2018/4/22 使徒の働き6:8~7:60 ステパノの殉教


・ステパノ
 ステパノは聖霊と力に満たされてキリストを証しました。リベルテン会堂のユダヤ人たちと対立することになり、彼らはステパノと議論しました。しかし打ち負かすことができなかったために、神殿と律法を冒涜したという偽証により議会に連れて行きました。

・ステパノの証
 議会でもステパノは怖じけることなく、大胆に弁明します。その第1点は、神はエルサレム神殿だけに留まる方ではなく、どこにおいても選びの民に対して自分を現す方であると言うこと。第2点は、ユダヤ人はいつの時代も、かたくなで神に逆らっていたということでした。
・ステパノの殉教
 ステパノの弁明に対して、ユダヤ人たちは怒り、彼を町の外に連れ出して石で打ち殺しました。反対にステパノは天を見上げて、ユダヤ人のためにとりなします。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と。その姿はそこに居合わせた青年パウロの心に深く刻まれ、後の改心の布石となっています。

・私たちと証
 私たちは、明確に語ることをはばかる文化の中にあり、ステパノのような証を避ける傾向があります。しかし時には、明確に、キリストを証しすることが大切です。それによって貴重な魂が捕らえられることになるのです。

2018/4/15 使徒の働き6:1~7 新しい神殿…教会


配給の問題
 教会が成長するにつれ、内部の問題も表面化しました。ギリシャ語を使うユダヤ人やもめへの配給が滞るようになったのです。このことは、教会の働き人の問題をクローズアップすることになりました。つまり12人の使徒たちだけでは、教会のすべての奉仕に対処しきれないということです。

・七人の奉仕者
 そこで使徒たちは教会全員の中から七人の奉仕者を選びださせ、自分たちは「みことばと祈り」の奉仕に専念することを宣言します。新しい神殿である教会の根幹は神との接点であり、それがみことばと祈りだからです。そして七人に手をおいて祈り、新しい奉仕者として任職します。その結果、教会の内に聖霊が働き、さらに成長していきました。

・新しい神殿…教会
 教会は、これ以降、エルサレム以外にも成立し、そこで外国人牧師、監督、長老、様々な奉仕者が立てられることになります。それによってどこにあっても新しい神殿、キリストの体として祝福されていくことになったのです。

2018/4/8 使徒の働き5:17~32  いのちのことば


・世と迫害
 大祭司とサドカイ派の権力者たちは使徒たちに対してねたみを持ち、彼らを捕らえて拘束します。使徒たちはキリストの福音を委ねられていた者たちでしたから、小さな集団の行く末を完全に閉ざしてしまう行為でした。世はいつの時代にも、福音と教会に対してこのように敵対します。

・「いのちのことば」と神の国
 「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き」とあります。天使は神のしもべであり、神の国を守る無敵の軍勢です。教会を神の国として、天使が救いの手をのべているのです。さらに「人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい」と命令します。福音には、永遠の生命が宿されており、福音宣教が地上に誕生した神の国の第1の務めです。使徒たちは、天使の命令通りに大胆に語っています。

・はずかしめと喜び
 使徒たちは、再び、ユダヤ当局に拘束され、詰問されます。しかし彼らは憶することなく「人に従うより、神に従うべきです」と大胆に弁明します。さらに鞭打ちにあいますが、「御名のためにはずかしめを受けるに値する者とされたことを喜び」とあります。
 使徒たちは目前の権威に憶することなく、目に見えない神の国を信じ、その使命を喜んで成し遂げたのです。
 私たちも神の国に仕える者たちですが、委ねられた「いのちのことば」の宣教にいそしみましょう。
 

2018/4/1 1コリント15:50~58 終わりのラッパ


・終わりのラッパ
 パウロは世の終わりに天からのラッパの響きがあり、それとともに体の復活が起こることを示します。その際「血肉のからだは神の国を相続」することはなく、「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられる」のです。神の国に入ることができるのは、福音によって御霊を宿した者たちで、そのすべてが御霊に属するからだに変えられるのです。

・死は勝利にのまれた
 「死は勝利にのまれ」とは預言者のことばですが、ラッパの響きとともに神の壮大なドラマが完結します。地上では死は絶対的圧制者で誰も立ち向かうことができません。しかしキリストの死と復活において、死の敗北が始まり、終わりの時に大逆転劇が起こります。キリストと民が死の支配を打ち破り、すべて新しい体に復活するからです。

・堅く動かされることなく
 復活の教理は、キリスト教の礎です。それを動かそうとする誤った教えが周囲にありますが、それに惑わされることなく、堅い信仰を保つことが大切です。
 「労苦がむだでない」とあります。キリスト者としての証や奉仕、また地上での生涯全体の労苦のことです。それらは地上の死によって絶えてしまうのではなく、私たち自身と友の復活という永遠の価値につながるからです。