2012/06/24  礼典について

・聖礼典
  信仰告白第7条は礼典についてです。「水の洗礼および主の聖餐が現代の時代における教会により守らるべき礼典であることを信じる。しかしそれらは救いの手段としてみなされてはならない。」  日本福音自由教会では、礼典は水の洗礼と聖餐の2つです。これらは聖書において明記されている礼典です。礼典は主イエスの救いの恵みを見える形で示し、見えるみ言葉と言われます。それを信仰によって心の内側に受け取ります。

 ・水の洗礼
  聖書では、実際に洗礼が施された場面が記されていますし、マタイ福音書28章では主イエスご自身の命令があります。  ローマ6章によると、信仰者はキリストと共に死んで一切の罪を聖められたこと、またキリストと共に生き返り新しい命を受けていることを示します。目に見える形では、牧師が水の洗礼を授けますが、霊的には主イエスご自身が授け、聖霊が受洗者の罪を洗い新生させます。

 ・主の聖餐
  マタイ26章、Ⅰコリント11章などに聖餐式の記述があります。その主題はイエス・キリストの救いです。み言葉とともにパンとぶどう液が提供されます。パンはキリストの体、ぶどう液はキリストの血を象徴します。陪餐者は信じつつ食し、飲みます。それによって霊的なキリストの生命と血が内側に提供されます。これらはすべて、信仰によって霊的な食物となるのです。私たちにとってキリストこそ真の食物です。

20120617 父の日礼拝 ルカ15章 放蕩息子の話から

・父子関係の乖離
  放蕩息子の話を見ると、父と子供たちの間に心の乖離があることが分かります。弟は財産を受け取るとさっさと遠くの地に赴きます。兄の方は父とともに暮らしていましたが、心では離れていました。
父は子供に対してどうしても厳しい父として見られがちです。それは子供を躾ける、訓練するという役割から、必然的なことでした。また子供は成長過程で、プライドと過度の自立心を持ちます。その結果、互いに心の乖離が起こるのです。

・父子関係の回復
  弟は、早速、社会で挫折し、全く落ちぶれます。そこで自分の驕った心を悔い改め、心を父親に向け、父のもとに向かいます。
  父親は、自分から走り寄り、子供を抱きかかえて心からの愛情を示します。これが父と子の心の出会いとなります。
兄の方は、その対応に不満を漏らしますが、父は兄息子に対しても、彼に対する愛を知らせるのです。

 ・父子の心の出会い
父は子供に対して、優しさと愛の側面も現して伝える必要があります。厳しさ以上に、こちらの方が重要なのです。
この父の姿は、神に重なります。私たち父親は、神のあり方に習いながら、初めて父親としての使命を全うできるのだと思うのです。

2012/6/10 イザヤ12:1~6 喜びの発信

・「その日」と福音宣教
  「天から神の怒りが啓示されている」とあります。人間は罪深いため、その生涯は神の怒りの下におかれています。
しかし「その日」とは、神の「怒りは去り」「慰め」が来る日のことで、主イエス・キリストの十字架の贖いによって実現します。同時に福音宣教が始まるときです。福音には十字架の贖いが凝縮されています。

 ・救いの泉から喜んで汲む
  「その日」とは今であり、私たちは「喜びながら救いの泉から」汲みます。つまり私たちが福音を聞いて、理解し、それを心に受け入れるなら、福音は私たちの心の中で救いの泉となります。
  私たちの毎日はまた、神の怒り、試練、戦い、苦しみの連続で、さながら旱(ひでり)のようです。しかし福音は渇いた心に救いの水を与えます。そしてその時々に応じて、慰めと力と励ましを与え、喜びをよみがえらせ、愛の神が私たちと共にいることを知らせます。

 ・喜びの発信
  私たちの福音宣教は私たちの信仰生活の体験を基点として始まります。それは「喜びの発信」です。  私たちは礼拝で、諸集会で、毎日の生活で救いと喜びを証するのです。それは自発的になすことであり、また命令されていることです。
  世の人々は、むなしい偶像崇拝をし、不道徳の中を歩み、なお、神の怒りの中におかれています。私たちは明瞭な喜びで、神の救いと臨在を証しするのです。

2012/6/3 ローマ16:1~16 教会の風景

・教会の風景・・・その1
  ローマ書最終章で、パウロは挨拶をしていますが、ここに福音によって立つ教会の風景を垣間見ることができます。  パウロはケンクレヤ教会の女執事フィベについて紹介し、ぜひ彼女を助けるようにと要請しています。彼女もまた良く人を助ける女性でした。「助ける」とは「傍にいる」、「傍に行く」という意味合いを持ちます。教会では、助けを必要としている兄弟姉妹の傍に、即行く風景がよく見られたのです。

 ・教会の風景・・・その2
  プリスキラとアクラのことが紹介されています。彼らはパウロの同労者であり、パウロの伝道旅行の当初から協力した夫妻です。「自分のいのちの危険を冒して」福音のため、人のために奉仕する人たちでした。  「あなたがたのために非常に労苦したマリヤ」とあります。ローマ教会の創設のときから、陰(かげ)になり日向(ひなた)になって労苦したのです。 ローマ教会には、このような人々が何人もいましたが、彼女はその代表格でした。  強いられてではなく、自発的に主イエスに仕える姿、しかも主と同じ労苦を喜んでなす人々でした。

 ・教会の風景・・・その3
  またローマ教会の多くは罪悪のどっぷりと浸っていた人々でした。しかし福音を信じて、偶像崇拝とその慣習の絆を断ち切り、また臨在される主イエスに心から献身していたのです。その内面の変化が、外側の交わりに現されていたのです。

2012/5/27 Ⅱペテロ1:20 神の言葉

・神の言葉はいつも力がある
 Ⅰペテロ1:24「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。25しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」
 人間も人間の言葉も、やがて廃れるものですから、根本的には頼りになりません。けれども、神の言葉は、いつでもどこでも、信じる者にとって、頼りになり、力になります。

 ・聖書は神の言葉
 Ⅱペテロ1:20「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。21なぜなら、 預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
  神は、ご自身の言葉を聖霊をとおして、預言者たちに与えました。モーセ、サムエル、ダビデ、イザヤ、エレミヤなど、すべて預言者です。彼らは、神から受けた言葉を聖書に書き残しました。また預言者と共に使徒たちも言葉も、同じく神からの言葉です。
  私たちは預言者と使徒の言葉を聖書という形で与えられています。この聖書の言葉は、すべて神の言葉で、今の時代の私たちに向けて語られています。ですから、その意味を正しく理解し、心に刻み、御言葉によって完全な救いを得ましょう