09/3/22 12弟子の任命 マルコ3:13~19

・12弟子の任命
 主イエスは、山の上で12弟子を選んで任命しました。人の思いではなく、神の選びであるということを覚えさせるためでした。彼らが選ばれたのは、能力があるから、人格が立派だからというのではありません。むしろ小さい者であるがゆえに、神の恵みの対象となったのです。
 また12という数字は、神の民の完全数を象徴します。主イエスは彼らを後継者として定めて、ご自分の福音宣教を担わせ、彼らを通して新しい神の民を集めるためでした。

・12弟子の務め
 第1に12弟子の務めは、イエスの身近にいることです。共にいることで福音を学び、交わりを通して霊を受け、イエスに似た者とされるのです。
 第2に、遣わされて福音宣教をすることです。彼らはイエスによって直接に派遣されました。それ故に明瞭な召命感をもって、生涯を福音宣教に捧げます。どのような時にも「立派な足」として赴き、神の臨在を覚えて語ったのです。
 第3に「悪霊を追い出す」という勤めを持ちます。地における支配者は悪魔であり、悪霊が跋扈します。弟子たちは福音宣教を通して神の国を伝え、事実、「地にもなさせたまえ」という祈りを実現するのです。福音宣教と彼らの働きの一切は、悪霊の力を打破するのです。

・弟子たちの実際
 弟子たちの名が列挙されています。どの名を見ても、元々すぐれた者はいません。ただみな誠心誠意、イエスを信じて従っていこうとする人々でした。弟子たちは、それぞれ神のお取り扱いの中、立派な12弟子となっていきます。ただユダだけは完全に悪魔に心を奪われて裏切ることになります。
 私たちもイエスの弟子です。神の選びを無にせず、精一杯、従いましょう。

09/3/15 安息日の主 マルコ2:23~28

・安息日
 モーセの十戒の第4戒に安息日を聖として、守るように命令されています。福音書時代のユダヤ社会では、宗教的熱心のあまり、人間の疎外問題を起こすほどに厳格に命令されていました。仕事をすること、火を灯すこと、調理することなど、一切が禁止されていたのです。

・麦畑で
 ある安息日に、主イエスの弟子たちが麦畑を通っているときに、穂を摘み始めました。当時のユダヤの慣習では、禁じられていることでした。律法を厳格にとらえるあまり、ひもじかったとしても、禁止していたのです。 しかし主イエスは弟子たちがなしていることは違法ではないことを宣言します。キリストがそこにおられると言うことで、律法が支配する世界から恵みが支配する世界に弟子たちが移されているからです。

・安息日の主 
「人の子は安息日の主」とあります。人の子とは、神から遣わさる救い主キリストのことです。彼によって律法の儀式や掟は撤廃され、全く新しい世界がもたらされたのです。 このことは、すべての社会において実現した恵みの支配です。キリストがおられるところでは、人間の生命のためには、すべてが許され、恵みが支配して、満たされ、癒され、養われるべきなのです。

・私たちの社会でも
 私たち日本人は、規則にとらわれてしまう国民です。しかし不完全な規則以上に、人間の生命が重んじられるべきなのです。それは肉の生命と霊の生命の両方です。

3/8 新しい皮袋に マルコ2の18~

・花婿と友人のたとえ
 主イエスは弟子たちの信仰スタイルと他の宗教集団のスタイルとが違う理由を尋ねられた時、いくつかの譬えで理由を説明します。
 「花婿と友人のたとえ」では旧約の律法主義よりも優れた喜びの大きい新世界をキリストがもたらしたことを示します。昔も現在も、友人の結婚式といえば、会社も誰もが休暇を認めます。友人は花婿とともに、喜びの宴会に加わることができます。

・着物とぶどう酒のたとえ
 次に「着物とぶどう酒のたとえ」では、ミスマッチの危険性について忠告しております。「新しい継ぎ切れ」は、縮むので古い布地に継ぎをすることはありません。「新しいぶどう酒」は、発酵するので、古い皮袋に入れることはありません。そんなことをすれば、ぶどう酒も皮袋も台無しになります。
 主イエスはたとえを通して、ご自分がもたらされた新しい世界は、生命に富む世界であり、古い型にはめることができないことを示します。

・新しい皮袋に
 主イエスがもたらした新しい世界というのは、福音による聖霊と生命の世界です。それは信じる者すべてに与えられる「神の子」としての霊と生命です。それぞれの信仰者は、神の子として自律の心と自発の心を持ちます。それ故、それぞれの自由が最大限に尊重されるべきであり、それに合わせて、教会は柔軟な信仰スタイルと交わりを作るようになるべきなのです。
 時代は、大きく変化していきます。教会は、常に一人一人の内に働く聖霊によって、それにふさわしい「新しい皮袋」を作るのです。

3月1日 罪人を招く主 マルコ2:13~17

・取税人レビ
 レビは後のマタイです。主イエスと出会う前は取税人で、社会から罪人として疎外されたいた人物です。彼も罪意識の中に放置されていましたが、惰性と執着心、さらには社会の拒絶ゆえに、そのどん底から抜け出ることはできないでいました。

・主イエスの招き
 主イエスは彼をご覧になりますが、そのまなざしは優しさとあわれみに満ちています。「わたしについて来なさい」との招きもまた、罪人を無条件に受け入れる優しさと力ある言葉でした。レビは、その招きに応答して「立ち上がって従」います。神の言葉に対する応答は、彼を新しい人に創り変え、罪人として捨てられたものから、神に愛される子にします。

・パリサイ人たちと罪人たち
 レビは主イエスを自分の家に招き、仲間の取税人たちと共に食卓に着きます。それを見たパリサイ人たちは、主イエスを批判します。パリサイ人たちもまた、神の前では同じ罪人です。さらに悪いことには、彼らは自己義認しているために、自分が罪人であることに気がついていません。社会的に罪人されて罪意識の中にある人よりも、手が悪い輩と言うことになります。

・罪人を招くため
 「罪人を招くため・・」
 病人達は、病を自覚するゆえに医者の所に行きます。医師は任された生命を精一杯の努力で救おうとします。丁度同じことが主イエスと私たちの関係です。主イエスは罪人の私たちを絶えず招きます。私たちが自分の罪の深刻さを自覚するなら、その招きに答えずにはいられないのです。