2023/4/30 Ⅰコリント8:1~13 知識と愛

 ・知識は人を高ぶらせ
 コリント教会では「偶像にささげた肉」についての問題がありました。それは知識偏重の一派が起こしていたもので、正しい知識を持っているならば、自由に、それを主張して行動すべしという考えでした。
 しかしパウロは、たとえ真理としての知識を持っていたとしても、他の人々に対する配慮が無いなら、人を高ぶらせるだけで、何の意味もないと明言します。

・愛は人の徳を建てる
「愛」とはアガペーで、神がキリストを通して、それがご自身の本質であることを示されました。エロスとかフィリアなどという人間が生来持っている自己中心の愛とは異なります。「人を建てる」とは隣人の信仰心を確立させるために作用するということです。「愛・アガペー」は自己を低くし、隣人を建てあげるのです。それによって自己の人格も建て上げられます。さらに神によって認知される者となります。

・兄弟を躓かせないために
 パウロは具体的に「偶像にささげた肉」の問題について論じた後に、彼自身の問題に対する基本的態度を明示します。
「食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません」とあります。偶像にささげられたとしても肉自体には、何の問題もないのですが、弱い兄弟の良心と信仰の躓きにならないようにとの決意です。ここに単に知識だけによるのではなく、「愛・アガペー」によって行動する姿勢が明示されています。

2023/4/23 Ⅰコリント7:25~35 「有は無」とする信仰

・そのままの状態
 パウロはコリント教会の生活全般に対する質問に対して、基本的原則を持って答えています。「処女」とは許嫁状態の女性のことで、その結婚云々についてです。「現在の危急のとき」とは再臨の差し迫っている時ということで、この「現在」は「そのままの状態」がいいと勧めています。世の時は過ぎ去り、再臨前の苦難があるからです。そこで一般の男女であれ、「処女」であれ、そのままの状態がいいと勧めています。しかし独身のものが「結婚したからといって、罪を犯すのではありません」と語っています。

・「有は無」とする姿勢
 「ときは縮まって」とは、再臨の時がより近くなっている」ということです。ここに、この世を漫然と過ごすのではなく、終わりの日の再臨を切迫感を持って待望する姿勢の大切さを示しています。その未来展望をとおして現在の適切な生活姿勢が導き出されます。つまり「妻のある者は、妻のない者のように…喜ぶ者は喜ばない者のように…世の富を用いる者は用いすぎないように」です。「この世の有様は過ぎ去るからです。」日本的にいえば、「有は無」とする姿勢です。

・思い煩わないため
 以上の姿勢は、世の実際生活で「思い煩わない」ために益となります。つまり、人の苦しみは世に執着し、「ああでもない、こうでもない」と思い煩うことから発生します。しかし再臨信仰を通して有は無」と達観することで、煩いはなくなるからです。

2023/4/16 Ⅰコリント7:8~16 キリスト者の結婚観

・独身と結婚
 パウロは、まず独身の勧めをしています。世に囚われず、神奉仕、御国待望には「良い」としています。
 「しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい」とあります。性的情欲は不品行に向かわせる危険があります。それを避けるために結婚は神によってもうけられた恵みの手段です。それもまた神の前に「よい」「聖い」ものです。

・離婚いけません…相手信者
 信者同士に対して「妻は夫と別れてはいけません」「夫は妻と離別してはいけません」と命令します。時代時代に、様々な離婚の理由が主張されることがありますが、どのような理由であれ、信者どうしの離婚は禁じられています。結婚自体が「よい」「聖い」あり方だからです。
「別れたのだったら、結婚せずにいるか…和解」とあります。新たな結婚のための離婚は、姦淫とされています。それで「結婚せずに」とあります。「和解」はいつでも「よい」関係の再構築となります。

・離婚いけません…相手が未信者
 未信者の伴侶が「承知している場合は、離婚してはいけません」とあります。その理由として「信者でない夫(妻)は妻(夫)によって聖められて」とあります。キリスト信仰による聖めとは、外にも広がり、信仰者の家庭全体に及ぶのです。
「離れていくのであれば、離れて行かせなさい」とあります。伴侶がキリスト教信仰を嫌って離婚しようした場合のことです。キリスト者は元々、信仰によって神の前に自由にされているのですから、その場合は「そのまま」の状態で「平和」に神に仕えるよう勧めています。
 

2023/4/9 ルカ福音書24:13~35 エマオへの途上

 ・エマオへの途上
 安息日の翌朝、ふたりの弟子がエルサレムからエマオという村に行く途中のことでした。彼らは失望しながらも「いっさいの出来事について話し合って」いました。そこに復活のイエスが近づいたのですが、彼らの目は「さえぎられていて」イエスと認めることができませんでした。復活のイエスは、不信仰の者には決して見ることができないからです。

・聖書からの説き明かし
 主イエスは彼らの不信仰を叱責した後「聖書全体」から「キリストは…苦しみを受けて彼の栄光にはいる」ことを「説き明か」しました。「説き明かす」ことによってのみ、神の不思議とキリストの救いが顕にされるのです。
 彼らは、旅路の「説き明かし」を通して復活信仰を持つようになっていました。それで故郷の村についたときに「無理に願って」イエスを家に招き入れました。

・心はうちに燃えて
「パンを取って祝福し…彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」とあります。信仰による愛餐の交わり(聖餐)の中で、復活のイエスの臨在が明らかにされたのです。それと同時にイエスは見えなくなりましたが、かえって彼らは、イエスの御霊の臨在を確信しています。
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」とあります。私たちの場合も、このことは全く同じです。教会における、十字架と復活のイエスを中心とする聖書の説き明かしと聖餐の交わりの中に、イエスの御霊が臨在して私たちの心を燃やすのです。

2023/4/02 ルカ福音書23:44~56 イエスの死と葬り

 ・イエスの死
 主イエスの十字架の時「全地が暗くなって」とあります。世の終わりに現れる神の怒りが、イエスにくだされたことを象徴し、「神殿の幕は真二つに裂けた」のは旧約時代の終わりを暗示します。「わが霊を御手にゆだねます」とのイエスの最後の言葉は、詩篇31:5の成就で、正しい者の死を意味します。イエスは正しい者の死を全うして贖いをなし、古い契約を終わらせ、新しい契約を成就させました。

・百人隊長の証言
 百人隊長は「この人は正しい方」と証言しています。彼は十字架のイエスの一切の振る舞いから、神の子としての正しさを告白せざるを得なかったのです。これはルカ福音書ではイエスが「罪がない」「正しい」という7回目の証言となっています。まさにパーフェクトな正しさを示しています。

・主イエスの葬り
 アリマタヤのヨセフはピラトに願い出て「イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた」とあります。彼は議員のひとりで、イエスを支持し、神の国を待望していた人物でしたが、このように最後に彼の信仰を証しました。また彼はイエスの葬りを通して、イエスの死をしっかりと受け止めたのでした.
  彼の態度は、私たちも見習うべきです。つまり、この受難週に、私たちもイエスの死とその意味をしっかりと受け止めたいです。そしてどうして、「正しい」方が死ななければならなかったかを、深く思い巡らしましょう。

2023/3/26 ルカ福音書23:39~43 ふたりの犯罪人

・十字架上で…ひとりの犯罪人
 主イエスの十字架刑の時、その両脇にふたりの犯罪人も共につけられました。そのひとりは「イエスに悪口を言い」「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言い放ちます。「人は生きてきたようにして、死んでいく」と言われますが、彼はその典型です。最後まで、目先の現実だけを見て、その背後にある真実が見えないのです。

・もうひとりの犯罪人
 「ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて」とあります。彼もはじめはイエスに悪口を言っていたようですが、途中で見方が変わっています。死の間際まで「悪いことは何もせず」忍耐し、赦す姿に、世の次元から隔絶した「正しさ」を見ています。そして「あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」とイエスを神の子キリストであると信仰告白をしています。彼の場合は、死の間際に注がれた神のあわれみの器です。

・ わたしとともにパラダイスに
 彼に対してて主イエスは告げます。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。「きょう」とは、その瞬間であり、死ぬその日のことです。パラダイスとは神の聖域であり、神の国の圧倒的支配の中を意味します。つまり、極悪人であってもイエスをキリストと信仰告白した瞬間、彼はキリストと共に神の圧倒的恵みと生命の支配の中に置かれているということです。
 私たちもまた、罪人ですが、もうもうひとりの犯罪人のように、イエスの正しさを見て、心からの信仰告白をしたいです。
 

2023/3/19 ルカ福音書23:26~38 ユダヤ人の王キリスト

 ・十字架を負って
 兵士たちは、イエスにの十字架を、クレネ人シモンに負わせまました。主イエスの十字架を負うという点で、彼は私たちキリスト者の典型です。
 さらに主イエスの後には、大ぜいの群衆と嘆き悲しむ女たちが従いました。主イエスはその女たちに向かって神の裁きを預言します。それは単に、彼女たちだけではなく、すべてイエスをキリストと信じない者たちに対する裁きの預言です。

・十字架上のとりなし
 ゴルゴダで、主イエスは兵士によって十字架につけられました。そのときに「父よ。彼らをお赦しください…」と神に向かって赦しを願います。神と主イエスに敵対し反逆する者たち全てに対してのとりなしです。その贖いと和解の姿こそ地上に到来した神の子の真の姿でした。

・ユダヤ人の王キリスト
「「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に…」とあります。ユダヤ人の王とは、旧約聖書で預言されてきた神の子キリストのことです。彼はユダヤ人の王だけにとどまらず、全国民の王として定められています。その使命は、力で敵を打ち負かすことではなく、神と人間との和解と贖いでした。
 私たちは彼の贖いと和解を受け入れた者たちですが、私たちの使命は彼の十字架を背負って地上の生涯を全し、彼を証しすることです。

2023/3/12 ルカ福音書23:1~25 「十字架につけろ」

 ・総督ピラトの前で
 祭司長とユダヤ指導者たちは、夜中に議会を持って主イエスを有罪としローマ法廷のもとで、十字架刑にすることを決議しました。翌朝、ローマ総督ピラトの法廷につれていき主イエスを訴えますが、ピラトは無罪と判断します。しかし彼らユダヤ指導者らは「あくまで言い張って」告発し続けています。

・国主ヘロデの前で
 主イエスはガリラヤ領主ヘロデの元にも引き出されます。彼は洗礼者ヨハネの殺害者であり、邪悪で狡猾な人間でした。彼は奇跡を見たいと思い、色々と質問しますが、真摯に聞こうとはしません。そのような人間に、主イエスは沈黙を保ったままでした。
やがてそこでも祭司長とユダヤ指導者らは、激しく訴えたので、ヘロデ王は主イエスを侮辱し、はでな衣を着せて、ピラトのもとに返します。

・十字架につけろ
 ピラトは主イエスを釈放する口実を作りますが、ユダヤ人指導者らは、人殺し「バラバ」の釈放を求めます。さらに「十字架だ。十字架につけろ。」とあくまでも大声で主張します。「そしてついにその声が勝った」とあります。
 祭司長とユダヤ指導者たちは、自分を義とする人間の典型です。そこではいつでも神とキリストに対する反逆があるのです。しかし、神はいつでも、人間の思いを超えた形で新たな救いの道を開かれるのです。

2023/3/05 1コリント7:1~7 独身と結婚

 ・独身と結婚
 パウロはコリント教会からの問い合わせに対して答える形でキリスト者の独身と結婚生活について指針を示しています。
 まず「男が女に触れないのは良いこと」と独身生活を尊重しています。「触れない」とは性的関係を持たないという禁欲スタイルです。「しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい」とあります。

・夫と妻の義務
「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい」。ここで「義務」とは性的なつとめのことです。結婚について「産めよ増えよ」、「キリストと教会」などの意味付けがありますが、不品行から互いを守ることも重要な意味です。
「合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょに」と離れる場合も互いの「合意」が必要であり、しかも「再びいっしょ」が条件です。

・独身と結婚の賜物
 最後にパウロは「すべての人が私のようであること」と独身で専心して神に仕える幸いについて述べています。しかし「ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っている」と語り、独身にしろ、結婚にしろ、すべて神からの「賜物」で、その賜物を通して、不品行を避け、神に仕えることが大切であることを確認しています。

2023/2/26 1コリント6:12~20 神の栄光を現す

 ・からだは主のため
 キリスト者は救われて自由とされています。しかし自由の意味についてよく理解する必要があり、自由であるからといってからだを罪に汚してはなりません。「からだは不品行のためにあるのではなく、主のため」だからです。
 また「その御力によって私たちをもよみがえらせて」とあるとおり、救いと復活の力は、私たちの心だけではなく、からだにも及んでいるからです。  

・肉の結合と霊の結合
「キリストのからだの一部」と信仰者の霊とからだがキリストとの霊的結合の中にあることが示されています。キリストから切り離して遊女のからだと「交わる」時、肉の結合となり罪の奴隷状態となります。
「主と交われば、一つ霊」とありますが、信仰にとどまるとき、心もからだも御霊の原理の中におかれることを示しています。

・神の栄光を現わす
 「宮」とは聖所至聖所がある建物のことで、旧約時代は、そこに神の霊が宿るとされてきました。しかし今の時代、キリストの贖いによって「あなたがたのからだは…聖霊の宮」です。
 そこで求められていることは「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」です。私たちの場合も、不品行の時代に生きていますが、私たちのからだと人生を通して「神の栄光」を現わす者として招かれているのです。

2023/2/19 1コリント6:1~11 神の国の正しさと平和

 ・教会内の争い
パウロは、教会員同士での財産等についての訴訟騒動を取り上げています。彼らはそれぞれ町の裁判所に訴え出ていたのです。
 それ対してパウロは、些細なことで異邦人社会で訴訟を起こすべきではなく、むしろ聖徒たちに仲裁を頼んで解決するように促しています。それは世の終わりにおいて聖徒たちが世界を裁く立場となるので、そのあり方を今の時代に反映させるべきだからです。

・仲裁者と和解
「兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者」とあります。些細な問題をクリスチャンの仲裁で解決するようにということです。さらに「互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北」とあるように、些細な問題で相手をいちいち非難するのではなく、忍耐して、和解の姿勢を持つことの大切さを示しています。それがキリストの和解によって立つ神の国/教会のあるべき姿です。

・神の国の正しさと平和
 私たちの場合も、教会についての認識が希薄で、世のサークルのひとつのように考える傾向があります。しかしそうではなく、教会はキリストの御名と聖霊によって洗われた神の国です。私たちはその聖さと正しさを保たなければならないのです。 
 「正しくない者は神の国を相続できない」とは、まさしくその通りの警告の言葉です。

2023/2/12 Ⅰコリント5:1~8 純粋で真実な祭り

・不品行の問題
 パウロはコリント教会にあった不品行を取り上げています。それは異邦人にも見られないほどの悪でした。しかし、教会の指導者たちは、その不品行に対して何の対処もしていませんでした。 そこでパウロは「霊において…サタンに引き渡した」と語っています。断固として、不品行は裁かれるべきであることを示しています。

・古いパン種を取り除く
「あなたがたの高慢は、よくない」「ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませる」とあります。高慢があらゆる悪の原因であり、しかも指導者たちの高慢から、教会の中に、ありとあらゆる悪と腐敗が広がっていることを非難しています。
 「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい」とあります。キリストの贖いによって聖められている教会において大切なことは、外側の悪と共に、内面の心に忍び込む高慢を取り除く必要を訴えています。

・純粋で真実な祭り
「純粋で真実なパンで、祭りを…」と、ここでも心の中のこと、その純粋さと真実が求められています。キリストの群れ、教会では、心の内側の良さを基本となるのです。また「祭り」とは、積極的な参加が求められる場で、教会の礼拝と交わりのことです。私たちも、この祭りに導かれているので、心からのコミットメントをしていきましょう。

2023/2/12 Ⅰコリント4:14~21 神の国と力

・福音による父 
 パウロは、コリント教会に対して霊の父であることを明言しています。色々な教師たちがいたのですが、異邦人の使徒としての唯一無二の立場です。
 「福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだ」とは、ちょうど創世記でアダムが「生んだ」ということと比較できます。アダムの場合は地上の生命により彼に似た子たちを生んだのですが、パウロは、福音によってキリストの生命によって「生んだ」と語っています。それはアダムの生命以上に、リアルな生命です。

・私にならう者に
「私にならう者となって…」とあります。キリストに似た者としての私にならうようにということです。福音の言葉だけではなく、信仰姿勢と生活スタイル全体を真似るということです。
 またパウロの代わりに愛弟子のテモテを遣わすので、彼をとおして学び、真似るように勧めています。教会の牧師も、そのような存在として建てられています。

・神の国は言葉にはなく力に
「神の国はことばにはなく、力に」とあります。コリント教会のある者たちは、キリスト教とは、ただの言葉だけの宗教と考え、知識を誇り高慢になっていました。
 しかしパウロは、教会では、神の力が働く神の国であり、愛の祝福があり、神の裁きが起こるダイナミックな場であることを示しています。
 
 

2023/1/29 Ⅰコリント4:6~13 仕える王様

 「書かれていることを越えない」
 「書かれていること」とは、聖書のことで、いわゆる「十字架のことば」です。「越えない」とは、それが神の言葉であることを覚えて、恐れと愛を持って受け止め、人間の知恵や考えを加えて、逸脱しないということです。
「一方にくみし、他方に反対して高慢にならない」とは、党派を作って互いに対立する誤りです。党派心は、いつでも人間的な高ぶりが伴い、しかもエスカレートします。私たちは、その点をチェックして、高慢に陥らないように心がけなければなりません。

・高慢な王様
 コリント教会の人々は、これらの逸脱がありました。自分で自分をすぐれた者とし、全て自分の能力で獲得したかのように誇り、王様のようになっていたのです。その態度は、誰でもかまわず裁くという態度でした。この「高慢な王様」の態度は、コリント教会だけでも、どこの教会でも起こりうる悪です。

・仕える王様
 コリント教会の高慢はギリシャの知恵と文化の影響を受けた根深いものでした。そこで使徒は自分たちの実態を示しながら、「十字架のことば」としての福音に従う者のあり方を示しています。
「死罪に決まった者…」「私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません」。どれもキリストにならって「十字架を負う」姿勢です。

2023/1/22 Ⅰコリント4:1~5 人間の日と主の日

 ・キリストのしもべ
 使徒パウロは、教会における働き人としての自分たちの立場について「キリスト・イエスのしもべ、また神の奥義の管理者」と語ります。ただキリストを主人として従い、その主権のもとで、働く者ということです。 そこで大切な点は、不特定の誰かではなく、主人であるキリストに対して忠実であるかが大切であるとしています。

・人間の判定(日)は小さなこと
 教会の働き人は、教会の人々による様々な判定をうけます。「人間による判定(日)」です。私たちは、毎日、人間の目と言葉によって何らかの審判を受けながら働き、生活するのです。
 あるいは自分で自分を評価して裁く場合もありますが、しかしそれは「非常に小さなことです」とあります。パウロが、様々な人間の判定や評価によって煩わされないのは、絶対的な軸をもっていたからです。

・「主の日」に委ねる
「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかに」と「主の日」の審判について記しています。「主の日」のみが、パウロの判定の絶対的な軸でした。そして「未来の審判」に備えて、「今の日」の働きと生活を営んでいました。
 この使徒の信仰姿勢は、すべてのキリスト者にとっても、まったく同じであるべきです。
 

2023/1/15 Ⅰコリント4:1~6 ただキリストのもの

・世の知恵は愚か
 使徒は、繰り返し、世の知恵と世にとらわれることの愚かさについて、指摘し、諌めています。世の知恵は、人間の目には賢く、偉大のように見えて、神の前では、まったく愚かで、悪巧みに過ぎないからです。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える」 とヨブ記や詩篇にもあるとおりです。

・すべてはあなたがたのもの
 使徒は、キリスト者とは、世と世の知恵に従属するような小さい存在ではなく、神の子として、大きな存在であることを示しています。
「パウロであれ、アポロであれ…すべてあなたがたのもの」とは、そのことです。この認識は、ただ神の知恵のみが明らかにすることであって、それはキリスト者の自由です。

・ただキリストのもの
 そして「あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のもの」とあります。 キリストによる自由は、何のためかについて明確です。それはただキリストだけを礼拝し、キリストだけに仕えるためです。そしてまた、世の一切から自由にされて礼拝する姿が、そのまま父の神の栄光となるのです。
 私たちの福音自由教会の「自由」もそのような意味が込められています。世の力と知恵と情報が圧倒的な時代ですが、世の力に左右されず、ただキリストを礼拝する自由なる神の子たち、神の群れとして、自覚を持ち、整えられていきたいです。
 

2023/1/8 詩篇23篇 主は私の羊飼い

 ・主は私の羊飼い
 詩人は、神である主と自分との関係を羊飼いと羊にたとえています。羊飼いは、自分の羊を愛と誠意をもって全面的に守り、養い、育みます。羊は、自分の羊飼いを、やはり全面的に信頼して、従うのです。「私は、乏しいことはありません」とはその告白です。

・主は私を緑の牧場に
 「私を緑の牧場に伏させ…いこいの水のほとりに伴われ」とは、新鮮な牧草地でくつろぎ、少しの渇きを覚えたときでも安全に水場に導かれるというふうに、主に信頼する喜びと幸いを告白しています。これは単に霊的にというだけではなく、生活全体における幸せの約束です。
「死の陰の谷」とは、人生最大の危機です。世の人々は、恐れと不安にとらわれる時ですが、主の羊、神の民にとって何の恐れもありません。全能者である「あなたが」「私とともにおられる」からです。

・ いつくしみと恵み
「いつくしみ」とは「良いこと」「幸い」ということで、「恵み」とは、旧約のキーワード「ヘセド」です。主なる神は、聖書全体を通して、ご自身を「いつくしみとめぐみ」の神として啓示しておられます。
 私たちは、新年初頭にあたって、「主の羊」として、詩人とともに、「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくる」と信じ、告白しましょう。

2023/1/1 詩篇84:1~12 千日にまさる一日

 ・主の大庭を慕う
 詩人は主なる神の住まいである神殿を慕い、その大庭を「恋い慕う」と告白しています。そこは神の臨在の場であるからです。また「生ける神に喜びの歌」とあります。神のうちにこそ喜びがあり、永遠の生命が宿っているからです。
 「雀さえも、住み家」「つばめも…祭壇」とありますが、生きとし生けるものは、すべて神のもとでのみ安らぎと生命を育みます。

・心の中にシオンへの大路
「なんと幸い…の心の中にシオンへの大路のある人」とは、第1に巡礼者たちのことを意味しますが、さらに霊的には、しっかりと神礼拝に心を向ける信仰者のことです。彼らこそ、誰よりも勝って「幸い」な人々です。彼らのことを神ご自身も覚えておられて「涙の谷を…泉のわく所」とし、ついにはご自身の御元にまで安全に導かれるからです。

・千日にまさる一日
「あなたの大庭にいる一日は千日にまさり」と神礼拝の素晴らしさと貴重さを告白しています。「千日」とは「世の楽しみの千日」ということです。そこが世である限り、いかに楽しく、貴重のようでも、廃れ、過ぎ去る千日です。しかし神との一日は永遠の時と価値があります。
 元旦の朝、共に神の御元に礼拝する幸いと、その永遠の価値をおぼえましょう。

2022/12/25 ルカ福音書2:8~20  天に栄光 地に平和

 ・喜びの知らせと主の栄光
 キリスト誕生の知らせは、主の使いによって野の羊飼いたちに伝えられました。彼らが夜番で羊の群れを見守っていた時「主の栄光が回りを照らした」とあります。
 「主の栄光」とは、神の圧倒的に優れた存在と御性質です。それが降誕の「喜びの知らせ」を携える御使いととにも地上で輝いたのです。

・天に栄光 地に平和
「いと高き所に、栄光が」「地の上に、平和が」 とは、御使いと共に現れた天の軍勢の賛美です。これらもまた御子の誕生によって、天からもたらされた祝福とその輝きです。御子は神の栄光をさらに輝かし、地上において永遠の平和を実現させるのです。

・私たちの内なる栄光と平和
 羊飼いたちは、御使いらと共に現れた天の輝きに恐れ驚きましたが、なおそれらは彼らの外側の現象でした。それが心のうちに刻まれたのは、御告げに従って御子キリストを捜し出し、受け入れたときです。そのとき彼らも、御使いたちのように「神をあがめ、賛美した」のです。

 私たちの前にも、同じ「喜びの知らせ」が提供されています。それが外側にあるだけなら、何の意味もありません。それを心から信じて、御子キリストに出会うとき、私たちのうちにも天の栄光、地の平和」が訪れるのです。

2022/12/18 ルカ福音書1:46~55 マリヤの讃歌

・マリヤの讃歌
 マリヤはエリザベツと出会ったときに、聖霊に満たされて神を賛美しています。いわゆるマリヤの讃歌です。彼女は「魂は主をあがめ…霊は…神を喜びたたえ」と全人的に神をたたえています。
 ルッターは、人間の体を神殿にたとえ、魂は聖所、霊は至聖所と語りました。マリヤは、その一切を神賛美で満たされている状態です。

・大きなこと
 その理由について「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったから」と証ししています。つまり「力ある方が、私に大きなことを」とは、キリスト受胎のことであることを告白しています。神が人の胎に宿るという奇跡は、地上の誰も体験することがない栄誉であり、あわれみの極致ですから、マリヤの霊と魂と体全体が賛美に満たされるのは無理もありません。

・主のあわれみは代々に
 マリヤは、自分のあわれみの体験は「主を恐れかしこむ者に、代々に及びます」と証ししています。つまり、キリスト誕生とともに神の国が出現し、世とは真逆の正義と審判が実現するということです。
 私たちはマリヤのように胎にキリストを宿すことはないのですが、キリストの霊が宿る神の宮とされています。この霊的事実を覚え、マリヤとともに霊と魂と体全体をもって、神を賛美しましょう。
 

2022/12/11 イザヤ9:1~7 ひとりのみどりご

・闇の中の光
 「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。」
 イザヤはBC700年ころの悲惨な時代に、未来のキリスト預言をしています。「やみ」とは、戦争、破壊、罪、死、そして悲惨と絶望が支配している時代のことです。いつの時代にも、「やみ」を「やみ」として知る者たちに「光」が照るのです。「光」とは救いであり、それに伴う二重、三重の「喜び」です。

・ひとりのみどりご
 「ひとりのみどりごが、私たちのために生れる。」
 イザヤの預言の中心は「ひとりのみどりご」です。アダム以来の罪と死の支配から人間を救い出すキリストのことです。彼は、世の誰か権力者、有力者のためのではなく、貧しい「私たちのため」の救済者です。
・不思議な助言者、力ある神…
「その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」」
 彼は赤ちゃんであり、ただの人間の姿を持って生まれますが、その名は想像を遥かに超えたものです。「不思議な助言者」とは、不思議なほどにすばらしい道を示す方ということです。「力ある神」とは、神としての無限の力で一切の敵からの救済者となるということ、「永遠の父」とは、永遠に信頼できる方ということ、「平和の君」とは、神と人、人と人の平和を司る主権者という意味です。
 私たちの肉の目には、いつでも「みどりご」は、小さく、無力な存在としてしか映りません。ただ信仰の目によってのみ、彼が宿す「大きな光」を見、「私たちのため」の救い主として「喜び」の中に入れられるのです。
 

2022/12/04 Ⅰコリント3:10~17 聖なる神殿

 ・キリストが土台
 パウロは教会を建物に例え、自分が「土台を据えた」と語っています。それは使徒としての使命かつ権利でした。その「その土台とはイエス・キリスト」とありますが、それは福音の真理と言い換えることができます。
「そして、他の人がその上に家を建て」とあります。 土台があっても、その上に家が自動的にたつのではなく、各時代に働き人らの説教と牧会により、また教会メンバーの奉仕によって目に見える形で建てられていくのです。

・建物と材質
 「この土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら」とあります。「金、銀、宝石」とは、神の知恵と御霊に属する人たちが用いる尊い材質です。「木、草、わら」は人間の知恵が混在した建て方、肉に属する人たちが用いた材質です。それらは人の目には、区別が付きませんが、神の審判の「日」に火の試練によって顕わにされます。

・聖なる神殿
「あなたがたは神の神殿…御霊が…宿って」とあります。旧約時代はエルサレムに神殿があり、そこに神の臨在があるとされていました。しかし旧約時代はすべて雛形で、本体は新約時代に顕わにされました。ただ教会のメンバーには、聖なる神の神殿との自覚がない場合が多いので、警告を与えているのです。
 私たちの教会もまた、聖なる神の神殿としてこの地に建てられています。すでに据えられている土台の上に、恐れと愛をもって、良い材質の教会を建てていきましょう。

2022/11/27 1コリント3:5~9 成長させたのは神

 ・アポロとは?パウロとは?
 先に「肉に属する人」に対して信仰の成人を「霊に属する人」と表現していました。さらに使徒は「霊に属する人」のものの見方を示しています。
 「アポロとは何…パウロとは何…」とあります。コリント教会の人々は、教師たちを過大視していたので、その真の立場と役割を霊的な視点で見るように促しています。

・成長させたのは神
「私が植えて、アポロが水を注ぎ」とあります。パウロが福音宣教によって教会を植え付け、アポロは水を注いで成長を促したということです。それらも現象だけ見れば大切な役割です。しかし、現象に現れない最も大切な存在者を見失ってはならないということです。「成長させたのは神」ということです。
 さらに「植える者と水を注ぐ者は、一つ」とあります。神は成長させてくださるだけではなく、教会の誕生から成長に至るまで、一切の権利と責任をもっておられる唯一の方です。
 
・あなた方は神の畑、神の建物
 「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑…」とあります。すべて「神の」所有と働きのもとにあるということです。ひとりの神のみが、教会の主であり、働いておられる方であり、報酬と裁きをなす方です。
 私たちもこの神のもとで、植えられ、育てられ、御国での報酬に預かる者たちです。霊的な洞察を明確にして、一人の神のみを恐れ、愛して、一人の神の教会を築いてゆきましょう。  

2022/11/20 Ⅰコリント3:1~4  肉の人と御霊の人

・御霊の人と 肉の人
 パウロは、この箇所で「御霊に属する人」と「肉に属する人」という2つのタイプのクリスチャンについて語っています。「御霊に属する人」とは、福音信仰を通して与えられた御霊がその人の中心的原理となっている人のことです。いわば、大人のクリスチャンです。 
 それに対して「肉に属する人」とは信仰を通して御霊を受けて入るのですが、なおお生まれながらの人のように肉の世界に生きている人のことです。いわば霊的な「幼子」です。

・今でも無理、肉の人
  パウロはコリント宣教したときには、人々は改心して間もなく、世的体質のままだったので、信仰の初歩をしかも平易な語り方で伝えました。「乳を与えて、堅い食物を与えませんでした」とはそのことです。しかし「実は、今でもまだ無理」と手厳しいです。彼ら自身は、自分たちこそ「御霊に属する人」で霊的大人と自認していたのですが、その尊大な鼻を砕いています。「肉に属する人」は、厳しく指摘しなければ気が付かないからです。さらに教会の分派状態も「肉」の結果であることを指摘しています。

・肉の人から御霊の人に
 これは私たちの場合もまったく同様です。私たちもまた信仰を通して御霊を受けているのですが、私たちのうちに働く「肉」の力に翻弄されるのです。そこで自分のうちに働く「肉」の原理を認めて、御霊の人となるべく、「十字架のことば」を真摯に受け止め、御霊の人として絶えず、献身姿勢を保つ必要があるのです。(ローマ8:5~6)

 

2022/11/06 1コリント2:10~13 御霊による啓示

 御霊による啓示
 神の民は「神の知恵」を与えられていますが、それは「御霊によって…啓示」とあります。御霊は旧約聖書では世の終わりに注がれると預言されていましたが、今や、信仰者に与えられています。御霊は、神の霊ですから父の神の「深みにまでおよばれる」とあります。

・神の賜物を知るため
 人間の場合でも、その人の心のうちは、その人自身の「霊」以外には誰も知ることはできません。それと同じように「神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」とあります。
 神は、私たちに御霊を与えて下ったのは「賜ったものを、私たちが知るため」とあります。神は私たち一人一人を愛しておられるので、プライベートに神の愛と賜物を知らせようとしておられるのです。

・御霊のことは御霊によって
 「御霊のことばをもって御霊のことを解く」とあります。御霊の領域は人間には到達も介入もできない世界です。ただ神の御霊のことばに従って解釈し、受け取る以外には方法はないのです。
 私たちはすでに「御霊のことば」として聖書が与えられています。ですから聖書を正しく読むことが、御霊のことを解くための基本的手段です。しかし、さらに自分の思いと高ぶりを砕いて、切に導きを求めるときに、御霊は私にとってのキリストを明瞭に心に照らし出します。

2022/10/30 Ⅰコリント2:6~9 神の知恵 キリスト

 ・「成人」の知恵
 パウロは世の知恵を否定しながらも、「成人の間で、知恵を語る」とします。「成人」とは「十字架のことば」を無条件で受け入れる信仰者のことで、「知恵」とは「神の知恵」です。また同じ「知恵」でもやがて廃れる「世の知恵」とは、全く別種の永遠の真理としての知恵であるとしています。
 
・隠された奥義 神の知恵
「隠された奥義」とは、「神の知恵」は新約に至るまで誰にも知られることがなかったことを示しています。また世の人々には完全に隠されている知恵ということです。主イエス・キリストの十字架の出来事は、何よりの証拠です。キリストこそ「神の知恵」であったのに、世の権力者たちがこぞって十字架に押しやったのです。

・神の知恵 キリスト
 最後にパウロは、イザヤの預言を引用して、「神の知恵」は世の人々には、まったく計り知れない知恵であることを示しています。それはただ「神を愛する者のために、神の備えてくださったもの」なのです。
 主イエス・キリストは「神の知恵」「神の奥義」そのもので、私たちの救いとなり、益となるために定められている方です。私たちは、全面的に「神を愛する」姿勢を正して、その方の素晴らしさに目と耳、さらに心を開きたいと願わされます。

2022/10/23 1コリント2:1~5 神の力による信仰

 ・宣教のはじめ
 パウロは宣教のはじめという視点でも、教会の原点を示しています。まず「すぐれた言葉、すぐれた知恵を用いて」を述べ伝えなかったということです。反対に「神のあかし」としてふさわしく「イエス・キリスト…十字架につけられた方の他は、何も知らないことに決心した」とあります。キリストの救いのことのみをしっかりと語ったのです。

・御霊と御力の現れ
 またパウロ自身も、コリント伝道の際に、人間的には「弱く、恐れおののいていた」と証言します。しかし、その分、パウロの宣教のことばには、人間的粉飾はなく、率直でした。そこに「御霊と御力の現われ」があったのです。パウロの霊力などではなく、素朴な福音宣教の結果です。

・神の力による信仰
「人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるため」とあります。信仰のはじめは、また信仰の原点であり、土台です。「神の力」はいつの場合でも、人間の知恵によるのではなく、純粋で素朴な福音宣教を通して働きます。
 このようにしてパウロは、福音を語る者と聞く者の基本姿勢を確認しています。私たちは、神の御霊、神の力を求めますが、それはいつの時代も、巧みなことばや知恵にあるのではなく、ただキリストの福音そのものによるのです。

2022/10/16 Ⅰコリント1:26~31 主にあって誇れ

・信仰の原点…召し
 互いに分派を作っていたコリント教会の人々に対して、パウロは「あなたがの召しのことを考えて」と語りかけています。「召し」とは、神に呼ばれて救いに入れられたことで、その時の状態を思い起こすようにということです。
「この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく…」と、彼らの多くは社会的に、決して優れた者たちではなかったのです。「世の知者」であった場合でも、「召し」はその知恵の愚かさと虚しさを知らされた時だったのです。その信仰のはじめは同時に、信仰姿勢の原点です。

・だれをも誇らせない
「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」とあります。神の「召し」と「選び」の目的が示されています。
 さらに「神の御前でだれをも誇らせないため」とあります。「だれでも」は、直訳「すべての肉」です。あえて人間を「肉」と表現して、神との区別を明確にしています。創造者に対して、被造物は誇ってはならないのです。誇ることは、罪の闇を深めるだけです。

・誇る者は主にあって誇れ
「誇る者は主にあって誇れ」とエレミヤ書が引用されています。エレミヤは「新しい契約」の預言をしましたが、それがキリストにあって成就したことが明言されています。新しい契約の祝福は、ただ「キリストにあって誇る」人々の中で、顕わにされるのです。  
 

2022/10/9 1コリント1:18~25 十字架のことば

 ・十字架のことば
 「十字架ことば」とは、福音のことです。世の多くの者たちは「キリストが十字架にかかった」との内容に躓き、「愚か」と断じて滅びにとどまります。しかし「十字架のことば」は、神によって、心開かれて信じるに至った私たちにとっては「神の力」として、罪をきよめ、新しい生命を作り出します。

・宣教のことば
「知恵ある者の知恵を滅ぼし」とイザヤ書の預言を引用して、聖書に一貫した神のお取り扱いを示しています。 神の前では、いつの場合でも、知者の知恵は滅ぼされ、賢者は愚かとされるのです。
「十字架のことばの愚かさ」が「宣教のことばの愚かさ」21と言い換えられています。「宣教のことば」とは神の救いの公布ということです。それは人間の知恵も努力も必要なく、世の知者には「愚か」とみなされます。しかしそこに世の知者を退ける神の知恵があります。

・キリストは神の力
「十字架のことば」「宣教のことば」の愚かさによって提示されるのは「キリスト」です。キリストは十字架につけられ、全世界に宣教されている神の救いそのものです。どの国民にとっても躓き、愚かとみなされるのですが、召された者たちには、そこに神の力と知恵が顕わにされるのです。
 召された私たちは、ただ世の知恵を排してキリストによってのみ教会を作るのです。

2022/10/2 Ⅰコリント1:10~17 教会の一致

 ・教会の一致
「みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保って」とあります。キリスト信者はキリストにあって兄弟姉妹どうしであり、霊的に1つのもとされており、それゆえに具体的な形で一致を作り保っていくようにとの勧めです。この「教会の一致」の勧めは、ヨハネ福音書17章で主イエスご自身が切に祈っているテーマです。

・キリストが分割されてはならない
 ところがコリント教会では、際立った形で一致が失われ、互いのグループが対立している状態でした。
「私はパウロに…私はアポロに……私はケパに…私はキリストに」といった状態でした。
 そこでパウロは福音は、そのままキリストの体としての教会の中で実践されなければならいことを示します。ですから、教会の分裂は「キリストを分割する」というような冒涜的行為であることを示して諌めています。

・十字架がむなしくならないため
「キリストの十字架がむなしくならないために」とあります。キリストの福音は、いわゆる十字架の性質を持っており、まずは人間的知恵や誇りが砕かれてから、そのまま純粋に据えられる神の真理です。人間の知恵、誇りによって歪曲されて受け取られたのでは「十字架がむなしく」なるのです。
 これは、コリント教会だけではなく、私たちの教会も、深く探られなければならない点です。

2022/9/25 召天者記念礼拝 詩篇90篇 神の人モーセの祈り

 ・永遠の住まい
 詩人は神に対して「私たちの住まい」と告白しています。住まいとは安全と養いと平安の場であり、ただ神を「住まい」として、そこ身を避けることは、私たちの地上での幸いの秘訣です。私たちの神は、天地創造の神であり、世界の力、権威、原理の上にある方であり、全てにまさる真の神だからです。

・ 外の世界
 他方「住まい」の外では、神の厳しい世界が展開しています。「あなたは人をちりに帰らせて」とあるように、アダムの子孫としての現実です。さらに「あなたの御怒りによって消えうせ」と、罪人としての宿命もあります。それは一般的にそうであるということだけではなく、私たち一人一人の「不義」と「秘めごと」を神は知り、その結果としての裁きを下すのです。

・知恵の心
「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」とあります。絶対者である神のもとにある人間の現実をよく覚えて、それにふさわしく毎日を過ごす術を求めております。また「知恵の心」とは、圧倒的絶対者のもとで恵みを抱いて生きる「知恵の心」ということです。
 本日は、召天者のことを覚えるとともに、地上における人間の生涯を振り返るときです。共にみ言葉と聖霊により「知恵の心」を獲得しましょう。

2022/9/18 Ⅰコリント1:4~9 キリストとの交わり…教会

 ・キリストにある言葉と知恵
 パウロはコリント教会に与えられた神の恵みを感謝しています。具体的には福音を通して、神とキリストについての言葉と知識が豊かになったことでした。人間の集団は言葉と知識によって独自性を作っていきます。教会はキリストにある言葉と知識で世の言葉と知識と区別された信仰集団です。それが世にあって聖いということです。

・キリストにある賜物と待望
「キリストについてのあかし」とは福音のことです。福音による恵みはさらに霊的な賜物という形で具現化されていきます。預言の賜物、癒やしの賜物、治める賜物など教会には色々な賜物が現れてきます。それによって他者の徳を建て上げ、教会を形成することになります。教会の成長には、この賜物がさらに豊かにされていくことが大切です。
「熱心に…キリストの現れを待って」とは、再臨待望です。教会はこの世に凛として建てられ、さらに永遠の希望を灯す群れです。

・キリストとの交わり
最後に「…キリストとの交わりに入れられ」とあります。 これも福音による神の恵みです。交わりとはコイノニアですが、愛による深い交わりを意味します。教会は地上に存在するのですが、霊的にキリストの愛に深く結び付けられているのです。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛」とありますが、教会はまさしく永遠のもとに置かれています。

2022/9/11 Ⅰコリント1:1~3  コリントにある神の教会

・使徒パウロ
「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召された 」とパウロは手紙の前文で自己紹介をします。使徒とは、そのキリストによって公式に派遣された者たちのことで、パウロは最後に加えられた異邦人の使徒でした。キリスト教会の主はキリストご自身ですが、具体的にはこの使徒によって建て上げられるべき群れです。
 
・コリントにある神の教会
 コリント教会はパウロの第2次伝道旅行の際に建てられました。商業都市であり、かつ古代の伝統を持つ都市でしたから、その後、教会にも様々な背景を持つ人々が加わっており、また様々な問題を抱えていました。しかしパウロは教会の基本的姿として「神の教会」「キリストにあって聖なるものとされた」と語っています。さらに「聖徒として召され」とあります。ちょうど出エジプトの民のように神による贖いを受けた後に神の民、聖徒として、実際的に整えられて、約束の地に召されているのと同じです。そして新約こそ真の出エジプトで、世界のそれぞれの教会は、共に1つの集団として、終わりの日に向かうのです。

・恵みと平安
 恵みと平安は、ただ神の元にあるもので、それによって群れは危害から守られ、絶対的な祝福に預かります。ちょうど荒野の民とともにあった「火の柱、雲の柱」のようです。
 

2022/09/04 ルカ福音書22:54~62 ペテロの否認

・ペテロの否認
 役人たちは主イエスを捕縛した後に、大祭司の家に連れ行きました。ペテロは遠く離れて後をついていき、人々の中に紛れて、焚き火の周りに腰を下ろしていました。
 すると女中がペテロを見つけて「この人も、イエスといっしょにいました」 と証言します。それに対してペテロは打ち消して言います。「…私はあの人を知りません。」女中さんだから、軽く言い逃れできると考えたのです。

・ 二、三回目の否認と鶏鳴
 しばらくしてほかの男が「あなたも、彼らの仲間だ」と語った時、ペテロは、なかば本気に「「いや、違います」と自分とイエスの関わりを否定します。三人目が来て、より断定的に語ります。「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」それに対してペテロは「あなたの言うことは私にはわかりません」と徹底して、自分とイエスの関わりを否認するのです。

・罪認識と真の救い
「彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた」とあります。それと同時に、ペテロは主イエスの予告を思い出して、明確に自分の肉の弱さと罪深さを認識しました。「外に出て、激しく泣いた」とは、その現れでした。しかし彼は、その体験を通して、自分の贖い主としてのキリストを明確に知ることになったのです。
 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 」 Ⅰヨハネ4:10
 

2022/8/14 ルカ福音書22:31~38 イエスの執りなし

 ・サタンの試み
 「シモン、シモン」と主イエスはペテロの元の名を呼んで、サタンの試みについて予告しています。彼は第1の弟子との自覚を持っていましたが、なおその信仰は肉的側面が多かったのです。
「サタンが…ふるいにかけることを願って聞き届けられ」とあります。これまで彼らは主イエスの恵みのバリヤーのもとにあったのですが、一時的にそれがることを神があえて許されたということです。不可解ですが、試みの中で人は、より真実な信仰を宿すからです。

・イエスの執りなし
「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈り」とあります。主イエスの執りなしの祈りはサタンの訴えよりも優先されます。そして主イエスの恵みは、試みの中で、より深く作用するのです。そもそも主イエスの苦しみと十字架の死は、私たちの大祭司となるためのみ業でもあったからです。

・兄弟たちを力づけるため
「だから…立ち直ったら、兄弟たちを力づけて」とあります。先に、キリストの執りなしとあわれみを受けた者は、自分でも、人を思いやる賜物を獲得することになります。その賜物で、兄弟たちを力づけることが使命であるということです。
 私たちの時代でも、サタンの試みがありますが、その中でも主イエスの執りなしとあわれみは最強です。それによって立ち直った者たちは、他の兄弟たちを力づける使命を担っているのです。

2022/8/7 ルカ福音書22:24~30 神の国のリーダー像

 ・だれが一番?
 「この中でだれが一番偉い?」とあります。主イエスの弟子たちはもうすぐ神の国が実現すると思い、そのときに、自分たちの中でだれが一番優れていて、リーダーとなるのにふさわしいかという論議していたのです。
 主イエスは「だれが一番偉い」という論議自体を否定することなく、まずは、神の国のリーダーは、この世の王たちやリーダーたちとは、異なることを明確にします。

・神の国のリーダー像
 次に神の国のリーダー像について語ります。「一番偉い人は一番年の若い者のように」「治める人は仕える人のように」と。「仕える」とは、自分を低くして他の人の必要に応えるということです。
 主イエスは、ご自分のリーダーとしての本質は、それであったことを示すために、この食事の席であえて腰に手ぬぐいを下げて、弟子たちの足を洗っていたのです。

・神の国の王権
 「あなたがたに王権を与えます」とあります。 主イエスが父の神から受けた王権を、使徒たちもまた主イエスとともに受けるということです。その権威は、今の時代でも、隠れているのですが、たしかに聖霊によって現れるのです。
「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」Ⅱテモテ2:12とあるとおりです。

2022/7/31 ルカ福音書22:7~22 過越の食事

・過越の食事
 主イエスは弟子たちに過越の食事の準備をさせましたが、弟子たちが行ってみると神によって聖別された客間が用意されていました。
 主イエスはその過越の食事を切望していた事を証し、それが十字架前の最後の食事であること、また未来の神の国での再会を約束する食事であることを示します。

・主の聖餐
 主イエスが次に示されたのは、主の聖餐でした。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだ」とみ言葉を語ってから、パンを弟子たちに与えています。ここに十字架と復活という御業の意味が明確にされ、霊的に提供されています。
 「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約」とあります。ブドウの杯も、み言葉とともに与えられています。それはパンの場合と同様、見えるみ言葉として提供されています。「新しい契約」とは、律法による旧約ではなく、キリストによる恵みの契約ということです。

・信仰が大切
 この聖餐について、カトリック教会では、キリストの体と血が化体したもので、キリストそのものとします。そこでは信仰は軽視され、霊的な意味も失われがちです。
 聖書では、パンとブドウの杯は、あくまでも象徴で、それを信仰によって受けることが大切であることを強調しています。信仰によらなければ、ユダのように滅ぶのです。
 

2022/7/24  ルカ福音書22:1~6  ユダの裏切りとサタン

・過ぎ越しの祭前に
 「過ぎ越しの祭」「種なしパンの祝い」とは、出エジプトを記念した祭りで、将来の真の出エジプトを待望するためのものでもありました。それはキリストによって実現するのですが、誰も予想できない形で進行します。

・ユダの裏切りとサタン
 「イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった」とあります。彼は12弟子の一人で主イエスが祈りつつ選んだ者たちの一人でした。しかしそのような人物に、サタンが入ったのです。
 聖書では悪の中心的存在をサタン、あるいは悪魔と表現しています。ルカの福音書では後半部でこの名称が用いられています。サタンとは霊的な存在で、肉体をもつ人間に絶大な力で作用し、支配しようとします。そして、神の救いの業にことごとく敵対します。

・藍より出て藍よりも青
 「彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした…」。ユダはサタンに駆り立てられて、祭司長らに金銭でイエスを売ります。その結果、弟子集団は内部から崩壊し、主イエスは十字架の死に貶められていきます。
 しかしサタンの勝利はつかの間で、かえって試みを通して、滅ぶべきものは滅びの色を濃くし、信仰を保つ者は、新しい救いの生命を濃くするのです。Ⅰペテロ5:10「神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者と」とあります。
 

2022/7/17 ルカ福音書21:20~36 油断せずに祈る

 ・エルサレム滅亡の預言
 主イエスはエルサレム滅亡について預言し「そのとき…山へ逃げなさい 」と語ります。実際にAD70年にエルサレムはローマ軍によって包囲されて陥落し、神殿も破壊されます。そのときにキリスト者たちはこの警告に従って近くの町に逃れました。

・キリスト再臨
 主イエスはさらに世の終わりに現れる天変地異の前兆について触れます。「諸国の民は…不安に陥って悩み…恐ろしさのあまり気を失い」とあります。しかしそのときこそ、キリスト再臨と贖いの完成という希望の時となります。「からだをまっすぐにし、あなたがたの頭を上に上げ」とは、文字通りのスタイルを取るというより、強い希望を抱くべきことを示しています。

・油断せずに祈る
 「放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んで」とありますが、キリスト者であっても、世との関わりが強くなるときに、霊的に眠り、このような危機的状態となります。
 そこで「いつも油断せずに祈っていなさい」とあります。「油断せずに」とは、夜番の歩哨が眠らないでいることを意味する言葉です。ちょうどそのように、世の楽しみや煩い事にとらわれて、霊的に眠らないようにということです。
 「祈り」とは、神を怖れて信じ、期待するという、霊の営みです。私たちは「祈り」によって、世の眠りから免れて、再臨待望の灯火を保つことができるのです。

2022/7/10 ルカ福音書21:5~19 時の終わりに

・神殿を前にして
「宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると」感嘆していた人々に対して主イエスは、その破壊されることを予告します。そして真の信仰は、目に見える神殿に依存するような形式的なものではないことを示し、さらに目まぐるしく変遷する時代の中で、内なる確信として培われていくことをしめします。

・時の終わりに…信仰の確立と証
 時の終わりは、すぐに来るわけではなく、それまでに様々な困難がやってきます。偽キリストによる惑わしがその一つです。彼らは人々がパニック状態のときに現れてきますが、その際に、キリスト者は何が真理であるかを判別して、そこにしっかりと立つ必要があります。
 また迫害の時があり、人々は偶像や世の流れに染まるように強制します。そうしたときに、キリスト者は聖霊に励まされて、証をすることで、自分の心の内に不動の信仰を養っていきます。

・世の終わりに…忍耐
 キリスト者の困難は、一時のものではないので忍耐が要請されます。信仰にしっかりと踏みとどまるということです。そして、キリスト者は困難から逃げることではなく、むしろ忍耐して信仰にしっかりと踏みとどまることで、自分の生命を勝ち取ることができるのです。
 私たちは安穏とした信仰生活を願いますが、主イエスのみ心は、困難な時代にあって、一人一人がしっかりと信仰に立つことです。
 

2022/7/3 ルカ福音書21:1~4  銅貨二つの尊さ

 ・献金箱の前で
「イエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた」 とあります。献金箱は婦人の庭にあったのですが、そこでの光景です。金持ちたちが多額の硬貨を投げ入れたのは目でも音でも分かりました。それで本人も周囲の者たちも、その信仰を評価していました。「ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れ」とありますが、その場合も、目と耳で、その小さな額がわかり、人々は蔑む傾向がありました。

・銅貨二つの尊さ
 しかし、主イエスは、人々とは異なった評価をしています。「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」と。その理由は「みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたから」とあります。つまり献金の価値は、金額の大小ではなく、目に見えない信仰と献身の大小にあるとしたのです。
 貧しいやもめは一レプタでも大きな心の痛みでしたが、神を信じて更に一レプタ銅貨を捧げて、神を礼拝したのです。

・痛みと尊さ
 私たちも、このやもめにはかないませんが、痛みがあったとしても、神を第1とするにふさわしい信仰と献身を具現した形で献金をいたしましょう。神は、それを高価で尊いとしてご覧になられるからです。

2022/6/26 ルカ福音書20:27~40 生きている者の神

・サドカイ人の復活否定
 サドカイ人とは祭司長一族らを中心とするグループです。彼らはモーセ五書だけを聖典として死者の復活を否定していました。彼らは主イエスの評判を貶めようとして、復活信仰を否定する論戦を挑んできました。それは律法の規定を盾にした詭弁で、夫と次々に死別して、結局7人の兄弟の妻となった女性は、復活のときに誰の妻になるかというものでした。

・この世の生命、復活の生命
 主イエスは「この世の子らは、めとったり、とついだりするが…死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません」と語ります。この世の生命と神の子たちの生命の違いを明瞭にしているのです。この世の生命の論理で、復活を云々することは誤りであるということです。

・生きている者の神
 さらに出エジプト記3章の柴の箇所で神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。」として現れたことを示します。神は園の存在者であり、しかも契約の民との関わりを永遠に保ち、彼らを永遠に生かしていることを明らかにします。
「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」とあります。真実の神信仰に導かれた者たちは死に絶える生命ではなく、永遠の生命をいただき、たとい地上の生命が滅んだとしても復活に至ることを明確にしています。
 この死の時代に、私たちは復活信仰によって「生きている者」とされているので、心からの礼拝により生きた神を証ししましょう。
 

2022/6/19 父の日礼拝 Ⅱコリント1:3~6  慈愛の父 慰めの神

 ・慈愛の父 慰めの神
 聖書の神は厳格な神というイメージがありますが、その本質は「慈愛の父…慰めの神」です。特に私たちキリスト者にとっては、どのような時にも確実で深い慈愛と慰めを与える方です。 「慈愛」とは苦しみ悲しむ者に対して自分でも苦しみ傷んで受け止めるということです。「慰め」とは優しく適切な言葉をかけて相手を癒やすということです。

・父の神に学び、習う
 「自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができる」とあります。私たち自身には慈愛も慰めも欠けていても、自分が体験した神の慈愛と慰めを他の人に対して実践できるということです。
 私たちは地上の父親の性格と態度を継承しておりますが、 それ以上に霊の父、神の慈愛と慰めを知り、それを自分の子供に、また若い世代に対して実践することが大切です。

・父親の慈愛と慰めの実践
 ある心理学者が次のように語っています。「子供は…ほめられた記憶がないのも心の傷になっている可能性があります」と。そうでなくとも地上に生きる人間には、深い心の傷と悲しみがあります。父親たちは、神の慈愛と慰めによって、少しでも癒すことが使命として委ねられているのだと思います。
 


2022/6/12 ルカ福音書20:20~26 神のものは 神に

・カイザルに税金?
 主イエスの生命を狙う祭司長らは、義人を装った間者を送って、イエスを罠にかけ、ローマ総督にひきわたそうとと企みました。彼らは「カイザルに税金を納めることは律法にかなっているかどうか」との質問をし、どう答えてもイエスの立場を危うくしようとします。まさしく毒をはらんだ質問です。

・カイザルのものはカイザルに
 主イエスは彼らの企みを見抜いて対応しています。まずはデナリ銀貨を取り出させて、そこにカイザルの肖像と銘が刻まれていることを確認させます。それによって地上の政治経済の支配権はどこにあるかを示しています。そのようにして「カイザルのものはカイザルに返しなさい」と返答します。

・ 神のものは神に
 しかし主イエスの強調点は次にあります。「神のものは神に返しなさい」です。人間は神に似せて創造され、神の肖像、神の銘が刻まれた「神のもの」です。表面的に装いながら世的悪意や欺きにうつつを抜かすことは、本来のあり方から逸脱した姿です。
 そこで「神のものを神に返す」とは、表面的にではなく、心から神を礼拝することです。詩篇51:16に「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。」とありますが、まさしくそのような礼拝です。
 

2022/6/5 ルカ福音書20:9~18 捨てられた石、礎の石

・ぶどう園のたとえ
 主イエスは旧約から新約にいたる救済史を「ぶどう園のたとえ」で語ります。ぶどう園主が農夫たちに契約によって貸付て、長い旅にでました。収穫期を迎えて主人はしもべを遣わしましたが、農夫たちは「袋だたきにし、何も持たせないで送り帰し」ました。その後、別のしもべ、三人目のしもべを遣わしても反逆心をエスカレートするだけでした。

・愛する息子の殺害と契約破綻
  最後に、主人は契約に対する誠実を尽くして「愛する息子」を派遣します。農夫たちは、その息子が跡取りだと分かると農園を略奪しようと殺してしまいます。主人はこの反逆と罪により、契約破綻とし、さらに罪に対する報いとして「農夫どもを打ち滅ぼし」、さらに「ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます」と。このたとえの「愛する息子」とは神の子キリストです。

・捨てられた石、礎の石
 主イエスは最後に旧約預言を示します。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」。旧約の民が捨てたキリストが、新約の救いの礎となったということです。
 これは単にユダヤの歴史について語ったことではありません。いつの時代にも、どこの地域でも、世の権力者たちはキリストを捨てます。それでも「神の目に選ばれた石」Ⅰペテロ2:4は、永遠の御国の民とされるのです。
 

2022/5/29 ルカ福音書19:41~48 神の訪れの時

・イエスの嘆き
 オリーブ山からエルサレム全景を見渡すことができますが、そのエルサレムに近づいたときに、主イエスは「その都のために泣いて」とあります。シクシクと言うのではなく、大声を上げて泣いたのです。旧約でも預言者たちは、しばしばエルサレムのために嘆げいていますが、主イエスの反応も全く同じでした。それはまた、神ご自身の激しい嘆きの姿です。

・神の訪れの時を知らず
 イエスの嘆きの理由は、人々が「神の訪れの時を知らなかった」ということです。つまり神の子キリストが平和の主として到来したのに、彼らはそれとは認めずに、神に反逆したままで、神の子を拒絶したからです。その結果、エルサレムは外敵によって徹底して破壊され、民も滅ぼされることになるのです。

・祈りの家/強盗の巣
 実際に主イエスがエルサレム神殿に入ったときに、そこが「商売の場となっている有様を目撃しました。宮聖めの後に、そこは「祈りの家」であるべきなのに「強盗の巣」にしていると指導者たちを責めます。
 現代も主イエスは、み言葉とともに私たちのもとに訪れます。そのときに私たちは神の平和と恵みをそのまま受け入れる「祈りの家」でなければなりません。決して人間的な思いと罪の欲望に満ちた「強盗の巣」にしてはならないのです。
 

2022/5/22 ルカ福音書19:28~40 ろばの子の召命

 ・エルサレムへ
 「イエスは、さらに進んで、エルサレムへと上って」とあります。エリコからエルサレムまでは約25キロ1000mの高低差を上っていくことになります。オリーブ山中腹は、その峠となり、眼下にエルルサレムが眺望できます。主イエスは、エルサレムを前にして、公式に、神のキリストとして入城の準備をします。

・ろばの子の召命
 主イエスは細やかに2人の弟子に命じて、村でろばの子を見つけてくるように語ります。もし「なぜ、ほどくのか」と尋ねる人があったら「主がお入用なのです」と言うようにと…。弟子たちが行くと案の定、ろばの子の所有者たちが「なぜ」と詰問するのですが、弟子たちは「主がお入用なのです」と告げると引き渡してくれました。主イエスは、すべてに優先する「主」だからです。

・ろばの子に乗って
 「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちはみな…喜んで大声に神を賛美し」とあります。弟子たちが、神を賛美したのはイエス・キリストの入城であり、到来でありましたが、名馬ではなく、柔和なろばの子に乗ってやってきたキリストを喜んだのです。
 現代でも、キリストは霊によって人々に届けられますが、その際にも非力であっても、柔和な器を用いられるのです。ただその器に求められることは、召命感です。

2022/5/15 ルカ福音書19:11~27 一ミナの重み

 ・一ミナずつの下僕たち
 主イエスは、主人と一ミナずつ与えられた下僕たちのたとえを話します。そしてご自分が再臨する時までの期間、弟子たちが与えられた賜物を用いてご自身のために奉仕し、忠実に仕える大切さを示します。一ミナとは、当時の貨幣単位で、一デナリの100倍、1タラントの60分の1の価値です。大きくはないのですが、決して小さくはない賜物です。

・最臨時のしもべたち
 主人が「王位を受けて帰って来たとき」に、下僕たちはそれぞれ、自分の働きと忠実さについて審判をうけています。はじめの下僕は1ミナで10ミナを儲けたと報告しました。王となった主人は「よくやった。良いしもべだ」「小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者に…」と祝福と報いを与えます。次の下僕は1ミナで5ミナ儲けたと報告し、同じように祝福と報いを受けます。
 しかし、もうひとりは、1ミナを預かったのにそれを用いないで「ふろしきに包んでしまって」いたと報告します。その結果、彼は王によって厳しい裁きを受けています。

・一ミナの重み
  現代の私たちも、キリストからそれぞれ一ミナずつの賜物を与えられています。それは大きくはないのですが、決して小さくはない価値を持っています。そして、それを用いて忠実に仕えることで、この地上でキリストとの接点を保ち、また再臨の時まで、そのように仕えることが期待されているのです。

2022/5/8 母の日礼拝 創世記21:14~21 母ハガルの場合

 ・母ハガルの場合
 聖書では、母の子離れのテーマが多くあります。ハガルの場合もその一例です。奴隷であったハガルはサラの逆鱗に触れ、息子イシュマエルとともに荒野に追放されることになりました。アブラハムは「非常に悩みましたが、神の啓示と祝福を信じて、二人にパンと水の革袋を持たせて送り出しました。

・荒野をさまよい
 「彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた」とあるように、ハガルには行く宛もなく、厳しい荒野をさまよい歩くしか術がありませんでした。「水が尽きたとき」とは生命も尽き果てようとしていたときです。彼女は、自分の力では守ることはできないと考えて、子どもを放棄して、遠く離れてただ泣くだけの状態になりました。この世にある母と子の厳しい現実です。

・神がハガルの目を開かれ
 しかし母が手放した時、本来の保護者であり守り手である神が前面に出てきます。つまり「神は少年の声を聞かれ」とあるとおりです。この体験が、母ハガルの子育ての姿勢を180度転換させます。それは「神がハガルの目を開かれた」体験となりました。そして神中心に物事を考え、自分は子どもを神から委ねられた母という視点になったときに、現実の子育てでも「目が開かれて」展望が開かれたのです。そのようにして、彼女は井戸を見つけ、子を養い、立派な青年に育て上げました。

2022/5/1 ルカ19:1~10 ザアカイの改心

・ザアカイ
 主イエスがエリコに入った時の物語です。そこに取税人のかしらで金持ちのザアカイという人がいました。彼は職業柄、アウトローで罪人として人々に嫌われていましたが、主イエスに対して興味をいだいていました。しかし背が低かったので、人垣で見ることができません。そこで先回りして、いちじく桑の木に登って待ってイエスの通り過ぎるのを待っていました。

・いちじく桑の木の上で
 「イエスは、ちょうどそこに来られて…上を見上げて」とありますが、ザアカイに先んじていたのは主イエスの方でした。「木の上」はザアカイの孤独な傍観者としてのスタンスでしたが、主イエスの方が、彼に先んじて、彼を見、救いの対象として覚えていたのです。
 「ザアカイ。急いで降りて来なさい」とは、主イエスの救いの招きに対する応答のあるべきスタイルを示しています。それに対して、ザアカイもまた、素直に「急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎え」ています。

・ザアカイの改心
 さらにザアカイは、主イエスとの出会いを通して、徹底した改心と悔い改めにふさわしい行いを実行しています。「財産の半分を貧しい人たちに…だまし取った物は、四倍にして返し…」とあるとおりです。
 そのザアカイに対して主イエスは次のように宣言します。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」