09/4/26 「イエスの兄弟」 マルコ3:31~35


・イエスの肉の兄弟
 「イエスの兄弟が来て・・イエスを呼ばせた」とあります。これはヨセフとマリヤのの間にできた血肉の兄弟たちです。彼らはイエスは血と肉の絆の中で育ったので「イエスを呼ぶ」権利があると思っていました。しかし公生涯の中にあるイエスにとって、彼らの元に向かうことはアダムの絆に復帰することでした。光の子が暗闇の子の中に戻ることはありえませんでした。血肉のアダムの絆(きずな)にある限り罪と死という呪いの連帯にとどまることになります。

・イエスの霊の兄弟
 神はイエスを地上に遣わして十字架の贖いをなし、新しい絆である神の家族を作られました。神の家族となった者たちは古い絆にとらわれることなく、この新しい絆に入ります。そしてイエスと共に永遠の生命と神の国の相続が約束されています。
 新しい絆に入るためには「神のみこことを行なう」ことです。それは第1にイエスを信じて主と告白すること、第2にイエスを信じる者たちとの愛の交わりに留まること、第3にイエスの福音のために生きることです。

・イエスの元に留まり導く
 私たちにとって地上の家族は大切な存在ですが、彼らを救う手段は彼らに「呼ばれ」彼らの元に返ることではありません。むしろイエスの元に留まり、愛の交わりを築き、私たちの家族をも光の中に導くことです。

09/4/19「2人の放蕩息子」 ルカ15:11~32 鈴木弘司師

 放蕩息子は父の家から出て行き、父からもらった財産を湯水のように使い果たしました。挙げ句の果ては豚飼いとなり豚の餌を食べたいと思うまで落ちぶれていきました。しかし彼はどん底で悔い改めて父の元に帰還します。
 父は真の姿は愛でした。彼が帰ってくるのを遠くで見つけると走り寄って彼を抱き、息子として最高のもてなしで帰還を祝ってくれました。父は息子のすべてを赦し、息子としての立場を復帰させたのです。
 兄息子は父と同じ心で喜ぶことはありませんでした。彼は父に不公平であるといってつぶやいています。彼はユダヤ人達の姿でもありますが、同時に先に救われた者たちの反面教師です。私たちは先に救われて信仰者としての多くの労苦をしています。それはそれですばらしいことです。しかし父と同じ心で後から来る者、弱い者を赦して祝福して上げないなら、父なる神から遠く離れた者になってしまいます。

09/4/12 エマオへの途上 ルカ24:13~26,32

・エマオへの途上
 エルサレムからエマオという村に下っていこうとしてた弟子たちの面持ちは暗いものがありました。主イエスの復活を心から信じていなかったからです。
 この弟子たちの暗い絶望的な心は、すべて復活を受け入れていない人の心の姿です。復活を受け入れていないとたとい主イエスが面前にいて救おうとしておられても、主イエスと認めることはありません。

・聖書全体から復活を示す
 主イエスは、目が遮られている2人に近づいてなされたことは、聖書全体からキリストの死と復活を示すことでした。10数キロの道のりを歩く間、克明に示していったのです。弟子たちの心の目は、次第次第に開かれ、心も燃えて明るくなっていました。
 私たちの場合も復活信仰を強めるためには、ただ御言葉の全体を通してキリストの死と復活を克明に知り、理解することが大切です。

・礼拝と聖餐
「食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」
 これは小さな礼拝の姿です。礼拝の中心は、御言葉と聖餐です。ここで私たちは、心の目が開かれ、復活の主キリストを認めるのです。またそこで憂いも、不安も恐れも、主イエスによって取り除いて頂くのです。
 私たちは毎週毎週の礼拝を重んじて、御言葉と聖礼典を通して復活信仰を強め、キリストの死と復活はすべて私の罪の贖いと新しい生命のためということを覚え、心を燃やしましょう。

09/4/5 キリストの受難 ピリピ2:3~11

・自己中心と虚栄心の時代に
 私たちの時代は個人の自由を大切にする時代ですが、同時に自己主張が強い時代です。また自分が目ざす人物像というとテレビの有名人であることが多く、それは一歩間違うと自己中心と虚栄に向かわせてしまいます。そこで私たちは、私たちの目ざすべき人物像であるキリストから学ぶ必要があります。

・キリスト受難と謙遜
 キリストは神の子で、神の御姿を持つ方です。しかし地上に来られた姿は、それらの栄光をかなぐり捨てた姿でした。「ご自分を無にして、仕えるものの姿」とは、そのことです。
 皆が、偉くなって誰かに仕えてもらいたい。輝かしく脚光を浴びたいと願っている時代に、神の子が示した姿です。
 「ご自分を卑しくし・・・実に十字架の死にまでも従われた」とあります。父の神に対する従順ゆえに、意志的にご自分を卑しく、低くしていかれました。罪人の傾向は、自分を高くして「神のように」なろうとするのと反対の姿勢です。
 「十字架の死にまで従う」というのはキリストでなければできないことでした。しかしそのようにして、神が望まれる人間の基本的姿勢を示されたのです。

・神が望まれる人間像
 キリストの十字架の姿は肉の眼には卑しく惨めに見えますが、神の目には何よりも栄光に輝く高価な姿でした。神の外面的栄光以上の深い輝きとみなされたのです。それゆえ神はキリストを「すべての名にまさる名」を与えたのです。
 私たちもまた「イエス・キリストは主です」と告白する者たちです。キリストの従順に少しでも学んで、本当の栄光の姿を刻んでゆきましょう。

09/03/29 神の国と聖霊 マルコ3の13~

・様々な非難に対して
 福音宣教が進展するに従って、主イエスについての色々な非難やデマそして悪い噂も広がっていきました。「気が狂った」「悪霊の頭ベルゼブルで悪霊を追い出している」などとです。
 主イエスは、そのような非難や噂に対してもキチンと対処しました。神の国は霊の働きとして進展すると同時に、非難に対する対処の言葉も伴いました。信仰者たちも、そのようにして噂に惑わされず、確固とした信仰生活をなし、証をなしてゆきました。

・神の国と聖霊
 ベルゼブル云々の非難に対しても、主イエスはたとえで彼らの非難の矛盾を指摘し、非難を退けます。
 「サタンがサタンをどうして追い出せましょう」とあります。地上は表面はどのような勢力が起こったり対立していたとしても、根底にあるのはサタンの支配です。ユダヤでも事情は同じです。律法学者自体もサタンの手先になっているのです。地上におけるサタンの絶対支配は地上の力では揺るぐことはないのです。地上にある限り、悪霊たちが内部分裂も内輪もめもすることはありえません。
 それではどうして悪霊が追い出され手いるのか。それは地上の支配者であるサタン以上の霊が働いているからです。それこそ神の霊です。

・霊的洞察をもって信仰生活をする
 私たちの周囲でも、しばしばキリスト教信仰についての非難やデマ、悪い噂が流れることがあります。しかしそれに惑わされることなく、私たち信仰者の周囲において神の国が勢力を広げ、聖霊の働きが胎動していることを覚えるべきです。
 この例的洞察で、私たちは確固として惑わされることなく聖霊の器として信仰生活を築き、福音を証することができるのです。