2013/3/24 イザヤ53:5~12 贖いの小羊

・そむきの罪と咎
  イザヤは人間の罪について、これまでも鋭く暴き立ててきました。ここでは「そむきの罪」「咎」という言葉で表現しています。人間の堕落のはじめは、羊が迷い出るようでしたが、その本質は反逆であり、立ち返れない深刻な堕落でした。それは現代の私たちを支配しています。

 ・贖いの小羊
  しかしイザヤは、「しもべ」が私たちの罪の身代わりとなることを預言します。「彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」。また「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と。「しもべ」は贖いの小羊として、私たちの罪を担い、私たちには彼が持つすべての祝福をもたらしたのです。

 ・イエス・キリスト
  それから七百年後、バプテスマのヨハネがイエスを見て「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」と証言しました。イエスこそこの「しもべ」であり、その正体は神の一人子でした。彼の贖いは完璧です。
  このようにして、イザヤは旧約世界とは全く別個の、さらにすぐれた贖いを示しました。このすぐれた贖いに預かるためには、古い価値観,世のすべての価値観を捨てて、ただ彼を信じて受け入れるだけでいいのです。

2013/3/17 イザヤ53:1~4  苦難のしもべ

・神の若枝
  53章でイザヤは、「苦難のしもべ」の預言をします。彼こそが、神から全権を受けて地上に救いを実現する代理者です。
  「彼は主の前に若枝のように芽生え」とあります。人間として到来して、神の恵みを十二分に受けて御心にかなった者として成人したということです。

 ・見とれる姿もなく
  しかし「しもべ」は人の目には「見とれるような姿もなく、輝きもなく」「見ばえもしない」存在でした。さらには「さげすまれ、人々からのけ者にされ」る者です。
  神からの全権者であるならば、王者としての風格があり、常に家来を従える存在であるというのが、一般人の常識ですが、その常識を覆す姿でした。
 また「病を知っていた」とは知的にと言うよりも、体験的に知っていたと言う意味です。彼自身が病を負った者となり、悲痛な体験をしたということです。  

 ・苦難のしもべ
  どうして「しもべ」は何重もの苦難にあい、悲しみと病を体験したのでしょうか。それは第一に、苦しみと非難の中にある人々のことを知り、彼らと共にあって、慰めるためです。第二には、彼らの病と痛みをご自分が担い、彼らにはご自分の祝福と生命を与えるためでした。つまり彼らを救うためです。
 この七百年後に、イエス・キリストがこの「苦難のしもべ」として、到来しますが、確かに彼は、私たちの罪と病と痛みの一切をご自分の身に受けたのでした。

2013/3/10 イザヤ52:7 救いの「良い知らせ」


・救いの「良い知らせ」
 イザヤは新しい救いについて預言すると同時に、その伝達手段についても語っています。「良い知らせ」として伝えられるのです。何か秘蹟がある秘義があるというのではなく、明瞭な言葉として伝えられると言うことです。
 日常生活でも良いニュースだけで、私たちの気持ちや心が180度変わる経験をしますが、「良い知らせ」は生命自体と生涯に変革をもたらします。

・「良い知らせ」とは福音
 イザヤが語る「良い知らせ」とは、神との平和と霊的な幸いで豊かさのの実現です。それは「あなたの神が王となる」というメッセージで示されているようにイエス・キリストによって成就します。つまり、「良い知らせ」とはキリストの福音のことです。これは旧約の世界を支配する律法とは別の救いであり、裁くのではなく、罪人をこそ救う教えです。
 さらに「良い知らせ」は救いの伝達手段であり、同時にそれ自体に救いが包含されています。現代でも、それを聞き受け入れた人々の心の中では、死から生命へという180度の変革が起こります。

・「…足は何と美しい」
 最後に救いの「良い知らせ」に必要とされていることは、「伝える者の足」です。つまり福音のために働く人々です。私たちはすでに「良い知らせ」を信じる幸いに預かっていますが、さらに伝える者の足」となるという幸いも委ねられています。その人々は神の目に「美しい」とされるのです。

2013/3/3 イザヤ46:1~4 背負う神

・「わたし」に聞け
  人は、偶像などの目に見えるものに信頼を置く体質を持っています。しかしそれらは何の力もなく、かえって足手まといとなるのです。
  「わたしに聞け」と主なる神は、語りかけます。聖書の神は創造主であり贖い主です。神の言葉にさえ耳を傾けるなら私たちは救われます。

 ・背負う神
  「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者」とあります。私たちの母が胎内に認知する前から、神は私たちを担い、誕生後も親の背後で運んでくださったのです。
  イザヤ書の言葉は当時のユダヤ人に対して語られているだけではなく新約の民である私たち一人一人に語られています。「あなた」のこれまでの人生も神に担われてきたと言うことです。

 ・年を取っても
 「あなたがたが年をとって」「しらがになって」あります。老年になった時、体力が無くなり、病気がちになり、人々に見放されるという不安が増大します。しかし神は「わたしは背負って、救い出そう」と約束してくださいます。
  神は「背負う神」です。その誠実と恵みは徹底しており、ついには私たちの罪を御子キリストに背負わせ十字架に向かわせるに至ります。
  私たちはしっかりと「わたしは背負う」と語りかけてくださっている神のみ声を聞き、その約束に一切を委ねるべきです。