2011/3/27 マルコ14:53~72 ペテロの否認

・イエス
 主イエスは大祭司邸で祭司長、長老、律法学者の尋問を受けます。彼らは初めから主イエスを死刑にする訴えを探しましたが、罪を認めることができませんでした。最後に大祭司が「あなたはキリストですか」という質問に対して、明確に「私は、それです」と告白します。暗黒の中でも、主イエスは真実と誠実を保たれました。そこに神の子としての栄光が輝いたのです。

・ペテロの否認
 ペテロの詰問も同時進行します。彼は自分の正体を隠してを大祭司の下の庭で火にあたっていました。一人の女中は彼に対して詰問して言います。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね」。ペテロは否認します。2度目もそうでした。3度目には他の者たちも「この人はあの仲間」と言いだします。ペテロは「のろいをかけて誓い」強く否定します。
 「鶏が、二度目に鳴いた」とき、彼は主イエスの予知を思い起こし、自らの信仰の弱さ、罪を深く思い知り「泣き出」しました。それは自分の力を過信する信仰者の結末です。

・回復
 やがてペテロは信仰を回復させ、大使徒と呼ばれる良き信仰者とされます。そのためにはどうしても、この辛い体験を通る必要があったのです。自分の意志や力を過信、肉の側面が打ち砕かれて、初めて純粋にキリストを信じる信仰が養われ始めたのです。
 「・・・キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」Ⅰペテロ2:24とあります。ペテロだけではなく、私たちも自分の弱さと罪を思い知り、キリストによって癒されて初めて、良き信仰者としての土台を築くのです。

2011/3/20 マルコ14:43~50 ユダの裏切り

・ユダの裏切り
 神の国に暗黒の力が押し寄せました。イスカリオテのユダは悪の力に飲み込まれて、主イエスを裏切ることになります。彼は十二弟子に選ばれていたのですが、悪に染まり、その悪が熟して、ついに公然とした反逆心が芽生え、裏切りという行動に向かったのです。
 彼は「剣や棒を手にした群衆」を隠れ場に導き、イエスに口づけして認知させました。面従腹背という言葉がありますが、それがさらに公然とされたのです。

・他の弟子たちの弱さ
 暗やみの力の中で、ある弟子は剣で対抗しようとしますが、結局は逃げ去ります。絶望感と恐怖心が彼を覆ってしまったからです。また「ある青年(マルコ)」が途中までついて行きますが、彼もまた惨めな姿で逃げ帰ります。
 圧倒的な悪の力の中で、他の弟子たちも、自分の弱さが顕わになってしまったのです。地上の悪の力というのは、それが牙をむきだしたときには、もはや人間の力では対抗できないのです。

・暗やみの力の中で
 主イエスは裏切りも捕縛も、さらに十字架さえも、すべて「聖書が成就するため」と語っています。つまり「暗やみの時」の一切は神の救いのご計画に含まれているということです。救いは、暗やみの時を通り抜けた向こうにあるのです。
 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、・・・捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない 。」8:31のです。
 このことは私たちの信仰の日々でも全く同じです。ただ暗やみのときに弱さが顕わになったとしても「ユダにはなるまじ」と言うことです。

2011/3/13 マルコ14:32~42 ゲッセマネの祈り

・ゲッセマネ
 主イエスは十字架前夜、ゲッセマネというオリーブ山の園で祈りの時を持ちました。その祈りは「悲しみのあまり死ぬほど」と告白しているほどに苦悶に満ちていました。
 ゲッセマネはいわば十字架直前の前哨戦の場であり、主イエスはそこでの祈りにおいて勝利して、十字架に向かっていったのです。

・ゲッセマネの祈り/その1
 「アバ、父よ」と主イエスは心からの信頼を持って父の神に祈っています。主イエスは神の一人子しての権利を持ち、自由なる祈りが聞き届けられてきました。
 「この杯」とは十字架の苦難を意味します。神の怒りと呪い、家族と弟子たちとの関係の破局、旧約の民との断絶など暗黒の時を意味しました。その苦しみを回避しようとすることは、人の弱さを知る方として当然の求めでした。

・ゲッセマネの祈り/その2
 また主イエスは、祈りが「あなたのみこころ」を聞きそれに従う決意をする場であることを心得ていました。神の御心は預言の言葉で示されていましたが、十字架直前にさらに深く、強く、明瞭に示される必要があったのです。
 この両者の狭間での苦悶の祈りが続きましたが、主イエスは最終的に「わたしの願い」を放棄し、父の御心を自分の使命とするのです。

・私たちのゲッセマネ
 主イエスはその間、眠りこけていた弟子たちに対して「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい」と命令しています。
 これは同時に私たちに対する命令であり、私たちの場合も様々な誘惑に勝つにはゲッセマネの祈りを模範として祈り続けることが肝要です。

2011/3/6 マルコ14:12~26 最後の晩餐

・最後の晩餐
 主イエスは十字架前夜、弟子たちと共に過越の食事をしました。主イエスの預言の通り、とある家の2階では、食事の用意ができていました。イエスが彼らをその場に招いたという事です。
 私たちもまた導きによって一つ教会に集められていますが、一人一人がキリストによって愛され、覚えられて招かれているのです。

・心をきよめる事
 食事の前に、主イエスは弟子たちを試みながら、イスカリオテのユダが裏切りを暗示します。間もなく彼はそこから離れます。
 私たちは聖餐に際し、自分の信仰を確かめる必要があります。裏切りでもなく、中途半端な心でもなく、悔い改めと信仰と献身の思いを持って聖餐にあずかることが大切です。

・1つの体から裂かれたパン
 「パンを取り・・・「これはわたしのからだです」」と。聖餐式のパンはキリストの体を象徴します。やがてキリストが十字架上で肉体を裂かれるように、それは裂かれ、提供されることを示しています。ただその時代の弟子たちだけではなく、すべての時代のすべての人に提供されています。私たちが御言葉を信じて食するときに、それは私たちの内でキリストの生命となります。

・1つの血であるブドウの杯
 「これはわたしの契約の血」。ブドウの杯はキリストの血を象徴します。昔から契約の際には血がながされました。それにより古い罪過がきよめられ、新しい契約の締結となるのです。私たちは約束の言葉を信じて飲むときに、新しい契約により神の子とされるのです。

2011/2/27 ローマ5:6~11 神の愛の勝利

・罪人のためのキリストの死
 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは・・死んでくださった」「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」とあります。
 確かにキリストは十字架に付けられ、自分を打つ者たちのために祈られました。使徒パウロ自身もかつてはキリスト教会の迫害者であったのにキリストは彼のために死んでくださっていました。それは現在の私たちの場合も同じです。

・神の愛の明示
 三位一体の第二格が神の子キリストです。父の神に限りなく愛され、しかも尊厳、能力、性質において父に等しい存在です。この死は父の死と等しく、そこに永遠の愛が明示されたのです。しかも私たちが罪人であったときの出来事です
 神の愛はアガペーの愛と言われますが、質においても量においても、この世の愛(エロス、フィリア)とは隔絶しています。

・神の愛の勝利
 過去に明示された神の愛は、私たちの現在と未来においても、決して変わらず、むしろ増し加わります。
 つまり罪人をも愛する方が、義とされ者たちを「怒る」はずはありません。「和解させられた私たちが・・・救いにあずかるのはなおさら」です。
 教会のシンボルは十字架ですが、この過去における愛の真実は、現在、未来において、ますます私たちに向けて増大する神の愛の印でもあります。私たちは、この神の愛を信じて、大いに喜んで生きるのです。