2022/1/23  ルカ福音書16:1~13  不正な管理人の話

 ・不正な管理者の話
 主イエスは、主人によって解雇を言い渡された不正な管理者の話をしています。彼は次の就職口を得るために色々と考えて、よい知恵が浮かびます。「主人の債務者たちをひとりひとり呼んで」債務減額の証文を新たに作らせて恩を売り、その債務者たちの家を、次の就職口にと画策したのです。そのことは、別に、主人の損失ではなかったので、主人は、管理人の抜け目なさほめたというのです。

・不正の富で友を獲得する
 そこで主イエスは「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」と語ります。「不正の富」とは地上の富ということで、それ自体はマモンで、偶像的な存在になります。しかしそれを霊的な手段のために用いるときに、もはやマモンではなるということです。むしろ霊的に有益なものとなり、「永遠の住まい」の保証となることを示しています。

・不正の富と「まことの富」
 また「不正の富に忠実」によって「まことの富を任せる」られるとありますが、「まことの富」とは「アーメン」で永遠の富を意味します。確かに、それは信仰によって獲得するのですが、その信仰を地上の生活の中でも具体的に働かせることの重要さについて語られているのです。

2022/1/16 ルカ福音書15:25~32 もうひとりの放蕩息子

 ・兄息子
 たとえの後半は放蕩息子の兄に焦点が当てられています。彼は弟とは異なり、父の家に留まり、父の戒めに従い、かつ父に仕えて仕事を忠実にこなしていました。弟が帰ってきたときも、彼は畑で農作業をしていました。しかしこの日は、帰ってきて家に近づくと弟の帰還を喜ぶ音楽と踊りの音が聞こえたとあります。

・もうひとりの放蕩息子
 彼は事の次第を聞くと「おこって、家にはいろうともしなかった」とあります。彼は父のために戒めを守り真面目に働いているのに何の報いもない。それに対して放蕩息子の弟が帰ってきたときに、宴会をして大喜びをするのは、不公平であるというのです。
・父の愛、神の愛
 父は兄に対して父の裁断に何の不公平がないことを説明します。また表面的な義ではなく、さらに重要な親の愛の観点から、父親が弟息子の帰還を「楽しんで喜ぶのは当然」と語っています。また「おまえの弟」と表現して、兄息子もまた、父とともに弟の帰還を喜ぶべきであることを諭します。
 このたとえは、単にパリサイ人らの態度を非難して語られているだけではありません。さらには、私たちキリスト者同志の交わりのあり方を示しています。私たちも自分の義によって兄弟に不満を感じたり、怒ったりするものです。しかし人間的義よりも神の愛が優先されるべきで、私たちもそれに習うことが、要請されているのです。

2022/1/9 ルカ福音書15:11~24 放蕩息子のたとえ

 ・放蕩息子のたとえ
 主イエスは悔い改めの大切さを放蕩息子の例えを通して語っております。ある人に2人の息子がいて、弟息子が父の財産を受け取るやいなや遠い国に旅立ちます。そこで放蕩三昧によりお金を使い果たして、食べるのにも困るほどのどん底状態に陥ります。

・悔い改め
 このどん底状態の中で、弟息子は「我に返り」ます。それは自分がどのような状態でも、豊かなる父との関係にあることに気づくということでした。「立って、父のところに」行って、悔い改める決意をします。それは自分の罪を認め、心からの方向転換を明確にすることです。心の転換はいつの場合でも、全人と人生をも転換させます。
・父の愛
 息子が自分の父のもとに向かった時「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」とあります。父の愛の歩み寄りは、息子の帰還に先んじています。そこに父の愛の大きさが現されています。父は、彼を息子として迎え入れ、最高のもてなしと喜びで祝ったのです。ここに悔い改めて帰還するものに対する神の姿がが見事に描かれています。
 私たちは世という遠い国にいる者たちで、何らかの放蕩息子的存在です。新年のはじめ、まず心からの悔い改めによって、父なる神のもとに立ち返る姿勢を明確にしたいです。そして父の愛と祝福に満たされて、一年の初めの一歩としましょう。

2022/1/2 ヘブル4:14~16 恵みの御座に

 ・偉大な大祭司
 新年、初詣で神社仏閣を尋ねる人が大ぜいおりますが、私たちにはイエスが共におられることは心強いことです。彼は、何よりも「もろもろの天を通られた 偉大な大祭司」であると明示されています。どのような霊的権威や力よりも優れた方であり、私たちのために、神との仲介者となってくださる方ということです。

・私たちの弱さに同情
 「弱さ」は地上に生きる人間の現実の有様です。力の弱さ、心の弱さ、病気などの肉体の弱さ、罪に対する弱さなどです。その弱さ故に、私たちは苦しみ悩むのです。しかし「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」とあるこも心強いことです。つまり、私たちの弱さが接点となり、彼のうちに同情が起こるからです。

・ 恵みの御座に
 「大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」とあります。「大胆に」とは、心から信じてということです。「恵みの御座」とは、キリストおられる天の御座ですが、私たちは霊的に、そこに招かれているのです。そこではいつでも、さながら福音書の世界のとおりに、イエスによる恵みの注ぎがあるのです。その恵みは、心の慰めとともに、新年の具体的な導きと歩む力となります。