2014/11/23 創世記2:18~25 結婚と愛



・人と助け手
 神は「人は一人でいるのは良くない」と考え、助け手を探しました。しかし動物たちの中からそれは見つかりませんでした。そこで神はアダムを眠らせ「あばら骨の一つを取り女に造り上げ」ました。そしてその女を助け手にしました。

・イッシュとイッシャー
 ヘブル語では男をイッシュ、女をイッシャーと言います。この文字の違いはイッシャーの文字の中に一つの点があるだけです。これがすなわちイッシュ(男)のあばら骨であるという洒落言葉になっています。同じ人間であるが、互いに違う存在、それが男と女と言うことです。相似点で深い接点を持ち、相違点で互いに助け合う存在と言うことです。

・結婚と愛
男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体 となる」とあります。「一体」とは全人的に一体となると言うことで、肉体と社会生活、また人格的に愛の関係を持つということです。
 神は人をご自分のかたちに似せて創造しましたが、それは互いに愛し合うことができる存在として創造したと言うことです。その姿は何よりも夫と妻の関係において実現します。そこにまた「良さ」と幸いがあります。
 現代は、自己愛から結婚関係が崩壊する時代となっていますが、神の結婚の定めを覚えて、互いの愛を築き上げていきましょう。

2014/11/16 ヨハネ福音書11:7~16 死は眠りにすぎない



・もう一度ユダヤに
 ラザロの病が知らされてから二日が過ぎてから主イエスは「「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに語っています。ユダヤでは主イエスの生命を狙う者たちがいて危険であると弟子たちはいさめましたが、主イエスは光としてのご自身を信頼して従うように促します。

・眠りからさましに
「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。
 この時、ラザロの地上の生命は失われ、肉体は朽ちておりました。しかし、主イエスにとって地上の死はただの「眠りにすぎず」、彼が言って覚ませば目覚めるだけのものでした。確かに再び生命を甦らせ、しかも前よりも強い体で甦るならば、地上の死は死ではなく、ただの「眠り」です。

死は眠りにすぎない
 この時に、弟子たちもラザロがすでに死んでいることを知っていました。それで主イエスのユダヤ行きは危険であるとともに徒労であると考えていました。彼らはイエスを信じていたのですが、その信仰は浅く、死という現実に絶望していました。
 そこで主イエスはあえてラザロが死んでからユダヤに行き、不信仰から弟子たちを解放しようとしたのです。
 私たちもまた、死という現実に圧倒され、絶望的になる傾向を持ちます。しかし、主イエスはご自分を信じる者たちに「死は眠りにすぎない」ことを示そうとされているのです。

2014/11/9 子ども祝福礼拝 士師記13章 サムエルの誕生と不思議



・主の使いがマノアの妻に現れ
 あるとき、主の使いがマノアの妻に現れて語ります。「見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。」マノアの妻は不妊でしたが、神のプレゼントとして子どもを産むことになります。

・子どもを献げ、委ねて育てる
 しかし主の使いは、子どもを神に献げたものとして育てるように命令します。「ぶどう酒を飲んではならない。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子はナジル人であるからだ 」ナジル人とは、神に献げた人という意味です。

・その名は不思議
 マノアは主の使いに名を尋ねたとき、み使いは「わたしの名は不思議」と答え、不思議なことをなしました。主なる神にいけにえを献げたときに「祭壇の炎の中を上って行った」のです。
 やがて、子どもサムソン(太陽)が誕生しましたが、彼の生涯は不思議な形で神の救いの業を実現したのです。

神は親の思いを超え
 サムソン誕生の物語は、私たちに子育てのヒントを与えます。それは子どもは神のプレゼントであり、親の思いを超えた神の不思議、神の救いを体現していくということです。親ができることは、過干渉と過放任を避けること。また神に献げ、神に委ね切って育てていくことだけです。

2014/11/2 ヨハネ福音書11:1~6 死で終わらず



ラザロが病んで
 主イエスは人となって地上に来られた神の子です。それは一人一人と出会い、交わりを持ち、その人々に対してご自身の愛を明らかにするためでした。ラザロはベタニヤの人で主イエスを信じ、深い交わりを持っていた人です。そのラザロが重い病気になった時、姉妹たちが癒やしを求めて、使いをよこすのは当然です。

・信仰者の死
 しかし、主イエスの元に使いが来たときには、すでにラザロは死んでいました。ベタニヤから主イエスがいたヨルダン川東岸までは一日の道のりがあったので、使いは知らずいたのです。この後、主イエスは二日留まってから、一日かけてベタニヤにいったときには、ラザロは死んでから四日たっていたのです。

・死で終わらず
 主イエスはラザロの死を知りながら語ります。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
 ラザロの死は、姉妹をはじめとした信仰者たちにとって、大きな試練になります。死という現実の前で、信仰や愛が無意味になるように思うからです。しかしその最大の試練こそが、神の栄光の場となることを主イエスはラザロの死という現実のただ中で示されるのです。