2013/12/22 ルカ1:26~38 受胎告知



・受胎告知
 天使ガブリエルはナザレの処女マリヤのところにやって来て、受胎告知をします。彼女は、ダビデの子孫ヨセフの許婚でした。
 「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」。イエスとは「主は救い」という意味であり、神の子キリストにふさわしい名です。

神に不可能なことはない
 マリヤは身に覚えがない御告げに戸惑いますが、御使いは「神にとって不可能なことはありません」と断言します。聖書で啓示されている神は無から有を創造する全知全能者です。その神であるならば、処女が神の子を身ごもることも不可能ではないのです。

・マリヤの応答
どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。
  マリヤは人間的な理屈で神の力を制限することなく、全能の神の前にへりくだった姿勢で応答しています。その結果、彼女は聖霊によって神の子をやどし、また心には永遠の生命を宿しました。

・私たちのうちにも
 マリヤの信仰姿勢は、私たちの模範です。私たちは肉において御子イエスを宿すことはありません。しかし、マリヤと同じように神とそのみ言葉を信じるときに、滅び行く古い人を脱ぎ去り、永遠の命を宿す新しい人とされるのです。

2013/12/08 ヨハネ福音書5:30~47 聖書の証言



・新約聖書の証言
 主イエスはご自分では神のキリストであることを公言することはありませんでした。しかし次のものが証言します。バプテスマのヨハネ、数々の奇跡、父の神の声「あなたはわたしの愛する子・・・」などです。使徒たちの手紙もイエスがキリストであることを証言しています。

・旧約聖書の証言
 「その聖書(旧約)が、わたしについて証言しているのです」とあります。旧約聖書は39巻からなり、様々な時代に様々な預言者たちが記したのですが、どの書も一貫して人として到来する神の子キリストについて証言しています。確かに旧約時代は神殿と律法があり、キリストの福音に反するように見えます。しかしそれらはキリストと救いの雛形として示されているのです。本体はイエス・キリストです。

・聖霊の内的照明
 旧新約聖書は一貫してキリストを証しますが、それは単に頭脳で分かることではなく、聖霊によって心に照らされて示されます。これを聖霊による内的照明といいます。先入観を持たずに、心からの求道心を持って聖書に向かう人の心に神の霊はイエスがキリストであることを明らかにします。

・信仰と生命のため
 このようにして「イエスこそ神の子キリスト」という確信を持つごと、私たちの内に永遠の生命もまたしっかりと定着するのです。ヨハネ20:31「・・・あなたがたが信じて、イエスの御名によって生命を得るため」とあるとおりです。

2013/12/1 ヨハネ5:19~29 聞く者は生きる



・父と子は1つ
 父の神と子なる神は、存在において1つですが、また業においてもまったく1つです。子は父のすべての業を見て従順になし、父は子を愛して一切の業を子に示します。

・子は生命の権を受けている
 父の神は人を生かし、また殺すという裁きの権を持ちます。その生殺与奪の権を神の子に一切委ねています。それ故、神の子は、この地上においても後の世においても、随意にある者を生かすことができます。

・み言葉の権威
 また神の子の一切の権威はみ言葉において凝縮されています。彼が「生きなさい」と語れば人は生きます。特に福音においては、生かす言葉が語られています。ベテスダ池の病人が癒されたのも神の子の言葉の力と恵みによりました。

・聞く者は生きる
 「今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」
 神の子キリストは今も聖書を通して、私たちに語りかけています。私たちが心の耳を傾けて聞くときに、その人は生きるのです。そして今の時代においても神の子の生命に生かされ、後の世においても決して裁かれることなく、新しい体に復活するのです。

2013/11/17ヨハネ福音書5:1~18 ベテスダ池の病人


・ベテスダ池の病人
 天使が、ベテスダ池の水をかき回す時に、病気が癒されるという迷信がありました。それを信じて、多くの病人が、池の回りに伏せて、空しく時を過ごしていました。
 主イエスは「38年もの間、病気にかかっている人」に目を留められました。


・主イエスに心を向ける
 主イエスは「よくなりたいか」と彼に語りかけます。病人は、藁にもすがる思いで「主よ」と呼んで主イエスに心を向けています。しかしそこから出てくることばは不平と不満でした。彼はまったく身も心も弱り果てて絶望的な気持ちで癒されることを待望していました。


・み言葉の力
 「イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて、歩きなさい。」  
 病人は水がかき回されたときの補助を期待していたのですが、主イエスはご自分の言葉を与えました。み言葉のみに救いの力があるからです。病人は「すぐに直って、床を取り上げて歩き出した」とあります。


・み言葉に聞くこと
 私たちもまた、この世に何らかの救いや望みがあるかのように錯覚して、空しく時を過ごしていることがあります。しかし救いはただ主イエスのみ言葉にあります。それに耳を傾け、心を傾けることが大切です。その時に、み言葉自身が私たちの内に力と生命を甦らせて、私たちを立ち上がらせ、新たな歩みへと進ませるのです。

2013/11/10 ピリピ4:6~7 煩いと祈り




・「煩い」
 聖書の煩うということばは、心が分かれるという意味です。「あれかこれか」と判断に迷うのです。しかもその迷いの原因は、不安感と不信で、やがて「あれもダメ、これもダメ」というジレンマに陥り、心のエネルギーを失うことになります。


・「ビュリダンのロバ」と判断の壁
 「ビュリダンのロバ」という話があります。「あるところに賢い厳格なロバがいました。彼の前に2つの干し草があり、両方の干し草はまったく同じ量で、同じ距離でした。ロバは良い方を選びたいのですが、判断できません。ついには立ち往生しながら餓死してしまうのです。」
 これは実は煩いに陥るときの人間の姿です。この時、彼のうちには、世界と自己に対する不信感と不安感があったので、それが「判断の壁」を造っていたのです。


・祈りにより判断の壁を取り除く
 この「判断の壁」を克服するためには「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願い」が有効です。その時に、私たちは神が私たちを愛してくださる方であり、すべてを益とされるという確信を持つことができます。さらに神ご自身が「人のすべての考えにまさる神の平安」を注いでくださるのです。


・祈りにより神への信頼を養う
 21世紀の世界では、いよいよ世界と自己に対する不信感と不安感が増大します。親は子どもたちとともに祈る習慣を養いながら、子どもの心に神に対する信頼感を形成することが大切です。

2013/11/3 ヨハネ4:43~54 「み言葉を信じて」



役人の求め
 主イエスがカナに行いったとき、王室の役人が息子の癒しを求めてやってきました。彼はユダヤ人一般のスタイルで、信仰など抜きに、ただ癒しの奇跡を求めるだけでした。

・イエスの叱責
 主イエスは「あなたがたは、しるしと不思議を見ない限り、決して信じない。」彼を厳しく叱責します。信仰の先に奇跡や霊的体験を求める求道姿勢は、いつまで経っても安定することなく、救いに至ることはありません。 

み言葉を信じて
 役人は主イエスの叱責によって心の目を覚まし、改めて信仰によって求めます。その時に主イエスはみ言葉を与えます。「その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた」とあります。
 このみ言葉を信じて安んじる信仰こそが、主イエスが求めていた信仰の基本姿勢です。

私たちの信仰生活
 私たちは生来、目に見えることに頼る肉的体質を持っています。それで主イエスに対する求道姿勢も「しるしと奇跡」をもとめるような情緒的で不安的なものとなりがちです。
 そこで私たちもまた、そのような私たちに対する主イエスの叱責を覚えつつ「このみ言葉を信じて安んじる信仰」を確立して行くべきです。