2018/3/25 イザヤ53:1~6 苦難のしもべ


・苦難のしもべ
 イザヤ53章では旧約聖書全巻が待望する人物、福音の中心人物についての預言があります。彼は人間として地上に誕生し、人知れず成長します。しかし彼は「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」人物でした。まさしく苦難のしもべでした。

・私たちも「彼」を…
 彼は人々の中で際立つ「人」でした。「さげすまれ、人々からのけものにされ」たからです。ただの「さげすみ」ではなく人が顔をそむけるほどさげすまれ」ました。それは彼が「悲しみ(痛み)の人」にあったからでした。私たちも、彼を神に捨てられた人として「尊ばなかった」とあります。

・「彼」は私たちを…
 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(悲しみ)をになった
 彼の病と痛みは、私たちが罪の罰として受けなければならなかったものということです。彼は私たちの罪と罰の一切を担って、打たれ、刺し通され、それによって私たちはいやされ救われたのです。苦難のしもべは、私たちの贖い主であったということです。

・「彼」と私たち
 「彼」と「私たち」が結びつけられ、彼の贖いを受け取る手段はただ信仰です。そこでキリスト者は生涯、その絆の中に生き、信仰を深め、彼を愛を自分のものとするようにすべきです。

2018/3/18 使徒の働き4:36~37、5:1~11 アナニヤ・サッピラ事件



・アナニヤ,サッピラ事件
  信じた者の群れは心と思いを一つにし、財産も共有する場合もありました。バルナバは自分の土地を売り払い、その代金をすべて献げて、みなの称賛をえました。
 ところがアナニヤとサッピラ夫婦は皆からの尊敬と称賛を獲得するために、一部の財産を隠して、すべて献げたという虚偽行為をなしました。しかも夫婦で口裏を合わせてなしたので、ペテロはそれを厳しく非難しました。

・裁き
サタンに心を奪われ」とは使徒の言葉です。単に偽ったというだけではなく、信者の群れでの虚偽行為は、サタンの奴隷、手先としての反逆と断じたのです。事実、サタンはそのようにして、教会に忍び込もうとしていました。それは「 聖霊を欺い」た行為であり、神に対する反逆です。
 ペテロが彼らの虚偽を暴いたとき、アナニヤもサッピラも、即座に「倒れて息が絶えた」のでした。ただちに神の裁きが下ったのです。

・教会と聖
「教会全体…非常な恐れが生じた」とあります。ここで初めて教会という言葉が用いられています。今や教会は、神殿に変わる神臨在の場所であることが明らかにされたのです。「非常な恐れ」とは神への畏怖です。
 この事件を通して、教会が神臨在の場であり、聖なる領域であることを顕わにさせたのです。

2018/3/11 使徒の働き4:1~22 礎の石



・ユダヤの権威
 神殿内でペテロらが福音宣教していたとき、神殿の責任者たちがきて彼らを拘束しました。彼らは使徒たちがイエスの復活について語っているのに困り果てていたのです。翌日、ユダヤ議会が招集され、彼らは大祭司、長老、学者たちの前で尋問を受けます。彼らはユダヤの権威であり、神殿中心の宗教に固執する人々でした。

・ペテロの弁明
 翌日、ユダヤ議会が招集されて、大祭司、長老、学者たちというユダヤの権威が集います。その面前で、使徒たちは「誰の権威、誰の名で語り行ったか」と尋問を受けますが、彼は聖霊に満たされて大胆に、キリストを証します。彼らにとっては、古い名と権威よりは、復活したイエスの権威と名の方が、すぐれていることは、明白でした。

・礎の石
 さらにペテロは詩篇118篇を用いてキリストを証します。「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となったとはこの方のことです」と。神殿中心の旧体制が捨てて十字架にかけて殺したイエスが、復活して新しい神の国の礎となったということです。見た目には見事でも神殿は貧弱な救いであり、キリストこそ万民の救い、永遠の救いであるということを示しています…事実、約40年後に神殿は破壊され、キリストの教えは万民に届けられることになりました。

2018/3/4 使徒の働き3:1~11 美しい「イエスの名」



・「美しの門」で
 ペテロとヨハネが神殿にある「美しの門」を通ろうとしたときに、ちょうど足にハンディーキャップがある男が運ばれてきました。彼はそこで毎日、施しを求めていたのです。「美しの門」は形と装飾が美しかったのでその名がついたのですが、それは神殿にまつわる神の祝福を象徴する名でした。

・イエス・キリストの名
 男は早速、ペテロたちに施しを求めましたが、ペテロは「金銀は私にはない」と答えます。実際に、彼らは金銭を持ち合わせていなかったし、生活は豊かではありませんでした。さらに続けて「私にあるもの」と言って「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と命じました。ペテロは金銭よりも、さらにすぐれた財産は「イエス・キリストの名」という強い確信を持っていたのです。権威ある「名」は決してむなしくはなく、力があります。ましてや神の子イエスは生きており、その名があるところに永遠の力が現れるのです。

・美しい「イエスの名」
 ペテロが語った言葉と共に「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした」とあります。さらに「歩いたり、はねたりしながら、神を賛美し…」とあります。肉体が癒され、神を賛美する心がよみがえったのです。神殿と門の外見は美しかったのですが、さらに美しく喜ばしい「名」はイエス・キリストの名であることが証明された出来事でした。

2018/2/25 ヨハネ福音書2:1~11 水がぶどう酒に



・カナの婚礼
 主イエスは母と共にカナでの婚礼に招かれていました。ところが婚礼の最中にぶどう酒がなくなりそうになったので、母マリヤはイエスが何とかしてくれるだろうと考えて、そのことを訴えました。それに対して主イエスは「あなたは、わたしと何の関係があるでしょう」と突き放しました。もはや息子ではなく、神の子キリストとしての公の立場だったからです。

・イエスの時
「わたしの時はまだ、来ていません」と主イエスは語っています。イエスを招き、イエスもまた喜んで臨在するところでは主イエスは「わたしの時」、絶対的な恵みと救いの時を用意しているということです。その「時」は、主イエスの十字架と復活の奇跡を反映させるような「時」でした。
 この婚姻において信仰者にもたらされる「イエスの時」とは、どのようなものであるか如実に現しているのです。水がぶどう酒に、しかも最良のぶどう酒に変えられた奇跡がそれです。

・私たちの家庭で
 このことは現代に生きる私たちの場合にもそのまま適応できます。特に夫婦関係と家庭生活においては如実です。私たちの場合も生活の中で、いつしか人間ゆえの欠け、弱さ、足りなさが顕わになる事があります。それは物質的にもそうですが、愛や誠実、寛容や忍耐において特にそうです。そのようなときにキリストを心と家庭に招き入れている人々は幸いなのです。その家庭には「イエスの時」があり、「水がぶどう酒に」変えられるのです。