2020/12/27 詩篇91篇 全能者の陰

・いと高き方の隠れ場
「いと高き方」とはすべての神々、権威の上に存在する神ということです。「隠れ場に住む」とは、信頼して生活することを意味します。
 どの民族、どの国にも色々な神々や権威があります。また自然の脅威や災いもあって、私たちは驚異を感じながら生活しています。しかし、それらの一切よりも高く権威がある神を信頼する時に、完全に守られるということです。

・全能者の陰
「全能者」とは、不可能がない神、どのようなこともできる神ということです。聖書ではアブラハムを始めとした族長たちに啓示された神の名として記されています。「陰に宿る」とは、その庇護のもとで生きることを意味します。ちょうど親鳥に守られた雛ようにです。ですから「全能者の陰に宿る」ことは、何より安全な生活ということになります。

・明瞭な信仰告白
 以上の主なる神の啓示に対して、詩人は大胆な信仰告白をします。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。ただ聞くだけではなく、信仰の応答がこの詩篇に力強さと勢いを与えています。
 私たちは2020年を終えようとしていますが、同じような信仰告白をなして一年の守りを感謝すべきです。また、新しい年に向かっても同じ告白により、力強さと勢いと、さらに風格を持って進んでいきたいと願うのです。
 

2020/12/20 ルカ福音書2:8~14 きょう ダビデの町で

 ・「きょう ダビデの町で」
 ルカの福音書では降誕の知らせを最初に受けたのは羊飼いたちだったとあります。彼らに御使いは次のように語っています。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主が…」とあります。「きょう…あなたがたのために」と、降誕の知らせは、きわめて切迫感をもって語られています。さらに「救い主」について「飼葉おけ…みどりご」と、意外なほどにみすぼらしい姿が啓示されています。キリストは世の価値観で見た時にはいつもそうです。

・ 天の軍勢
 しかし、その「飼葉おけ…みどりご」の知らせとともに天の軍勢が現れて神に賛美しています。一人の御使いでも輝かしい姿なのに、天の軍勢の輝かしさは筆舌に尽くしがたいほどでした。彼らの輝かしさは「主の栄光」を反映したものであり、また「みどりご」を霊の目で凝視したときに顕になる輝きです。

・「天に栄光、地に平和」
 彼らの賛美は「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」とあります。「みどりご」によって父の神が、新たに賛美されること、さらに「みどりご」を通して、人とともに臨在し、平和、救い、愛、永遠の生命を与えるということです。
 そして「御心にかなう人々」とは、ただ羊飼いたちだけではなく、現代でも福音が伝えられ、それを信じるすべての人々のことです。

2020/12/13 イザヤ7:1~14  処女降誕とインマヌエル

 ・アーメン or ノー
 南ユダ王国のアハズ王と民衆は、敵国侵略情報に怯えて大きく心が動揺しました。預言者イザヤは、彼らに対して主なる神に立ち返って信頼するように勧めました。「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」とあります。「信じる」もアーメン、「立つ」もアーメンという言葉で、信仰と不信仰が人生を大きく分けることを訴えています。

・処女降誕とインマヌエル
 アハズ王は拒絶するのですが、イザヤは後の民のために処女降誕とインマヌエルの預言を語ります。「処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」。この預言はアブラハム預言、ダビデ預言に基づくもので、「男の子」は神が人となったキリストのことです。 彼はダビデの王国を確立し、罪と死をも支配する永遠の王となります。それゆえ諸国民にとっても希望と救いとなります。

・クリスマスの奇跡とアーメン
 処女降誕とインマヌエルの奇跡はこのときから約700年後にマリヤとイエスによって実現します。そして、明らかにされたのは、あえて女から生まれた神の子のへりくだりと愛の熱心さです。
 そして私たちの場合も、彼が私たちのインマヌエルとなるためには信仰が必要とされます。そして私たちが立つのも倒れるのも、彼をアーメンと告白するか否かによるのです。

2020/12/6 ルカ福音書8:40~42,49~56 ヤイロの娘の復活

 ・ヤイロの娘の病
 会堂管理者ヤイロは主イエスのもとに来て、自分のひとり娘の癒やしを求めました。彼にとって、その娘は何よりも大切な宝でした。「12才ぐらい」とありますが、その「12」とは、ヤイロの愛の幸せの完全数と考えることができます。しかし「死にかけて」とあるように、娘の死はヤイロの一切の終局を意味しました。

・恐れないで、ただ信じる
 主イエスがヤイロの家に行く途中「あなたのお嬢さんはなくなりました」という訃報が届きました。この時、ヤイロは絶望の淵に落とされる思いでしたが、主イエスの言葉によって、支えられました。「恐れないで、ただ信じなさい」です。主イエスの言葉は神の言葉なので、死の現実と恐怖に打ち勝ちます。ヤイロに要請されているのは、ただ信仰だけです。

・ヤイロの娘の復活
 主イエスはヤイロの家に入ったときに父母と3人の弟子たちだけを連れて、娘の寝かされている部屋に入り「娘の手をとって」「子どもよ。起きなさい」叫んだ時「娘の霊が戻って、娘は直ちに起き上がった」とあります。これによってヤイロの幸福も再び、舞い戻ったのですが、その幸せは、先のものより幾倍も強い土台に築かれることになりました。

  私たちの家庭の幸いも、主イエスの言葉と復活信仰によって盤石となるのです。

2020/11/29 ルカ福音書8:40~48 長血の女の信仰

 ・長血の女
 本日の箇所では、主イエスと弟子たちがヤイロの家に行く途中、ある女性と出会ったことが記されています。その女性は長血を患っていて、出血と苦痛の中にあり、しかも律法では汚れた者とみなされていました。他の福音書では、医者通いで財産を失って、まったく不幸のどん底にあったことが記されています。

・着物のふさに
 彼女は「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわり」ました。 それは自分の汚れを意識したためであるとともに、イエスは汚れた者をも受け入れ、癒やしてくださるという信仰によりました。小さな信仰ですが、確かさを感じます。
 彼女が癒やされたことを自覚した時、主イエスもまた「わたしから力が出て行くのを感じた」と語られました。信仰による接触は、単に着物の房にとどまらずに、イエスとの霊的な接点となったからです。

・長血の女の信仰
 彼女はイエスの求めに従って、不承不承に御前に進み出て、人々の前で癒やされた次第を証ししました。それに対して主イエスは「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです…」と語られます。彼女が主イエスの前に出て明確な告白をすることと、主イエスによって信仰によって癒やされたことを明確に教えられる必要があったのです。
 このようにして、彼女の小さな信仰は不幸から幸いへの大きな転換点となりました。

2020/11/22 ルカ8:26~39 その名は レギオン

 ・悪霊につかれた男
 主イエスがガリラヤ湖の向こう側のゲラサ人の地方に着いたときに、悪霊につかれた男に出くわしました。彼は着物も着ずに墓場に住んでいました。悪霊は彼を凶暴にし、荒野に追いやり、悲惨な状態におとしめていました。

・その名はレギオン
 主イエスが彼の名を問うたとき彼は、「レギオン」と答えました。男の名ではなく、悪霊の名です。レギオンとはローマ軍団のことで、大勢で、強いことを示します。それほどの悪霊が、一人の人間に取り付いていたというのは驚きです。悪霊がレギオンであるぶん、この男の悲惨さと苦しみは計り知れません。
 主イエスは悪霊を追い出すときに、豚の群れに入ることを許しました。それと同時に、豚の大群は狂乱化していきなり崖を駆け下りて湖で溺死しました。

・救いと証
 悪霊につかれていた人が正気に戻ったときに、イエスのお供をしたいと願い出ました。自分自身の救いを通してイエスの愛を知り、感謝と従順の生涯を送りたいと願ったからです。しかしイエスは「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」と語られました。
 私たちは、レギオンなどに取り憑かれた経験はありません。しかし罪の奴隷であった点は、似ています。しかもその贖いは豚どころではなく尊いイエスの血によったのです。

2020/11/15 ルカ福音書8:22~25 湖上の嵐とイエス

 ・湖の向こう岸へ
 主イエスは弟子たちに「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と旅の目的地を示されました。一行は舟で漕ぎ出しましたが、イエスご自身は舟の中で眠ってしまいました。それは神の子であり、同時に人の子としての姿でした。

・湖上の嵐とイエス
「ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった」とあります。この時弟子たちは、慌てふためいてイエスに助けを求めました。主イエスが眠った状態では何の権威も力もないと目先で判断したのです。
「イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった」とあります。主イエスの神の子としての権威を示し、自然の力と諸々の権威に優る力をしめされたのです。更に弟子たちの不信仰をもたしなめておられます。

・「いったいこの方は…?」
 弟子たちはイエスの力と権威を目の当たりにして「いったいこの方はどういう方なのだろう」と驚きを顕にしております。それまでも彼らなりに信仰を持っていましたが、主イエスは彼らの信仰以上のお方であることを目の当たりにし、神の子としての信仰を深めることになったのです。その霊的体験は後の明瞭な信仰につながります。
 私たちも人生の中で色々な危機に遭遇しますが、度毎にイエスに対する信仰を深めていきましょう。

2020/11/8 ルカ福音書8:19~21 神のことばと霊の家族

 ・地上の家族
 主イエスに会おうと、母マリヤとユダ、ヤコブなどの兄弟たちがやって来て、面会を求めたことがありました。普通の、家族であることは、どのような人間関係よりも優先され、その面会は即座に受け付けられます。というのは、ユダヤ社会では特に家族関係は重視されていたからです。 
 
・神のことばと霊の家族
 この時、主イエスは群衆に向かって「私の母、私の兄弟とは神のことばを聞いて行う人たち」と語られました。 主イエスが言う「私の母、私の兄弟」とは、地上の血縁によるのではなく、神のことばによる新しい家族、霊の家族ということです。その関係は「神のことばを聞いて行う」こととしています。つまり地上の何よりも優先して、神のことばを聞き、献身してそれに従うということです。

・霊の家族としての教会
 私たちは教会において「神のことばを聞いて行」っています。具体的には礼拝で説教と聖餐式、更に交わりがそれです。イエスの家族とされることは、神の子とされて愛され天の相続と祝福に預かることです。
 世においては、地上の家族のしがらみ、社会的ないろいろな人間関係があります。しかしイエスの家族としての立場を第1のこととして尊び、その祝福を確実にするべきです。

2020/11/1 ルカ福音書8:4~15「 種まきのたとえ」

 ・種まきのたとえ
 主イエスは神の国が、どのようにして拡大していくかを「種蒔きのたとえ」で示しています。「種を蒔く人」とは、小麦などを蒔く農夫のことですが、当時の播種は大雑把であったので、「道ばた」「岩の上」「いばらの真中」などに種が落ちることがありました。そのような悪い場所を例示しながら、種は「良い地」のみしっかりと育つことを示しています。
 
・種蒔き…不適切な土地
 主イエスは弟子たちにたとえの意味を開示します。まず種とは「神のことば」とし、「道ばたに落ち…踏みつけられ空の鳥が来て食べてしまった」とは悪魔によって聞く人の心からみことばを持ち去るからと。「岩の上に」とは、すぐに喜んで信じるが、「試練のときに身を引いてしまう」と。「いばらの真中」とは、みことばが「この世の心遣いや富みや、快楽によってふさがれる」人です。これら3つの不適切な例は、いずれの場合も神の国の祝福と生命に至りません。

・良い地
 「良い地に落ちるとは」「正しい、よい心でみ言葉を聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる」とあります。「正しい、良い心」とは、みことばを誠実かつ素直に受け入れ、深く思い巡らして、心の奥底にまで刻む人です。また世の誘惑と快楽よりみことばを優先して信じ守り、忍耐して従うのです。そのようにして神の国の祝福と生命を獲得するのです。

2020/11/25  ルカ福音書7:36~50 パリサイ人シモンと罪深い女

 ・シモンの家で
 パリサイ人シモンが主イエスを食事に招いたときに「ひとりの罪深い女」が入ってきたことが記されています。彼女は「香油の入った石膏の壺を持ってきて、泣きながら、イエスの後ろで御足のそばに立ち、涙で御足を濡らし始め、髪の毛でぬぐい、御足にくちづけして、香料を塗った。」とあります。

・パリサイ人シモンと罪深い女
 パリサイ人は、この女性に起こった霊的変化を理解できず、つぶやきました。そこで主イエスは金貸しと二人の債務者の例えを語っているのですが、それはパリサイ人と罪深い女とを対比する例話でした。「よけい赦された方が、よけい金貸しを愛する」というのが、そのポイントでした。
 ちょどそのように、パリサイ人シモンはイエスを食事に招きましたが、その心に愛は欠けていました。それに対して女はイエスを愛してやまなかったのです。それが香油で洗足するという行為に現れていたのでした。

・赦しと愛
「この女の多くの罪は赦されています。というのは彼女はよけいに愛したからです、しかし少ししか赦されないものは、少ししか愛しません」 とあります。自分の罪を深く認識し、主イエスによる赦しと愛を覚えた女は、よけいイエスを愛しました。しかしパリサイ人シモンは自分の罪を知らず、赦されてもいなかったので、愛はなかったのです。

2020/10/18 ルカ福音書7:24~35「風に揺れる葦」ではなく

 ・「風に揺れる葦」ではなく
 主イエスは群衆に対して、わざわざ「荒野に出て行った」のは、どうしてだったのかと問い、あらためてバプテスマのヨハネの存在意味を確認しています。彼らは無意味な「風に揺れる葦」でも、この世の栄華を見に行ったのでもないこと。いや、それ以上の価値、世の次元を超えた存在を見に行ったことを想起させております。

・預言者と神の国
 イスラエルの歴史の中で、預言者たちは特異で顕著な存在で、みなキリストと神の国を指し示し、預言しました。主イエスは、ヨハネを預言者中最大の預言者としています。それは彼が最もに明瞭にキリストと神の国を預言し指し示したからです。
 しかしここで、主イエスは「神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています」と宣言します。それはイエスをキリストと信じて、その永遠の生命を受け、神の国を相続する者だからです。

・神の国を証しする
 ユダヤ人たちは「市場で遊んでいる子どもたち」のように空虚で、自分勝手な物言いをし、決して、神から遣わされたヨハネもキリストも受け入れようとしなかったのです。その態度は、私たちの社会もまったく同様です。
 しかし、キリストによって神の国に入れられた私たちは、イエスこそキリストであり、彼によって神の国は成就したことを、喜びと感謝と力を持って証しするのです。

2020/10/11 ルカ福音書7:18~23 つまずかない者は幸い

 ・ヨハネのつまずき
 バプテスマのヨハネは、ヘロデ王によって捉えられて危機的状況にありました。その時、弟子たちを遣わして「おいでになるはずの方は、あなたですか」とイエスが神の子キリストであるかどうかと問うています。ヨハネは、罪悪人に対して厳しい裁きを下すことがないイエスに、つまずきを覚えていたのです。

・目で見、耳で聞くこと
 それに対して主イエスは次のように答えます。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい…」。イエスは丁寧に、自分がキリストであることを説明することはしません。自分たちで主体的に自分の目で見ること、自分の耳で聞くようにと語っております。さらに預言に照らし合わせて知るようにと指示します。「盲人が見えるようになり、足なえが歩き…」とはイザヤ書のキリスト預言です。

・つまずかない者は幸い
「わたしにつまずかない者は幸い」とあります。人は、世の様々な偏見と先入観の枠に捉えられて、そのままではイエスにつまずきます。そのつまずきを乗り越える人は、神がその人を促して、イエスについて「自分の目でよく見、耳でよく聞いた」からです。
 パスカルのことばまさに至言です。「神は心の底から神を求める人々にはあからさまに現れ、心の底から神を避ける人々には隠れたままでいようと欲した。」  

2020/10/4  ルカ福音書7:11~17 ナインの母

 ・ナインの母
 主イエスがナインという田舎町に行ったとき、ちょうど「やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところ」でした。町の人々は、その母親に深く同情し、葬列は深い絶望と悲しみに覆われていました。

・息子の復活
「主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた」とあります。深い同情心は主イエスの特徴ですが、それだけではなく、死の絶望と悲しみからの解決手段を持つ方です。
 主イエスは死も汚れも決して恐れることなく棺に手をかけて「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われました。すると「その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された」とあります。深い同情と共に復活だけが、母親を元のとおりに回復させる手段でした。主イエスは、完全な解決を与えたのです。

・「死は勝利にのまれた」
 死の絶望と悲惨は、古今東西どこの国でも深刻です。その問題は、人間の力や同情では決して解決することがなく、ただ主イエス・キリストとその復活の言葉によるのです。
 「死は勝利にのまれた」(1コリント15:54)というみ言葉がありますが、このことは、単に2000年前のナインだけではなく、私たちの町でも福音宣教により起こることです。

2020/9/27 詩篇84:5~7 シオンへの大路

・シオンへの大路
 「その心の中にシオンへの大路のある人」とは、旧約の巡礼者たちのことを指しております。彼らは遠い地方からエルサレムの神殿に登っていくのですが、その巡礼の姿とともに、心の信仰にも「シオンへの大路」が刻まれていました。それは神を慕い、礼拝しようとする志です。

・神の御前に現れる
 巡礼者は険しい道、危険な道を通り、暑さと渇きという試練がつきまといます。それが「涙の谷」です。しかし神の愛に守られているので、どのような試練も「泉の湧くところ」=幸いとされます。
 彼らは「力から力へと」気高さを持って旅を続けることができ。ついにエルサレム神殿において「神の御前」に至るのです。

・召天者と私たち
 召天者たちもまた、現代の「心にシオンへの大路がある」人々でした。地上の生活の中で神を愛する心を持ち、具体的には神を礼拝しました。地上で様々な試練を体験しましたが、それも神によって益とされる体験をしました。さらに今は、天国で神の御前に現れ、血肉の体ではなく霊の体で、純粋な礼拝者とされています。
 私たちもまた、地上の生涯を全うして「神の御前に至った」召天者を覚えながら、自分自身の心のなかに「シオンへの心の大路」をしっかりと刻みましょう。
 

2020/9/20 Ⅱコリント4:16~18  内なる人は 新たに

 ・内なる人は新たに
 パウロは、どのような試練や衰えを経験をしても「勇気を失いません」と語ります。それは「外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされる」からです。「内なる人」とは私たちの内に生きる「新しい人」のことです。それはキリスト信仰とともに誕生し、「外なる人」が衰えても、絶えずキリストに似た人として新しくされていきます。

・患難の中でこそ
「今の時の軽い患難」とありますが、地上での苦しみは、どのように辛くても、それは軽いのです。しかもその患難を契機として「内にある人」は、将来の「永遠の栄光」の姿に似せて変えられていきます。これらのことは、目に見えないメカニズムですが、それをしっかりと霊的イメージとして捉えていく必要があります。それが霊的大人のものの見方です。

・目に見えないものにこそ
「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます」とあります。私たちは「目に見えるもの」「外なる人」に関わることだけに目を奪われて生きています。しかしより優れた賜物は「目に見えないもの」「内なる人の栄光」です。これは目に見えない分、心の目をしっかりと向けなければ明瞭に見えません。
 「老いていく」という現実は、確かに患難であり試練ですが、「外なる人」の現象だけに心奪われず、むしろそれを契機に栄光に向かって日々新たにされていく「内なる人」とその栄光を注視しましょう。

2020/9/13 ルカ福音書7:1~10 百人隊長の信仰

 ・百人隊長
 主イエスがカペナウムに入ったときに、百人隊長が下僕の癒しを求めて、イエスのもとに長老たちを遣わしてきました。長老たちは百人隊長の功績を上げて、彼は「私達の国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人」ということで、愛顧をいただく「資格がある人」と語ります。

・百人隊長のへりくだりと信仰
 しかしイエスの一団が百人隊長の家に近づいたときに、百人隊長は友人たちを派遣して「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と語ります。それは彼は異邦人であるという理由と彼自身が深く神を恐れる心と罪の自覚をもっていたからです。
 そこで彼は「ただ、おことばをいただかせてください」と語ります。「おことば」は神から罪人に、天から地に下る手段、しかも恵みと救いの力は何ら減ずることがないと告白しています。彼はその真理を自分の職務から類推しています。いかにも軍人らしい率直で鋭い洞察です。

・りっぱな信仰
「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」とあります。往々にして、ユダヤ人は自分たちを神の民として律法を持つことだけで慢心し、何らかの「資格」あるかのように考えていました。しかし百人隊長は、異邦人であるゆえに罪の自覚を持ち、低いところに下される「みことば」を切に求めました。そのようにして「りっぱな信仰」を獲得し、さらに恵みと救いが与えられたのです。

2020/9/13 ルカ福音書6:46~49 岩に建てられた家

 ・「主よ。主よ。」と呼びながら
 主イエスは山上の説教の締めくくりに、ただ聞くだけで決して行おうとしない弟子たちに対して、警告の言葉を語ります。つまり「わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわない」者たちです。
 人は、ただ福音を聞くだけで、主イエスの弟子であり、救いに入れられていると錯覚しがちです。しかしその点は、それぞれが自分の信仰姿勢をチェックする必要があるのです。

・岩に建てられた家
 そこで主イエスはたとえによって「(主イエスの)ことばを聞き、それを行う人たち」について先に語ります。「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人…」とあります。み言葉を聞いて行おうとするとき、人は肉の脆弱さを悔い改めて、キリストにより頼むようになります。そのキリストこそ「岩」です。このような人々は試練のときにも決して、揺り動かされることがないのです。

・土台なしの家
「聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人」とあります。み言葉を聞くだけで行わない人は「聞く」というだけで、キリストの弟子であると錯覚している人です。しかし決してキリストがその人の信仰の礎になっておらず、ただ肉の思いだけで信仰生活を送っているのです。そのような人は、外見は他の弟子たちと何ら変わらないようでも、試練がその信仰の脆弱さを顕にすることになります。

2020・8・30 ルカ6:39~45 良い木と悪い木

 ・盲人の導き手
 「盲人に盲人の手引きができるでしょうか」。盲人とは霊的に見えない人のことで、霊的に見えない人が、他の人を導くことはできないことを示し「ふたりとも穴に落ち込む」と悲惨な結果となることを警告しています。導く者はまずは自分が霊的に盲目であることを自覚し、心からキリストの導きを求める必要があることを示しています。

・塵と梁
 「兄弟の目にあるちり」とは、兄弟の欠点や落ち度のことを意味します。人は他人の欠点や落ち度には敏感に気づき、それを正そうとします。その場合「自分の目にある梁には気がつかないのです」。梁とは、完全に目を覆うほどの、大きな欠点です。そこで人を正そうとする場合には、いつの場合にもまず「自分の目から梁を取りのけ」る必要があります。そのためにはキリストのみ言葉と御霊によって心を照らされて、自分のうちにある大きな障害を砕きさることが大切です。

・ 良い木と悪い木
 最後に「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません」とあります。それと同じように「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します」と続いています。このたとえは、人は悔い改めてキリストを信じることで、初めて良い心となり、良いわざなすことができることを示しています。どのような場合でもキリストによって、心が変えられなければならないのです。   

2020/8/23 ルカ福音書6:36~38 父のように憐れみ深く

・父のように憐れみ深く
 主イエスは説教の最後に「あなたがたの天の父があわれみ深いように…」と語り、キリスト者は神の子たちで、神は彼らの父であることを明示します。そして父のご性質にならって「あなたがたも、あわれみ深くしなさい」と語ります。「あわれみ深い」とは、内臓が激しく痛むほどの感情の動きですが、神はそのような深い同情心で人々をあわれむ性質を表します。そして神のあわれみについては旧約聖書でも、色々な箇所で啓示しています。

・裁いてはいけない、赦しなさい
 主イエスは「あわれみ深さ」の具体的な形として「さばいてはなりません」「人を罪に定めてはいけません」「赦しなさい」「与えなさい」と語ります。その結果、神のあわれみの中にとどまり「自分も裁かれない」「罪に定められない」「赦され」「与えられる」のです。人々も、同じ対応をすることになります。

・父の神のあわれみを知る
 それでは、私たちはどのようにして父なる神のあわれみ深さを身につけ、実践できるようになるのでしょうか。まずは、聖書の啓示を通して、繰り返し、神のその姿を教えられることです。旧約の預言者モーセやヨナなどがそうです。そして私たちの場合は、何よりも主イエス・キリストの十字架を通して、「私」に示された神の憐れみぶかさ、いかに「裁かず」「罪に定めず」「赦し」「与えた」 かを知ることです。
 

2020・8・16 ルカ福音書6:27~35 あなたの敵を愛しなさい

 ・「あなたの敵を愛しなさい」
 主イエスは新約の民の姿勢として「あなたの敵を愛しなさい」と命令します。旧約では「あなたの隣人を愛せよ」とありますが、「敵を愛する」というのは、幾倍も高レベルの愛です。
「憎む者に善を」「のろう者を祝福」「侮辱するものために祈りなさい」と愛を具体的に述べております。

・罪人たち以上の愛
 さらに「片方の頬を打つものには、ほかの頬も向け」「 上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません」とまで命じられています。
 さらに「罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています」と、世の中で言われる愛は、実は罪人たちも持つ自己中心の愛であることを示します。新約の民の愛は、世の愛を超えた愛でなければならないことを畳み掛けて強調しております。

・天の父にならう愛
 「そうすれば…いと高き方の子どもになれます」と締めくくります。愛の実践を通して、単に神の民としての義務を果たすというだけではなく、「敵を愛する」とは神の愛の姿であり、その実践を通して私たちは神に似た者、神の生命を持つ子となるということです。
 私たちが「敵を愛する」を心がける時、まずは生来の自己中心のエゴにより挫折します。しかしそのときに神の子キリストを見上げ、神の愛に直にふれることで少しずつ「愛」にならう者に変えられるのです。

2020/08/09 ルカ6:20~26 幸いな者 哀れな者

 ・幸いな者
 主イエスは人々に「幸い」についての説教を語ります。「貧しい者は幸い」とあります。この世において「貧しい者」は不幸の典型とされますが、キリストがそこに臨在することで彼らこそ「幸い」の典型となります。彼らはただキリストに結びつき、キリストの恵みと祝福を一身にうけることになるからです。またキリスト臨在のところが「神の国」となるからです。

・迫害と幸い
 また主イエスは後の時代、神の民が迫害に会うことを予告します。つまり「人々があながたたを憎むとき…除名し、はずかしめ…あしざまにけなすとき」があると。しかしそのときでも、「幸い」と語っています。外見ではいかに辛い状態に置かれていたとしても、聖霊によってキリストの臨在があり、それゆえ信仰者の心はしっかりと支えられているからです。

・哀れな者
「富んでいるあなたがたは哀れな者」とあります。富んでいることはこの世的に幸いな状態なのです。しかしキリスト無しの世界は、廃れ滅びゆきます。また最後の審判の時、彼らの富が彼らに対して不利な証言となるからです。ここでもキリストの臨在により、全て180度の転換が起こることが示されています。
 私たちも、ともすれば世において「富んでいる者」「ほめられ」受け入れられている者として生活しています。その場合、もう一度自分を顧み、黙示録3章にあるように悔い改めることが必要です。(3:17~19)

2020//8/02 ルカ6:1~11 安息日の主

・安息日の主
 パリサイ人らは、安息日に麦の穂を摘んで食べていた弟子たちを見て非難しました。それに対して主イエスはダビデの故事を引き、油注がれた者の従者が特権に預かることを示します。さらに「人の子は、安息日の主」と宣言しました。人の子とはキリストのことですが、キリスト到来の今、キリストの弟子たちは圧倒的な恵みの支配の中にあることを示しています

・安息日は「善と救い」
 また別の安息日、主イエスは会堂で右手のなえた人を癒やします。そのときにも批判的なパリサイ人らに対して次のように語っています。「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか…いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか」と。主イエスには圧倒的な恵みと救いの支配があります。そこでは無力さを告白して、ただ恵みと生命に預かることが大切なのです。

・私たちと安息日
 現在、旧約の安息日は影として消え去り、ただ本体のキリストの安息が存在します。それは、私たちの心のなかで実現する霊的安息です。私たちはこの安息に、ただ信仰によって入ることができますが、その際に必要なことは、一切の自分の業と思い煩いを止めることです。
 ある夫人は、エッセイの中で、さながらヤドカリのように法螺貝をかぶって、日常の煩いから逃れる時が大切と書いていました。私たちの場合は、キリストのうちにそれを見出すべきです。

 

2020/7/26 ルカ福音書5:36~39

・「新しい」「古い」の不一致
 イエスはご自分がもたらした新しい救いについて2つのたとえを用いて語ります。一つは「着物の継ぎのたとえ」のたとえ、もう一つは「ぶどう酒と皮袋」のたとえです。 どちらも新しいものに古いものは合わないことを示しています。そして結論として「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません」と明言します。

・新しいぶどう酒 新しい皮袋
 主イエスがたとえる「新しいぶどう酒」とはキリストの救いを示しますが、具体的には昇天後にくだされる御霊です。御霊はキリストの心であり、神を慕い神に向く「子としての霊」です。そして御国相続の証印であり、地上に置いて「愛、喜び、平安」など豊かな実を結びます。地上の人々の想像を超えた「新しい救いの霊」です。
 「新しい皮袋」は信仰であり、他は必要とされません。それは形にとらわれない心の器であり、実に柔軟です。それ故に、どこの誰でも持つことができる器です。

・徹底して信仰
 しかし地上に生きる者は、初め信仰でもって始まったとしても、次第に外見や形式の信仰生活に退化する危険が伴います。それは私たちも、例外ではありません。そこで絶えず初心に立ち戻ると同時に、初めの信仰をどこまでも徹底していく姿勢が大切です。
 その模範はアブラハムですが、彼の信仰の生涯は「信仰がますます強くなって」(ローマ4:20)と証言されています。

2020/7/19 ルカ福音書5:33~35 花婿と友だちたちのたとえ

・パリサイ人とヨハネの弟子たちの批判
 パリサイ人とヨハネの弟子たちはイエスの弟子たちが断食をしないで、宴会を楽しんでいる様子を見て非難します。彼の場合も、ユダヤ社会も敬虔な生活のために断食と祈りは不可欠なものだったからです。

・花婿と友人
 それに対して、主イエスはまず花婿と友人たちのたとえで答えます。当時「花婿に付き添う友人たち」は、請願などをして断食をすることになっていたとしても、その禁欲よりも、花婿の祝福に伴う喜びが優先されました。ちょうどそのように、花婿キリストにともなう従者たちは、一切の禁欲から解放されて、喜び祝うことが優先されるということです。

・内なるキリスト
 花婿キリストの臨在は、キリスト昇天後に注がれた御霊の内住によって実現しました。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」とガラテヤ2:20とあるとおりです。

・喜びの優先
 これらのたとえが示すことは、私たちはかつて血肉の生命の中に生きていましたが、そのときには禁欲などで罪の性質を抑えることが必要でした。しかし、心からキリストを第一の友として信じることで、御霊の生命を受けているということです。この新しい生命のもとでは、心の中からの自発的と喜び、そして愛の動機が大切になるということです。

2020/7/12 ルカ福音書5:27~32 悔い改めへの招き

・レビの召命
 主イエスは収税所にすわっているレビに目を留めて「わたしについてきなさい」と召命を与えます。レビは「何もかも捨てて」イエスに従いました。それはイエスの弟子としての召命でしたが、同時に生涯に渡って、古い人を脱ぎ新しい人を着るという、悔い改めの招きでした。

・レビの宴会で
 レビは家でイエスのために大ぶるまいをした時、仲間の取税人たちも招きました。それを見たパリサイ人らは主イエスが罪人たちと一緒に食事をするということで非難しました。それに対して主イエスは「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です…」と語り、ご自分と集団(教会)の関係について語ります。つまり主イエスとその集団の関係は、絶対的な癒し手と魂の病を自覚した者たちの関係と語ります。

・悔い改への招き
 「…私は正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるために来たのです」とあります。 
 「罪人」とは取税人たちのことですが、それだけではなく全て自らを「正しい人」とみなして高ぶり、他者を裁く人のことです。主イエスはすべての人をご自身のもとに導き、悔い改めへと導き後としておられます。そして最終的に「傲慢の罪」からも救済します。

2020/7/5 ルカ福音書5:17~26 中風の人の癒やし

・中風の人と4人の友
 主イエスがある家で福音を語っていた時、そこに方々から律法学者やパリサイ人たちがやってきて席を陣取っていました。その周囲には群衆が溢れかえっていました。
 そこに男たちが中風の人を床のまま運んできて「なんとかして家の中に運び込み、イエスの前に置こう」とし、家の屋根に穴を開けて天上から中風の人をイエスの前につり下ろしました。

・あなたの罪は赦された
 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。中風の人の求めていたことは、罪の赦しでしたが、また主イエス到来の目的もそれでした。それは神のみがなし得る恵みです。主は…咎とそむきと罪を赦す者」出エジプト34:6と啓示されているとおりです。
 主イエスは中風の人を「起きて歩け」と命じて癒やされますが、それはご自身が持つ罪の赦しの権威を証明するためでした。

・大胆に恵みの御座に
 ヘブル人の手紙4:16に「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とありますが、私たちも中風の人の友人たちのような信仰を持って進み出て自分の家族友人を主イエスの御元に導きましょう。

2020/6/28 ルカ5:12~16 ライ病人のきよめ

・全身のライ病人
 主イエスがある町にいたときに、全身病人の人が、イエスの前にひれ伏して「聖め」を求めます。ライ病とは旧約聖書ではツァラットと呼ばれ、病気であるだけではなく、宗教的な汚れとされ、人との接触を禁じられ、さらにユダヤ人社会から排斥されていました。
 全身らい病人は自分の汚れを認識していましたが、あえてイエスを神からの救い主と信じて、ひれ伏してきよめられることを求めたのです。

・ライ病人のきよめ
 主イエスは、自分の汚れをさらけ出して求めるらい病人の信仰に動かされて「手を伸ばして触り」「私の心だ。きよくなれ。」と語り、聖め癒やされました。

・私たちのきよめ
 この全身らい病人の場合は、ただ肉体の病気のきよめと癒やしにとどまりましたが、主イエスがこの出来事を通して、私たちに示そうとしているのは、罪のきよめです。罪は隠れており、私たちは自分の心の罪に気が付きません。そのままではただ滅ぶだけです。
 そこで主イエスが願っておられることは、私たちもまた全身らい病人のように心が罪に汚れていることに気がつくことです。そうして主イエスの前に「砕かれた、悔いた心」によって「きよめ」を求めることです。

2020/6/21 創世記5:21~24 父祖エノク 

・父祖エノク…神とともに歩んだ
 エノクは、アダムの堕落とノアの大洪水の物語の間に出てくる人物です。堕落以降、世は、罪が蔓延して傲慢と悪に満ちた時代となっていました。そうした時代、エノクは「神とともに歩み」ました。「神とともに」とは、目に見えない神を目に見えるようにして信じ、どのようなときにも神を信頼し、神の正義と聖さの中に歩んだということです。その生き方は、後の信仰者の原型となりました。

・永遠の生命の証
 エノクの地上での最後について次のように記されています。「神と共に歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった」。このことを後の人は神がエノクを天に入れた、あるいは永遠の生命を与えたと解釈しています。実際に、エノクは「神とともに歩む」生涯の中で、最終的に復活信仰を獲得し、神がその信仰に報いてくださったのです。

・世における光
 私たちの時代もまた、神から離れて罪悪が蔓延する時代となっており、豊かさの絶頂にありながら、限界と死の現実を突きつけられています。このような時代に、エノクのように「神とともに歩む」父たちの人生は、後の世代の心に、一条の光として刻みつけられると信じるのです。

2020/6/14 ルカ福音書5:1~11 深みに漕ぎ出して

・深みに漕ぎ出して
 主イエスはペテロに対して「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚をとりなさい」と語ります。ペテロは夜通し漁をしていたのに、魚が何一つ取れていませんでした。それで一時躊躇します。しかし主イエスの言葉だったので、ダメでもともとという気持ちで従いました。

・召命
 しかし結果は、経験したことがないような大量でした。そこでペテロは主イエスが神の人という認識を持ち、恐れます。その彼に対して主イエスは「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と召命の言葉を与えます。生涯に渡って、主イエスと福音に仕える弟子となる招きです。それに対してペテロも仲間たちも「何もかも捨てて、イエスに従った」とあります。

 ・私たちの「深みに」
 この物語は、過去の出来事を書き留めただけではなく、現代の教会に対する語りかけです。現代も、主イエスの弟子として、福音宣教を担う器が必要です。そこで主イエスは今も、個人個人に対して召命を与えます。またこれは個人だけではなく、教会に対する召命です。教会は、世という湖での漁に、しばしば挫折を経験します。その度ごと、主イエスは「深みに漕ぎ出して」とチャレンジを与えられるのです。

 

2020/6/7 ルカ福音書4:31~44 カペナウムでの宣教

・カペナウムでの説教
 カペナウムでの宣教において、主イエスの言葉の権威は遺憾なく現されました。会堂で汚れた悪霊に憑かれた人がいましたが、主イエスが「この人から出て行け」と命令すると、即座に悪霊は出ていきました。しかし「その人は別に何の害も受け」ませんでした。イエスとその言葉によって、神の国到来が明らかにされたのです。

・ペテロの姑の癒やし
 また会堂を出て、ペテロの家にはいった時、姑がひどい熱で苦しんでいました。この場合も、主イエスが「枕もとに来て、熱を叱りつけられると、熱はひき」ました。姑は、その応答として自発的につかえました。ここでも世の苦しみの只中に神の国が到来したことが明らかにされています。その他にも主イエスは病人ら「ひとりひとりに手を置いて、いやされた」とあります。
 

・福音宣教と神の国
 主イエスはその地方に引き止めておこうとした人々に対して次のように語っています。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。」
 主イエスはやがて天にあげられますが、福音宣教は今も、同じように継続しています。そして福音とともに主イエスも臨在し、人々のもとに神の国とその祝福をもたらします。

 

2020/5/31 ルカ4:16~30 ナザレでの宣教

・ナザレでの宣教

 主イエスはご自分の故郷の町ナザレに行き、安息日、会堂で、イザヤ書61章を朗読しました。「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから…」とあります。この箇所は、ヨベルの年に例えて、キリスト到来とともに福音宣教が始まり、神の救いが実現することが預言されています。

 

・「主の恵みの年」

 「主の恵みの年」とは、神が民を「受け入れる時」「招待の時代」という意味です。福音宣教とともに、神の国の門が開かれて、キリストを通して神が罪人たちを招待しているということです。主イエスは朗読の後「きょう…実現しました」と宣言しました。「きょう」とは、ただナザレで宣言された日だけではなく、福音が宣べ伝えられる時、いつでも「きょう」であり、そこに神の国の開門と招待があります。

 

・躓きと拒絶

 ナザレの人々は、主イエスのことばに驚きましたが、同時に「この人は、ヨセフの子ではないか」とイエスの貧しき外見に躓きました。彼らはキリストは輝かしい存在という先入観があったからです。彼らは主イエスと福音を拒絶し、イエスを崖から突き落とそうとしました。

 いつの時代にも、福音は小さき人間たちによって語られ、躓きが伴います。しかし、そこに神の国の門が設けられており、それを拒絶することは、拒絶され、受け入れるものは受け入れられるのです。

 

2020/5/24 ルカ福音書4:1~13 荒野での試み

・第1の試み…石をパンに
 主イエスは罪人たちの救済者として荒野で悪魔の試みにあいました。空腹と衰弱が極限に達したとき、悪魔は石をパンに変える奇跡をなすように試みます。しかし主イエスは「人はパンだけで生きるのではない」との御言葉によって、試みを退けます。キリストの救済は第1にパンを与えることではないのです。

・第2の試み…世の権力と栄光
 次に悪魔は「いっさいの権力と栄光」を見せ、神から離れてそれを獲得させようと試みます。しかし主イエスは「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」との御言葉で退けます。キリストの救済は世の権力と栄光を与えることではなく、ただ神の礼拝者を獲得することなのです。実際、主なる神こそ永遠の栄光と生命で、それを民に与える方です。

・第3の試み…テスト/印
 最後に悪魔はエルサレムの神殿に主イエスを連れていき、飛び降りるように促します。もし神の子ならみ使いたちが助けるのだからと御言葉を用いて神の子として印を求めさせます。しかし主イエスは「あなたの神である主を試みてはならない」との御言葉で退けます。
 現代も悪魔は様々な試みによって私たちを誘惑して、父の神とキリストから引き離そうとします。その際、聖書に立って「ただを拝み、主にだけ仕える」信仰を保って歩みたいものです。

 

2020/5/17 ルカ福音書3:21~38 イエスの洗礼

・イエスの洗礼
 主イエスは神の子でしたが、処女降誕によって人の子として成長しました。また罪のない方でしたが、罪人が受けるバプテスマ(洗礼)にあずかりました。それは主イエスがあえて、ご自分を低くして、罪人の中に加わってくださった印でした。

・聖霊と神の声
 主イエスがバプテスマに預かっていたときに、天からの印が現れました。1つは「天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られた」ことでした。彼は聖霊を宿していましたが、公に下され、これによって全人類の贖いの道に進むことになります。
 もう一つは天からの声「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」でした。これも公の印で、父の神がイエスと業を全面的に受け入れていることを証しします。

・最初のアダムと最後のアダム
 最後にイエスの系図が記されています。系図上にはダビデ、アブラハムがおり、さらに最初の人アダムにつらなっています。彼は地上の生命の源ですが、罪と死の原因でした。
 イエスは人の子として地上に下り、バプテスマに預りました。それは彼が全人類の一員となることによって、その罪を一切に引き受けるためでした。さらに新しい人類の代表となるためでした。「…最後のアダムは、生かす御霊となりました。」Ⅰコリント15:45とありますが、イエスはこの「最後のアダム」です。

2020/5/10 詩篇55:22 重荷をゆだねる

 ・母と重荷

 母は、神から託されて生命を産み、育み、守る役割を担います。またその賜物も受けています。それは何よりも喜びですが、また担えないほどの重荷となることもしばしばです。特に、現代の母親は孤立してしまう場合が多いと言われます。

 

・重荷をゆだねる

 詩篇55:22に「あなたの重荷を主にゆだねよ」とあります。 「重荷」とは与えられたものという原義がありますが、また心配、煩い、重荷と翻訳されています。母親にとって、子どもはここでいわれている「重荷」そのものです。

 「ゆだねる」とは、任せるということですが、放り出す、降ろすという意味があります。ですから乱暴な言い方ですが、すべて重荷を投げ出しなさいということです。子どもはもともと神が与えてくださった賜物です。それをもう一度、神にすっかりと任せきるようにということで、さながら礼拝です。母は子どもを通して神との出会いがあるのです。

 

・主が心配してくださる

「主は、あなたのことを心配してくださる」これは約束の言葉です。「心配する」とは、単に気持ちだけで気にかけるというのではなく、実際的に、支え、養い、守り、育ててくださるということです。実際に聖書でも、モーセの母ヨケベテ、イシュマエルの母ハガルが、その神の心配と養いを体験しています。

2020/5/3 ルカ3:1~9,15~17 荒野で叫ぶ者に声


・洗礼者ヨハネ
 皇帝テベリオの時代に、神の言葉がヨハネに下りました。ヨハネは早速、ヨルダン川のほとりに行き、悔い改めによるバプテスマを説きました。「終わりの日」到来の緊迫感の中で、多くの人々はヨハネのもとに赴きました。

・荒野で叫ぶ者の声…イザヤの預言
 彼の働きはイザヤが「荒野で叫ぶ者の声」として預言しています。彼の役割は、キリスト到来の先駆けとして、その道を真っ直ぐに平らにすること、つまり人々を悔い改めに導いて、彼を受け入れる準備をさせることでした。悔い改めは旧約預言者たちが偶像崇拝から主の礼拝に立ち返るようにと共通に語ったことですが、ヨハネ以降、さらに内面的根源的な悔い改めが要請されます。

・ヨハネの役割
 洗礼者ヨハネの働きは、強烈でした。彼のもとに来る人々に対して「まむしのすえたち」と語り、「だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか」と曖昧な態度を排除しました。またそれぞれに対して具体的に悔い改めを説いています。
 さらに彼の役割は、キリストを指し示すことでした。人々は彼をキリストとして祭り上げようとしましたが、彼はきっぱりと拒絶して「私よりもさらに力のある方」の到来を指し示したのです。
 福音書記者は主イエス到来の前に、ヨハネの悔い改めを描きますが、私たちもキリストと出会うためには悔い改めがまず必要です。

2020/4/26 コロサイ4:2~18 目をさまして祈る


・目を覚まして  世にとらわれる私たちは、世の楽しみ、煩い、絶望、悲しみの中で、霊の目は眠った状態になります。そこで「祈り」という手段を通して、目覚める必要があります。その時に、心に神の臨在とキリストの愛と救いの世界が、明るく照らしだされます。  パウロは福音宣教を担う者たちのために、そして自分自身のためにも祈るよう要請します。「キリストの奥義」は、多くの人々の祈りの力でベールが取り去られて、宣教者によって力強く語られ、証しされるからです。 ・外部の人に対して 「外部の人に対して賢明にふるまい…」とあります。外部の人々はキリスト教についていろいろな偏見を持っている場合があります。絶えず「鳩のようなすなおさ」と「蛇のような」賢さが必要となります。そのためには「いつも親切で、塩味のきいた」ことばが大切です。そのようにして「地の塩、世の光」とされます。 ・最後のあいさつ  パウロは彼の周囲にいる弟子たちを紹介した後「私が牢につながれていることを覚えていてください」と自筆であいさつします。「牢」はパウロがキリストの使徒であることの証そのものでした。またキリスト信仰者は、どのような境遇の中でも「目を覚ましていれば」、明るく輝く存在であることを示すことばとなっています。

2020/4/19 コロサイ3:18~4:1 「従うこと 愛すること」


・新しい夫婦関係
 キリスト者はキリストとの霊的関係を目に見える現実でも具体的に表すことが求められます。まずは夫婦関係です。「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」とあり、「夫たちよ。妻を愛しなさい」とあります。キリスト者は地上では互いにキリストに対するように「従い」「愛する」者たちです。まずは夫婦間で信仰が現されるべきです。

・新しい親子関係
「子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい」とあります。律法においても両親を敬うように命令されていますが、それを凌駕する自発的従順です。「父たちよ。子どもをおこらせてはいけません」とは、親もまた神の愛を習うことが求められています。戒めるにしても愛が背後にあることが求められています。

・新しい主従関係 
 当時は奴隷制の社会でした。キリスト者の奴隷は、霊的には王とされ自由人とされています。しかし具体的な制度の中では主人に心から従うという姿勢で、キリストへの従順を実践します。また主人は奴隷に対して「正義と公平」が求められます。
 パウロの時代は、現代とは異なった社会制度ですが、私たちもキリスト者として具体的日常生活で「従うこと」「愛すること」そして「正義と公平」を実践しましょう。それが私たちの地の塩としての役割です。

2020/4/12 イースター礼拝 マタイ28:1~20 復活のイエスと弟子

・安息日の翌朝、マリヤたちがイエスの墓を見に行ったとき、大地震が起こり墓石が脇に転がっていました。主のみ使いがそこにいてイエスの復活を告げ、弟子たちにガリラヤに行くように伝えるよう命じます。
 弟子たちは伝え聞いた通りにガリラヤの指示された山に登った時、そこで復活のイエスに出会い、礼拝しました。

・弟子化命令
 復活のイエスは「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命令します。弟子とするとはバプテスマを授け、イエスの教えを守るように教えることです。その弟子たちは、父と子と聖霊の交わりに入れられ彼らもまた復活のいのちを宿すことになります。弟子の姿勢について別の箇所には次のようにあります。「…自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」 16:24

・インマヌエル
「わたしは、世の終わりまで…あなたがたとともにいます」とのイエスの約束が記されています。それはマタイ福音書冒頭にあったインマヌエル(神は私たちとともにおられる)預言の成就を意味します。
 私たちもまた、洗礼に預かり弟子とされた者たちです。心よりイエスに従う姿勢を持ち、約束されているインマヌエルの素晴らしさを味わい尽くしましょう。

2020/4/5 マタイ27:45~54 エリ エリ レマ サバクタニ

・十字架と暗闇
 主イエスは弟子たちに捨てられ、ユダヤ人に捨てられ、ローマ総督のもとで十字架刑に処せられました。その時「全地が暗くなって三時まで続いた」とあります。暗闇は天体や気象現象というよりも霊的な現象で、旧約預言者らによって預言されていた「終わりの日」の出来事です。神が罪に対する怒りを公然と現された現象です。しかしここでは、神の子イエスに神の怒りがくだされています。

・エリ エリ レマ サバクタニ
「エリ エリ レマ サバクタニ」とは詩篇22篇にあるキリスト預言の言葉です。主イエスは予言の成就として叫んだのですが、同時に彼自身の嘆きと苦しみの表出でした。「エリ]とは「私の神」、「レマ サバクタニ」とは「どうして私を見捨てたのですか」という意味です。父の神は永遠の愛でイエスを愛していたのですが、ここでは怒りによって彼を「見捨て」ています。神の子だけが知る永遠の絶望と悲しみです。

・なだめ
 イエスの十字架は一般的に罪の贖いであるとしますが、その本質は「なだめ」です。単に法的な身代わりの死というだけではなく、苦しみが伴うのです。この受難週、「私]のための贖いとなだめの尊さを覚えるようにいたしましょう。

2020/3/29 コロサイ3:15~17 キリストの平和


・キリストの平和
 「キリストの平和」とは、キリストが神と私たちとの間に築いてくださった平和のことです。それは何によっても壊されることがない絶対的平和で、その関係の中で恵み、希望、聖霊と神の愛が私たちに注がれます。「…支配するように」とは、私たちが、それを拒まずに、どのようなときにも心から受け入れることです。

・キリストのことば
 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ…」とは、ただ覚えるだけではなく、理解して、人生の基礎、柱、屋根として、心に刻むことです。キリストのことばは、即、キリストの平和の具体的手段です。また「互いに教え、互いに戒め」とあるように、み言葉は礼拝と交わりの中で強く、深く心に刻まれます。

・平和の都
「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌い…」。詩篇とキリスト頌栄の歌、御霊による自由な歌によって、神に対する感謝を心の内に満たし、また外に向かっても現すようにということです。
 このようにしてキリストの教会は平和がやどる神の都として、あらわにされます。現代の人々も、このような群れを待ち望んでいます。
 

2020/33/22 コロサイ3:12~14 愛は結びの帯


・神に選ばれたものとして…
 パウウロは繰り返して信仰者のアイデンティティを強めます。「神に選ばれた者」とは、旧約時代はイスラエル人でした。しかしそれは影で、本体はキリスト信仰者です。彼らこそ「選びの民」として神がくださる新しい服を着るべきです。「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」がそれです。

・主が…ように
 「互いに忍び合い…互いに赦し合いなさい」とあります。人は互いに異なった立場と意見を持ち、しかも罪人ですから、互いに不満や不平が起こってきます。しかし「主が…赦してくださったように」互いに、忍び合い、赦し合うことが要求されます。互いの交わりの中で、主イエスに向き合い、その赦しを知るようになるのです。

・愛は結びの帯
「愛を着けなさい」とあります。愛は新しい人の服の中で、最高のものです。古い人は自己中心ですが、新しい人は、自己を捨てて友を愛する愛で、新しさが際立ちます。また「愛は結びの帯として完全」とあります。帯もまた、見栄えがするものですが、同時に互いを結びつける役割をします。愛によって、新しい人の群れは一致と調和をもち、キリストの体として地に立つことができます。