2011/12/25 イザヤ9:1~7 大きな光

・闇
 預言者イザヤは時代の「闇」を示します。それは北イスラエル王国が蹂躙され、捕囚の憂き目を見たという苦難だけではなく、罪と死の現実を指していました。人は、様々な苦難の中で、その背後にある「漆黒の闇」を垣間見るのです。人間が放つものは偽りの光であったことに気づくのです。

・大きな光
 預言者はまた「大きな光」について預言します。闇が苦しみと破壊、絶望と死であるとするなら、「光」は、喜びと復興、希望と生命を意味します。しかも神による光であって決して消えることがない「大きな光」を示します。その光のみが、人々を優しく照らし、心の深くまで届く光です。
・私たちのための「みどりご」
 光は「ひとりのみどりご」として象徴的に預言されています。赤ちゃんは人間としての能力も強さも知恵もありませんが、神は赤ちゃんのような彼の無力さ、低さの中で栄光を現されます。
 また「私たちのため生まれる」とあります。「一将功成りて、万骨枯る」と言われますが、多くの王たちは自分の名誉のためにだけです。しかし彼は、永遠に「私たちのために」生き、働き、仕える方です。 

・啓示の中で見る
 彼は事実、赤ちゃんとして、しかも貧しい成りで飼い葉桶に生まれました。その貧しさと小ささは人間的目には躓きです。彼が「大きな光」であり、神のキリストと知るためには、啓示によって、すなおな透き通った心の眼差しで見ることです。

2011/12/18 マタイ1:18~25 インマヌエルの扉

・開かずの扉
 旧約の預言者たちは、終わりの日にインマヌエルが到来すると預言をしました。しかしその実体は不明瞭で人々にとって閉ざされた扉のようでした。
 このことはヨセフにとっても全く同様で、マリヤに起こった出来事を知っても、躓いたままで、マリヤを「内密に去らせ」、離縁しようと考えたのです。

・思い巡らし
 「彼が…思い巡らしていたとき」とあります。彼は敬虔な人であったので、神の恵みと力、様々な預言者たちの言葉について、またマリヤとその言葉について思い巡らしたでしょう。その思い巡らしの中で、神の不思議の実体が少しずつ明かにかなるのです。
 多くの信仰者たちも「思い巡らし」によって、処女降誕に秘められた救いの世界を再発見しました。

・鍵
 ヨセフが最終的に鍵をを見いだしたのは神の啓示によります。御使いが明瞭に不思議の実体を示したのです。「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊による」と。またイザヤ7:14のインマヌエル預言が示されます。彼が閉ざされた扉を開く鍵は、神と奇跡的預言をそのまま信じることでした。

・インマヌエルの扉
 ヨセフは「命じられたとおり」にしたとき、彼はマリヤと宿された幼子を自分のものとしたのです。それは同時に、旧約以来閉ざされた扉を開きインマヌエル(神は私たちとともに)世界に入ることになったのです。

2011/12/11 ヨハネ14:16~18,16:14 聖霊について

・第4条…聖霊
「聖霊のみわざが主イエス・キリストに栄光を帰し、現在の時代においては人々に罪を認めさせ、信じる罪人を新生させ、敬虔な生活と奉仕のために信者に内住し、信者を導き、教え、力づけるものであることを信じる。」
 聖霊は三位一体の神の第3格です。父と子キリストから流れ出た霊であると言われます。しかし蒸発などすることなく、百パーセント完全に流れ出た霊であって、父と子の神と同じように、神としてのご性質と能力を持っておられます。 また「もう一人の助け主」とあるように、単なる力というのではなく、明瞭な顔を持つ人格(ペルソナ)です。

・キリストに栄光を帰す
「御霊はわたしの栄光を現します」とあるように、御霊はキリストの人格と御業をそのまま現します。それ以上でもそれ以下でもありません。具体的にも、御言葉と霊として人々にご介入されることによってキリストの栄光が現し、その顔と心はキリストそのものです。

・今の時代において
 厳密には、父は天にあり、子は二千年前に地上に来られただけで、今の時代には、直接に関わりません。すべて御霊を通して、私たちとともにあり、私たちを愛し、私たちの罪を裁き、私たちを救います。闇の時代にあっても、私たちは「孤児」ではありません。
 具体的には、罪人を新生させ、信者に内住して、神殿とし、その祈りを聞き、日々の導きを与え、教会を形成します。
 最後に、私たちが聖霊の恵みにあずかるためには、ただキリストを信じ、御霊の業を信じることです。

2011/12/04 ローマ11:25~36 この神に栄光あれ

・神の奥義
 パウロは信仰者たちが自分勝手な考えで高ぶらないように「奥義」を示します。それは異邦人の救いが完成するときに、今は不従順なイスラエル人も救われると言うことでした。神は人を不従順に放置して、その後に憐れみを注がれる神です。人間が自分がすぐれていると高ぶったり、自分の力で救われたという傲慢な思いを持たないためです。
 「神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められた」のです。

・すべてのことは神から
 いつの場合でも、「神の知恵と知識の富」は人間には計り知れないのです。また人間は神の働きに自分から参与するとか、自分が神の働きを助けたなどという高ぶりは許されません。神のみが一切を成し遂げられる方なのです。
 確かに「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」のです。神のみが救済の歴史の創造者であり担い手です。神のみがほめたたえられなければなりません。

・この神に栄光あれ
 神は私たち信仰者に、神の主権を日々知らせます。また御言葉をとおして奥義として前もって示し下さいます。それは私たちがあえて、神に栄光を帰すためです。目先の現実は、神の憐れみが見えない、神は厳しい方、不可解な方と思うときがあっても、私たちは信仰によって、真実を覚え、希望を持って、ほめたたえるのです。どこまでもへりくだらされ、純粋な賛美者となるように招かれています。
「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」

2011/11/27ローマ11:11~24 慈しみに留まる

・彼らの違反と私たちの救い
 初代教会クリスチャンの中には、ユダヤ人の違反ばかり見て敵対視する者がいました。そこでパウロは、ユダヤ人を通して異邦人が多くの恵みを受けていることを指摘します。
 まず第1に、彼らの違反を通して福音が異邦人に及んだことです。もしユダヤ人の大勢が改心していたら、なかなか福音は民族の枠を超えて異邦人に伝わることがなかったのです。そこに神の恵みと慈しみがあります。

・彼らの完成と私たちの栄光
 第2に、神は現在と将来、彼らが福音にたちかえるという計画を持っておられます。彼らが復帰することは、彼らのみではなく、異邦人にとって「すばらしいもの」をもたらすことになります。つまり「彼らの捨てられることが世界の和解」「彼らの受け入れらることは、死者の中から生き返ること」となるのです。

・さばくな、高ぶるな
 私たちは、周囲の人々や集団を神に背を向けて滅びに向かうと裁いてしまいがちです。しかしそのような人々でも、背後では不思議な神の支配があります。私たちは早まって裁いたり、非難したりしてはならないのです。それは誇ること、高ぶることです。むしろ神を「恐れる」姿勢が大切です。

・神の慈しみに留まる
 私たちは自分の罪とむなしさを示されて、信仰に導かれました。その背後に、私たちに対する神の慈しみがあったからです。私たちがそこに留まるためには、私たちも神の前にへりくだって、同じ慈しみの心で人々を見、対応することです。

2011/11/13 マルコ6:45~52 湖で

イエスさまは弟子たちを舟に
乗り込ませて、先に向こう岸に行かせようとされました。ご自分は「山のほうに、祈るために向かっていきました。」
ところが、弟子たちの舟は真夜中になっても、やっと湖の真ん中でした。しかも向かい風がだんだん強くなってきていたのです。

 その時、だれかが舟の方に近づいてくるような気配がしました。それは風や波とは違って、何か動くものの気配で、どんどん、舟に近づいてきます。
 弟子たちは、幽霊だと思い、慌てふためき叫び声を上げました。


 それはイエスさまでした。歩いて湖をわたってこられたのです。イエスさまは「しっかりしなさい、私だ、恐れることはない」とおっしゃいました。その言葉で、弟子たちの心に平安がもどりました。それからイエスさまが舟にのりこむと、風がやみました。
 
 私たちは、ちょっとした事でも恐れてしまう弱虫です。本当は強い人はだれもいないのです。神の子イエスさまの「恐れることはない」という言葉で、人の心は湖のように、落ち着きをとりもどすのです。