2014/6/22 ヨハネ福音書7:37~53 生ける水の川



祭りの大いなる日
 「祭りの大いなる日」とは仮庵祭の最終日です。この日は荒野で水が与えられたことを記念として、シロアムの池から水がもたらされ、イザヤ12:3の預言に従って喜び楽しみ、踊ったそうです。しかし、この祭りは過去を追憶する日である以上に、未来のキリスト到来の予型でした。

・主イエスの招き
誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。この日に、主イエスが神殿に立って語った言葉です。この言葉を通して、ご自分がキリストであり、永遠の生命の水がご自分のうちにあることを宣言して招いています。この時に、まず必要とされているのは魂の渇きです。人はこの世の快楽で満足してしまいますが、魂を見つめるなら、すべての人は、はなはだしい渇きの状態です。その渇きを自覚して、主イエスの下に行くことが大切です。

・生命の水の川
「わたしを信じる者は、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とあります。「生ける水の川」とは、人を心の奥底から生かす水ということで、普通にH2Oの水とは異なります。「川」とあるように、その水は巨大な泉がつくる川のようで、ふんだんに流れ出て、尽きることがないと言うことです。
 この水とは御霊のことで、それはイエスを生かしている神の霊です。御霊は絶えず、信じる者の罪をきよめて新生させ、その人を喜びと楽しみで満たします。

2014/6/15 父の日招待礼拝 Ⅱコリント1:3~4 慈愛の父 恵みの神

・聖書における神像
 聖書の神観は、私たち父親の原型としての側面があります。その神は、創世記では、神は、天地の創造者として描かれ、さらに出エジプト記では、律法の賦与者で違反者を罰する審判者として描かれます。しかし、預言書や詩篇には「私たちの父」という表現が出てきます。それは単に厳しい審判者としての父親像ではなく、むしろ苦しみ叫ぶ者を顧みて憐れんでくれる父としての姿です。

・慈愛の父、恵みの神
 この神観は、主イエスの贖いを受けた人々に対してさらに明確になります。Ⅱコリント一章で使徒は次のように記します。「慈愛の父、すべての慰めの神」。「慈愛」とは、痛みや悲しみを覚えている者に対して、心を傾け、深い同情心を覚えることです。「慰め」とは、近くにいて相手の立場に立って、慰めと励ましの言葉を与えることです。
 神は厳しく、遠くにいる存在のようにイメージしがちですが、これがキリストを通して明らかにされた父としての神の姿です。

・私たちも慈愛と慰めの父に
 この世界に生きる人間は、常に孤独で心傷ついている者です。私たちの子供たちも同じです。その子供たちに対して、私たち父親が、神に学び、神に真似て「慈愛」と「慰め」を与える者となることができます。それによって、私たちの子供たちと社会が、大変な癒やしを受けることになると信じるのです。


2014/6/8 ヨハネ福音書7:26~36 何処から何処へ



・戸惑いと躓き
 ユダヤ人たちは主イエスの教えに驚きながらも、戸惑いと躓きを覚えます。それは主イエスの出生が地上であるのに、どうしてイエスがキリストであるはずがあろうというものでした。彼らは神のキリストは、人間であるはずはなく、突然、天から現れる神の子という考えを持っていたからでした。

・イエスは何処から
わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたとあります。確かに、主イエスは女から生まれ、地上で育ち地上で生活している人の子でしたが、その霊においては、神から生まれ、神によって遣わされた者です。この霊の側面こそが主イエスの本質です。

・イエスは何処へ
それから、わたしを遣わした方のもとに行きます」。主イエスは、しばらく地上にいますが、それから、父の神の元に戻るということです。父の神の元こそが主イエスの故郷です。
 つまり主イエスは地上にしばらく留まることによって、ご自分の民を贖い、彼らに永遠の生命を与え、そしてご自分のおられる天に彼らを導くのです。

・私たちは何処へ
 「何処から来て、何処に行くのか」という問いに対して答えを持つことは、私たちの現在の生き方を意味あるものにします。私たちは、キリストを信じることで、確かに地上から出た者ですが、今は、キリストと共に天に向かう者とされています。この展望をいつも覚えて、それに相応しい歩みをしていくのです。

2014/6/1 ヨハネ福音書7:10~24 福音の真実



・「内密」
 主イエスは「公にではなく…内密に」祭りに上ったことが記されています。主イエスの日常生活における基本スタイルは「内密」「隠れて」でした。このあり方は、旧約聖書以来、神と御業についても同様で、世の人の目には「隠れている」という性質を持っています。

・教えと当惑
 祭りの最中、主イエスが公然と「宮で教え始められた」とあります。その教えは旧約聖書をご自身の解釈でもって語ったもので、いわゆる福音です。ユダヤ人たちは、主イエスが「正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか」と当惑しました。聖書に基づきしかも理路整然とした語り方だったのです。

・福音の真実
「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のもの」と主イエスは語ります。
「わたし」とは人としての側面での「わたし」ということです。 しかし他方、主イエスは神によって生み出され「遣わされた」という神として側面を持ちます。従って、主イエスの教えは人間的な知恵によるのではなく、隠れた神の教えです。

・信仰によって明らかに
  現代では多くの人々が主イエスの福音を知り、興味を持っていますが、福音の真実を知るためには、ただ見て聞くだけではなく、実際に信じることが大切です。その時に、たとえ試練のただ中にあっても、福音に啓示されている神の恵みと愛を存分に知り、満たされる者となるのです。