2017/11/12 子ども祝福式 創世記18:1~15,21:1~7,ローマ4:21~22



アブラハムへの約束
 アブラハムが85才のとき、神は夜空の星を見させて「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。

・3人の御使いと約束
 それから14年の年月が過ぎ、アブラハムは99才になっていました。ある暑い日のこと「彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立って 」いました。彼は高貴な旅人たちをもてなしたのですが、彼らはアブラハムに次のように神の約束を告げます。わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」

・サラの笑い
 サラはその言葉を聞いたときに、心の中で笑ってしまいました。お爺さんとお婆さんに子どもなどできるはずはないと思ったのです。しかしアブラハムは、神の約束を心から信じました。

・イサクの誕生
 それから1年が過ぎたときに、神の約束の通りにサラは子どもを産みました。名前はイサクとつけました。イサクとは「笑う」という意味で奇跡の記念としての名でした。神は人の考えを越えた奇跡をなす方なのです。

・ローマ4:21~22
(彼は)神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」

2017/11/05 エレミヤ31:1~8 荒野と恵み



・荒野と恵み
 エレミヤは未来の「その時」について預言をします。それは第一にバビロン捕囚の時についてです。「その時」彼らは苦難を味わうのですが、いわばその「荒野で恵み」得るとあります。神のお取り扱いは出エジプトの昔から同じです。神の民であっても苦難を体験することがあるのですが、そのただ中で神の恵みを発見するのです。

・「出て行って」
 「出て行って休みを得よ」とあります。「出て行く」とは、古い集団、肉的な集団から出て行くということで、結果的に捕囚の民は「出て行った」のです。その先は孤独と苦難がありましたが、そこで新しい神体験が始まることになりました。
 このことは新約の民である私たちの場合もまったく同じです。私たちもまた古いしがらみから「出て行って」神との出会い、霊的安息に入るように神は招いておられるのです。

・永遠の愛
 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」とあります。途切れることなく、妨げられることなく注がれる愛が、永遠の愛です。しかも神の熱心さと深さによる愛です。
 神は私たちをも愛しておられます。その愛に面と向かって出会うのは、私たちの場合も「出て行って」ということです。古いしがらみから「出て行こう」とするときに、不安が伴いますが、それを克服して、はじめて神が備えている新世界に入ることができるのです。

2017/10/15 エレミヤ書24:1~10  二籠のいちじく



第2次バビロン捕囚
 BC597年の第2次バビロン捕囚があった後の預言です。この時、バビロンのネブカデネザル王はエホヤキン王とともに、王族貴族、兵士、職人など国の主だった人々を捕囚として連れ去りました。残った者たちは捕囚の者たちを不憫と思い、自分たちはラッキーと思っていました。

・二籠のいちじく
 エレミヤの預言は、そのような人間的考えを覆す内容でした。「主の宮の前に二かごのいちじくが置かれて」おり、「一つのかごのは非常に良いいちじくで 」「もう一つのかごのは非常に悪いいちじく」という幻でした。神はその幻について、良いいちじくは「捕囚の民」、悪いいちじくは残された者と語られます。それは人々が考えていたこととまったく正反対の運命ということになります。

・どんでん返しの原因…心を尽くし
 どんでん返しの原因についてもエレミヤは預言します。「彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである」。つまり捕囚の民は苦難の中で悔い改めて、主なる神に立ち返ることになり、神の祝福を受けて、帰還することになるということです。彼らの子孫は、やがてキリスト出現を目撃し、新生することになります。反対に残った者たちは、心高ぶったまま悔い改めることなく、神に憎まれ永遠に滅び尽くされるのです。

2017/10/8 エレミヤ18:1~11 陶器師の家で



・陶器師の家で
 主なる神はエレミヤに対して「陶器師の家に下れ」と命令します。エレミヤが下っていくと陶器師はろくろで仕事をしており「制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替え」ていました。陶器師は粘土に対して絶対的権威を持ち、自在に練り直して、自分の気に入った器に作り替えていたのです。

・神は陶器師
 その時に、エレミヤにあったみ言葉です。「粘土が陶器師の手の中にあるように、あなたがたも、わたしの手の中にある。
 神が人間に対して絶対的主権があり、だれが何と言おうと自由に、御手の中で、人間とその将来を作り替えることができるということです。

・「悔い改め」が肝心
もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」とあります。人の運命が定まったような状態の中でも、その人が悔い改めるなら、その人と将来を作り替えて幸いを与えるということです。反対に順風満帆であっても傲慢で不従順だとその幸いは即座に取り去られるのです。

 私たちもまた神の手の中にある器に過ぎません。信仰生活の中で決して高ぶることなく、「悔い改め」こそ肝心であることを覚えましょう。

2017/10/1 エレミヤ17:1~10 人ではなく、神に



・ユダの罪
「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ」と、甚だしい南ユダ王国内での罪の有様について告発しています。その罪とは偶像崇拝とそれに伴った道徳的退廃でした。
 エレミヤはまた、罪の原因について「人間に信頼、肉を自分の腕とし、心が主から離れる」ことを上げています。目に見える人間だけを頼り主なる神から離れた者は、もはや罪の奴隷なのです。

・人の心と罪
 「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」人間全般の罪についてのエレミヤの洞察です。彼はユダ一国だけを観察していましたが、それは人間全般でもまったく同じであるとの啓示を受けていたのです。人は様々な罪に陥りますが、その原因は心の奥底にあるということです。
 この人間の罪については、新約聖書でも同じように語られています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」ローマ7:24

・主なる神に信頼する
 「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。」エレミヤは人間ではなく、ただ主なる神にだけを信頼することが祝福の道であることを明示します。信頼するとは、身も心も全面的に委ねきることです。もともと人は神によって創造された者であり、心も神にのみ信頼することで平安を獲得し、また生活全般においても祝福される存在なのです。

2017/9/24 ヘブル12:18~28 大祝会に近づいて



・キリスト者の将来
 すべての人間に人生の限りがあるように、キリスト者の生涯にも限りがあります。このことは、召天された兄姉のことを思うときに、再認識させられます。
 しかしみ言葉によれば、他の人々とはまったく異なる未来が約束されています。地上の人々の将来に対する思いは恐れと不安だとすれば、キリスト者の将来は、希望と喜びです。

・大祝会に近づいて
「しかしあなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです」
「あなたがた」とは召天者であり、今、キリストを信じる者たちのことです。地上のシオンも、エルサレムも仮の都にすぎません。天の都こそが神臨在のコミュニティーでです。また「大祝会」とありますが、そこでは喜びと生命の充満があることを意味します。

・待望する
 私たち地上に生きるものたちには、当然、地上の生命に対する多少の執着と未練があります。しかし召天した兄姉のことを覚えて、地上の生命は過ぎ去ることを直視し、さらにすぐれた天の喜びに対する待望心を養いましょう。

2017/9/17 敬老の招待礼拝 イザヤ46:3~4 白髪になっても

・「わたし」…神
 人間には生まれてから死ぬまで、私たちの近くにいる存在があります。父母、兄弟、友人、伴侶、子どもなどです。私たちは、その人々に支えられて成長し、生活してきました。しかし神ご自身が「あなた」に対して語りかけ、「わたしに聞け」と語り、主なる神ご自身が、あなたのもっとも近くにいる存在者であることを示しています。

・「あなた」を担う神
 神は「・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ」と語りかけています。母よりも前から、誰よりも近くにあって、「あなた」を担う方、運ぶ方としてご自分を啓示します。目には見えませんが、人生のすべての局面において神こそが愛と恵みの計画を実現するために、あなたを担ってくださっていたということです。

・「あなたが白髪になっても」
あなたがたが年をとっても、あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」とあります。
 年をとり、白髪になると、健康に不安を持ち、将来を憂うのですが、それを払拭するように神は「あなた」に対しても語りかけておられます。というのは、神は「あなた」を担う者、愛する者として、選び定めておられるからです。そこで「あなた」の側では、ただ心から信頼して、委ねきることだけが求められているということです。


2017/9/10  1コリント13:1~8 「愛は絶えることがない」

・愛がないなら
 婚約式の前に、夫婦関係についてお話しします。テーマは「愛」についてです。1コリント13章は教会の交わりだけではなく、夫婦関係についてそのまま適応できます。13節では「愛がないなら」という言葉がくり返し語られ、「何の値うちもない」「何の役にも立たない」と結論づけられます。結婚して夫婦になることで、色々な目標を持つのですが、「愛がないなら」「何の値うちもない」ということになります。

・愛の実際
 パウロがここで言っている「愛」とは、観念的ではなく、隣人に対する「愛」です。夫婦の場合は、それぞれ目の前にいる伴侶ということになります。愛は、その具体的な関係の中でのみ形づくられます。「愛は寛容であり、愛は親切…」とあります。それはどちらも自分勝手を押さえて、相手を受け入れる態度です。「すべてをがまんし…もまた、自分の直情的な怒りを抑えて、相手を建て上げることを第1とする態度です。それは生来の人間には不可能なのですが、それでもキリストの愛の中で、達成しようと志すことが大切です。

・愛は絶えることがない
「愛」は決して華やかなものでなく地味なものです。しかし「愛は決して絶えることがありません」と断言します。互いに不完全で異なる者どうしが、夫婦となります。神はそこで完全、永遠の価値を作ってくださるのです。


2017/9/3 エレミヤ10:1~16,16:19~20 主に並ぶ者はない



「異邦人の道を見習うな」
 エレミヤは断固として「異邦人の道を見習うな 」と語ります。それは偶像崇拝のことで、それ自体がむなしく、実態のないものだからです。実際にそれらは「かかしのようで、ものも言えず、歩けない」のです。私たちの社会に存在する神仏の像もみな木偶の坊で、私たちは決してそれらを見習ってはならないのです。

・主に並ぶものはない
あなたに並ぶ者はありません 」とエレミヤは告白します。聖書の神は唯一絶対者で、天地創造者です。また歴史を導く方で、他に神はいないのです。また何ものよりも「大きい」方で、存在においても、力においても、ご性質において、何ものよりも優れているのです。エレミヤは、自分の国が滅亡の危機にある中でも、神についての信仰告白は決してぶれることはなかったのです。

・諸国の民は来て
 諸国の民は地の果てから来て「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。」と言うことを預言しています。確かにエレミヤの時代から数百年後、多くの者たちが地の果てから来て、その告白をしてきました。エレミヤの預言の通りになったと言うことです。

 そして私自身も、神の御許に導かれた「諸国の民」「地の果て」のひとりですが、まったく同じ告白をせずにはおられません。主なる神こそが比類無き神、真実の神です。

2017/8/27 エレミヤ4:23~28,14:20~22 絶望と希望



・天地と虚無
「私が地を見ると…形もなく、何もなく」とあります。エレミヤは神の裁きの結果、単にユダヤ一国の滅びだけではなく、天地そのものが虚無と化すことを預言します。人間もまた神の怒りによって、消えてなくなり、その生活環境も虚無と化している様が描かれています。

・罪と絶望/虚無
 人間の罪の結果、世界が崩壊し虚無と化すことについて、聖書は一貫して示しています。ノアの方舟のはなし、ソドムとゴモラの滅び、そして最後の審判です。それは誰も推測できないほど徹底したものです。しかし預言者エレミヤは特別な啓示によって、まざまざとしたかたちで知らされています。そのことは、預言者自身の心を甚だしい絶望と虚無に陥れることになります。
・神と希望
 そのエレミヤは、どのようにして絶望と虚無感から立ち直ることができるたのでしょうか。それはただ、神の全能性と良さ(恵み)を知らされ信じたことによります。人間の本質について知ればしるほど、人は絶望します。ただ神の本質を知り信じることによってのみ、人は希望をもつことができるのです。
 「私たちはあなたを待ち望みます14:22。「イスラエルの望み」17:13とありますが、これらはエレミヤの必死の信仰告白です。そして、エレミヤの生涯の中で、次第に、希望の萌芽に、さらに花と実を造っていくことになるのです。
 私たちの21世紀は繁栄を誇っていますが、人間の罪と限界を知り、人の心には絶望と虚無感が宿っています。この時代に、私たちも強固な希望を宿し、証ししていきましょう。