2021/11/28 ルカ福音書14:34~35 キリスト者の塩気

 ・塩は良いもの
「塩は良いもの」とあります。確かに減塩が叫ばれる時代ですが、塩自体は人間にとって必要欠くべからざるもので、塩分によって筋肉と臓器のバランスがたもたれています。それで人間は塩の味覚がきわめて敏感で、すべての味覚の基本だということです。まさしく「塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか」とある通りです。
 
・塩気をなくしたら
「…土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられて」とあります。
 当時のユダヤでは塩とは、死海周辺から産出される岩塩で、かなりの不純物が混じったものでした。それで塩分が融解して残った塩は、もやは形だけは塩でも、塩気がなくなっている場合がありました。その時、それは畑の土にも、肥やしにもならない役立たずとして「外に」捨てられるのです。

・キリスト者の塩気
 以上,「塩」は極端な両面を持っているのですが、それは世にあるキリスト者の場合も同じだということです。「塩気」のあるキリスト者は神の目の前でも、世においても「良いもの」です。しかし「塩気」を失った者は、まったく役に立たない者となっているということです。
 具体的にキリスト者の「塩気」とは、主イエスに第一に従う心です。その信仰心から「神への恐れはきよく」とあるように聖さが生まれます。また真実な「信仰と希望と愛」が養われます。私たちは、神の前で自分を顧みて、信仰心を正し「塩気」を保つことが肝要です。

2021/11/21 ルカ福音書14:25~33 弟子の条件

 ・弟子の条件
 主イエスはご自分についてくる群衆に対して、弟子の条件とは何かについて、次のように語っています。
「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」
 地上に生きる人間にとって「自分のいのち」は言うまでもなく、家族と親族は何よりも愛すべき存在です。それを「憎むように」ということは、世の常識を覆す革命的言葉です。

・自分の十字架を負って
 さらに「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」と畳み掛けています。「十字架」とは、地上の一切を否定する象徴です。地上のものに未練を残していては、イエスの弟子となれないと明言しているのです。
 「塔を築こうとするとき」「どんな王でも…戦いを交えようとするとき」と2つの例を用いて、物ごとを成功させたり、勝利するときに、基本となる合理的判断が必要であることを示しています。それがイエスの弟子となる場合は、「自分のいのちを憎む」「十字架を負う」ということだということです。

・神中心の生活転換
 これらの命令は、ショック療法的言葉で、私たちが地上の生命に執着するよりも、神を第一に愛すべきをことを具体的に示しているのです。その基礎があって初めて、地上のいのちも人間関係が純化され、健全で幸いとなるからです。

2021/11/14 ルカ福音書14:15~24 神の国で食事する人

・神の国で食事する人
 主イエスは盛大な宴会にたとえて義とされて、神の国で食事する人とは、どのような人であるかについて語っています。
 「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いていた」。しかし「宴会の時刻になったのでしもべ」を遣わしました。ここで「ある人」とは神のことで、神の国の救いと祝福の大宴会を開くことを意味しています。

・断る招待者たち
「ところが、みな同じように断わり始めた」とあります。皆が皆、それぞれの世的な理由で、宴会への招待を断ったというのです。それは旧約において神の救いに招待されていたユダヤ人たちが、主イエスを通して提供された福音を拒絶したことを暗示します。彼らは世を愛するあまりに躓いたのです。

・「無理にでも」…残りの席のため
 そこで主人は「大通りや路地に出て行って、貧しい人…」を連れてくるように命じています。彼らは世的な楽しみもないために、素直に招待に応じるのです。さらに残った席があったので「街道や垣根のところに出かけて行って…無理にでも人々を連れて来なさい」と命じています。
 用意されている「席」とは神のキリストの血によって買い取られた救いの席です。それは決してないがしろにしてはならず「無理にでも(どうしても)」満たされなければならないのです。私たちはすでに招かれているものです。この招待を無駄にしないように心して気をつけましょう。(ヘブル10:25)
 

2021/11/07 ルカ福音書14:12~14  祝宴の招待者

 ・祝宴の招待者
 主イエスは祝宴の招待者について「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません」と語っています。それは、身近な人々との交わりは、ギブ&テイクの関係で、本質は自己愛に基づく地上の狭い人間関係に過ぎないからで、神の国の愛の関係ではないことを明らかにしています。

・招待者は貧しい人…
「祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい」とあります。「貧しい者…」は社会的立場も経済力もなく、ユダヤ社会では、交わりや集団からは除外される傾向がありました。また一般の人々は、彼を食卓に招いても、なんの益にもならないと考えていました。しかし主イエスは、そのような人々こそ祝宴に招くのが「幸い」と語っております。それは彼が「お返しできない」分、神に対する純粋な愛が現れるからであり、それゆえに「義人の復活のとき」神が報いてくださるからです。

・神の国の招待者
 主イエスもまた、神の国に招いているのは、世の力ある者ではなく「貧しい者…」です。私たち自身も、貧しい時に、キリストによって見いだされて、招かれているのです。そこで私たち自身も、キリストから受けたとおりに、「幸い」な愛、神の国にふさわしい愛を実践するようにいたしましょう。

2021/10/31 ルカ福音書14:7~11  自分を高くする者 低くする者

 ・披露宴のたとえ
 食事に「招かれた人々が上座を選んで」いました。それは、パリサイ人らにとって、上座は、いわば栄光の座で、自分の宗教的社会的地位を築く機会であると同時に、自分の虚栄心を満足させる場となっていたからです。その事に気づいた主イエスは、婚礼の披露宴の例えを語り、それによって神の国でのありかたを示しております。

・上座ではなく 末席に
「上座にすわってはいけません」とあります。それは後で「あなたよりも身分の高い人」が来た時に、主催者の判断で末席に移され「恥をかく」ことになるからです。そこで「末席に着きなさい」と勧めています。それは、自分を一番小さく低い者と考えて、それにふさわしい席に着きなさいということです。その場合も主催者は、その人のことを覚えて、必ずや上席に招かれて面目躍如となるということです。

・高くする者 低くする者
 「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」。この原則は、神の国では徹底しています。そこでは神が主権者で、虚栄や高慢で上座に着こうとする者は、確実に恥を受け、反対に自分の小ささを認識して、へりくだる者は、神によって栄光を受けるということです。このことは、主イエスご自身が身を持って示されたことです。彼は低くなったがゆえに、神によって何よりも高められました。