2022/8/14 ルカ福音書22:31~38 イエスの執りなし

 ・サタンの試み
 「シモン、シモン」と主イエスはペテロの元の名を呼んで、サタンの試みについて予告しています。彼は第1の弟子との自覚を持っていましたが、なおその信仰は肉的側面が多かったのです。
「サタンが…ふるいにかけることを願って聞き届けられ」とあります。これまで彼らは主イエスの恵みのバリヤーのもとにあったのですが、一時的にそれがることを神があえて許されたということです。不可解ですが、試みの中で人は、より真実な信仰を宿すからです。

・イエスの執りなし
「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈り」とあります。主イエスの執りなしの祈りはサタンの訴えよりも優先されます。そして主イエスの恵みは、試みの中で、より深く作用するのです。そもそも主イエスの苦しみと十字架の死は、私たちの大祭司となるためのみ業でもあったからです。

・兄弟たちを力づけるため
「だから…立ち直ったら、兄弟たちを力づけて」とあります。先に、キリストの執りなしとあわれみを受けた者は、自分でも、人を思いやる賜物を獲得することになります。その賜物で、兄弟たちを力づけることが使命であるということです。
 私たちの時代でも、サタンの試みがありますが、その中でも主イエスの執りなしとあわれみは最強です。それによって立ち直った者たちは、他の兄弟たちを力づける使命を担っているのです。

2022/8/7 ルカ福音書22:24~30 神の国のリーダー像

 ・だれが一番?
 「この中でだれが一番偉い?」とあります。主イエスの弟子たちはもうすぐ神の国が実現すると思い、そのときに、自分たちの中でだれが一番優れていて、リーダーとなるのにふさわしいかという論議していたのです。
 主イエスは「だれが一番偉い」という論議自体を否定することなく、まずは、神の国のリーダーは、この世の王たちやリーダーたちとは、異なることを明確にします。

・神の国のリーダー像
 次に神の国のリーダー像について語ります。「一番偉い人は一番年の若い者のように」「治める人は仕える人のように」と。「仕える」とは、自分を低くして他の人の必要に応えるということです。
 主イエスは、ご自分のリーダーとしての本質は、それであったことを示すために、この食事の席であえて腰に手ぬぐいを下げて、弟子たちの足を洗っていたのです。

・神の国の王権
 「あなたがたに王権を与えます」とあります。 主イエスが父の神から受けた王権を、使徒たちもまた主イエスとともに受けるということです。その権威は、今の時代でも、隠れているのですが、たしかに聖霊によって現れるのです。
「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」Ⅱテモテ2:12とあるとおりです。

2022/7/31 ルカ福音書22:7~22 過越の食事

・過越の食事
 主イエスは弟子たちに過越の食事の準備をさせましたが、弟子たちが行ってみると神によって聖別された客間が用意されていました。
 主イエスはその過越の食事を切望していた事を証し、それが十字架前の最後の食事であること、また未来の神の国での再会を約束する食事であることを示します。

・主の聖餐
 主イエスが次に示されたのは、主の聖餐でした。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだ」とみ言葉を語ってから、パンを弟子たちに与えています。ここに十字架と復活という御業の意味が明確にされ、霊的に提供されています。
 「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約」とあります。ブドウの杯も、み言葉とともに与えられています。それはパンの場合と同様、見えるみ言葉として提供されています。「新しい契約」とは、律法による旧約ではなく、キリストによる恵みの契約ということです。

・信仰が大切
 この聖餐について、カトリック教会では、キリストの体と血が化体したもので、キリストそのものとします。そこでは信仰は軽視され、霊的な意味も失われがちです。
 聖書では、パンとブドウの杯は、あくまでも象徴で、それを信仰によって受けることが大切であることを強調しています。信仰によらなければ、ユダのように滅ぶのです。