2017/6/25 ピリピ4:10~13 満ち足りた心



・満ち足りた心
 使徒パウロはピリピ教会の人々に対して献金の感謝をすると同時に、彼自身は、お金や物に依存していないことを明言しています。「どんな境遇にあっても満ち足りることを学」んだとは、そのことです。
 「満ち足りた心」は、当時のギリシャ人たちが渇望していた精神状態です。どのような状況にも左右されることなく、平安で余裕のある心の状態で、日本的に言えば「悟りの境地」ということです。

・あらゆる境遇に対処する秘訣
 さらに「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」とあります。「秘訣」とは、当時の神秘的宗教の中で重宝されたことばです。彼らは神秘的儀式や作法で超人的状態に入ろうとしたのです。
 しかしパウロは、その秘訣をキリスト信仰によって獲得していることを証ししているのです。

・私を強くしてくださる方
 「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる 」とあります。「私を強くしてくださる方」とは神様のことです。「私」自身は弱く乏しいのですが、神がキリストのゆえに愛してくださり、いつでもどこでも力を注いで強くしてくださるということです。
 実際にパウロは何でもできたというのではなく、必要とあらば、神は私を通して「どんなことでもできる」ようにしてくださるということです。キリスト信仰は、小さい者、弱い者をも、絶対的な神信仰に導き「強い者」と変えるのです。

2017/6/18 Ⅰテサロニケ2:11~12 父と言葉



・父と言葉
 パウロは教会の中で「母のように」「父がのように」と語っています。父は母とは別の意味で子どもを育てるために重要な存在です。
 この百年で父親像は大きく変遷してきました。昔の父親は、権威がありその存在感はたいへん大きいものでした。しかし現在も、父親の存在は決して小さくはないのです。この礼拝では、特に父の言葉の重要さについて覚えます。

・勧め
 パウロは「父のように」「勧めをし」と語ります。子どもの側にいて、ふさわしい励ましの言葉を与えることです。昔、父親は後ろ姿で育てるように考えられたことがありますが、後ろ姿だけでは、子どもを十分に励ますことはできず、明確な言葉をもって助言をして励ますことが大切です。

・慰め
 次に「慰めを与え」とあります。これも近くにいて落ち込んだり、失望している子どもを愛と優しさを感じる言葉で語ることを意味します。慰めは母親だけの役目ではなく、父親でなければの慰めがあるのです。

・命じ…証しする
 最後に「おごそかに命じ」とあります。別訳に「ハッキリと証言し」とあります。ちょうどアブラハムが息子イサクとモリヤの山に向かう時のようです。イサクは色々と不足と不安を覚えて父に尋ねるのですが、アブラハムはハッキリと息子に対して信仰を証ししています。「(すべて)主が備えてくださるのだ」と。

2017/6/11 ピリピ4:4~7 喜び、寛容、祈り 



・主にあって喜ぶ
「いつも主にあって喜びなさい」。「主にあって」とは、「主が共にいてくださる」という意味が含まれます。霊的現実を信仰の目で見て、喜ぶようにということです。
 目に見える状況が悪くとも、あえて信仰によって喜ぶという積極さが大切です。そして私たちが「主にあって喜ぶ」とき、実際に物事もよい方向に進展するのです。

・寛容
 「寛容な心」とは、相手を敵視したり、相手を恨んだりすることの反対です。むしろキリストのように、どのような人をもうけ入れ、融和さを持ち、欠点を覆うような寛大な心ということです。
 私たちの時代は、寛容さを失っている時代です。その中で、キリストの心のように生きることは良い証となります。

・祈りと平安
 「何も思い煩わないで」とあります。私たちの思い煩いは目先のことに囚われ、何でも自分で解決しようとする肉的状態の中で起こってきます。その時こそ、信仰を呼び覚まして、神に祈るチャンスです。
 私たちの霊の目は祈りを通して開かれ、私たちの近くにあって、私たちを愛してやまない父の神を知ることになります。そのようにして「人のすべての考えにまさる神の平安」私たちを覆うのです。 
 私たちは、不安と不満と失望の時代に生きています。この時代のただ中で、神の民として生きることの幸いを享受し、証ししましょう。

2017/6/4 ピリピ4:1~3 主にある一致



・「しっかりと立つ」
 信仰者たちが神とキリストとの強固な交わりの中にあることを示した後、パウロは、ピリピ教会の人々を激励しています。「しっかりと立って」とあります。戦場の兵士の、あるいは試合に臨む競技者に対するようなイメージで語っています。地上に生きるキリスト者は神の軍のようであり、地上にあって様々な悪に立ち向かうのです。そのために信仰の足場を固める必要があるのです。

・主にある一致
 ピリピ教会はすぐれた教会でしたが、教会内でユウオデヤとスントケという2人の有力女性の対立がありました。福音に熱心あまり、宣教方針などでしばしば対立が起こったのです。パウロは異端に対しては、徹底した排除するように命じますが、同じ信仰者同士の場合は、極力、和解し一致するように勧めています。「主にあって」とは、主イエスが十字架で示されたへりくだりの思いに真似てということです。

・周囲の協力
 「彼女たちを助けてやってください」とあります。これは周囲の者たちに対する勧めです。対立を放置したり、どちらかに加担するのではなく、和解のために助力するように促しているのです。何としてでも、教会内の対立は避けるべきで、「主にある一致」が保たれなければならないのです。その一致した教会において、主イエスの臨在は際立ち、力ある賛美と宣教が起こります。