2010/1/24 「子どものように」が条件 マルコ10:13~16


・「子どもたちをわたしのところに」
 人々がイエスの元に子どもたちを連れてきたときに、弟子たちは彼らをしかりました。弟子たちの考えでは、子どもたちのような社会的にも、能力的にも取るに足らない者は、王であるイエスのもとに来る資格がないと考えたのです。
 しかし主イエスは弟子たちの態度に対して憤っていわれました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。」と。

・神の国は地上の国と異なる
 地上の国では、どこに加入するにも人間の力、資格、能力、財産、経験などが求められます。それらは自分を高ぶらせますが、神を崇めることはないのです。
 しかし神の国では、あらゆる面で地上の国の原理とは全く異なります。神の国は、主イエスと御業によってもたらされ、神と恵みが支配します。そこではかえって、人間の力、能力、経験、功績などは、邪魔で妨げになります。むしろ子どもたちのように、自分の無力を前提に、恵みを信じてただ受け取る姿勢が大切になります。

・神の国は「子どものように」が条件
 「子どものように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこに、はいることはできません」
 神の国に入るには「子どものように」が条件になります。それは自分の功績、経験、能力は、除外すること。むしろ自分の前に提供されているイエスと御言葉を、恵みのプレゼントであるとして、受け入れると言うことです。神の国の「みことばはあなたのちかくにある」(ローマ10:8)からです。

2010/1/17 夫婦のきずな マルコ10:1~12


・頑なな時代の夫婦関係
 モーセ律法の時代は、人々の心が頑ななために、仮の夫婦の規定が定められていました。その1つが離別についてです。申命記24:1にあるように妻に落ち度があったときに離婚状を書いて離別することが許されていたのです。
 また妻は夫の所有物のように取り扱われる面がありました。そこでは夫婦本来の人格関係は見失われます。

・夫婦のきずなの回復
 主イエスはパリサイ人らの質問に答えて、新しい夫婦のきずなについて語ります。それは創造の秩序の回復であるとともに、愛に基づく新しい夫婦関係です。
 神は人を、男と女とに創造されました。両者は性の違いがありますが、互いが神の形と尊厳を持ち、人格的に対等な存在です。夫婦としての男と女も同様です。夫婦の場合は何よりも深い人格的きずなで結ばれるものとして出会わされるのです。「一心同体」と言う言葉は、そのことを示します。

・新しい夫婦のきずな
 夫婦の創造の形は、主イエスを通して新しい生命と愛が注入されます。主イエスは十字架の死を通して神と人との愛のきずなを回復されました。この愛=アガペーをまずは、夫婦の間で育まれます。
 生来の人には、エロスとフィリアの愛があります。どちらも自己中心的な愛で、自分がよしと思うときだけ好意を持つ愛です。しかしアガペーの愛はそれらの超えた愛です。
 夫と妻はすべてにおいて違う人間です。そこで対立や葛藤が生じることもあります。その違いもアガペーの愛を育てる契機となるのです。

2010/1/10 イザヤ42:1~3 理想の人


・理想の人
 現代は価値観を見失い、同時に理想の人間像を喪失した時代です。聖書は神が求める「理想の人間像」を提供しますが、イザヤ書42章の「しもべ像」もその1つです。「しもべ」はメシヤ(キリスト)御自身ですが、また彼を信じて「神の子とされた人々」に対して神が求めておられる人間像です。

・自己中心を否定
 42章前半で、イザヤは「しもべ」について、7つの否定形を用いています。それは人間的な荒々しさや、虚栄、気ままさ、自己中心などの否定を意味しています。肉的な態度の徹底的否定を通して、神の「しもべ」像を浮き出させているのです。
・優しさ
 この中で注目されるのは「彼はいたんだ葦を折ることもなく・・・」という姿です。痛んだ葦は少しの刺激で完全に折れてしまいます。「くすぶる燈心」は少しの粗雑さで消えてしまいます。人間はみな痛んでおり、弱さを持ちます。しかし彼は人間の弱さを知り、限りない優しさを持つ方なので、さらに痛めることなく生命を新生させるのです。

・忍耐
 「彼は衰えず、くじけない。」時代の中で神の御心を遂行しようとするときには、色々な困難が伴います。そこで衰えそうでも衰えず、くじけそうでもくじけない忍耐力としぶとさが必要なります。それはただ神に信頼し切る信仰心から生まれます

2010/1/3 主を待ち望む イザヤ40:27~31


・現実とつぶやき
 「なぜ言うのか・・」とイザヤは人々のつぶやきを指摘しています。人々は目先の現実ばかり見て困難を覚え、つぶやいていたのです。
 私たちもただ目先の現実だけにとらわれていたら、いつの間にか、自分の心は呟きと不安と不信仰の巣と化してしまいます。

・永遠の神を見上げる
 「あなたは知らないのか・・・主は永遠の神」。信仰者が忘れてはならないことは、神の言葉を聞き、神に教えられ、神を見上げると言うことです。その時に肉眼で見て早合点した現実とは異なる世界が見えてきます。神は永遠の神であり、人間の思いと力を遙かにこえた方です。
 御自身が永遠であるだけではなく、神の民にその力と生命を与えようとしておられる方なのです。それは神が民にとって恵み(ヘセド)の神であると言うことです。「疲れた者には力を与え」るのです。

・主を待ち望む
 神の恵み(ヘセド)に対して、私たちはどのような誠実(ヘセド)を示したらいいのでしょうか。それはただ「主を待ち望む」という信仰姿勢のみです。主を信じ続けると言うことです。色々な困難がやってきますが、その中で信じ続けることで信仰は鍛えられていきます。

・鷲のように翼をかって
 イザヤは主を待ち望む者がどのような恵みと生命を受けるかについて見事なイメージを提供します。それは空飛ぶ鷲です。鷲の羽は傷ついたときなど自然と抜け落ちます。完全に回復するまでに数ヶ月かかりますが、その間、じっと待ち続けるのです。回復した羽は、以前よりもつやがあり、力ある羽となります。丁度その鷲のように、主を待ち望む者は恵みの気流を一杯に受け上昇するのです。