2012/4/21 ヨハネ1:6~8 神によって生まれる

・まことの光
  キリストは「まことの光」です。それは目に見える光ではなく、人の心に届き、人に知識を与え、まことの生命を与える光ということです。
  世の中にも、様々な「光」と称する宗教や教えがありますが、それらは偽りの光です。その本質は、神に敵対する「闇」です。

 ・世はこの方を知らなかった
 「世」とは、元々、神とキリストによって創造されました。しかし、アダムの堕落以来、罪と闇の中におかれています。それで世は創造主であり真理である方を知ることはできません。それは旧約以来、神の民とされていたユダヤ人も同じでした。むしろ彼らは異民族よりも鋭くキリストに敵対しました。

 ・神の子とされる
  「この方を受け入れる」「その名を信じる」とは、キリストを神の子として心で信じて受け入れることです。ただそれだけによって、世の人も「神の子とされる特権」を持ちます。それは神の養子とされるということで、キリストと同じ自由なる子としての特権をもち、愛と恵みの対象となるということです。それはユダヤ人だけではなく、どの民族の人も全く同様に与えられる恵みです。

 ・神によって生まれる
  それは血肉の生命とは異なり、「神から生まれ」るということです。地上のどんな宗教が救いや悟りを唱えても人間の域を出ることはありません。ただキリストという外からの光を通して人は救われ、全く新しい生命(ゾエー)を得るのです

2013/4/14 ヨハネ1:3~5 光は闇の中で輝く

・すべてはこの方による
  「すべてのものは、この方によって造られた」とあります。宇宙も地上のすべても、この方によって創造されているので、「この方」の良さを反映し、「この方」によって調和をもって存在しています。  またすべての人間も「この方」によります。ユダヤ人も、ギリシャ人も日本人も、古代人も現代人も等しく「この方」によるということです。人間も「この方」よって調和と平安を持った生活が可能となります。

 ・この方にいのちがあった
  「この方にいのちがあった」とあります。これは「神のいのち」であり、地上のいのちとは次元が異なる「永遠のいのち」です。地上のいのち(プシュケー)はやがて廃れ、滅びますが、「神のいのち」(ゾエー)は決して滅びることなく、絶えず再生し、新しい生命です。
  「このいのちは人の光であった」とあります。人間は神のかたちに似せて創造された特別の存在であり、人間のみ、「神のいのち」に照らされて、神を知り、救いの道を知り、さらに再生され、新しくされる必要があるということです。

 ・光は闇の中で輝く
  「闇」とは、堕落以降、人間の世界を支配している罪と死の世界です。その力は強大です。しかし「光は闇の中で輝き」ます。それは、永遠の空間だけではなく、私たちの毎日の生活においても同じです。そこで私たちは「ことば」を心に刻んで、私たちの光とし、どのような中でも、その光に照らされて、困難を乗り切り、再生され、新しくされていくのです。

2013/4/7 ヨハネ福音書1:1~2  初めにことばが

・啓示
  私たちは人間は限りある存在であり、自分の力では真理を見いだすことはできません。そこで神様は、ご自分の方から真理を示されました。これを啓示といいます。聖書の言葉はその啓示であり、私たちはこれによって真理、つまり神の世界を知ることができます。

 ・初めにことばがあった
  「初め」とは時間的に絶対的初めということであり、またおよそ存在するものの根源という意味があります。古今東西、人間は「初めに」何があったか、真理は何であるかを探求しました。しかし聖書はそれはことばと啓示します。ことばとは神のことばであり、神によって絶えず生み出される人格ある存在です。

 ・ことばは神と共に
  「ともにあった」とは母と赤ちゃんが共にいるように、互いに「向かい合って」いるという状態です。ことばhaたえず神から本質、性質、その他すべてを受け取っている状態を示します。それは永遠の愛の交わりであり、尽きることがない生命の交わりです。 また「ことばは神」とありますが、この神の一切を受け、神である方だけが父の神を完全に示し、その愛の現れとなりうるのです。

・交わりへの招き
 やがてことばは私たちに与えられるのですが、それは1ヨハネ1:3に示されている目的のためです。つまり「…あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」。

2013/3/31 マタイ28:1~20 ガリラヤでの出会い

・朝の出来事
  週の初めの朝、女たちが墓に行ってみると石が脇に転がっており、御使いが彼女らにイエス様は「ここにおられません。…よみがえらえた」と告げました。
 確かに復活した主イエスを墓の中に探しに行くのはナンセンスです。すでに復活して、新しい世界に弟子たちを招いているのです。

  ・ガリラヤでの出会い
  御使いは「イエスが…ガリラヤにいかれ、あなたがたは、そこでお会いできる」と告げました。  主イエスと出会うためには、約束の言葉を信じて、そこに行くことです。女たちは弟子たちに告げ、弟子たちはその約束を信じてガリラヤに行き、示された山で主イエスに出会いました。そこで彼らは礼拝し、目と心で復活の主を知りました。

 ・私たちと共に
  主イエスは彼らに対して、主イエスの弟子として留まること、新たに弟子を作るようにと命令します。さらに「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と約束されます。
  私たちにとっての「ガリラヤ」は毎週の礼拝と2人3人主イエスの名によって集まる場所です。ここに、主イエスは臨在され、いつも復活の生命を注いでくださるのです。