界をを知ることを求めたのです。

・主イエスを知る
  それに対して主イエスは「来なさい、そうすれば分かります」と語りました。単に知識で情報を知らせるというのではなく、とにかく主イエスのところに行って、体験的に、全人格的に知るように促したのです。
 二人はついて行って、「イエスの泊まっておられる所を知った」とあります。そこで彼らは、主イエスとの交わりを持ち、イエスをも知ったのです。それは「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」1:14でした。

 ・イエスに知られる
  翌日、二人の内の一人アンデレは兄弟のシモンをイエスの元に連れてきます。そのとき、「イエスはシモンに目を留めて…「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパと呼ぶことにします」と告げます。
  この短い言葉から、イエスはシモンの一切を知り、受け入れていることが分かります。さらには青年であった彼に新しい自分と将来の展望を与えているのです。  私たちの場合も主イエスの御元に行くとき、彼との交わりを得、さらに私たち自身の新しい姿が示されます。

2013/6/2 ヨハネ福音書1:32~34 御霊が鳩のように

・御霊
  御霊は父の神、子の神に続く第三格の神で、父と子と同じ力とご性質を持ちます。父が救いを計画し、子が成就し、御霊は現代の私たちに実現します。
  御霊が与えられることについて、旧約以来、預言されていました。「その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」ヨエル2:29とあるとおりです。

 ・鳩のように
  「御霊が鳩のように天から下って」とあります。「鳩のように」とは神との平和と生命をもたらし実現するものとしての象徴です。
  また、「この方」「その方」とはイエス・キリストのことです。キリストは御霊を受け、またその御霊をご自分を信じる者たちに注がれる方です。その御霊は、私たち信仰者たちにも「鳩のように」、神の平和と生命、また愛と力を与えます。

・聖霊のバプテスマ
  バプテスマとは「洗い」を意味しいます。水の場合は、表面だけしか洗うことができず、心の奥底を支配している罪は残ります。しかし、御霊による場合は、心の奥底まで洗い尽くし、完全に神に受け入れらるものとするのです。
  人の心は、アダム以来の罪と死の力に支配され、恐怖の霊が宿っているものです。しかしキリストを信じて御霊を受けた人はただ信じたと言うことだけではなく、実際的に、今も生きて働く御霊の支配におかれ、完全な平和と希望と愛が宿ります。