2017/10/15 エレミヤ書24:1~10  二籠のいちじく



第2次バビロン捕囚
 BC597年の第2次バビロン捕囚があった後の預言です。この時、バビロンのネブカデネザル王はエホヤキン王とともに、王族貴族、兵士、職人など国の主だった人々を捕囚として連れ去りました。残った者たちは捕囚の者たちを不憫と思い、自分たちはラッキーと思っていました。

・二籠のいちじく
 エレミヤの預言は、そのような人間的考えを覆す内容でした。「主の宮の前に二かごのいちじくが置かれて」おり、「一つのかごのは非常に良いいちじくで 」「もう一つのかごのは非常に悪いいちじく」という幻でした。神はその幻について、良いいちじくは「捕囚の民」、悪いいちじくは残された者と語られます。それは人々が考えていたこととまったく正反対の運命ということになります。

・どんでん返しの原因…心を尽くし
 どんでん返しの原因についてもエレミヤは預言します。「彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである」。つまり捕囚の民は苦難の中で悔い改めて、主なる神に立ち返ることになり、神の祝福を受けて、帰還することになるということです。彼らの子孫は、やがてキリスト出現を目撃し、新生することになります。反対に残った者たちは、心高ぶったまま悔い改めることなく、神に憎まれ永遠に滅び尽くされるのです。

2017/10/8 エレミヤ18:1~11 陶器師の家で



・陶器師の家で
 主なる神はエレミヤに対して「陶器師の家に下れ」と命令します。エレミヤが下っていくと陶器師はろくろで仕事をしており「制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替え」ていました。陶器師は粘土に対して絶対的権威を持ち、自在に練り直して、自分の気に入った器に作り替えていたのです。

・神は陶器師
 その時に、エレミヤにあったみ言葉です。「粘土が陶器師の手の中にあるように、あなたがたも、わたしの手の中にある。
 神が人間に対して絶対的主権があり、だれが何と言おうと自由に、御手の中で、人間とその将来を作り替えることができるということです。

・「悔い改め」が肝心
もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」とあります。人の運命が定まったような状態の中でも、その人が悔い改めるなら、その人と将来を作り替えて幸いを与えるということです。反対に順風満帆であっても傲慢で不従順だとその幸いは即座に取り去られるのです。

 私たちもまた神の手の中にある器に過ぎません。信仰生活の中で決して高ぶることなく、「悔い改め」こそ肝心であることを覚えましょう。

2017/10/1 エレミヤ17:1~10 人ではなく、神に



・ユダの罪
「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ」と、甚だしい南ユダ王国内での罪の有様について告発しています。その罪とは偶像崇拝とそれに伴った道徳的退廃でした。
 エレミヤはまた、罪の原因について「人間に信頼、肉を自分の腕とし、心が主から離れる」ことを上げています。目に見える人間だけを頼り主なる神から離れた者は、もはや罪の奴隷なのです。

・人の心と罪
 「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」人間全般の罪についてのエレミヤの洞察です。彼はユダ一国だけを観察していましたが、それは人間全般でもまったく同じであるとの啓示を受けていたのです。人は様々な罪に陥りますが、その原因は心の奥底にあるということです。
 この人間の罪については、新約聖書でも同じように語られています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」ローマ7:24

・主なる神に信頼する
 「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。」エレミヤは人間ではなく、ただ主なる神にだけを信頼することが祝福の道であることを明示します。信頼するとは、身も心も全面的に委ねきることです。もともと人は神によって創造された者であり、心も神にのみ信頼することで平安を獲得し、また生活全般においても祝福される存在なのです。