2021/12/26 詩篇18:25~34 神、その道は完全

 ・全き者には、全き神
「あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ…」
 私たちが、神が導いてくださった一年を振り返るにあたって大切なことは、神に対する誠実(恵み深さ)と全き姿勢です。またきよい信仰の目です。ちょうど鏡のように、神に対する全く清い姿勢を持つときに神は正しく見え、曲がった姿勢のときに、神はネジ曲がって見えるからです。

・神、その道は完全
「神、その道は完全。主のみ言葉は純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」
 ダビデは、彼の人生を振り返り、あらためて、神の素晴らしさを全面的に告白しています。神が導かれる道は完全で、欠けがなく誤り導くことがないということ。主なる神のみことばは、ちょうど純金のように不純なものが混在しておらず信頼できるということ。そして、主なる神は身を避ける者にとって完全な盾であるということです。

・この神こそ 私に力を
 ダビデは過去を振り返って、神についての確信を強め、さらに未来に対する展望をいだいています。つまり未来についても、神は「私の道を完全にされる」と。それだけではなく自分自身が神によって強められて歩むことも告白しています。
 私たちも一年を振り返って全き神を告白し、新年に向かって「この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる」と信じましょう。

2021/12/19 マタイ福音書2:1~12 博士たちの礼拝

 ・東方の博士たち
  ヘロデ王の時代に東方の博士たちがエルサレムにやってきたことが記されています。この博士たちは、マゴス、マギなどと呼ばれた学者たちで、占星術と古今東西の学問に通じた人々でした。しかし彼はそれらに真理はない事を悟り、ユダヤの預言を探り求めました。そのときに、ユダヤ人の王キリストの誕生を知らせる星を見つけたのです。聖霊は真摯に求道する者たちにあらゆる方法を通して導きを与えるのです。

・「ユダヤの地、ベツレヘム」
 博士たちの来訪に、ヘロデ王と人々は「恐れ惑った」とあります。彼らは虚しい栄光に甘んじて、真実の変革を嫌っていたのです。
 しかしヘロデ王の元に集まった祭司長らは旧約預言からキリスト誕生は「ユダの地、ベツレヘム 」と特定します。そのみ言葉に従った時、博士たちは例の星によって「幼子」の元に導かれています。

・博士たちの礼拝
 博士たちは「母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ」とあります。彼らは富と地位を持つ誇り高き人々でしたが、幼子をキリストと信じて礼拝したのです。
 「宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」。礼拝は心と態度だけではなく、捧げものを通して真実となります。礼拝(worship)とは「価値がある(worth) 状態(ship)と辞書にあります。彼らの礼拝こそキリストに捧げるにふさわしいworshipです。

2021/12/12 マタイ福音書1:1,1825 処女降誕とインマヌエル

 ・キリストの系図
 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図 。」
 マタイ福音書では、キリストは神の恵みの契約のとおりに到来したことを系図を通して示します。しかも系図の中にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻というふうに異邦人また曰くあリの女性たちの名前が含まれています。これらによって、神の恵みは、人間の思いや常識を超えた形で実現したことを明らかにしています。

・処女降誕
 「母マリヤは…聖霊によって身重になった」とあります。聖霊は三位一体の第三格の神ご自身です。マリヤに起こったことは、旧約聖書が待望する救い主キリストの懐胎でした。しかし夫ヨセフは不可解に思ってつまずき、彼女との離縁を心で決めました。

・インマヌエル
 しかしなおヨセフが「思い巡らしていた」とあります。マリヤに起こったことを恵みと全能の神の御前で深く考えたのです。そのときに「主の使いが夢に現われて」真実を告げられ、結局、彼はマリヤを娶ることになったのです。
 「その名はインマヌエル(With-us-God)」とあります。名は体を表すと言われる通り、彼はマリヤとともにインマヌエルを受け入れる事となり、そればかりではなく民すべてのために救いの扉を開く役割を果たしたのです。

2021/12/05 ルカ福音書15:1~10 捜し求める神

・捜し求める神
 主イエスが取税人や罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにしているのを見て、パリサイ人らが非難しました。そこで主イエスは、2つのたとえ話を通して、ご自分の使命とは何か、またご自分を遣わした神の姿は何かを示しています。それは失われた罪人を捜し求める神の姿でした。

・一匹を捜す羊飼いのたとえ
 最初のたとえは迷子になった羊を捜す羊飼いのたとえです。彼は99匹の羊を野原に残してでも「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩」くという話です。羊飼いとしての愛の本性は、失われた羊に向けられ、どこまでも捜し歩くということです。「見つけたら、大喜びで…」とありますが、いつの場合でも喜びは、真実な愛の果実です。

・銀貨を捜す女の人のたとえ
 もう一つは、銀貨を失った女の人のたとえです。彼女はなくした一枚のために「見つけるまで念入りに捜」すというのです。9枚残っていても失われた1枚を貴重とし、それに執着するのです。そしてこの場合も「見つけたら」自分だけにとどまらず近所の人々まで呼んで喜びを分かちあうのです。

・罪人の悔い改めを求める神
 以上のたとえを通して、神は「ひとりの罪人の悔い改め」を切に求める方であることが示されています。それが神の愛の本性であり、そこにいつの場合でも神の喜びがあり、また「神の御使いたちに喜びがわき起こる」のです。