2012/5/20 ローマ15:22~33 交わり・コイノニア

・パウロとコイノニア
  使徒パウロはローマ教会の人々との交わりを切望していました。イスパニア宣教の途中にローマに立ち寄り「あなたがた」によって力づけられたいと思ったのです。
  また教会間で交わりが保たれるよう努力しました。貧しいエルサレム教会のためにギリシャの諸教会が献金するよう要請したのです。

 ・コイノニアの意味
 交わりを聖書の言葉でコイノニアといいます。三位一体の神が信仰者をご自身の交わりに招いてくださっているのです。さらに神との交わりを背景にして、信仰者同士が互いに聖い交わりを持つことをコイノニアといいます。

 ・コイノニアの内容
  コイノニアの内容は、第1に福音と信仰の交わり。第2には祈りの交わり。第3に労苦を共有する交わり。第4に物をやり取りする交わりです。私たちは1つのコイノニアにあずかっているしるしとして、聖餐式をもちます。

 ・平和の神の臨在
  信仰者は1人で存在するのではなく、コイノニアの中で存在し、育まれ、成長します。そこに「平和の神」が臨在されます。
  私たちは桶川にある聖なるコイノニアに招かれています。そこで、より祝福され、より平和の神の臨在にふさわしい交わりを作っていきましょう。

2012/5/13 母の日礼拝 マルコ7:24~30

・女性の求め
  主イエスがツロ・フェニキヤ行ったときに、ギリシャ人の女がひれ伏し、願い続けました。小さい娘が「汚れた霊」につかれ、誰にも癒してもらうことができなかったのです。

 ・主イエスの拒絶
  しかし主イエスは彼女の求めを拒絶して次のように語ります。「子供たちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです。」  子供たちとは、ユダヤ人のことを意味し、小犬とは異邦人の女あるいはその娘のことです。少々、侮蔑した言葉です。

 ・女の信仰
   それでも女性は引き下がらずに次のように切り返します。「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」。  自分を小犬にしてへりくだり、徹底して主イエスのあわれみを求めています。また「パンくず」ほどの恵みでも癒されるという強い信仰が見られます。
  主イエスは、女性の信仰に驚きます。「女が家に帰ってみると・・・悪霊はもう出ていた」とあります。

 ・子育てと信仰
 この女性の信仰は、子育てをする母たちが、共通して要請される信仰です。毎日の生活で、子どもたちは色々な「悪霊」の脅威にさらされ、時にはひどく困難な問題が起こってくるのです。その時、祈りが答えられないからといってへこたれることなく、どこまでも祈り続けることです。そのときに、母の信仰も飛躍し、子どもも癒されます。

2012/5/6 ローマ15:7~21 異邦人の救い主

・異邦人の福音
  ユダヤ人は聖書の宗教はユダヤ人のものであるという考えがありました。他方、異邦人はユダヤ人に遠慮する形で福音を受け入れている傾向が見られます。
  そこで使徒パウロは、福音は旧約聖書以来、ユダヤ人と共に異邦人に向けられていることを示します。

 ・異邦人の教会
 さらに神は異邦人のためにパウロを福音による仕え人、また祭司としました。そこにレビ系の祭司という枠を超えた異邦人教会の姿を見ることができます。
  パウロ以降も、神は異邦人教会に働き人をおこし、福音による宣教と聖餐を施させます。また信仰者すべてが祭司とされて、教会全体が「異邦人の光」とされています。

 ・異邦人の供え物
  異邦人教会でも、神はささげ物を求められます。それは信仰者たち自身が福音を理解して受け入れ、自発的に自分をささげることです。それは神のご意志に対する従順ということです。それは彼らにとっても、幸いとなる姿です。

 ・来たれ、異邦人の救い主
   「来たれ、異邦人の救い主」とは、AD4世紀のアンブロシウスの詩ですが、そこには敬虔な信仰姿勢が告白されています。  「私たちは、異邦人はチリにすぎぎない存在です。しかし神は見捨てられず、心の戸の外に立ってたたいています。」
  そこで私たちは心から告白するのです。「どうぞ、私の心にお入りください。私はすべてを献げます」と。

2012/4/29 ローマ15:1~6 強い人も弱い人も

・強い人と弱い人
  私たちには色々な点で、格差があります。力がある強い人と弱い人、能力がある人とない人、持つ人と持たない人というふうにです。世の中では、強い人は自分を誇り、弱い人は苦しむだけという矛盾が生じがちです。  また信仰者の場合も、信仰の自由だけを主張すると個人主義が行き過ぎて、強い者が弱い人に関知しない自己中心に陥る危険性があります。

 ・強い人は隣人の弱さをになう
  しかし「力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべき」です。また「隣人を喜ばせ、その徳を高めるため」に力を用いるべきです。それは強い人の力は隣人のために用いるために与えられた神の賜物だからです。

   ・キリストにならう  「キリストでえ、御自身を喜ばせることはなさらなかった」とあります。むしろ私たちが受けるべき裁きを自ら進んでその身に受けて、十字架の死にまで到りました。キリストは私たちの贖い主であるだけではなく、私たちの道しるべです。私たちが救われたのは、小さいキリストになるためです。

・強い人も弱い人も 教会には色々な点で強い人と弱い人がいますが、互いが互いの弱さをになうべきです。その関係がキリスト体の強い関節になり、一致が生じます。  またそこに聖霊が豊かに注がれ、「心を一つにして、声を合わせて」神をほめたたえるようになるのです。