2022/2/20 ルカ福音書17:11~19 引き返したサマリヤ人

・十人のらい病人
 主イエスがエルサレムに向かう途中の出来事です。十人のらい病人が遠く離れたところから、イエスにあわれみを求めました。そこで主イエスは求めを聞き入れて「祭司に見せなさい」と語りました。
 らい病人たちは「行く途中でいやされた」とありますが、たしかに主イエスの言葉はらい病をも癒やし、きよめる力があることが分かります。

・引き返したサマリヤ人
 「そのうちのひとりは…引き返して来て」とあります。彼はまず、感謝すべきは癒やし主であるイエスと気づいたのです。さらに「イエスの足もとにひれ伏して感謝し」とあるのは、彼がイエスが神の子キリストと信じて、礼拝している姿です。
 「彼はサマリヤ人…」とあります。彼は本来ならユダヤの宗教から遠く離れていた人物でした。それゆえにかえってイエスが神の子キリストという真実に霊的に気づくことができたのです。それによって彼は単にらい病の聖めだけではなく、罪からのきよめを獲得しました。

・真の礼拝者
 「…九人はどこに」と主イエスは悲しみと戸惑いを表しています。その九人とはユダヤ人たちで彼らは祭司のところに向かい、その後、ユダヤ社会に同化して、世的幸いを得たのです。しかしそれでは決して、霊的に罪の汚れからは救われないのです。ただ「神をあがめるため」イエス・キリストを通しての礼拝に引き返す者だけが、誰であれ新しい時代の真の礼拝者です。
 

2022/2/1 ルカ福音書17:5~10 信仰の業と謙遜

 ・信仰の業
 使徒たちが「信仰を増してください」と願ったときに、主イエスは「からし種ほどの信仰があったなら…桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになる」と語り、小さくとも純粋な信仰の大切さを説きました。そのような信仰を神は、喜ばれるからです。

・しもべの謙遜さ
 また主イエスは弟子たちの謙遜さの必要についても語られます。つまり、「しもべが野らから帰って来たとき」でも、しもべは主人の食事のために仕えるのが当然で、いつも謙遜に仕えることが要求されるということです。しもべはあくまでもしもべであって、全権は主人にのみあるということです。

・神の僕たちの謙遜
「あなたがたもそのとおりです」と、主イエスは神のしもべたちも同じように謙遜が必要であることを示します。実際に、神は創造者にして贖い主であり、私たちは、被造物であり贖われた者たちだからです。そして、私たちは神のしもべとして仕えることが出来ること自体が幸いなことだからです。もし、自分の功績や権利を主張することになれば、それは神の恵みからの逸脱となるのです。
 「私たちは役に立たないしも…なすべきことをしただけです」とは、いつの場合も、私たちにとって幸いな告白であり、信仰生活の基本姿勢です。

2022/2/6 ルカ福音書17:1~4 つまずきと赦し

 ・つまずき
 世において「つまずきが起こるのは避けられ」ません。しかしキリストにある兄弟に対して「つまずきを起こさせる者は、忌まわしいもの」と厳しく戒められています。特に「小さい者たち」をつまずかせる者は「石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」と、特に厳しく戒めています。教会の交わりのメンバーは誰であれ、キリストによって贖われた「高価で尊い」存在なのです。

・罪の赦し
 「兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい」とあります。世は罪に満ちているので、キリスト者であっても罪に陥ることがあります。その際に、見てみぬふりをするのではなく「戒める」という態度が真実な愛だということです。それによって「悔い改めた」なら、それによって兄弟はキリストの贖いを体験して、回復する機会となるからです。
 また「一日に七度…赦してやりなさい」とは徹底した赦しの姿勢を示しています。そのようにして罪による被害者も教会も「赦し」という態度を通して、具体的な形で自分が受けたキリストの赦しを証しします。

・神の教会
 使徒20:28に「神(キリスト)がご自身の血をもって買い取られた神の教会」とあります。私たちの教会は単なる世のサークルとは異なり、神の愛と生命が宿る交わりです。そこで、私たちは罪に対しては厳しく、赦しの愛に関しては徹底して、教会の交わりを形成していくように召されているのです。

2022/1/30 ルカ福音書16:19~31 金持ちと貧乏人ラザロ

 ・金持ちと貧乏人ラザロ
 続けて、主イエスはこの世の富の用い方について例えを通して教えています。「ある金持ち」は自分だけのために贅沢な暮らしをしていました。それに対して「貧乏人ラザロ」は全身おできで、金持ちの門前に寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で空腹を満たしたいと切望していました。

・死と逆転
 やがて貧乏人は死んで天国のアブラハムの懐に連れて行かれました。金持ちも死んで葬られたのですが、気がつくとハデスに下って苦しんでいました。死によって、二人の状態は逆転していたのです。金持ちは苦しみの中から、天国のアブラハムに叫び、ラザロを遣わして乾ききった舌に少しの水を与えるようにと願います。しかし、アブラハムは答えて互いの間には「大きな淵」があって行き来できないことを告げます。生前の行いが一切を決定していたのです。

・聖書
 そこで金持ちは、自分の兄弟たちのためにラザロを送ってくれるように願いますが、アブラハムはそれを否定して断言します。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」と。
 私たち人間は、罪人で、心底、自己中心と世俗に染まっています。その罪の泥沼から逃れて抜け出るためには、ただ聖書とそこに啓示されたキリスト以外には、救いの手段はないのです。