09/2/22 見よ 神の小羊  ヨハネ1:29

・世の罪
 バプテスマのヨハネは「世の罪」を鋭く指摘します。罪の自覚がなければ救いもないからです。現代の私たちの時代も深刻な罪の中にありながら、その自覚が少ない状態です。辺見庸という作家は、この時代の罪をパンデミック(爆発感染)と表現します。価値観が崩壊しだし、傲慢さと狂暴さが隠然として存在します。秋葉原の事件は氷山の一角です。すでに低層では、破壊的な状態であると。

・罪を取り除く神の小羊
 罪に気づく人は、何とかして罪をぬぐい去ろうとします。しかし人間の努力はことごとく空しいものです。努力の後は絶望感に浸るだけです。罪の聖めはただ、神の恵みによって与えられるものです。ヨハネは「罪を取り除く神の小羊」と言って、指さすイエスこそ、その方です。
 イエスは神の一人子で神と同じ聖さと尊さを持つ方です。しかも罪の贖いのために「実に十字架の死までも忍ばれた」方です。永遠の存在が無限の犠牲をなしたと言うことです。それは絶対の罪の贖いとなります。

・イエスを見ること
 「見よ・・」とヨハネは、叫びますが。イエスを霊的にしっかりと見ることが大切です。そのためには、自分の罪を自覚すること、イエスの尊さと贖いの事実を心で見つめることです。「キリストの打ち傷によってあなたがたは癒された」とあるとおり、イエス・キリストが心に示された人は、罪から聖められ、癒され、生命と希望が与えられたのです。

09/02/08 中風と4人の友 マルコ2:1~12

・中風と4人の友
 中風は現代でいうところの脳梗塞/脳出血のことです。昔は不治の病でした。「ひとりの中風の人」は身も心も魂も、すべての側面で思い苦しみの中にありました。その苦しみを知る4人の友人は病人に対する愛と共に、主イエスに対する熱心な信仰とを働かせます。彼らは家が人であふれかえっているので、屋根をあけて天上から病人をつり降ろします。破天荒ですが、主イエスは友らの熱心な信仰をよしとします。

・主イエスは罪を赦す権威を持つ
「子よ。あなたの罪は赦されました。」 
 主イエスは病人の根本的解決を「罪の赦し」という形でなされました。罪こそが悲惨と苦しみの根源です。また罪の赦しを基盤として、人間は全人的(whole man)に新しい生命を回復するのです。
 この後、主イエスは病人を立ち上がらせて、肉体の病気をも癒されます。それは罪の赦しが基盤としてあり、全人的救いが、その人にもたらされていることを示します。「人の子」とは主イエスのことですが、当時の人々の考えとは異なり、彼が到来した第1の目的は、罪の赦しだったのです。

・私たちも4人の友のように
 この物語は、私たちも4人の友のようにして、ひとりの魂の救いのために信仰を働かせることの大切さを示します。ひとりの人の魂は重く、また多くの側面の痛みがあります。複数の助け手があって初めて、主イエスの元に導かれるのです。その時、主イエスは「あなたの罪は赦された」と宣言し、その人に対して全人的な癒しの御業をなしてくださるのです。

09/02/01 らい病人のきよめ マルコ1:40~45

・ライ病人の求め
 ライ病人は旧約律法では宗教的にも、社会的にも、汚れた者とされ、一般の人々との接触も禁じられていました。それゆえ彼らは、肉体の疾患とともに魂に苦痛を覚えていました。新改訳第3刷の「ツァラト」とはヘブル語で「ライ病(汚れ)」を意味します。
 「ひとりのらい病人」は、その苦痛にあって主イエスにきよめられることを願います。ひざまずいて「お心一つで、私はきよくしていただけます」とは、強い信仰です。イエスが神の子としての権威と力を持つ存在ということを信じています。

・「わたしの心だ」
 「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」」
 らい病人の求めは、イエスの心の琴線に触れ、「イエスのきよめる心(意志)」を引き出しました。手が触れたのは、明瞭にイエスの意思を表すためです。その心と言葉が接点となって、彼はきよめられ癒されたのです。

・ライ病人のきよめ
 しかしライ病人は、本当の「きよめ」を知らないまま、イエスの元から去ってゆきました。それは肉体ではなく魂のきよめ、罪からのきよめです。この方が人に永遠の生命と平安、そして喜んで神に仕える心を与えるのです。
 もとハンセン病患者の谷川秋夫さんはこの点を証ししています。病気が癒されたこと以上に、主イエスによって罪からきよめられ、神に仕えることができる幸いについてです。そして主イエスを知る毎日について次のように語ります。「確かに肉体的には辛いこと、苦しい事もありますが、なにか日々新たにされているという実感があります。」