2018/4/15 使徒の働き6:1~7 新しい神殿…教会


配給の問題
 教会が成長するにつれ、内部の問題も表面化しました。ギリシャ語を使うユダヤ人やもめへの配給が滞るようになったのです。このことは、教会の働き人の問題をクローズアップすることになりました。つまり12人の使徒たちだけでは、教会のすべての奉仕に対処しきれないということです。

・七人の奉仕者
 そこで使徒たちは教会全員の中から七人の奉仕者を選びださせ、自分たちは「みことばと祈り」の奉仕に専念することを宣言します。新しい神殿である教会の根幹は神との接点であり、それがみことばと祈りだからです。そして七人に手をおいて祈り、新しい奉仕者として任職します。その結果、教会の内に聖霊が働き、さらに成長していきました。

・新しい神殿…教会
 教会は、これ以降、エルサレム以外にも成立し、そこで外国人牧師、監督、長老、様々な奉仕者が立てられることになります。それによってどこにあっても新しい神殿、キリストの体として祝福されていくことになったのです。

2018/4/8 使徒の働き5:17~32  いのちのことば


・世と迫害
 大祭司とサドカイ派の権力者たちは使徒たちに対してねたみを持ち、彼らを捕らえて拘束します。使徒たちはキリストの福音を委ねられていた者たちでしたから、小さな集団の行く末を完全に閉ざしてしまう行為でした。世はいつの時代にも、福音と教会に対してこのように敵対します。

・「いのちのことば」と神の国
 「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き」とあります。天使は神のしもべであり、神の国を守る無敵の軍勢です。教会を神の国として、天使が救いの手をのべているのです。さらに「人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と命令します。福音には、永遠の生命が宿されており、福音宣教が地上に誕生した神の国の第1の務めです。使徒たちは、天使の命令通りに大胆に語っています。

・はずかしめと喜び
 使徒たちは、再び、ユダヤ当局に拘束され、詰問されます。しかし彼らは憶することなく「人に従うより、神に従うべきです」と大胆に弁明します。さらに鞭打ちにあいますが、「御名のためにはずかしめを受けるに値する者とされたことを喜び」とあります。
 使徒たちは目前の権威に憶することなく、目に見えない神の国を信じ、その使命を喜んで成し遂げたのです。
 私たちも神の国に仕える者たちですが、委ねられた「いのちのことば」の宣教にいそしみましょう。
 

2018/4/1 1コリント15:50~58 終わりのラッパ


・終わりのラッパ
 パウロは世の終わりに天からのラッパの響きがあり、それとともに体の復活が起こることを示します。その際「血肉のからだは神の国を相続」することはなく、「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる」のです。神の国に入ることができるのは、福音によって御霊を宿した者たちで、そのすべてが御霊に属するからだに変えられるのです。

・死は勝利にのまれた
 「死は勝利にのまれ」とは預言者のことばですが、ラッパの響きとともに神の壮大なドラマが完結します。地上では死は絶対的圧制者で誰も立ち向かうことができません。しかしキリストの死と復活において、死の敗北が始まり、終わりの時に大逆転劇が起こります。キリストと民が死の支配を打ち破り、すべて新しい体に復活するからです。

・堅く動かされることなく
 復活の教理は、キリスト教の礎です。それを動かそうとする誤った教えが周囲にありますが、それに惑わされることなく、堅い信仰を保つことが大切です。
 「労苦がむだでない」とあります。キリスト者としての証や奉仕、また地上での生涯全体の労苦のことです。それらは地上の死によって絶えてしまうのではなく、私たち自身と友の復活という永遠の価値につながるからです。
 

2018/3/25 イザヤ53:1~6 苦難のしもべ


・苦難のしもべ
 イザヤ53章では旧約聖書全巻が待望する人物、福音の中心人物についての預言があります。彼は人間として地上に誕生し、人知れず成長します。しかし彼は「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」人物でした。まさしく苦難のしもべでした。

・私たちも「彼」を…
 彼は人々の中で際立つ「人」でした。「さげすまれ、人々からのけものにされ」たからです。ただの「さげすみ」ではなく人が顔をそむけるほどさげすまれ」ました。それは彼が「悲しみ(痛み)の人」にあったからでした。私たちも、彼を神に捨てられた人として「尊ばなかった」とあります。

・「彼」は私たちを…
 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(悲しみ)をになった
 彼の病と痛みは、私たちが罪の罰として受けなければならなかったものということです。彼は私たちの罪と罰の一切を担って、打たれ、刺し通され、それによって私たちはいやされ救われたのです。苦難のしもべは、私たちの贖い主であったということです。

・「彼」と私たち
 「彼」と「私たち」が結びつけられ、彼の贖いを受け取る手段はただ信仰です。そこでキリスト者は生涯、その絆の中に生き、信仰を深め、彼を愛を自分のものとするようにすべきです。

2018/3/18 使徒の働き4:36~37、5:1~11 アナニヤ・サッピラ事件



・アナニヤ,サッピラ事件
  信じた者の群れは心と思いを一つにし、財産も共有する場合もありました。バルナバは自分の土地を売り払い、その代金をすべて献げて、みなの称賛をえました。
 ところがアナニヤとサッピラ夫婦は皆からの尊敬と称賛を獲得するために、一部の財産を隠して、すべて献げたという虚偽行為をなしました。しかも夫婦で口裏を合わせてなしたので、ペテロはそれを厳しく非難しました。

・裁き
サタンに心を奪われ」とは使徒の言葉です。単に偽ったというだけではなく、信者の群れでの虚偽行為は、サタンの奴隷、手先としての反逆と断じたのです。事実、サタンはそのようにして、教会に忍び込もうとしていました。それは「 聖霊を欺い」た行為であり、神に対する反逆です。
 ペテロが彼らの虚偽を暴いたとき、アナニヤもサッピラも、即座に「倒れて息が絶えた」のでした。ただちに神の裁きが下ったのです。

・教会と聖
「教会全体…非常な恐れが生じた」とあります。ここで初めて教会という言葉が用いられています。今や教会は、神殿に変わる神臨在の場所であることが明らかにされたのです。「非常な恐れ」とは神への畏怖です。
 この事件を通して、教会が神臨在の場であり、聖なる領域であることを顕わにさせたのです。

2018/3/11 使徒の働き4:1~22 礎の石



・ユダヤの権威
 神殿内でペテロらが福音宣教していたとき、神殿の責任者たちがきて彼らを拘束しました。彼らは使徒たちがイエスの復活について語っているのに困り果てていたのです。翌日、ユダヤ議会が招集され、彼らは大祭司、長老、学者たちの前で尋問を受けます。彼らはユダヤの権威であり、神殿中心の宗教に固執する人々でした。

・ペテロの弁明
 翌日、ユダヤ議会が招集されて、大祭司、長老、学者たちというユダヤの権威が集います。その面前で、使徒たちは「誰の権威、誰の名で語り行ったか」と尋問を受けますが、彼は聖霊に満たされて大胆に、キリストを証します。彼らにとっては、古い名と権威よりは、復活したイエスの権威と名の方が、すぐれていることは、明白でした。

・礎の石
 さらにペテロは詩篇118篇を用いてキリストを証します。「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となったとはこの方のことです」と。神殿中心の旧体制が捨てて十字架にかけて殺したイエスが、復活して新しい神の国の礎となったということです。見た目には見事でも神殿は貧弱な救いであり、キリストこそ万民の救い、永遠の救いであるということを示しています…事実、約40年後に神殿は破壊され、キリストの教えは万民に届けられることになりました。

2018/3/4 使徒の働き3:1~11 美しい「イエスの名」



・「美しの門」で
 ペテロとヨハネが神殿にある「美しの門」を通ろうとしたときに、ちょうど足にハンディーキャップがある男が運ばれてきました。彼はそこで毎日、施しを求めていたのです。「美しの門」は形と装飾が美しかったのでその名がついたのですが、それは神殿にまつわる神の祝福を象徴する名でした。

・イエス・キリストの名
 男は早速、ペテロたちに施しを求めましたが、ペテロは「金銀は私にはない」と答えます。実際に、彼らは金銭を持ち合わせていなかったし、生活は豊かではありませんでした。さらに続けて「私にあるもの」と言って「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と命じました。ペテロは金銭よりも、さらにすぐれた財産は「イエス・キリストの名」という強い確信を持っていたのです。権威ある「名」は決してむなしくはなく、力があります。ましてや神の子イエスは生きており、その名があるところに永遠の力が現れるのです。

・美しい「イエスの名」
 ペテロが語った言葉と共に「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした」とあります。さらに「歩いたり、はねたりしながら、神を賛美し…」とあります。肉体が癒され、神を賛美する心がよみがえったのです。神殿と門の外見は美しかったのですが、さらに美しく喜ばしい「名」はイエス・キリストの名であることが証明された出来事でした。

2018/2/25 ヨハネ福音書2:1~11 水がぶどう酒に



・カナの婚礼
 主イエスは母と共にカナでの婚礼に招かれていました。ところが婚礼の最中にぶどう酒がなくなりそうになったので、母マリヤはイエスが何とかしてくれるだろうと考えて、そのことを訴えました。それに対して主イエスは「あなたは、わたしと何の関係があるでしょう」と突き放しました。もはや息子ではなく、神の子キリストとしての公の立場だったからです。

・イエスの時
「わたしの時はまだ、来ていません」と主イエスは語っています。イエスを招き、イエスもまた喜んで臨在するところでは主イエスは「わたしの時」、絶対的な恵みと救いの時を用意しているということです。その「時」は、主イエスの十字架と復活の奇跡を反映させるような「時」でした。
 この婚姻において信仰者にもたらされる「イエスの時」とは、どのようなものであるか如実に現しているのです。水がぶどう酒に、しかも最良のぶどう酒に変えられた奇跡がそれです。

・私たちの家庭で
 このことは現代に生きる私たちの場合にもそのまま適応できます。特に夫婦関係と家庭生活においては如実です。私たちの場合も生活の中で、いつしか人間ゆえの欠け、弱さ、足りなさが顕わになる事があります。それは物質的にもそうですが、愛や誠実、寛容や忍耐において特にそうです。そのようなときにキリストを心と家庭に招き入れている人々は幸いなのです。その家庭には「イエスの時」があり、「水がぶどう酒に」変えられるのです。

2018/2/18 使徒の働き2:37~~47 心を一つにして



・心を刺され
「人々はこれを聞いて心を刺され」とあります。福音のことばで人は、初めて神の子キリストを知ることができます。また福音は人間の中心にある「心を刺」し通して、自分の罪と悲惨さを自覚させます。聖霊が福音と共に心に働くからです。

・悔い改めとバプテスマ
「悔い改めなさい」とは心を砕き変えること、自己中心からキリスト中心に向けることです。「バプテスマを受けなさい」とは洗礼のことですが、それは単なる儀式ではなく、公の信仰告白であり、心と生活の転換の決意です。これによって古い人は新しい人として神の国の交わりに入ることができます。その人々の心の基本姿勢はキリスト信仰と共に、異質な他者を受ける心です。

・心を一つにして
使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈り…」とあります。昨日まで敵であった者たちが加わったのですが、彼らの交わりは他者を排除しない交わりでした。「昨日の敵は今日の友」です。

 彼らは信仰の心も一つでしたが、  「心を一つにして」とあるとおり志においても一つとされ「喜びと真心」に溢れた集団でした。この姿こそ古い裁きあいの集団とはまったく別個の集団、キリストによる新約の群れでした。

2018/2/11 使徒の働き2:22~36 あなたがたが十字架に



・神があなたがたに
 ペテロは集まってきた群衆に説教を続けています。その内容は、ナザレ人イエスこそ、神があなたがたのために与えたキリストであるということです。その証拠として地上の公生涯において「力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇跡を行われ」たということでした。そのイエスは結局は、十字架につけて殺されます。

・復活による証拠
しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました」とあります。死者の中からの復活を通して、神はさらに強力なイエスこそ神の子キリストであるという証拠を示します。ペテロはまた、詩篇16篇によって、復活の預言を示して、「イエスこそキリスト」の証明を補強しています。

・あなたがたが十字架に
 最後に「イエスを、あなたがたは十字架につけたのです」とユダヤ人の群衆に言葉を向けます。神は与えられたのに、あなたがたは退け、十字架につけたと、彼らの罪の深刻さを顕わにしています。
 私たちは、「あなたがた」とはただユダヤ人だけに限定してしまいがちです。しかしそれはすべての人がそうであり、現代の私たちもそれに当てはまることを覚えなければなりません。つまり私たちもかのユダヤ人たちと同じように、神に反逆するエゴと罪を持っているからです。

2018/2/4 使徒の働き2:14~21  ヨエルの預言から



・「ヨエルの預言」から
 聖霊降臨の物音で集まってきた人々に対して、使徒たちと共に立ったペテロは第一回目の説教をします。彼はヨエルの預言を引用して、彼らに起こった出来事を説き明かします。それは時代の意味、教会の意味を鮮明に示すものでした。

・「終わりの日に」
 ヨエルの預言は「終わりの日」「主の日」の出来事について示しています。それは旧約の時代が終わったのちに到来するもので、最後の審判間近の時です。この時に起こる現象が「わたしの霊をすべての人に注ぐ」でした。旧約時代には限定的に預言者らに注がれた神の霊が、すべての民に注がれるということです。
・「主の名を呼ぶ者は…」
 「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」とあります。「主の名」とは、主なる神ご自身の事で、さらに啓示を通して明らかにされた所の神ということです。イエスは人となった神で、父の神をそのまま啓示された方です。彼の名こそが「主の名」です。

・教会と宣教
 聖霊降臨に始まる時代は教会の時代といってよく、教会において礼拝が献げられ、教会を起点に宣教がなされるのです。その内容は「イエスこそ神の子キリスト」です。そのようにして、最後の審判から救われる唯一の道を示すのです。