2020/9/20 Ⅱコリント4:16~18  内なる人は 新たに

 ・内なる人は新たに
 パウロは、どのような試練や衰えを経験をしても「勇気を失いません」と語ります。それは「外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされる」からです。「内なる人」とは私たちの内に生きる「新しい人」のことです。それはキリスト信仰とともに誕生し、「外なる人」が衰えても、絶えずキリストに似た人として新しくされていきます。

・患難の中でこそ
「今の時の軽い患難」とありますが、地上での苦しみは、どのように辛くても、それは軽いのです。しかもその患難を契機として「内にある人」は、将来の「永遠の栄光」の姿に似せて変えられていきます。これらのことは、目に見えないメカニズムですが、それをしっかりと霊的イメージとして捉えていく必要があります。それが霊的大人のものの見方です。

・目に見えないものにこそ
「見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます」とあります。私たちは「目に見えるもの」「外なる人」に関わることだけに目を奪われて生きています。しかしより優れた賜物は「目に見えないもの」「内なる人の栄光」です。これは目に見えない分、心の目をしっかりと向けなければ明瞭に見えません。
 「老いていく」という現実は、確かに患難であり試練ですが、「外なる人」の現象だけに心奪われず、むしろそれを契機に栄光に向かって日々新たにされていく「内なる人」とその栄光を注視しましょう。

2020/9/13 ルカ福音書7:1~10 百人隊長の信仰

 ・百人隊長
 主イエスがカペナウムに入ったときに、百人隊長が下僕の癒しを求めて、イエスのもとに長老たちを遣わしてきました。長老たちは百人隊長の功績を上げて、彼は「私達の国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人」ということで、愛顧をいただく「資格がある人」と語ります。

・百人隊長のへりくだりと信仰
 しかしイエスの一団が百人隊長の家に近づいたときに、百人隊長は友人たちを派遣して「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と語ります。それは彼は異邦人であるという理由と彼自身が深く神を恐れる心と罪の自覚をもっていたからです。
 そこで彼は「ただ、おことばをいただかせてください」と語ります。「おことば」は神から罪人に、天から地に下る手段、しかも恵みと救いの力は何ら減ずることがないと告白しています。彼はその真理を自分の職務から類推しています。いかにも軍人らしい率直で鋭い洞察です。

・りっぱな信仰
「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」とあります。往々にして、ユダヤ人は自分たちを神の民として律法を持つことだけで慢心し、何らかの「資格」あるかのように考えていました。しかし百人隊長は、異邦人であるゆえに罪の自覚を持ち、低いところに下される「みことば」を切に求めました。そのようにして「りっぱな信仰」を獲得し、さらに恵みと救いが与えられたのです。

2020/9/13 ルカ福音書6:46~49 岩に建てられた家

 ・「主よ。主よ。」と呼びながら
 主イエスは山上の説教の締めくくりに、ただ聞くだけで決して行おうとしない弟子たちに対して、警告の言葉を語ります。つまり「わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわない」者たちです。
 人は、ただ福音を聞くだけで、主イエスの弟子であり、救いに入れられていると錯覚しがちです。しかしその点は、それぞれが自分の信仰姿勢をチェックする必要があるのです。

・岩に建てられた家
 そこで主イエスはたとえによって「(主イエスの)ことばを聞き、それを行う人たち」について先に語ります。「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人…」とあります。み言葉を聞いて行おうとするとき、人は肉の脆弱さを悔い改めて、キリストにより頼むようになります。そのキリストこそ「岩」です。このような人々は試練のときにも決して、揺り動かされることがないのです。

・土台なしの家
「聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人」とあります。み言葉を聞くだけで行わない人は「聞く」というだけで、キリストの弟子であると錯覚している人です。しかし決してキリストがその人の信仰の礎になっておらず、ただ肉の思いだけで信仰生活を送っているのです。そのような人は、外見は他の弟子たちと何ら変わらないようでも、試練がその信仰の脆弱さを顕にすることになります。

2020・8・30 ルカ6:39~45 良い木と悪い木

 ・盲人の導き手
 「盲人に盲人の手引きができるでしょうか」。盲人とは霊的に見えない人のことで、霊的に見えない人が、他の人を導くことはできないことを示し「ふたりとも穴に落ち込む」と悲惨な結果となることを警告しています。導く者はまずは自分が霊的に盲目であることを自覚し、心からキリストの導きを求める必要があることを示しています。

・塵と梁
 「兄弟の目にあるちり」とは、兄弟の欠点や落ち度のことを意味します。人は他人の欠点や落ち度には敏感に気づき、それを正そうとします。その場合「自分の目にある梁には気がつかないのです」。梁とは、完全に目を覆うほどの、大きな欠点です。そこで人を正そうとする場合には、いつの場合にもまず「自分の目から梁を取りのけ」る必要があります。そのためにはキリストのみ言葉と御霊によって心を照らされて、自分のうちにある大きな障害を砕きさることが大切です。

・ 良い木と悪い木
 最後に「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません」とあります。それと同じように「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します」と続いています。このたとえは、人は悔い改めてキリストを信じることで、初めて良い心となり、良いわざなすことができることを示しています。どのような場合でもキリストによって、心が変えられなければならないのです。