2016/10/30 ピリピ1:29~30 キリストの苦しみのため



・キリストのために
 「キリストのために」とは、「キリストの恩恵のゆえ」と「キリストに寄与するため」という2つの意味があります。人は誰かの恩恵を受けたり誰かのために、生涯を用いるのですが、キリスト者の基本的スタイルは「キリストのため」です。
 まず「キリストの恩恵」として「キリストを信じる信仰」があります。神が私たちを選んで下さり、心を開かせたので私たちはキリストを信じることができました。その信仰を管として、永遠の生命と人生の幸い、さらには天のあらゆる祝福を受けています。

・キリストのための苦しみ
 また「キリストのための苦しみをも…」とあります。キリスト者は地上では信仰ゆえの困難や苦しみを体験します。それは表面的には辛いものですが、そこに神の恵みのチャンスが隠されています。さらに「苦しみ」はキリストの苦しみとの接点となり、キリストの愛と恵みを深く知る機会となります。

・使徒の戦い/苦しみと
 パウロは「同じ戦いを経験している」と語っていますが、キリストの苦しみを体験する人は、また使徒をはじめすべての信仰者との交わり(コイノニア)に連なり、キリストの苦しみをともにすると同時に、必ず復活の経験を体験することになるのです。

2016/10/23 ピリピ1:27~28 福音にふさわしい生活



・福音にふさわしい生活
 「キリストの福音にふさわしい生活」とは、さながら古代の都市国家のように、福音を規範として神の国の交わりを形成することです。福音は世の法律や律法と異なり、外側から強制するのではなく、内側から生かす教えです。つまり、それぞれがキリストの福音を知り、それによって生かされて、自発的に福音的な交わりを形成することです。

自律自由の交わり
 その交わりは、使徒の存在の如何にかかわらず、福音自体によって形成されるようにと語っています。それはカリスマ的人物や有力者に左右されてはならないということも意味します。そのためには一人一人が日頃から福音に接して自律自由な福音的的な交わりを築くことを心掛ける必要があります。

・霊を一つに、心を一つに
 一人一人が福音にふさわしい生活を志すとき、そこに霊と心の一致が生まれ、教会はしっかりと建てられます。そこに神の限りない祝福が注がれ、神の臨在が顕わになります。そのようにして、教会は世に対してキリストを強力に証することになり、悪の力はそこに入り込む余地すらなくなります。

2016/10/16 ピリピ1:21~26 生きること 死ぬこと



・生きることはキリスト
 生来の「私」は罪と死の奴隷でしたが、新生した「私」にとって「生きることはキリスト」とあります。キリストとの密接な交わり/コイノニアの中にあることを表しています。この交わりは豊かであり喜びに満ちています。また「死ぬことも益」とあるとおり、キリストと共にある生涯の結末も虚しく終わるのではなく、その生涯の報酬として「益」が加えられるのです。

・喜びの板挟み
 「生きることはキリスト」という生涯は、キリストともにということですぐれているだけではなく「豊かな実を結ぶ」とあります。それは死における「益」と対置されています。人は、常に、生きることと死ぬことの狭間におかれているのですが、キリスト者にとっては、どちらも「実」と「益」で満ちていることになります。それはいわば、喜びの板ばさみです。これがキリスト者の豊かな死生観です。

・私の願いと義務
 最後に、パウロは2つの喜びについての選択について証ししています。「世を去ってキリストとともにいることを願う」が、しかし「肉体にとどまることがあなたがたのためには、もっと必要」と。つまり、願いよりもキリストから委ねられた義務を優先しているということです。

2016/10/9 ピリピ1:15~20 キリストのすばらしさ



・問題と痛み
 パウロが投獄された時に福音の前進が見られました。しかし、パウロには、心痛める問題もありました。それはパウロに敵対する分派の宣教活動です。彼らはパウロの投獄をマイナスの宣伝に用いて、反パウロの勢力を広げていたようです。さらに彼らは純粋な動機ではなく、人間的な欲や敵対心によって宣教活動をしていたのです。

・キリストと喜び
 しかし、この痛みも克服され、喜びに転換させるタフな信仰心をパウロは持っていました。つまり分派の敵対活動はパウロの心の痛みでしたが、それだけに囚われず「キリストが宣べ伝えられて」いるということが喜びであるということです。キリストと福音に対する強力な楽観です。

・キリストの素晴らしさ
 パウロは、自分の人生の目標について、次のように語ります。「私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める…」 と、しかもそれが「切なる願いと望み」と語っています。このキリストを第1とする人生観が、結局、苦難と痛みを喜びに転換するエネルギーであったようです。つまりキリストのために苦難にあったとしても、キリストはご自身と共に復活の力と祝福に満たしてくださるからです。 

2016/10/2 ピリピ1:12~14 福音の前進



・パウロの投獄
 パウロは福音宣教の異邦人の使徒として、第1次、2次、3次伝道旅行を成し遂げ、爆発的に福音を拡大させた立役者でした。しかし、彼はローマ当局に投獄監禁されるという事態に陥りました。「私の身に起こったこと」ととは、そのことで、それは教会全体の福音宣教の拡大を頓挫させ、弟子たちの伝道意欲を挫折させる事態のように思われました。
 
・福音の前進
 ところが、人間的な思いとは裏腹に、「かえって福音を前進させること」になりました。それはパウロが投獄されたのが、犯罪によるのではなく、ただ「キリストのゆえ」であることが明らかになったからでした。パウロの投獄を通して、彼の命をかける程の宣教の情熱が明らかになったと言うことです。それを知り、人々の心に感動が起こり、パウロの精神に従って、「恐れることなく、大胆に」福音を語るようになったからでした。

・福音のコイノニア…教会
 パウロは、このことを是非とも「知ってもらいたい」と願っていました。それによって福音宣教と共にキリストが臨在し、人間の力を超えて働いて下さっていることが明らかになるからです。それは信仰者一人一人と教会の力と賛美となります。教会とはそのような福音のコイノニアなのです。