2015/4/26 ゼカリヤ12:9~14  恵みと哀願の霊



・「その日」
 「その日」とは「終わりの日」のことで、イエス初臨から新天新地までの期間を指します。預言者たちは、一様に「終わりの日」について預言します。それは神の民に対して将来における救いの完成を示し、未来の展望を与えるためです。ゼカリヤ書12章で示されていることは、神が外に置いては敵を粉砕し、内においては民を聖めることです。

・恵みと哀願の霊
 「恵みと哀願の霊を注ぐ」とあります。それは第1には悔い改めの霊と言うことです。昔から民は、「うなじがこわい」民で、世に執着して神を振り返ることがない罪の性質を持っていました。「恵みと哀願の霊」によってのみ、神に心を向けるのです。また第2に、この霊は、神が民を恵み憐れむ霊ということです。悔い改める者を、神は「恵み憐れむ」のです。
・自分たちが突き刺した者を
 「自分たちが突き刺した者」とあります。人の罪は神に対する反逆ですが、私たちは、その深刻さを認知できません。そこで神はひとり子キリストを地上に遣わしたのです。彼の最後は十字架の死でしたが、私たちの罪の結果であると聖書は示します。
 「仰ぎ見」とは福音を通して、見て、深く黙想することです。そのようにして、私たちの心の中に霊が下り、悔い改めに導かれるのです。

2015/4/19 ゼカリヤ8章 残りの民の幸い



・神のねたむほどの愛
 ゼカリヤ書では「神のねたみ」が1つのテーマになっています。かつて偶像崇拝に向かい裏切った民から離れ、彼らを激しい怒りによって滅亡させ、バビロン捕囚の憂き目にあわせました。
 しかし今の時代、お取り扱いが変わり民の中に臨在し、民を祝福し増やす約束をされます。

・残りの民の幸い
 「残りの民」とは試練の中で、生き残った民のことを意味します。先にはBC722年のアッシリアの侵入、BC587年の国の滅亡とバビロン捕囚、そして今はバビロンから帰還した民が「残りの民」です。彼らは反逆した父祖たちとは異なり、神の熱い愛の中におかれているのです。神は彼らに対して「平安の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を降らす」と約束されるのです。

恐れるな 勇気を出せ
 さらに「恐れるな。勇気を出せ」と励ましています。一度、冷えた信仰をもう一度、喚起させることは難しいことです。しかし神のみことばの招きに、くり返しチャレンジして行くことが、神の民には要求されるのです。またその新たに呼び起こされた信仰は、神の目に尊いものとみなされるのです。

2015/4/12 ゼカリヤ書4:1~7 主の霊によって



・金の燭台
 ゼカリヤは金の燭台の幻を示されその不思議な幻はゼカリヤの魂に深く刻まれました。燭台には7つの灯火皿があり、そこには左右にあるオリーブの木から油が供給されているのです。この幻が意味することは、神が民と共におり、御霊とその恵みを無尽蔵に注ぐということです。

・主の霊によって
権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」と語られます。人間の権力や富、また個人の力や能力によってことをなそうとするのではないこと。むしろ主なる神を信頼し、その霊の力よってなすということです。
 私たちは目に見えるものに頼ろうとする性向を持ちますが、神の霊のみが目に見えるものより大きく、確実にことを実現できるのです。このことはただ旧約の民について語られているだけではなく、何よりも現代の教会に対してのメッセージです。

・大いなる山よ
 「大いなる山」とは、目の前に立ちはだかる困難を意味します。山とあるように、それは梃子でも動かないように思われることがあります。しかし、地上の何よりも大きな神のみにより頼んだときに、「恵み、恵み」と叫んでいるような音を立てるようにして取り除かれるのです。

2015/4/5 マタイ福音書28:1~20 ガリラヤに行って



・イエスの復活
 週の初めにマリヤたちが墓を見に行きました。彼女たちは主イエスの復活について聞いていましたが、しっかりとした信仰がなかったので、悲しみと絶望の中にありました。しかし、大きな地震が起って墓石が転がり、主の使いが降りてきました。また「ここにはおられませんよみがえられた」との言葉を聞いたときに、彼女たちの心は一転しました。

・ガリラヤに行って
 また主の使いは「ガリラヤに行って」会うようにと促します。ガリラヤはユダヤ地方から離れていて、祭司長らの脅威が少ないという理由と共に、イエスの復活を信じて行動するように命令したのです。女たちは早速、弟子たちに伝え、弟子たちは、イエスの指示したガリラヤの山に行ったときに、イエスに会い、礼拝します。イエスとの出会いの場は、復活の生命が満ちた世界でした。

・行って
 最後にも「行って」とあります。主イエスは信仰と共に、常に行動を求めます。信じて行うときに、そこに主イエスの臨在と復活の生命が現れるからです。
 私たちは、この世の厳しい現実の中で心を痛めたり、絶望感に浸っていることがあります。しかし主イエスと出会い、復活の生命に満たされるためには、とにかくキリストの約束を信じて「行く」ことが大切です。まずは礼拝に行くことです。そこで主イエスは、私たちと出会うよう待っておられるのです。

2015/3/29 マタイ福音書27:11~46 十字架上の王



十字架上の王
 主イエスは旧約聖書で預言されたキリスト、すなわちダビデの子孫、神の子として到来しました。それは神の栄光に包まれた王、すべてを支配する王ということでした。しかし、実際の姿は「苦難のしもべ」「十字架にかけられた王」でした。それは人の罪のゆえです。

・十字架に追いやる人々
 ユダヤ人の祭司長と長老たちはねたみから主イエスを退け、総督ピラトに告訴しました。また「十字架につけろ」と激しい憎しみの思いを顕わにして、極刑を求めます。それは律法によれば神に呪われた者として死ぬということです。
 総督の兵士は、主イエスを案山子のように人格を無視して、からかい、乱暴しています。「着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。いばらで冠を頭にかぶらせ」イエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。」

・十字架で捨てられ
 主イエスは一切の罪によって十字架に追いやられますが、神はその罪を彼に担わせ、地から捨て去ります。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ 」とは、神に捨てられ者の叫びです。
 「彼の打ち傷によって私たちはいやされた」とありますが、私たちの罪も彼が担い、彼が取り去ったのです。私たちが彼に報いる術は、ただ悔い改めて、贖いを心から受け入れることです。