2017/5/28 ピリピ3:17~21 天を待ち望む



・十字架の民と敵
 パウロは「私に見ならう者になってください」と語ります。正しい福音を知ると同時に、福音的な生活スタイルを身につけることの大切さを訴えているのです。というのは「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです」とあります。その敵とは、ユダヤ主義たちのことですが、それだけではなく、世に執着する生き方すべてを指しています。

私たちの国籍は天
 「私たちの国籍は天に」とあり。「国籍」とは自分の母国であり、やがて立ち返る国です。人はどこにいたとしても、その生活スタイルから離れることはないのです。ちょうどそのようにキリスト者の国籍は天国ですから、地上にあってもその生活スタイルを失うことはなく事柄に執着することなく、 地上では旅人のようにして生活するのです。

・再臨と待望
 私たちは天に戻ることを求めて生活しますが、それが実現するのは主キリストの再臨です。その時に、神の恵みによって私たち自身に救いが完成し、私たちの卑しい体が栄光の体に変えられるのです。
 そこで地上に生きる私たちに求められることは、何よりも「待ち望む」信仰姿勢です。この言葉は、キリスト教独自の言葉で、自分の外からのものを切実に待ち望むという意味です。この待望感が、地上のキリスト者を神の民として、なによりも輝かせるのです。

2017/5/21 ピリピ3:12~16 栄冠を得るために



すでに得たのでもな
 「私は、すでに得たのでもなく…」とパウロは語っています。地上の信仰生涯では決して、私たちがキリストを完全に捕らえるとか、信仰者として完成されることはないことを明確にしています。むしろ、人生の節目節目でキリストが信仰者を捕らえてくださり、励ましてくださるのです。

・後ろのものを忘れ
うしろのものを忘れ前のものに向かって」とございます。「うしろのもの」とは地上での権利、名誉、功績、財産などを意味します。それは信仰的には意味をなさないのです。「前のもの」とはキリストご自身とその栄光です。必死に、前に向かい、未来に向かう信仰姿勢が大切であることを示しています。
・栄冠を得るために
 「神の栄冠を得るために一心に走って」とあります。「栄冠」とは神が天で与えてくださる救い、相続、永遠の生命、キリストの愛、すべてのことです。誰かと競争するというのではなく、相手は自分の不信仰と地上の執着のみです。ただ天の目標を一心に目指す者たちだけが「栄冠」を受けるのです。
 私たちの信仰心を引き締めて、キリストの愛を信じて、希望を持って日々、進むことが大切です。

2017/5/14 Ⅰテサロニケ2:6~8 母と優しさ



・母と優しさ
 使徒パウロは、教会を建て上げるときに、母親を模範としました。「母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました」とあるとおりです。「優しく」とは、「小さい者、無力な者のようになって」、あるいは「子どもと同じようになって」ということです。自分を低くする中で、柔和と優しさが表現されるのです。母親とは、まさにそのようにして子育てをするのです。

・生命を与えるほどの愛
 「自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思った」とあります。強制や義務だけではなく、人に対する愛と自発的な犠牲の思いです。母親の子どもに対する愛はそのような愛です。それは自然に備わったものと言うよりも、母のうちに養われた愛です。キリスト信仰は、母親のうちにその愛を養います。
 以上のことから、母親の愛は自分を低くする愛、犠牲の愛であることがよく分かります。よって、子である者たちは、ただただ母たちに感謝するべきです。

・母の愛と神の愛
 しかし母の愛も、限りがあります。人を最終的に育てるのは神の愛のみです。そこで母は、子どもを神にゆだねつつ祈ることが大切であり、子どもは母の愛に依存するのではなく、神の愛に目覚める必要があるのです。神は母親を育てる器とし、また神の愛を指し示す道しるべとしているのだと思います。   を

2017/5/7 ピリピ3:8~11 キリストを知るすばらしさ



・キリストを知るすばらしさ
 私たちの世界には色々な価値観があります。しかしパウロは「キリスト・イエスを知っていること」が何よりも「すばらしい」と断言します。
 パウロが示す「キリストを知る」とは、肉的にキリストを見て知るということではなく、霊とみことばにより知ることです。それは頭で知るということより、むしろ深く交わって人格的に深く知るということを意味します。

信仰により知り知られ
 また「キリストを知る」ことは、行いによるのではなく、信仰による義に基づくことを明確にしています。それによって「キリストを得」「キリストの中にある者と認められ」るのです。
 また「キリストを知る」とは、ダイナミックに知るということも意味します。つまりその復活の力を知るということであり、苦難にあってはキリストの苦しみにあずかるということです。

・復活を目指す
 また「キリストを知る」ことは地上においてその苦難と復活の力を味わうということだけではありません。たえず世の終わりの完成に希望を抱いて生きる生き方です。地上においても、キリストを知り、キリストを得るということがあるのですが、それはごく一部です。その完成は世の終わりであり、そのとき私たちは死者の中から完全に復活して面と向かって交わることになります。