2016/3/20 ヨハネ福音書19:28~37 救いは完了した



・「わたしは渇く」
 福音書記者ヨハネはイエスの最後を淡々と記します。「わたしは渇く」とあります。臨終に人は「渇く」のですが、主イエスもなだめの生贄として一切の苦しみを体験し、生命が尽きて、肉体と霊とが共に渇いているのです。それはまたキリスト預言でもありました。

・「完了した」
 「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた 」とあります。一切の苦難をなめ尽くして、それが「完了した」のです。イエスの苦難はすべての人の身代わり、なだめとしての苦難でした。兵士がイエスのわき腹に槍を刺した時に「血と水が出て来た」とあります。その血は贖いの印であり、水は聖めの印です。

・信仰によって
 神の子キリストの贖いをどのようにして、わたしのものとすることができるでしょうか。もはや私自身の罪のために払う代価も苦難も必要はありません。ただ自分の無力さを認めて、イエスが私のために死んだことを信じることです。そして流された血潮を受け取ることだけが大切なのです。
  「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」ヘブル10:22

2016/3/13 ヨハネ福音書19:17~27 十字架と新しい紐帯



・十字架
 主イエスは十字架をご自分で負ってゴルゴタの丘に向かいます。そこは十字架刑に処せされる場所でしたが、彼らは呪われた者とみなされました。
 「ほかのふたりの者をそれぞれ両側に、イエスを真中に… 」と、イエスが最も呪われた者のようにして十字架にかけられています。

「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」
 罪状書きは「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」でヘブル語、ラテン語、ギリシャ語で掲げられました。それは救い主キリストを意味します。本来なら黄金の玉座に着く方でしたが、その真逆の姿でした。
 彼は奪う王ではなく、生命を与え、着物を与え、祝福を与え、すべてを与え尽くす王として十字架に掲げられたのです。

・新しい紐帯
 十字架上で、母マリヤに対して「そこにあなたの息子がと、弟子ヨハネには「そこにあなたの母がと語りました。それは2人に新しい人間関係を与えた言葉です。しかし2人だけではなく、すべてのキリスト信仰者に対して、血肉を越えた新しい紐帯を与えた言葉と解釈することができます。この紐帯は、地上と天上で続く、神の家族としての結びつきです。
「(キリストは)二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためエペソ2:15とあるとおりです。

2016/3/6 ヨハネ福音書19:1~16 この人を見よ



・イバラの冠と紫の衣
 総督ピラトはイエスを兵士たちに渡して愚弄させ、ユダヤ人の憐れみを誘おうとしました。しかし悪者のあわれみは残忍で、虐待はエスカレートしています。人間の内にある残虐性が顕わになっているのです。
 さらには「いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた」とあります。

・この人を見なさい
 ピラトは無様な姿のイエスをユダヤ人の前に連れ出して「さあ、この人です」と語ります。しかしユダヤ人は憐れむどころか憎悪と殺意をむき出して叫びます。「十字架につけろ。十字架につけろ。」と。十字架刑は当時、最低最悪の死刑手段でした。ユダヤ人たちは、神の子に対して十字架を要求したのですが、それは神に対する罪人たちの態度と言葉の本質です。

・私たちの模範として
 「さあ、この人です」という言葉は西欧で“エッケ ホモ”と言い、理想の人間像とされることがあります。侮蔑された神の子の姿こそ、正しい人間の姿であるということです。それは地上においては罪悪が横行し、罪のない正しい人々がしばしば虐待されたり、非難されたり、嘲笑されたりすることが多いからです。
 ですから私たちが、毎日の生活において非難や嘲笑の対象になったとしても恥じることはありません。むしろ神のため、義のためにうける非難なので、喜んでいいのです。

2016/2/28 ヨハネ福音書18:28~40 真理の王



・総督ピラトに
 ユダヤの祭司長らは主イエスをローマ総督ピラトの手に引き渡します。それによって死刑判決を得るためでした。彼らはキリストを目の前にしながら、拒絶したのです。彼らの罪深さとかたくなさは、後のところでも示されます。ピラトが提供した恩赦の対象として主イエスではなく極悪人バラバを選んだのです。

・真理の王
 ピラトの尋問に対して、主イエスは「わたしの国はこの世のものではありません」と答え、王であることを否認することはありませんでした。そして「真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです」と答えます。つまり彼は真理の王であるということです。それは地上の王とは性質を異にしています。つまり富と力の支配ではなく、ただ神の真理によって支配するということです。それは無力のようですが、なによりも真実な支配をなし、人々を永遠の生命に至らせます。

・真理の王国
真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従い」とあります。真理の王には、真理に属する民おり、彼らは強制によってではなく、彼の声を聞いて自発的に従うのです。ちょうど羊飼いの声に聞き従う羊たちのようです。それは真理の王国、あるいは神の国で、ただの一時代に存在するのではなく地域を越え、時代を超えて存在し、支配します。