2014/7/27 ヨハネ福音書8:51~59 アブラハムが見た栄光の日



・死を見ない
 「わたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」とあります。
  「わたしのことば」とは、主イエスの福音です。福音はいわば、生命の種であって、地上の生命に蒔かれ、永遠の生命の実をならせます。それは霊的な生命ですが、霊の生命は肉に先んじており、霊の生命を与えられている人々は、肉体の死も、本当の死ではないのです。

・アブラハムが生まれる前から
 主イエスは旧約以来、一貫して神の民を導いてこられた主なる神であることを、再三示します。「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」という言葉は、そのことを示します。そのようにして、主イエスは

ユダヤ人を初め、すべての人が、彼を通して、罪と死の支配から救おうとされているのです。

・アブラハムが見た栄光の日
アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました 」とは創世記15章に記されている場面です。神はアブラハムの救いの完成の日を啓示されました。アブラハムはその栄光の日を遙か未来に仰ぎ見て信じたのです。
 「わたしの日」とは、主であり、神の子キリストの到来の日、また十字架で贖いが完成する日です。その救いにより、死の力は打ち破られるのです。その救いは、福音により、ユダヤ人を初め、すべての国民に提供されています。21世紀に生きる極東の私たちにも提供されています。

2014/7/20 ヨハネ8:31~47 真理は自由に



・「わたしのことばに」
 主イエスは、信じたユダヤ人たちに対して「わたしのことばにとどまる」ことで弟子となることを示します。上辺だけの信仰では「岩地に落ちた種」のようにすぐに枯れるからです。「とどまる」とは、福音の言葉を信じて学び、それを心に形作っていくことです。

・真理を知る
 真理とは「現象の背後にあって決し変わらないもの」を意味します。ユダヤ人たちは律法が「真理と知識の具体的な形」と信じていました。しかし律法は人の外側から命令するだけの文字に過ぎません。主イエスは、私たちの内に形作られて「知られる」真理について語っています。それは第1にご自身のことであり、またそれに伴う内なる恵みと力です。
・真理は自由に
 「真理はあなたがたを自由にします」とあります。自由とは身体的な自由のことではなく、内面的、霊的な自由のことです。それは第1に罪からの自由を意味します。生まれながらの人はすべて罪の奴隷です。それは律法を持っているユダヤ人も私たちも同様な悲惨な状態です。しかし、真理であるキリストとみ言葉を心に受け入れ、形成していくときに、キリストに働いた自由と生命が私たちにも働くようになるのです。

 そこで宗教改革者のルッターは次のように語っています。「それゆえに、言葉とキリストとをよく自己のうちに形成し、この信仰をたえず鍛錬し、かつ強からしめることが、当然すべてのキリスト者の勉べきただ1つの行いであり修行でなければならない。」*「キリスト者の自由」より 

2014/7/13 ヨハネ福音書8:21~30 十字架を見上げる



・「上から」と「下から」
 主イエスはユダヤ人たちに対して「あなたがたが来たのは下から」と語ります。それは土から造られたアダムの子孫であること、罪の支配におかれて死に定められている者という意味です。
 「わたしが来たのは上から」とは、主イエスは見た目は普通の人間ですが、その霊的本質では天から来られた神の子であることを意味します。「上からの者」と「下からの者」とでは、生命の質は雲泥の差です。

・信じなければ
  「わたしのことを信じなければ」とあります。イエスが神の子キリストであることを信じるということです。人はただ信仰によって、「上から来た」キリストに結びつき、永遠の生命に預かることができ、死と滅びを免れます。人は自分の行いや努力などによって「上に」這い上がろうとするのですが、神が定めた「上に」至る手段はただ1つで、ただ「上から来た方」を信じることだけです。

・十字架を見上げる
 「あなたがたが人の子を上げてしまう」とは、十字架につけられることを意味します。それだけではなく、私たちが心の中で、十字架につけられたキリストをしっかりと「見上げる」時と言うことも暗示されています。ともかく、十字架上において、イエスは神の子キリストであることがより鮮明に示されるということです。単に神の子と言うだけではなく、私たちを愛し、私たちの罪のために下られ、上げられた方という感動と共に知らされます。

2014/7/6 ヨハネ福音書8:12~20 わたしは世の光



・仮庵の祭りと光
 仮庵の祭りには、神殿の庭に大きな燭台がともされました。それは荒野の旅の際に主なる神が「昼は雲の柱、夜は火の柱」となって民を導いた出来事を記念するものでした。事実、荒野の民は、そのようにして神に導かれて無事に約束の地に到達できたのです。

・わたしは世の光
 旧約の故事は全てキリストの予型です。そこで主イエス・キリストは「わたしは世の光です」と宣言しています。世は霊的に全くの暗闇で、そのままでは人は滅んでしまうのです。しかし、主イエスは唯一の光として輝き、人々を救いへと導きます。「わたしは…です」とは、絶対的な存在者であることを示す言葉です。つまり、私たちがどのような試練の中でも、どのような絶望や死の淵に置かれている時でも、主イエスは何にも妨げられずに光り輝き、私たちを、救い出すという事です。

・いのちの光を持つ
 「わたしに従うものは、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つ」とあります。私たちはただ、キリストを外に輝いている光として見ているだけではありません。彼を信じて、従うときに、彼は私たちのうちにとどまって、私たちを照らす光となってくれます。そして、困難な地上の生涯を照らし続けて、正しい道を示し、また励ましとなり、力となります。さらには、後の世に続く生命を育んでくださるのです。

2014/6/29 ヨハネ福音書8:1~11 イエスの世界



・姦淫の現場で捕らえられた女
 主イエスが神殿で教えていたときに、律法学者たちが姦淫の現場で捕らえた女を連れてきました。彼らは主イエスを試みるために、わざわざ姦淫の現場を見張って女を捕らえてきたのです。

・律法学者たちの試み
 律法学者たちは、主イエスに対して、この女をモーセの律法に従って石打にするかどうかを問います。それは主イエスに対する試みでした。つまり、もし主イエスが石打にするようにと言えば、民衆の心が離れ、しかも支配者ローマの法を犯すことになります。否定すれば、律法の違反者というレッテルが貼られることになるのです。

・裁く者を裁く
 彼らが「問い続けてやめなかったので」主イエスは「あなたがたの内で、罪のないものが、最初に彼女に、石を投げなさい。」 と語ります。裁こうとする者たちに対して、完全なる律法遵守を要求しているのです。罪人が罪人を裁くことはあり得ないからです。

・イエスの世界…赦し 
年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された女はそのままそこにい。」 とあります。主イエスは唯一の正しい方、女はすでに心から悔い改めていたのです。そして主イエスは女に対して「私もあなたを罪に定めない」と優しく語っているのです。