2011/12/25 イザヤ9:1~7 大きな光

・闇
 預言者イザヤは時代の「闇」を示します。それは北イスラエル王国が蹂躙され、捕囚の憂き目を見たという苦難だけではなく、罪と死の現実を指していました。人は、様々な苦難の中で、その背後にある「漆黒の闇」を垣間見るのです。人間が放つものは偽りの光であったことに気づくのです。

・大きな光
 預言者はまた「大きな光」について預言します。闇が苦しみと破壊、絶望と死であるとするなら、「光」は、喜びと復興、希望と生命を意味します。しかも神による光であって決して消えることがない「大きな光」を示します。その光のみが、人々を優しく照らし、心の深くまで届く光です。
・私たちのための「みどりご」
 光は「ひとりのみどりご」として象徴的に預言されています。赤ちゃんは人間としての能力も強さも知恵もありませんが、神は赤ちゃんのような彼の無力さ、低さの中で栄光を現されます。
 また「私たちのため生まれる」とあります。「一将功成りて、万骨枯る」と言われますが、多くの王たちは自分の名誉のためにだけです。しかし彼は、永遠に「私たちのために」生き、働き、仕える方です。 

・啓示の中で見る
 彼は事実、赤ちゃんとして、しかも貧しい成りで飼い葉桶に生まれました。その貧しさと小ささは人間的目には躓きです。彼が「大きな光」であり、神のキリストと知るためには、啓示によって、すなおな透き通った心の眼差しで見ることです。

2011/12/18 マタイ1:18~25 インマヌエルの扉

・開かずの扉
 旧約の預言者たちは、終わりの日にインマヌエルが到来すると預言をしました。しかしその実体は不明瞭で人々にとって閉ざされた扉のようでした。
 このことはヨセフにとっても全く同様で、マリヤに起こった出来事を知っても、躓いたままで、マリヤを「内密に去らせ」、離縁しようと考えたのです。

・思い巡らし
 「彼が…思い巡らしていたとき」とあります。彼は敬虔な人であったので、神の恵みと力、様々な預言者たちの言葉について、またマリヤとその言葉について思い巡らしたでしょう。その思い巡らしの中で、神の不思議の実体が少しずつ明かにかなるのです。
 多くの信仰者たちも「思い巡らし」によって、処女降誕に秘められた救いの世界を再発見しました。

・鍵
 ヨセフが最終的に鍵をを見いだしたのは神の啓示によります。御使いが明瞭に不思議の実体を示したのです。「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊による」と。またイザヤ7:14のインマヌエル預言が示されます。彼が閉ざされた扉を開く鍵は、神と奇跡的預言をそのまま信じることでした。

・インマヌエルの扉
 ヨセフは「命じられたとおり」にしたとき、彼はマリヤと宿された幼子を自分のものとしたのです。それは同時に、旧約以来閉ざされた扉を開きインマヌエル(神は私たちとともに)世界に入ることになったのです。

2011/12/11 ヨハネ14:16~18,16:14 聖霊について

・第4条…聖霊
「聖霊のみわざが主イエス・キリストに栄光を帰し、現在の時代においては人々に罪を認めさせ、信じる罪人を新生させ、敬虔な生活と奉仕のために信者に内住し、信者を導き、教え、力づけるものであることを信じる。」
 聖霊は三位一体の神の第3格です。父と子キリストから流れ出た霊であると言われます。しかし蒸発などすることなく、百パーセント完全に流れ出た霊であって、父と子の神と同じように、神としてのご性質と能力を持っておられます。 また「もう一人の助け主」とあるように、単なる力というのではなく、明瞭な顔を持つ人格(ペルソナ)です。

・キリストに栄光を帰す
「御霊はわたしの栄光を現します」とあるように、御霊はキリストの人格と御業をそのまま現します。それ以上でもそれ以下でもありません。具体的にも、御言葉と霊として人々にご介入されることによってキリストの栄光が現し、その顔と心はキリストそのものです。

・今の時代において
 厳密には、父は天にあり、子は二千年前に地上に来られただけで、今の時代には、直接に関わりません。すべて御霊を通して、私たちとともにあり、私たちを愛し、私たちの罪を裁き、私たちを救います。闇の時代にあっても、私たちは「孤児」ではありません。
 具体的には、罪人を新生させ、信者に内住して、神殿とし、その祈りを聞き、日々の導きを与え、教会を形成します。
 最後に、私たちが聖霊の恵みにあずかるためには、ただキリストを信じ、御霊の業を信じることです。

2011/12/04 ローマ11:25~36 この神に栄光あれ

・神の奥義
 パウロは信仰者たちが自分勝手な考えで高ぶらないように「奥義」を示します。それは異邦人の救いが完成するときに、今は不従順なイスラエル人も救われると言うことでした。神は人を不従順に放置して、その後に憐れみを注がれる神です。人間が自分がすぐれていると高ぶったり、自分の力で救われたという傲慢な思いを持たないためです。
 「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた」のです。

・すべてのことは神から
 いつの場合でも、「神の知恵と知識の富」は人間には計り知れないのです。また人間は神の働きに自分から参与するとか、自分が神の働きを助けたなどという高ぶりは許されません。神のみが一切を成し遂げられる方なのです。
 確かに「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」のです。神のみが救済の歴史の創造者であり担い手です。神のみがほめたたえられなければなりません。

・この神に栄光あれ
 神は私たち信仰者に、神の主権を日々知らせます。また御言葉をとおして奥義として前もって示し下さいます。それは私たちがあえて、神に栄光を帰すためです。目先の現実は、神の憐れみが見えない、神は厳しい方、不可解な方と思うときがあっても、私たちは信仰によって、真実を覚え、希望を持って、ほめたたえるのです。どこまでもへりくだらされ、純粋な賛美者となるように招かれています。
「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

2011/11/27ローマ11:11~24 慈しみに留まる

・彼らの違反と私たちの救い
 初代教会クリスチャンの中には、ユダヤ人の違反ばかり見て敵対視する者がいました。そこでパウロは、ユダヤ人を通して異邦人が多くの恵みを受けていることを指摘します。
 まず第1に、彼らの違反を通して福音が異邦人に及んだことです。もしユダヤ人の大勢が改心していたら、なかなか福音は民族の枠を超えて異邦人に伝わることがなかったのです。そこに神の恵みと慈しみがあります。

・彼らの完成と私たちの栄光
 第2に、神は現在と将来、彼らが福音にたちかえるという計画を持っておられます。彼らが復帰することは、彼らのみではなく、異邦人にとって「すばらしいもの」をもたらすことになります。つまり「彼らの捨てられることが世界の和解」「彼らの受け入れらることは、死者の中から生き返ること」となるのです。

・さばくな、高ぶるな
 私たちは、周囲の人々や集団を神に背を向けて滅びに向かうと裁いてしまいがちです。しかしそのような人々でも、背後では不思議な神の支配があります。私たちは早まって裁いたり、非難したりしてはならないのです。それは誇ること、高ぶることです。むしろ神を「恐れる」姿勢が大切です。

・神の慈しみに留まる
 私たちは自分の罪とむなしさを示されて、信仰に導かれました。その背後に、私たちに対する神の慈しみがあったからです。私たちがそこに留まるためには、私たちも神の前にへりくだって、同じ慈しみの心で人々を見、対応することです。

2011/11/13 マルコ6:45~52 湖で

イエスさまは弟子たちを舟に
乗り込ませて、先に向こう岸に行かせようとされました。ご自分は「山のほうに、祈るために向かっていきました。」
ところが、弟子たちの舟は真夜中になっても、やっと湖の真ん中でした。しかも向かい風がだんだん強くなってきていたのです。

 その時、だれかが舟の方に近づいてくるような気配がしました。それは風や波とは違って、何か動くものの気配で、どんどん、舟に近づいてきます。
 弟子たちは、幽霊だと思い、慌てふためき叫び声を上げました。


 それはイエスさまでした。歩いて湖をわたってこられたのです。イエスさまは「しっかりしなさい、私だ、恐れることはない」とおっしゃいました。その言葉で、弟子たちの心に平安がもどりました。それからイエスさまが舟にのりこむと、風がやみました。
 
 私たちは、ちょっとした事でも恐れてしまう弱虫です。本当は強い人はだれもいないのです。神の子イエスさまの「恐れることはない」という言葉で、人の心は湖のように、落ち着きをとりもどすのです。

2011/11/06 ローマ11:1~10 残りの民

・神の恵みの現れは?
 旧約聖書において、神はイスラエル民族に対して恵みの神でした。その恵みは、新約の時代にも失われたのでしょうか。
 そうではありません。神の恵みは不変であって、どのような中でも保たれてきました。現に、パウロにしろ十二使徒にしろ、イエスの復活の証言者であった多くの者たちもイスラエル人でした。また多くの者たちが新約時代においてもキリスト教会の中心となっていました。

・残りの民
 神の恵みはすべての民族というのではなく、その中の「残された者」に明確に現されます。旧約の預言者エリヤの箇所で「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。 」とあります。ここに「残りの民」の思想が明瞭に現れています。大半の民が偶像礼拝にうつつを抜かしていた時にも、神は恵みの選びによって、神の栄光と使命をなす民を用意しておられたのです。このことは新約時代のイスラエル民族についても同じように言えます。
 
・残りの民の使命
 また「残りの民」と言うことは、私たちについても同様に言えます。日本人のほとんどは無宗教、偶像崇拝にうつつを抜かし、あるいは自分を神としています。私たちは神の恵みによって「残りの民」とされています。
 私たちは神の朝露のようです。つまり日本に対する神の恵みのすべてが凝縮しています。神は私たちの礼拝を通して栄光を現し、私たちの証を通して永遠の希望を輝かせいます。

2011/10/30 ローマ10:14~21 福音と宣教

・救いの伝達ルート
 神はイエス・キリストを通して救いを成就されました。その救いの伝達手段はただ福音宣教のみです。山上や荒野で、一人で黙想して救いに至るということも、カリスマ的人間の言葉と霊力によって救われるということもありません。救いの伝達ルートは派遣、宣教、傾聴、信仰のみです。

・派遣と宣教
 まず神によって派遣される事が重要です。旧約の預言者たちにしろ、使徒たちにしろ、神の救いをもたらす者たちは、神によって御言葉を委ねられて派遣されています。彼らもその召命に対して自発的に応答しています。そこで救いのルートの第1歩が始まります。派遣された者たちは神から委ねられた福音のみを宣教します。それは彼らの言葉であってはなりません。また神によって派遣されたものとして継続と忍耐と鍛錬が要求されます。人間は罪ある者/欠点だらけの者ですが、神は人間を宣教者とすることをよしとしておられます

・礼拝と立派(美しさ)
 救いの伝達は、第1に教会の礼拝において実現します。牧師は召命に応えて福音を語ります。牧師は人間的に見れば欠けだらけの存在ですが、神によって「立派」とされています。福音が語られているところには神の国が到来しており、聖霊は神の国の門を個々人の心に開きます。
 
 「信仰は聞くことから始まり」とあり「聞くことはいけにえにまさる」とあります。そこに信仰が起こり、祈りと賛美と献身と奉仕が生まれ、キリストの体が立派に出現します。

2011/10/23 ローマ10:1~13  救いの門

・「救いの門」
ユダヤ人たちは律法による自分の行いで神の国に入ろうとしていました。しかし、それは誤った手段であり、いくら熱心でも神の国に入ることはできません。いくら「律法による」門を叩いても、その前で頑張っても入ることはできません。
 イエスが到来することにより、救いの門は、もはや律法によるということはなく、徹底して信仰によって開かれるのです。「信仰による義」ということです。

・「救いの門」は御言葉による
 「信仰による義」は神の御言葉によります。神の御言葉は、「人間の努力で天に登って獲得してくる」、あるいは「人間が地の奥底に下るような苦しみを通して獲得する」というものではありません。神の子キリストが天から下り、地の奥底から復活してもたらしたものです。御言葉は人間の言葉と変わらない側面がありますが、しかし人間の言葉に似ていても、神の言葉であり、神が天からもたらした救いの言葉、すなわち救いの門です。
 そして、「みことばはあなたの近くにある」のです。

・「救いの門」に入る
 この「救いの門」に入る手段は、「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じる 」ことだけです。宗教改革者ルッターが、修道院で信仰義認を再発見したときのことを次のように述懐しています。
 「・・・私は全く生まれ変わって、開かれた門を通ってパラダイスそのものの中に入ったように感じた。」

2011/10/16 ローマ9:19~33 あわれみの器

・創造者/神の主権
 人間には傲慢な心があって、神に対しても自己主張をします。しかし聖書の神は創造者として絶対的主権があります。神は天地創造のおり、無から有を創り出された方で、人間もまたそのようにして創造されました。人間は神の前で、被造物として何の権限もないのです。それを主張することは罪を深めるだけです。

・陶器師と陶器
 神と人間の関係は、陶器師と陶器の関係と同じです。陶器師は自由に土の塊から色々な陶器を造る絶対的権利があります。あるいは尊いことに用いる陶器、あるいは卑しいことに用いる陶器と自在に、自分の意志だけで造るのです。当然、陶器が陶器師に対して言い逆らうということはありません。丁度そのように、神と人間とは存在の次元が異なっているのです。

・怒りの器とあわれみ器
 私たちは欠けだらけ、汚れだらけの怒りの器です。何のよいところもない全的堕落状態です。しかし神は、私たちに対しては「豊かな寛容」をしめして、「あわれみの器」として招いてくださっています。私たちに何か良いところがあるから、というのではなく、全く神のあわれみの主権によることです。
 「彼に信頼する者は、失望させられることがない」とありますが、彼をあわれみの門として私たちの前に提示して、招いてくださっているのです。

2011/10/9 信仰箇条第3 イエス・キリスト

・信仰箇条
 信仰箇条の学びを隔月にしていますが、これは信仰の一致と異端の誤りから教会とクリスチャンを守るために有益です。今回は第3条は「イエス・キリスト」についてです。

・イエス・キリストの人格
 「真の神であり、真の人である」とあります。これを神学用語で二性一人格といいます。神と人とは1つの人格の中で一体となっているという意味です。
 このことは聖書に基づきます。ヨハネ1:1,14またピリピ2:6~8、ヘブル1:3に記されています。このキリストの特異なご人格は神と人との仲介の働きをするために大切です。

・キリストの業
 「聖書に示すとおり、十字架の上に私たちの罪の犠牲として死なれたことを信じる」「肉体を持って復活し・・・」
 イエスの業の中心は十字架の贖罪と復活です。主は福音書においてご自分の使命を明示しておられます。「十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」ルカ24:7。また他にも「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」ヨハネ1:29、「キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」Ⅰテモテ2:6.との御言葉があります。

・異端を判別し、純粋な信仰を養う
 私たちは、信仰告白によって様々な毒のような異端を見分けることができます。同時に、安心して純粋な信仰を養うことができるのです。
 しかし最終的には自分の目で聖書に触れて確かめ、またキリストを味わうことがより大切です。 

2011/10/2 ローマ9:1~ 選びとあわれみの民

・肉の子ではなく
パウロには「大きな悲しみ」と「心の痛み」がありました。それはイスラエル人が神から離れているという現実です。彼自身がその血と伝統の中で育っていたのです。
 しかし彼はあえて、キリスト教会に入り留まったのは、神の民とされるのは、肉によるのではなく神の約束の言葉によるということを知っていたからでした。

・約束の言葉
 聖書を見ると、確かに神の民とされるのは約束の言葉によるということが明らかになります。たとえばイサクの選びの場合は「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」との御言葉によりました。ヤコブの召しも「兄は弟に仕える」との言葉によっています。そして私たちの場合も、「主の御名を呼び求める者は、誰でも救われる」との御言葉によって、神の民とされています。

・神の憐れみ
 さらに私たちが選ばれたのは、私たち自身の「願いや努力」によったのではなく、一方的な「神のあわれみ」によります。あえて神の民として値しない者、小さな私たちに目を留めてくださったということです。
 私たちは異国民であり、日本人の血と伝統の中に生まれ育ちました。確かに、私たちにも「悲しみと「痛み」があります。しかし私たちの場合も、神の選びとあわれみを優先して、心から応答すべきです。 

2011/9/25 イザヤ35章  贖われた者たちの帰還

・サフランの時
 私たちの地上の人生はある意味で「荒野と砂漠」です。罪の汚れに心痛め、死の恐怖におびえ、また悲しみます。
 しかし神は、私たちのために「サフランのように花を咲かせる」時を用意しておられます。それは「終わりの日」の主イエスの再臨の時です。それは突然訪れ、「荒野」の世界を喜びと生命に変えるときです。

・贖われた者たち
 「大路」とは、神が特別に設けられた道です。そこを通れる者は「贖われた者たち」だけです。それは主イエス・キリストの十字架の血を信仰によって受け入れた人々のことです。その他の者は、如何に地上で業績を上げたとしても、善行を為したと言われていても、性格が良いと思っていても、通ることはできません。

・帰還の時
 「主に贖われた者たちは帰ってくる」とあります。私たちもそこに帰り、すでに召天した人々も「帰ってくる」のです。それは主イエスと共に到来する神の国であり、完全な形で現れます。そこで私たちはキリストの御顔を仰ぎ見ると同時に、先に召天した人々と出会うことになります。
 召天記念礼拝では、過去の兄姉の面影を追憶するだけではなく、むしろ未来の帰還と再会を待望するときです。私たちは信仰を強くして、その時を待望しましょう。

2011/9/18 敬老の招待礼拝 イザヤ46:3~4 白髪になっても

・年をとること
 「白髪は光栄の冠」とあるように、高齢者は神に祝福されています。しかし体力的には色々な試練が伴っています。筋肉や骨が弱る、熱中症にかかりやすくなる、さらに老いたときの生活が不安である等です。

・「あなた」の神を知る
 そこで聖書で、神御自身が語りかけておられ、その不安からの逃れる道を示しておられます。
 「わたしに聞け」と神は語られまう。「わたし」とは、「あなた」のことを誰よりも知り、あなたの近くで心配してくださる神です。

・「あなた」を担う神
 「胎内にいるときから担われており・・・」とあります。赤ちゃんの場合、母親が胎児を担い、生まれてからはお乳から排泄にいたるまでの世話をします。しかし神は背後で、同じように愛を持って担ってくださる方です。目に見えることの背後には、いつも超越した神の業があるのです。

・白髪になっても
 私たちに明瞭に老化の兆候が見えたとき、不安がよぎります。しかし、幼いときと同じように、神は担ってくださり、背負ってくださり、救ってくださるのです。
 私たちとしては、その神の愛の約束を信じて老年を生きることが大切です。たしかに「白髪は光栄の冠」なのです。

2011/9/11 ローマ8:31~39 圧倒的勝利者

・世にある私たち
 地上に生きる私たち信仰者には、色々な敵対者があります。私たち自身の肉体を等して働く罪と欲望、神に敵対する世の流れ、日本の偶像崇拝と慣習、世の君といわれるサタン/悪魔などなど。私たち信仰者は敵対するものに包囲されている状態です。

・神が味方です
 しかし信仰の目を開くときに、別の世界が展開します。「神が私たちの味方である」と言うことです。神が「私たちの益となるため」「私たちの勝利のために」貢献してくれるということです。
 「神が味方である」ことは過去に、御自身の一人子を与えてくださったことによって示されています。私たちは過去の啓示を通して、今/未来においても「神が味方です」と信じ告白していくべきです。
 具体的には、神は私たちに対する「すべての訴え」を退けて義とされます。また「患難、苦しみ、迫害、飢え、危険など」においてキリストを復活させたのと同じ力を注いでくださいます。

・圧倒的勝利者
圧倒的勝利者とは、敵対者を終始圧倒して完全に勝利するものことです。神が私たちの味方であるから、私たちは圧倒的勝利者となるのです。
 何事においても成功ストーリーを持つことが大切ですが、私たち信仰者こそ、それを提供されている者たちです。ただ心掛けるべきは、それを信仰によって心に刻むことです。

2011/09/04 ローマ8:28~30 神を愛する人々のため

・神を愛する人々
「神を愛する人々」とあります。 
 私たちは新しい御霊を受けています。その「アバ、父よ。」との祈りだけではなく、父である神を愛する愛を注いでくださいます。
 御霊が愛を養う方法は、常にキリストを通して明らかにされた神の愛を御言葉をとおして示すことです。 「神が先に私たちを愛し」て下さることによって、私たちの内にも愛が養われたのです。そこで私たちの側としても「神を愛する」という意志を明瞭に持つべきです。

・すべて益に
 私たちの内に相応しい心が確立するときに、神のご計画もクリアーに示されます。それは神が私たちのために「すべてのことを働かせて益として下さる」と言うことです。
 実際に私たちのこれまでを振り返ると、一切のことは私たちのために益になっているのです。そして、たとい今、私たちが試練の中にあるとしても、将来の「益」を確信すること、また先取りして「知っている」という信仰を持つのです。それは練達した信仰者の姿です。

・キリストと同じ姿に
 「益」とは、私たちの地上の人生においても与えられる恵みです。しかし最終的な「益」とは、御子キリストのかたちに似ること、その栄光の姿になることです。様々な試練は、私たちの生気と尊厳を失うのではなく、むしろ新しい生命を養い育てる契機となるのです。

2011/08/28 ローマ8:26~27 御霊の助け

・弱い私たちと御霊の助け
 私たちは神の子とされていますが、私たちは肉を持つゆえに地上では弱い存在です。孤立感、罪の誘惑、絶望感、不安と恐怖感の中で祈ることさえままならない状態になるのです。しかし御霊は、孤立無援の私たちの近くで常に助けて下さる方です。
 主イエスは天に帰られましたが、「あなたがたを孤児にはしない」と約束して「もう一人の助け主」を下さったのです。御霊は常に私たちと共にいて慰め、励まし、導びいて下さるのです。また私たちに寄り添って「しっかりと抱きかかえて」下さる方です。

・御霊のとりなし
 御霊の強力な働きは、とりなしです。私たちは地上の生活でも、何らかの人々のとりなし(仲介)の中で生かされている存在です。そのとりなしの中でも、御霊のとりなしこそが、何よりも重要です。
 御霊は、私の内にあって「いいようもない深いうめきによって」父の神に対してとりなしをします。ちょうど福音書において主イエスが人々のために深く同情して祈るようです。その祈りを父の神が聞いてくださらないわけがないのです。

・祈れないときも静まること
 私たちは確かに弱く祈れないこともしばしばです。しかし祈れない時にも、ただ神の前に「静まる」姿勢だけは持つべきです。祈りの言葉はなくとも、御霊はその時に、「いいようもない深いうめきによって」私たちのためにとりなして下さるからです。

2011/7/31 ローマ8:12~17 「アバ、父」と呼ぶ霊

・御霊に導かれる人は神の子ども
 キリストを信じる者は、肉に対する責任を問われる必要はありません。「肉」とは肉欲というだけではなく、社会的な義理人情、家族の絆も含まれます。肉の世界は、つかの間の向く森を与えるようですが、その結末は絶望と死です。
 キリスト者はただ神に対してだけ心を向けるべきです。それが新しい御霊に導かれる者としての姿であり、「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」

・「アバ、父」と呼ぶ霊
 私たちは、御霊によって神を「アバ、父。」と呼びます。それは愛されている子として信頼と親しみを込めた祈りです。また地上でのイエス・キリストが神に向かって祈る姿勢であり、日々の生活の基盤でした。
 人間でも親に対する信頼関係の中で人格が育っていきます。神の子も御霊によって、「アバ、父」と祈る中で成長します。

・苦難の中での祈り
 地上の生涯において、キリストは様々な苦難に出会いましたが、同じようにキリスト者も同じ苦難があります。しかし苦難はキリスト者には重要な意味があります。苦難にあずかることで、天の相続がいよいよ明瞭にされるということです。
 私たちは苦難の中で、「アバ、父」と切に祈らざるを得ませんが、その時に、御霊は私たちの魂に、天の永遠の相続と栄光を証するのです.

2011/7/24 ローマ8:1~11 いのちの御霊の原理

・キリスト・イエスにある者
 「キリスト・イエスにある者」とはイエスを信じる者のことです。彼らはノアの箱舟に入れられた者たちのようです。そこには聖いものも汚れたものもありましたが、キリストゆえに正しい者とみなされ、滅びを逃れました。
 私たちの場合もキリストを信じると言うだけで、目に見えないキリストと結びつけられており、義とされ、さらに義の実も生み出す者と定められています。

・いのちの御霊の原理
 「罪と死の原理」は自分の力に頼る肉を支配します。「いのちの御霊の原理」はキリストを信じて、神を頼る者に働きます。私たちには肉の要素が多分にあるのですが、神に頼るという小さな信仰だけで「罪と死の原理」を凌駕するいのちの「御霊の原理」が働きます。
 いのちの御霊は、いつでもキリストの御業を100パーセント私たちに実現します。御霊は、私たちの罪を絶えずキリストの肉と共に裁き、私たちのうちに復活の生命を注ぐのです。

・いのちの御霊に従う
 そこで、信仰生活において肝要なことは肉に従って歩むのではなく、御霊に従って歩むと言うことです。私たちにはパーフェクトにはできないことですが、私たちの小さな信仰にも御霊は働いてくださいます。
 ある牧師は信仰者の人生を「3歩後退4歩前進」という風に語りましたが、それは実際的な姿です。どうしても肉の自分が先に出て罪と死の力に苛まれることがあるのですが、その最中でもキリストを見上げるなら御霊の原理は遙かに凌駕する力で私たちを救いだします。

2011/7/17 ローマ7:7~25 聖書の人間描写

・聖書の人間描写
 画家が陰影法で素描するように、パウロは「むさぼってはならない」という律法の文字を光としてあてて、人間存在の陰影を描きます。
 「むさぼってはならない」は心のありようも律する戒めで、これによって律法全体が外面の行いだけではなく、心の思いさえ律するものであることが明らかになります。
 「むさぼってはならない」との戒めによって、心が照らされたときに、心にそれがなくなるどころか反対に、「あらゆるむさぼりが生じ」ます。隠れていた罪が二重三重の影を作ると言うことです。 

・罪の原理と絶望の叫び
 この人間描写はある特定の人の姿ではなく、すべての人、また信仰者でさえも共通する姿です。肉の部分には、信仰者であっても罪が宿るのです。
 「からだの中にある罪の律法(原理)」とは、肉的人間において絶対的な力をもつものです。原理法則とは、小さな力がいくら抗ってもかなわない力です。人間がいくら努力しても、それは変えようがないのです。罪の原理を知るときに、すべての人はただ自分に絶望するより他に術はありません。

・ただ神に感謝!
 自分に絶望することは、信仰者にとって大切なポイントです。罪の原理の発見、自分に対する絶望、この暗やみを通って、人は初めて新しい御霊の支配に心を向けるからです。
 私たちが自分自身に絶望することは信仰生活において必然です。その時に、素早く切り替えて「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」と上を見上げましょう。

2011/7/10 ローマ7:1~6 古い文字と新しい御霊

・古い文字(律法)からの解放
 律法は文字として与えられ、人間の外から完全な業を要求し、冷たく命令し、裁くだけです。そこには生命も救いもありません。人は律法の下では、ただ自分に絶望するだけで、何の良い実も獲得できません。
 しかし、キリスト者はキリストとともに死んだ事により、古い律法と文字の束縛から解放されています。ちょうど律法の下で夫が死んだ場合と同様です。夫が死ねば妻は夫についての律法規定から解放されます。

・新しい御霊
 今、私たちは新しい御霊に仕える者とされています。「新しい」とは「古い」と対比されており、また天に由来すると言うことです。「古い文字」に対して全く新しい原理、新しい力、新しい生命に満ちていることを示します。
 また「新しい御霊」は神の第三格です。父の神、子の神の霊であり、両方の神から流れ出るもう一人の神です。そして父の愛、子の救いと恵みを100パーセント、私たちに注ぐのです。

・新しい御霊に仕える
 新しい御霊の中におかれてい私たちには、新しい生活スタイルが要請されます。新しいぶどう酒に新しい皮袋ということです。新しいぶどう酒とは御霊のことで、新しい皮袋とは待望と自由の姿勢です。そして父の愛、子の贖い、そして御霊の内住を信じることです。
 私たちは業や感情に左右されやすい存在ですが、それらに惑わされることなく、どのような時にも信じ続けることが大切です。その時に、御霊に仕える者として相応しい実を宿す人、御霊の業に満ちた人に変えられていきます。

2011/07/03 ローマ6:15~23 罪の報酬と神の賜物

・罪の奴隷と報酬
人間は機能的に創造されており、目的を持って何かに仕える存在、僕(奴隷)としての存在です。しかし、仕える対象を誤ったときに、それは悲惨です。
 「罪の奴隷」とは、自分を罪にささげて、罪のために仕える者のことです。生まれながらの人は、皆、罪の奴隷であって、罪に仕え、罪を犯さないでいることはできません。それはあからさまな悪を為すと言うだけではなく、自己中心に生きることも実は罪の奴隷のありさまです。
 「罪から来る報酬は死」とあるとおり、地上では幸いのようだとしても、神の裁きにあい、永遠の死と滅びという結果となります。

・神の奴隷と賜物
 それに対して、私たちが福音を心から受け入れるときに、神は私たちを180度の転換した状態におかれます。「義の奴隷」とは神に喜ばれることをしないではいられない人のことです。
 また私たちが「義の奴隷」として生涯を送る決意をするとき、「賜物として永遠のいのち」を与えてくださいます。私たちが不完全だとしても、神の恵みによって与えられるプレゼントです。それは「神の子としての生命」であり、永遠に神の愛に守られ、育まれ、実をならせるすぐれた生命です。

・死と生命の道を判別して進む
 私たちの目の前に2つの道が示されています。1つは死と滅びの道であり、もう一つは神の生命と祝福に至る道です。かつて歩んでいた死への道を放棄して、心より献身して、義の僕として生命の道に進んでいきましょう。

2011/6/26 ローマ6:12~14 義の器として

・死ぬべき体を
 私たちは終わりの日に新しい体をいただきますが、地上ではなお「死ぬべきからだ」を持ちます。またそれは「罪のからだ」であり、「無能なからだ」です。
 しかし神は、私たちをキリストのゆえに恵みの支配におき、「死ぬべきからだ」をも生かして用いてくださいます。

・罪に委ねてはならない
 私たちが「死ぬべきからだ」を用いていただくためには、方向転換が必要です。まずは、これまで自己中心に生き、罪と情欲のままに生きていた生き方を改めなければなりません。それは罪と悪魔に対して「自分の手足を「不義の器」としてささげている生き方なのです。つまり神に対して積極的に敵対する生き方であったということです。

・義の器として捧げる
 「義の器」とは、神に喜ばれる道具ということです。「死ぬべきからだ」であっても、キリストによってきよめられており、神を喜ばせ、神のために用いられる器、道具とされているのです。
 ただここで大切なことは「ささげる」という意志と献身の心です。それはちょうど、車のギアに似ていてニュートラルからドライブにギアチェンジすることなのです。それでもって車は前進するのです。

・満たされた生涯
 「・・・ささげる」ことは、一回で終わることではありません。神が要しておられる礼拝において、毎日のデボーションのときに何回も捧げ続けることで、新鮮さをいつも保ち、いよいよ通りよい義の器とされるのです。

2011/6/19 イザヤ51:1~3 父親の輪郭

・掘り出された岩
「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ」
 石工は、岩山から石を切り出します。その石は、石工の考えたとおりの形に存在し、他の岩とは、明瞭に区別された輪郭をもつことになります。また「掘り出された穴」のほうも、クッキリとした形に残ることになります。
 神は、そのようにして人を召して、ご自分の目的の形に切り出す方、掘り出す方です。

・父アブラハム
 信仰の父アブラハムは、そのよい例です。彼はメソポタミアのウルという偶像の町に住んでいましたが、唯一神に対する信仰をもっていました。また神の召命によってカナンの地に移住しましたが、幾多の試練の中、クッキリとした神信仰とそれに伴う価値観をもつ人として整えられました。
 アブラハムの信仰者としての姿は、それ以降の人々の模範となりました。人々は彼の信仰者としての輪郭に真似ることになったのです。

・父の輪郭
 現代は、父の輪郭が不明になっている時代ですが、若い父親は明瞭な信仰と価値観をもつべきです。それが子供たちの心に残り、彼らの心を育むことになります。
 金澤翔子さんは若手の女流書家ですが、彼女はダウン症です。生まれたとき、母親は我が子が病気だと言うこと絶望しました。しかし父親はクリスチャンの価値観により彼女を生かし、助け、愛し通しました。その父親の輪郭が彼女を育んで、人々を感動させる書家としたのです。

2011/6/5 ローマ6:5~11 十字架/復活につながる

・十字架/復活につながる
 6章では、聖化についてしるされています。その秘訣は、キリストに継ぎ合わされていることです。具体的には「キリストの死/復活と同じようになること」ことです。私たちは、あらゆる手段を通して、このことを実現するのです。聖霊もまた、私たちを日々導き、私たちのうちにキリストの御業を刻むのです。

・「知る」「信じる」「思う」こと
 キリストの死/復活を私たちのうちに刻むに際して、「知る」、「信じる」「思う(納得する)」という、精神と心の作用が必要とされます。 聖霊はキリストと御業を伝えるということが、恍惚の中で働くのではなく、この理性と意志にも十二分に作用して私たちのうちに働くのです。私たちはこのために、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、知性を尽くすのです。

・ 新しい人格形成
「神の御業は、我々の内に第1日の内に完成するものではない。むしろ徐々に増進する。そして日に日に段階をおって成長し、ついに終局にいたる。」
ちょうど、画家や彫刻家のように私たちは御言葉と聖霊により、あらゆる局面を用いて、知り、信じ、思いつつ、キリストに結びつきます。そして自分のうちにキリストを形成するのです。それは、キリストに似た新しい人格であり、まさに神の作品です。

2011/5/29 マタイ5:43~48 あなたの敵を愛しなさい

・隣人を愛し、敵を憎め
 ユダヤ人は自分の家族、民族を隣人また仲間として愛しました。他方、異教徒や異民族を部外者また敵として憎み、憎むことで神に仕えていると考えていました。
 これは私たちの社会にもある体質です。自分たちの枠外の人々を敵として憎んでもよし、軽蔑しても良いと考えるのです。そこでは様々な問題と人格の歪みが生じます。

・あなたの敵を愛しなさい
 「自分の敵」とは、身内、仲間以外の人々のことです。あるいは自分の害となる人、不利益になる人、傷つけ迫害する者たちです。愛するとは人格と生活において有益となることを願うことです。「自分の敵を愛する」ということは、天の父の姿勢であり、それを実行して初めて私たちも神の子として新しい人となり、私たちの問題も解決するのです。

・愛のための戦い
 1950年代のアメリカでは市バスなどでも厳然とした差別がありました。パークス夫人はそれに断固抗議して逮捕されたのがキッカケで、人種差別撤廃のため運動が起こりました。その運動を指導したのがキング牧師です。
 彼らは「あなたの敵を愛しなさい」という聖句をテーマとして運動を進めました。決して暴力を用いず、憎まずをモットーとしました。また、新しいニガー(黒人)になり新しい社会を創るという信仰を持って戦ったのです。

2011/5/22 ローマ6:1~4 バプテスマの秘義

・キリストとの結合を示す
 福音の反対者から「信じるだけで行いが伴わなくても良いのか」という批判がありました。それに対して、パウロは信仰の意味をバプテスマを通して示します。
 私たちはキリストを信じるときに、ちょうど水の中に入れられるようにキリストの中に入れられて、霊的に結合するのです。

・キリストの業との結合・・・死
 さらに、キリストとの結合とはキリストの業との結合です。キリストは十字架につけられて死に、葬られました。丁度そのように、私たちが水に入れられるのはキリストの死に結びつけられて、古い人と罪に対して死んだのです。
 信じることは変哲がないように思われますが、実際には神による根本的変革に入れられることなのです。

・キリストの業との結合・・・復活
 さらに、キリストの復活と結合することです。神の栄光の一切はキリストの復活に凝縮して示されました。ですから、私たちがキリストを信じるときに、キリストの復活と同じように新しく生き返り、「新しい生命」に生きるのです。

・霊的世界に合致させる
 さらに信じることは、霊的世界に入れられるだけではなく、その通りに生きる意志です。ですから、意志的に罪に対して死に、キリストにならって新しい歩みを志すようになるのです。

2011/5/15 ローマ5:18~21 恵みも満ちあふれ

・罪の支配
 「一つの違反」「ひとりの人の不従順」によって、「すべての人」が死と罪の支配に入れられました。そこでは如何にあがいても、人は滅びと悲惨な状態から逃れることはできません。これを原罪とも、全的堕落ともいいます。まったく人間の性質が罪に腐り果て、いかなる努力も虚しい状態です。

・恵みの支配
 それに対して「一つの義の行為」「ひとりの従順」によって、「多くの人」が義と認められて恵みと生命の支配の中に入れられます。如何に極悪な人間でも、如何に深刻な罪でも、むしろ罪が深ければ深いほどに恵みは注がれ、支配が強力に働きます。恵みとは、値しない罪人に大して与えられる愛だからです。
・律法を通して罪が増し加わる

 神が律法を与えらたのは、人間が生来、罪の支配の中にあることを知らせるためでした。「殺すな、姦淫するな、盗むな」・・・、あるいは「愛せよ」との命令の中で自分の行いにおける違反、心の中の罪を認めざるを得ないです。さらに人間存在の根底にある原罪を認めざるを得ないのです。

・恵みも満ちあふれ
 しかし、罪の1つ1つ、さらに原罪を認識ときに、その認識がが深ければ深いほどキリストの「恵みも満ちあふれ」るのです。恵みはいつの場合でも、罪の認識の中で働くからです。
 私たちの人生、あるいは信仰生活において危機の時があります。それは自分の罪深さ、弱さが深く認識されるときですが、そのときにこそキリストを見上げるべきです。

2011/5/1 ローマ5:12~17 アダムとキリスト

・アダムにある連帯性
 聖書はアダムにある連帯性について述べています。アダムを通して罪が入り、さらに罪によって死が全人類に広がったという連帯性です。罪と死は、アダムという最初の人に起因しているのです。
 現代の私たちも、アダムとの絆ゆえに罪の支配にあえぎ、死の恐怖におののいているのです。

・キリストにある連帯性
 キリストとキリスト者の間にも連帯性があります。それは恵みであり霊の賜物です。その恵みとはキリストの人格と業を原因として与えられます。神の一人子であり、十字架の死に到った代価ということで、永遠の価値があります。それはキリストを信じる信仰だけで、値なしに与えられます。
・キリストはアダムに優る
 アダムは土から造られた者であり、キリストは神の一人子です。両者の尊厳には格段の差があり、キリストはアダムに優ります。それと同じようにして、キリストにある恵みと賜物と生命は、アダムにある違反と罪と死に優ります。それこそ天と地の違いです。

・すべて「災い転じて益」
 私たち信仰者は一方では、アダムに連なる肉を持ちます。そこには違反と罪と死が日々働き、私たちを打ち付け、苦しめ、恐怖と不安にさらします。
 しかしながら信仰によりキリストにとどまっている限り、罪と死の力を機縁としてキリストにある恵みと生命の原理が、完全に覆い尽くします。すべて「災い転じて益となる」です。

2011/4/24 マルコ16:1~20 イエスは甦られた

・週の初めの日の早朝
 主イエスは安息日が終わった次の日に甦られました。そのとき、女たちが墓に向かいましたが、すでに大きな石が動き、墓の入口は開いていました。
 古い時代が過ぎ去って、キリストの甦りと共に新しい時代が到来していたのです。そこでは一切が変転し、罪も死も、心配も不安も、大きく重い問題も、すべてのキリストの勝利に飲み込まれているのです。

・主イエスは甦られた
 「あの方はよみがえられました」とは墓の中にいた白い衣の天使の言葉です。それは第1に、墓が空である理由を示した言葉、第2にその事実を示す言葉、第3にキリストの救済の御業の一切が完遂されたことを示す言葉です。しかし、神のことばですから、それ自体が復活の力を持ちます。そして主イエスの復活の出来事は、見て分かるよりも、聞いて信じることが重要なのです。それによって復活の力と勝利は私たちを飲み込み、私たちの内側にも影響を及ぼすのです。

・ガリラヤ、さらに全世界へ
 天使は「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます」と告げます。そこでイエスと出会い、礼拝することができるのです。
 私たちの礼拝もまた、甦りのイエスと出会う場です。そこで私たちはイエスの救いの一切を受け取り、甦りの力が与えられ、神の愛に満たされるのです。
 さらに宣教命令が加えられます。「全世界に出て行き・・・福音を宣べ伝えなさい」とあります。復活の生命は、満ちあふれていくのです。

2011/4/17 マルコ15:22~41 十字架のイエス

・十字架のイエス・・初めの3時間
 主イエスはゴルゴダの丘で午前9時に十字架につけられました。その際に、主イエスは「没薬を混ぜた暴動」を飲むことなく、苦しみの限りを経験されます。また人々の罵りにさらされ、精神的にも辛さの中におかれていました。「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことを」(Ⅰペテロ2:22)しませんでした。

・十字架のイエス・・暗闇の3時間
正午から午後3時まで「全地が暗く」なりました。神が御子を怒り呪ったことが、自然現象として現れたのです。それは絶望の極致でした。
 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」という叫びは、ご自分の絶望感からの叫びと共に、詩篇22:1の預言の成就です。主イエスは十字架で私たち罪人の身代わりとなられたのです。

・「まことに神の子」
 「正面に立っていた百人隊長」は「この方はまことに神の子であった」と告白します。の主イエスが十字架の上で、一切の苦しみを拒むことなく、そのまま受容された姿に、不思議な感銘、神々しさを覚えたのです。
 私たちもまた、百人隊長のように「正面に立って」十字架の主イエスを見上げるときに、感銘と覚え、同じ告白をせずにはいられません。また、その一切が、私たちの罪の身代わりとしてと思うときに深い感謝を持ち、礼拝するのみです。

2011/4/10 マルコ15:16~21 クレネ人シモンの十字架

・紫の衣とイバラの冠
 主イエスは大勢のローマ兵士たちによって愚弄されました。彼らは主イエスに「紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせて」「ユダヤ人の王さま、バンザイ」と葦の棒で頭をたたいたり、つばきをかけたりしました。
 彼らは「ユダヤ人の王キリスト」とは偽りで、十字架に定められた者、反国家、反社会的存在としてあらん限りの乱暴をしたのです。

・ヴィラ・ドロロ-サ
 「イエスを十字架につけるために連れ出した」とあります。十字架刑を受ける者は、見せしめのため町中の道を歩かされました。主イエスが歩いた道は、ヴィラ・ドロローサ(苦しみの道)と呼ばれています。主イエスが予告されたように、十字架の道を歩むことが主イエスの道でした。それはその名の通り、苦難の道であり、悲しみの道、辱めの道、罵りの道でした。

・クレネ人シモンの十字架
 十字架の時は、いかなる人でも主イエスの側に立つことが困難になるものです。しかしクレネ人シモンは強制的にではあったにしろ、主イエス・キリストのために十字架を負ったのです。
 その時には、決して喜ばしく思えませんでしたが、シモンの十字架体験は恵みと祝福となりました。事実彼の家庭はクリスチャンホームとなり、彼だけではなく妻も子どもたちは立派な働き人となったのです。
 ピリピ1:29に「キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わった」とありますが、この御言葉は真実です。

2011/4/3 マルコ15:1~15 ユダヤ人の王

・ユダヤ人の王
 祭司長とユダヤ議会は主イエスを死刑にしようとして、ローマ総督ピラトに引き渡します。訴えの罪状は「ユダヤ人の王」でした。ユダヤ人の王とはキリストを意味し、旧約以来、ユダヤ人が待望していた救い主のことでした。
 主イエスはピラトの前でも、ご自分が「ユダヤ人の王」であることを否認しませんでした。

・彼らは王を捨てる
 ユダヤ人たちの憎しみはエスカレートしていきます。彼らはかたくなに主イエスを拒み、むしろ強盗の釈放を求めます。さらに主イエスに対して「十字架につけろ」と憎しみと殺意をむき出しに、徹底して捨て去りました。

・旧約の終わり
 マルコ12章「ぶどう園のたとえ話」はこの出来事を予知しています。父の神がユダヤ人に対して預言者らを送り、最後にご自分の愛する一人子を与えて悔い改めを求めたのに、彼らは御子を拒絶し、殺害するに到るのです。それは旧約の終わりとなり、彼ら自身も捨てられる出来事となりました。
 

・新しい契約の「礎の石」
 しかし全能の神は旧約を終わらせると同時に、新しい契約を異邦人に対しても提供されます。主イエスは新しい契約の「礎の石」となりました。すべての罪人の罪を赦し、ただ恵みによってすべての人を受け入れる礎です。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない」ローマ9:33とあるとおり、誰でもイエスをキリストと信じる者は、救われるのです。

2011/3/27 マルコ14:53~72 ペテロの否認

・イエス
 主イエスは大祭司邸で祭司長、長老、律法学者の尋問を受けます。彼らは初めから主イエスを死刑にする訴えを探しましたが、罪を認めることができませんでした。最後に大祭司が「あなたはキリストですか」という質問に対して、明確に「私は、それです」と告白します。暗黒の中でも、主イエスは真実と誠実を保たれました。そこに神の子としての栄光が輝いたのです。

・ペテロの否認
 ペテロの詰問も同時進行します。彼は自分の正体を隠してを大祭司の下の庭で火にあたっていました。一人の女中は彼に対して詰問して言います。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね」。ペテロは否認します。2度目もそうでした。3度目には他の者たちも「この人はあの仲間」と言いだします。ペテロは「のろいをかけて誓い」強く否定します。
 「鶏が、二度目に鳴いた」とき、彼は主イエスの予知を思い起こし、自らの信仰の弱さ、罪を深く思い知り「泣き出」しました。それは自分の力を過信する信仰者の結末です。

・回復
 やがてペテロは信仰を回復させ、大使徒と呼ばれる良き信仰者とされます。そのためにはどうしても、この辛い体験を通る必要があったのです。自分の意志や力を過信、肉の側面が打ち砕かれて、初めて純粋にキリストを信じる信仰が養われ始めたのです。
 「・・・キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」Ⅰペテロ2:24とあります。ペテロだけではなく、私たちも自分の弱さと罪を思い知り、キリストによって癒されて初めて、良き信仰者としての土台を築くのです。

2011/3/20 マルコ14:43~50 ユダの裏切り

・ユダの裏切り
 神の国に暗黒の力が押し寄せました。イスカリオテのユダは悪の力に飲み込まれて、主イエスを裏切ることになります。彼は十二弟子に選ばれていたのですが、悪に染まり、その悪が熟して、ついに公然とした反逆心が芽生え、裏切りという行動に向かったのです。
 彼は「剣や棒を手にした群衆」を隠れ場に導き、イエスに口づけして認知させました。面従腹背という言葉がありますが、それがさらに公然とされたのです。

・他の弟子たちの弱さ
 暗やみの力の中で、ある弟子は剣で対抗しようとしますが、結局は逃げ去ります。絶望感と恐怖心が彼を覆ってしまったからです。また「ある青年(マルコ)」が途中までついて行きますが、彼もまた惨めな姿で逃げ帰ります。
 圧倒的な悪の力の中で、他の弟子たちも、自分の弱さが顕わになってしまったのです。地上の悪の力というのは、それが牙をむきだしたときには、もはや人間の力では対抗できないのです。

・暗やみの力の中で
 主イエスは裏切りも捕縛も、さらに十字架さえも、すべて「聖書が成就するため」と語っています。つまり「暗やみの時」の一切は神の救いのご計画に含まれているということです。救いは、暗やみの時を通り抜けた向こうにあるのです。
 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、・・・捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない 。」8:31のです。
 このことは私たちの信仰の日々でも全く同じです。ただ暗やみのときに弱さが顕わになったとしても「ユダにはなるまじ」と言うことです。

2011/3/13 マルコ14:32~42 ゲッセマネの祈り

・ゲッセマネ
 主イエスは十字架前夜、ゲッセマネというオリーブ山の園で祈りの時を持ちました。その祈りは「悲しみのあまり死ぬほど」と告白しているほどに苦悶に満ちていました。
 ゲッセマネはいわば十字架直前の前哨戦の場であり、主イエスはそこでの祈りにおいて勝利して、十字架に向かっていったのです。

・ゲッセマネの祈り/その1
 「アバ、父よ」と主イエスは心からの信頼を持って父の神に祈っています。主イエスは神の一人子しての権利を持ち、自由なる祈りが聞き届けられてきました。
 「この杯」とは十字架の苦難を意味します。神の怒りと呪い、家族と弟子たちとの関係の破局、旧約の民との断絶など暗黒の時を意味しました。その苦しみを回避しようとすることは、人の弱さを知る方として当然の求めでした。

・ゲッセマネの祈り/その2
 また主イエスは、祈りが「あなたのみこころ」を聞きそれに従う決意をする場であることを心得ていました。神の御心は預言の言葉で示されていましたが、十字架直前にさらに深く、強く、明瞭に示される必要があったのです。
 この両者の狭間での苦悶の祈りが続きましたが、主イエスは最終的に「わたしの願い」を放棄し、父の御心を自分の使命とするのです。

・私たちのゲッセマネ
 主イエスはその間、眠りこけていた弟子たちに対して「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい」と命令しています。
 これは同時に私たちに対する命令であり、私たちの場合も様々な誘惑に勝つにはゲッセマネの祈りを模範として祈り続けることが肝要です。

2011/3/6 マルコ14:12~26 最後の晩餐

・最後の晩餐
 主イエスは十字架前夜、弟子たちと共に過越の食事をしました。主イエスの預言の通り、とある家の2階では、食事の用意ができていました。イエスが彼らをその場に招いたという事です。
 私たちもまた導きによって一つ教会に集められていますが、一人一人がキリストによって愛され、覚えられて招かれているのです。

・心をきよめる事
 食事の前に、主イエスは弟子たちを試みながら、イスカリオテのユダが裏切りを暗示します。間もなく彼はそこから離れます。
 私たちは聖餐に際し、自分の信仰を確かめる必要があります。裏切りでもなく、中途半端な心でもなく、悔い改めと信仰と献身の思いを持って聖餐にあずかることが大切です。

・1つの体から裂かれたパン
 「パンを取り・・・「これはわたしのからだです」」と。聖餐式のパンはキリストの体を象徴します。やがてキリストが十字架上で肉体を裂かれるように、それは裂かれ、提供されることを示しています。ただその時代の弟子たちだけではなく、すべての時代のすべての人に提供されています。私たちが御言葉を信じて食するときに、それは私たちの内でキリストの生命となります。

・1つの血であるブドウの杯
 「これはわたしの契約の血」。ブドウの杯はキリストの血を象徴します。昔から契約の際には血がながされました。それにより古い罪過がきよめられ、新しい契約の締結となるのです。私たちは約束の言葉を信じて飲むときに、新しい契約により神の子とされるのです。

2011/2/27 ローマ5:6~11 神の愛の勝利

・罪人のためのキリストの死
 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは・・死んでくださった」「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」とあります。
 確かにキリストは十字架に付けられ、自分を打つ者たちのために祈られました。使徒パウロ自身もかつてはキリスト教会の迫害者であったのにキリストは彼のために死んでくださっていました。それは現在の私たちの場合も同じです。

・神の愛の明示
 三位一体の第二格が神の子キリストです。父の神に限りなく愛され、しかも尊厳、能力、性質において父に等しい存在です。この死は父の死と等しく、そこに永遠の愛が明示されたのです。しかも私たちが罪人であったときの出来事です
 神の愛はアガペーの愛と言われますが、質においても量においても、この世の愛(エロス、フィリア)とは隔絶しています。

・神の愛の勝利
 過去に明示された神の愛は、私たちの現在と未来においても、決して変わらず、むしろ増し加わります。
 つまり罪人をも愛する方が、義とされ者たちを「怒る」はずはありません。「和解させられた私たちが・・・救いにあずかるのはなおさら」です。
 教会のシンボルは十字架ですが、この過去における愛の真実は、現在、未来において、ますます私たちに向けて増大する神の愛の印でもあります。私たちは、この神の愛を信じて、大いに喜んで生きるのです。

2011/2/20 ローマ5:3~5 忍耐、品性、希望

・患難さえも喜ぶ
 地上に生きる者にとって患難や苦しみは耐え難く、気落ちすることです。しかし信仰者にとって患難さえも喜ぶ対象となります。それは患難が信仰者の生命にとって必ずしも破壊や否定となるのではなく、大きな益となり、生産的に働くからです。
 それゆえ信仰者は、人生について前向きな姿勢をもち、使徒と共に「患難さえも喜んでいます」と告白するのです。

・忍耐、品性、希望
 「忍耐」とはただ耐え忍ぶと言うことだけではなく「確固さ」と言う意味があります。患難によってのみ忍耐という徳は養われるのですが、それは新しい人格の確固とした基盤となります。生来の人格は肉的で自己中心であるためにその基盤は脆弱なのです。
 「練られた品性」とは良く精錬され鍛えられた鉄、純粋な金や銀のような意味です。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」は純粋な形に練られるには試練が必要であり、基盤には忍耐力があるのです。
 「希望」とは、新しい人、すぐれた人格の光です。アブラハムやすぐれた信仰者たちの人格には、この永遠の光がありました。どのような困難の中でも神を望んで輝く心です。

・聖霊による神の愛
 これらの徳が人格の中で生み出されるのは、私たちの頑張りではなく、聖霊によって注がれる神の力、神の愛です。聖霊は信仰者たちの心に働いてさながら、神の御手の中にあるようにして、私たちを育むのです。

2011/2/13 ローマ5:1~2 大いに喜ぶ

・神との平和
「主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」とあります。平和とは神の怒りも断絶もなくなり、神との交流と祝福が回復した状態です。信仰という立脚点=岩に立つことで、私たちの全人にも心にも深い平和が訪れます。
 いわば信仰は見た目は小さな人ですが、信仰には大きな兄弟たちが大勢います。まずは平和という大きな兄弟がやってくるということです。

・神を大いに喜ぶ
 小さな信仰には、平和の次に恵み、希望という大きな兄弟たちも次々にやってきます。また「大きな喜び」も私たちの元に来ます。「大いに喜んで」とは、個人的に喜ぶと言うよりも神を賛美するという意味合いがあります。信仰者には沸き上がる賛美と喜びが生まれます。それは神が御自身の栄光と救いを全面的に信仰者に注がれるからです。

・信仰の岩に立つ
 私たちは、目に見える肉と業の世界に生きています。その世界の本質は、滅びと罪と絶望です。目に見えることだけで自己判断することが賢いように思われますが、そうではありません。
 信仰は目に見えない岩で、いわば「小さな人」です。しかしその元に、神の祝福のすべてがやって来るのです。私たち信仰者は、肉のしがらみから離れて、信仰の岩に立ち、神の光の中で自らの幸いを覚えるべきです。

2011/2/6  ローマ4:17~25  望みを抱く信仰

・聖書の神観
 アブラハムは自分の神を「天と地とを造られた方、いと高き神」と証ししていました。全知全能の唯一神ということです。その神観を基本として「(彼の神は)死者を生かし、無いものをあるもののようにお呼びになる方」という信仰も示されました。それは死者を復活させる神ということです。

・アブラハムの「望みを抱く信仰」
 アブラハムが抱いた神観は、神御自身からの啓示によりました。彼はその神観を知っているだけではなく、生涯における色々な試練を通して、自分自身の生きた信仰としました。「望み得ないときに望みを抱いて信じ」とあります。自分の考えでは絶望的と思われる状況の中で、神をのみ信じて希望を抱いたということです。その背後には復活信仰があり、具体的試練の中で復活信仰は生きた信仰となったのです。

・私たちの「望みを抱く信仰」
 私たちもまた、アブラハムと同じ復活信仰が示されています。彼よりも明瞭にイエス・キリストの復活を示されています。この神観は、私たちの生涯の歩みの中で、より具体的で生きた信仰とされるのです。
 私たちの試練の中で絶望してしまいそうなときがあります。その時、私たちが復活信仰に立つことです。つまり、イエスを復活させた神は、私をも試練からも脱出させてくださるのだと信じて、希望を持つことです。

2011/1/30 ローマ4:9~16 世界の相続人

・肉の印ではなく
 割礼は元々、神の民としての2次的印に過ぎませんでした。アブラハムは信仰によって義とされて神の民となり祝福を受けたのです。その象徴として割礼という肉の印を受けたのです。
 創世記を見ても、先にアブラハムは「信仰が義とみなされた」とあり、その後に「証印として」割礼を受けています。義とされることの本質は信仰によるのです。

 ・信仰の足跡に従う者たち
 「アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って」とあります。つまりアブラハムが何の肉の印を持たず、ただ信仰によって歩みましたが、それと同じように肉の印なしで、ただ信仰によって歩む者たちが神の民であるということです。
 私たち人間は肉の印に捕らわれがちですが、ユダヤ人の誤りから学び、私たち自身が外見の印でもって神の民と思う誘惑から免れ、ただ信仰によってアブラハムの子孫、神の民として祝福を受け継ぐものであることを覚える必要があります。
 同時にアブラハムの子孫は一民族に限られることなく、すべての民族、時代から集められることになります。

・世界の相続人
 アブラハムの祝福とは、第1に神の子とされることです。私たちが祈るときに神の子の霊をいただいているので、「アバ。父よ。」と祈ります。第2には永遠に神の愛の元におかれます。第3に「世界の相続人」とされるのです。

2011/01/23 ローマ4:1~8 信仰義認の人々

・旧約聖書でも信仰義認
 神が人を受け入れる手段はいつも信仰の道でした。それは旧約聖書の世界でもまったく同じです。
 ローマ人の手紙では、使徒パウロはその代表者としてアブラハムやダビデだけを上げていますが、すべて神に喜ばれた人々は信仰の人であったことをヘブル11章などで明瞭に示しています。

・信仰による父祖アブラハム
 アブラハムはユダヤ教でもイスラム教でもキリスト教でも、自分たちの父祖としています。彼が人間の歴史に与えた影響は測り知れません。何が原因で彼は祝福されたのでしょうか。
 それはただ彼の信仰です。彼は神によって子孫が空の星のようになると示されたときに「神を信じた」のです。信じるとはアーメンということです。神は約束の通りに実現なさる力と恵みの神、真実な方ということを心から認めたのです。「それが彼の義とみなされ」ました。

・ダビデの場合
 ダビデは旧約聖書きっての英雄であり、最大の祝福を受けた人物です。彼は勇者として、賛美者、預言者として神に仕えましたが、大きな罪を犯していました。それによってすべての業も虚しくなり、むしろ呪われた者となったのです。
 彼が神によって罪が赦され、祝福を回復させたのは信仰でした。「砕かれた悔いた心」こそが、どのようないけにえや善行よりも神の前に尊いいけにえだったのです。

2011/1/16 ローマ3:27~31 信仰の原理

・信仰による救い
 人が義と認められること、すなわち救われるためにはただ信仰によるということが言明されています。信仰とはイエスと福音を信じるということです。当時のユダヤ教から様々な異教に至るまで、ただ信仰によって救われると教えるところは皆無です。いずれの宗教でも何らかの行いが強調されるのです。肉の性質は行いや業に敏感ですが、信仰と言うことには無頓着になりがちなのです。しかし小さく見える信仰に神の救いの一切が凝縮されています。

・信仰の原理
 信仰自体は小さいものでも、その背後にある原理は、救いの巨大システムです。それは目に見えない御霊のシステムで、後で生命の御霊の原理と語られることになります。信仰の原理イコール御霊の原理なのです。
 ちょうど巨大なオートメーションの機会でも、起動は小さなスイッチです。そのスイッチさえしっかりとオンになっていれば、巨大なシステムは動いているのです。

・信仰の原理の結実
 信仰の原理は救いの原理ですが、パウロは幾つかの具体的な結実について記しています。1つは人間の高ぶりの破壊と神賛美。1つはユダヤ人だけではなく、すべての異邦人をも救い、さらにどのような小さな者も救い、深く広く救いが広がるのです。1つは旧約の人々が到達できなかったこと、すなわち律法を確立させると言うことです。

2011/1/9 ローマ3:25~26 義を超えた神の義

・「今の時」に現された神の義
 義は、十戒において示されています。人は行いにおいても思いにおいても、その神の義を満たすことが義務づけられています。神の義を侵すものは罪人であり、当然の裁きを受けます。裁くと言うことも神の義の要素です。その裁きは普通は、罪を犯した人間に下されるものです。
 しかしながら、「今の時」に示された「神の義」は、一般的に考えられる「神の義」を考えを遙かに凌ぐ「神の義」でした。

・神の義とは十字架のイエス
 神の義とは十字架のイエス御自身だと言っていいのです。十字架のイエスは肉の目には惨めですが、何よりも気高い姿であり、神を義とし、罪人をも義とする超越した神の義の姿です。

・信じる罪人も義とする「神の義」
 「こうして神ご自身が義であり・・イエスを信じる者を義とお認めに」なったのです。
信じる心に、一般的な義を超えた神の義が映し出されたのです。ちょうど冬晴れの富士山のように諸々の義を遙かに凌ぐ神の義が顕わにされるのです。

・信仰者も「神の義」にならう
 「神の義」によって義とされて救われた者たちは、神の義に真似るべきです。それはことさら自分の義を主張するのではなく、自分自身も痛み、犠牲を払うというた義の姿です。その義がいつの社会においても求められています。

2011/1/2 地の塩 世の光 マタイ5:13~16

・塩気
 塩とは岩塩のことで、塩気がぬければただの土の塊となります。キリスト者は、キリストの御言葉を聞き、信じることをとおしてキリストの生命と聖さを受けます。それが塩気です。

・地の塩として
 地は、そのままでは腐敗が進む世界です。神信仰、親子関係、夫婦関係、すべての人間関係で腐敗が進み堕落し、関係が壊れていきます。
 キリスト者はこの地上におかれていますが、それは塩気を発揮して腐敗を防ぐためです。

・光
 光とは、暗やみの中でよく輝きます。ライトも暗やみを照らすために点灯されます。キリスト者は光であるといわれていますが、その光はただキリストとその御言葉をとおして受けます。信じて、告白して生きる中で光を外に輝かせることができます。

・世界の光として
 私たちの時代はいよいよと暗くなり、人々は希望を見失う時代です。世界を闊歩するのは虚無、絶望、罪と死という時代になっていきます。
 こうした時代に、キリスト者はキリストから受ける光を世界において輝かします。私たちは、自分が照らす使命のために先に救われたのだということをしっかりと自覚すべきです。