09/08/02 パンと魚の奇跡 マルコ6:30~44


・パンと魚の奇跡
 主イエスはご自分がモーセ以上のメシヤであることを示すためにパンと魚の奇跡をなさいます。人々を組にして青草の上に座らせてから、手元にあった五つのパンと二匹の魚を取り、「天を見上げて祝福を求めて」配りました。そこに恵みの奇跡が起こり、男だけでも五千人の人々を満たしたのです。
 極度の欠乏の中にあった人々は、辺鄙な野原で主イエスを通して思いもよらない恵みの体験したのです。

・イエスの生命とみ言葉の配給
 この奇跡は第一に神の言葉の配給を象徴します。「神の言葉」は単なる言葉ではなく「イエスの生命」そのものです。それが人々に語られるときに大勢に生命を与え、さらに生命は伝播します。
 教会での礼拝は神の言葉が語られ聖餐が守られる場ですが、この本質はキリストの生命の配分です。そこに神の恵みの奇跡が伴います。

・神の交わりの拡大
 第二に交わりの拡大を意味します。交わりはコイノニアと言いますが、共なる食事、物のやりとり、共同の奉仕、愛の交流、宣教協力などの意味が含まれます。キリスト中心の交わりでは、わずかな食物/賜物/奉仕/人から始まって、それらが増え拡大するのです。そこにも神の恵み、奇跡が現されるのです。

・原則は感謝と祝福
 これらの恵みと奇跡の場には、必要な要素が1つあります。それは「祝福」と「感謝」です。祝福とは直訳「よい_言葉」です。与えられた御言葉/食物/賜物/人々を自分たちでも「良し」として、さらに神に対しても「良し」としてくださるように祈ることです。私はそのような交わりには現代においても恵みの奇跡が起こると信じています。

09/07/26 聖者と俗悪人 マルコ6:14~29

・俗悪人・・・ヘロデ王
 ヘロデ王はガリラヤ地方の統治者でした。不法に兄弟の妻と結婚する罪をヨハネによって非難されていましたが、敬虔な気持ちが幾らかあり、ヨハネに保護を与えていました。しかし、敬虔より体面を重んじる人間でした。彼は、人々の手前、ヘロデヤの娘の申し出を断ることができませんでした。そして「ヨハネの首をはねさせ」るという大罪を犯します。

・ヘロデヤ
 ヘロデヤは名家ハスモンの血を受け継ぐ女性ですが、我欲の強い女性でした。先夫と別れたのも彼が政治的失脚者であったからで、ヘロデを通してユダヤの王女となる野望があったからです。彼女はヨハネを憎んでおり、狡猾に殺害します。彼女は自分の願いを達成できたと思ったのでしょうが、彼女は俗悪な者として「裁きの書」に明記されました。

・少女サロメ
少女とはサロメのことです。彼女は巧みな踊りを通してヘロデを喜ばせました。しかし母親に唆されて「ヨハネの首を」その褒美として要求するのです。なお純粋さが残る少女でしたが、確たる真理を持たないために、母と同罪の罪を犯します。

・聖者の死
 バプテスマのヨハネは、キリストの魁となった預言者でヘロデ家の罪を逃すことなく告発しました。その結果、首を切られて死刑に処せられたのです。彼の働きは頓挫したのでしょうか。そうではなく、それにより彼の預言は完成し、彼は聖者とされ、生命の書に永遠の名が記されることになりました。
 私たちも人生に於いて義人として「生命の書」にしるされるか、俗悪人として「裁きの書」に名が記されるという瀬戸際の時があります。その時、判断を誤らないように志を明瞭にしましょう。

09/07/19 霊的な礼拝 ローマ12:1~2


・「そういうわけですから」
 「そういうわけですから」とはこれまでに示されてきたキリストの救いを受けています。神がイニシャティブをとり罪深く無力な私たちのためになしてくださったあわれみの業です。それはただ信じるだけで与えられる救いでした。
 神が主導する救いというパターンは礼拝式の中にも反映されています。招詞、交読、朗読、説教がそうです。

・霊的な礼拝
 「霊的な礼拝」というのは「理にかなった礼拝」という意味です。神が主導する救いに対して、私たちが当然のこととして応答すべき礼拝は何かということです。
 礼拝とは「神を価値ある方として仕えること」です。キリストの救いに相応しく礼拝するとは、身も心も一切を神にささげることです。

・心の一新によって変える
 礼拝の基本は「心の一新」から始まります。私たちは信じていても全体的に古い体質を持っています。神は内側から外側に向かって古い人を新しい人に変えていきます。信仰心は次に自ら魂/精神を変える方向に向かわせます。
 「変える」とは幼虫から蝶々に変わるのと同じことです。内から働くキリストの生命に従って私たちは自分で古い人を脱皮して新しい人にされるのです。

09/07/12 洗礼の恵み ローマ6:3~11


・洗礼の恵み
洗礼は信仰者がキリストによって救われていることを象徴的に現す礼典で、イエスが命じ代々教会が行ってきました。福音自由教会12箇条でも聖餐とともに洗礼を守るべき礼典としています。
 私たちの教会でも洗礼を尊び、信仰者の公の告白の場としまたキリストの救いの恵みをともに覚える時としています。

・キリストと共に十字架に
 洗礼はキリストの霊的救いを視覚的体験的に示します。つまり私たちはキリストを信じるときにキリストと御業に結びけられるのですが、それがどのような意味を持つか具体的に示します。
 第1に、洗礼者が水に入れられるのはキリストともに古い自分が十字架に付けられ死んで葬られたことを意味します。同時に罪がキリストと共に砕かれ葬られたのです。第2に水から上がるときキリスト共に新しく生き返ったことを意味します。同時に、復活の生命を受けて神の子となったのです。
 
・キリストと共に生きる
 洗礼は霊的事実と信仰告白の場であるだけではなく、受洗者の献身の場です。霊的事実を認め、自分でも意志的に罪に死に恵みの中に献身することで、実際にキリストの新しい生命は受洗者の生活と生涯に及んで来るのです。次の通りです。
「キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活ともおなじようになるからです。」

09/07/05 マルコ5:21~24,35~43 タリタ クミ


・ヤイロの求め
 会堂管理者のヤイロはイエスの元に来て「私の小さい娘が死にかけています」と救いを求めます。「私の」「小さい娘」ということばにヤイロの娘に対する並々ならぬ愛情を垣間見ることができます。事実、彼にとって娘はこの世の何にも増して自分が愛する対象であり、守るべき存在でした。その「死(終わり)」は彼の生き甲斐の終結でもありました。

・恐れないでただ信じて
 ヤイロの家に行く途中、娘の訃報が届きます。親がいかに愛情を注いで育てたとしても人間の愛情である限り限界があります。その現実に直面しようとしたときの人間の恐れと不安、絶望感は底知れません。しかし恐怖感の渦の中でヤイロは御言葉をいただきます。
「恐れないで、ただ信じていなさい。」
 御言葉をとおして主イエスはご自分が死に勝利する神であり、復活の生命であることを明らかにしています。主イエスを信じる者は、どのような時にも恐れないで信じ続けることが大切なのです。

・密室
 イエスは少女の部屋に両親と3人の弟子しか入ることを許しませんでした。その密室で、彼はご自分の恵と愛と力と権威のすべてを明らかにします。
 このことは私たちの場合も、主イエスの力を深く知るためには、不信仰が入らない密室が大切であることを示しています。私たちも自らの子供たちを愛し子供たちのために祈っていますが、密室でその恵みの現実を知るのです。

・タリタ クミ
 「タリタ クミ」とはアラム(ヘブル)語で「少女よ 起きなさい」との意味です。福音書著者は生の言葉を示して、愛の深さ、大きさ、強さを表現します。イエスは信じ祈る親たちにまさるとも劣らない愛をもって、子供たちを愛し、生命を注いでくださっているのです。そして御言葉の通りに少女の肉体も生き返ります。