09/11/29 水一杯の好意にも マルコ9:38~41


・反対しないものは味方
 弟子たちは自分たちの仲間でないものがイエスの名を用いて奇跡を行おうとしているのを見て、やめさせようとしました。しかし主イエスは、「わたしたちに反対しないものは、わたしたちの味方です」と語られました。
 「キリストの名」は溢れるほどの恵みと力を持ち、私たちの仲間でない者たちの中でも、それ自体でキリストの働きをなしていくのです。

・水一杯の好意にも
 「キリストの名」「キリストの弟子」「キリストの教え」、何でもキリストを反映しているものは、キリストの祝福を担っています。そこにはキリストの香りがあり、キリストの恵みが流れ出るのです。「水一杯を飲ませ」ると言うことで、弟子たちに対して好意を示す人は、なおさらです。その人は、「決して報いを失うことはありません。」

・溢れるキリストの恵みと救い
 私たちはキリストの教えと教会を守ろうとするあまり、自分自身を狭めてしまう場合があります。確かに、純粋な福音と教会の交わりは保たれなければなりません。しかし「キリストの名」に対する大胆な楽観も必要です。私たちの思いを超えて、神は「キリストの名」を用いて、恵みと救いを前進させる方なのです。

***説教で引用した詩/「ひびいてゆこう」八木重吉作*****
  おおぞらを
  びんびんと
   ひびいてゆこう

09/11/22 幼子を受け入れる心 マルコ9:32~37

・だれが一番偉いか
 主イエスが十字架の死を目前としていたときに、弟子たちは「だれが一番偉いか」について論じ合っていました。彼らはイエスを地上の王のようにみなし、自分たちの誰がその大臣の地位につくかの論争でした。確かに責任ある地位につくことは大切ですが、地上においては「だれが一番偉いか」と争いをおこし、高慢と妬みが渦巻く状態になります。

・先に立ちたい者は、しんがりに
 主イエスは弟子たちの交わり、つまり教会では、地上とは全く異なる原理を持つべきことを示します。
 「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなしんがりとなり・・・」
 集団の中で先に立つ人材は必要です。しかしその人は他を支配するのでも、称賛されるのでも、利得のためでもありません。むしろ「しんがり」となって他に譲る姿勢、仕えるが重要になります。

・幼子を受け入れる心
 主イエスは「子どもを・・・彼らの真中に」して、弟子たちに例示します。普段は目に見える形では、子どもは真中におりませんが、教会の中心は「幼子」です。小さく無力な存在ですが、彼らが尊ばれ、守られていくところに教会の本質があるのです。
  世は弱肉強食の原理がまかり通る社会です。教会が「幼子を受け入れる」場として機能するときに、キリストの臨在と香りが際だちます。そのようにして世に対して証となるのです。
 「幼子・・・わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。」

***説教中で引用した「モモ」冒頭の詩(アイルランドの子どもの歌より)
 やみにきらめくおまえの光、
 どこからくるのか、わたしは知らない
 近いとも見え、とおいとも見える、
 おまえの名をわたしは知らない。
 たとえおまえがなんであれ、
 ひかれ、ひかれ、小さな星よ!

09/11/15 信じる者には マルコ9:14~29



・弟子たちの現実
 主イエスたちが帰ってきてみると、大勢の群衆がおり弟子たちは律法学者たちとイエスの権威について論争していました。彼らは病人から悪霊を追い出すことができなかったために皆の非難の的となっていたのです。これは世における弟子たちの現実です。

・不信仰な世
「ああ、不信仰な世だ。」主イエスは人々の不信仰を強く嘆きます。ちょうど、出エジプト記でモーセが山から下りてきたときに、人々が偶像礼拝をしていた情景を思いおこします。主イエスもまた、神の前に不信仰をさらけ出している人々に対して激して怒り、嘆いているのです。
 「いつまであなたがたにがまんしていなければ・・・」この言葉も主イエスの嘆きです。主は弟子たちと群衆の中に信仰が育つことを切望していました。その主イエスの心の内がハッキリと示されています。

・信じる者には
 主イエスは病人の父親に子供の状態を尋ねます。人の痛み苦しみを聞いて受け止める愛の姿が現れています。しかし父親の不信仰な言葉には再び叱責します。
 「できるものなら、というのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
 実に明快な言葉です。主イエスが切望していたのは、信仰でした。主イエス御自身は栄光の姿を持ち、愛に満ちた神です。その力と権威を導き出すのは、私たちの側の信仰のみです。

・現実の中で信仰を働かせる
 私たちを取り巻いている現実も、人間の力ではどうしようもない悪と悲惨の世界です。この現実を乗り越えるためには是非とも、主イエスの力と権威が必要なのですが、それは私たちの信仰によります。主イエスは「祈り」の必要に触れていますが、私たちも祈りを通して私たちの信仰を強めましょう。

09/11/8 ラザロと金持ち/ペロペロワンちゃんルカ16:19~31


 次をクリックして下さい。スライドになります。
ペロペロワンちゃん
・貧ぼう人ラザロ
 ワンちゃんは、おできだらけの貧ぼう人ラザロの所にきては、おできをペロペロとしてあげました。
 ラザロさんは貧ぼう人だけれども、やさしい心の人で神に愛されている人した。でもラザロさんはいつもおなかがペコペコで金持ちの家の食じの残ぱんでも食べたいと思っていました。 

・ケチでぜいたくな金持ち
 金持ちはぜいたくな生活をしており、高価な着物をきて、食べ物、飲み物もごうかで、毎日を遊びくらしていました。
 そしてケチで誰にも何もあげず、特に貧乏人にはそうで、また軽べつしていました。

・死後の世界の逆てん
 ラザロは死んで、天国のアブラハムの所に

行きました。彼はアブラハムにたいへん愛され、慰めを受けました。金持ちも死にましたが、彼はハデス(じごく)に落とされ、裁きの火で苦しみました。
 彼はアブラハムに助けを求めましたが、アブラハムは言いました。「おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていた。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」「それに大きな淵あるので・・・助けることはできない。」

・5人の兄弟の救いは?
 じごくの金持ちは、何も知らない5人のケチな兄弟の救いを求めました。しかしアブラハムは次のように答えました。
 「もし、モーセと預言者(聖書)の教えに耳をかたむけないなら、たとい、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」。