2014/12/28 詩篇66編 豊かな所へ



・賛美を栄光に
 私たちは、この地上で神をたたえ、神の栄光を現すために救われ、また召されています。この年の終わりにおいて、神の恵みを告白し、心から神を賛美したいと思います。

・神のみわざを見よ
 神は、それだけでも賛美されるに値する方ですが、その御業を1つ1つ思い起こすときに、賛美の根拠が明瞭になり、「恐れ」と「感動」を持って賛美せざるを得ないのです。
 かつて旧約の民は、出エジプトの出来事をくり返し想起しました。それは神の臨在と御業が顕著に現れた時代でした。初めに海の水が分けられ、最後に川の水が分けられました。水は困難を象徴しますが、神がそれらを見事に乗り越えさせてくださったのです。

・銀を精錬するように
 しかし、困難もありました。そのことはすぐに神の恵みの業とは受け取られない面がありました。しかし、よく心の中で思い返したときに、その試練にも意味があったことが明瞭になりました。すなわち「銀を精錬するように、私たちを練り」聖めて神の民として整えるためだったということです。

・豊かな所へ
 さらにまたその試練を通して「あなたは豊かな所へ私たちを連れ出された」のです。
 私たちも一年を振り返り、よかったことは素直に感謝し、試練のことも神の御心を覚えて、さらに感謝しましょう。そして、新しい年は、さらに神の恵みと豊かさが満ちる年となることを信じ、期待しましょう。

2014・12・21 マタイ福音書2:1~12 東方の博士たち 



・闇の時代に
 ヘロデ大王の晩年は正しく闇の時代でした。その闇は政治的にも道徳的にも、霊的にも及んでいました。たとえば大王は猜疑心から自分の息子まで殺す男でした。またユダヤ人同士でも陰謀が絶えませんでした。
 この時代に神の子キリストは誕生したのですが、その有様はひっそりとしたものであり、世の中の現象ばかりに目を奪われている人々は、全く気がつきませんでした。

・東方の博士たち
 しかし、ユダヤから遙か東方で、キリスト誕生の予兆を知る人々がいました。彼らは自分たちの文化には救いがないことを悟っており、ユダヤの預言書に救いを求めていました。その求道心を顧みて、神は彼らにキリストの光を夜空に照らしたのです。

・博士たちの礼拝
 彼らははるばる東方から星の光を頼りにユダヤにやってきました。そして神の導きによりついに幼子キリストを見いだしました。
 彼らは預言のことばと星の光から、幼子がキリストであると知り、また信じることができました。そして「ひれ伏して」礼拝をささげたのです。

・礼拝の心
 「そして、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」 とあります。黄金は王者のしるし、乳香は神のしるし、没薬は贖い主のしるしです。彼らの礼拝とささげ物によって、精一杯、彼らは幼子がキリストであることを告白し、またその恵みを存分に受け取ったのです。

2014/12/14 イザヤ9:1~7 大きな光



・大きな光
 預言者イザヤは闇のような時代に生きていましたが、将来、神によって「大きな光」が与えられる預言をしました。それは救いであり、喜びと楽しみの源になる神の子キリストの到来を意味しました。

・「ひとりのみどりご」
 「ひとりのみどりごが、私たちのために生れる」とあります。旧約聖書には、アブラハム契約、ダビデ契約というものがあります。いずれもひとりの男の子の誕生によって諸国民に救いがもたらされるという約束です。旧約聖書の世界はこの「男の子」を中心に展開しており、新約聖書は彼の到来を証言しています。

・4つの光
不思議な助言者、力ある神、永遠

の父、平和の君」とは「みどりご」が持つ主権です。 「不思議な助言者」とは私たちのそばでいて癒やしと慰めと指針を示す方ということです。「力ある神」とは、私たちと共にあって一切の敵を粉砕する全能者ということです。死の力さえも粉砕するのです。「永遠の父」とは、いつどのようなときにも父親として子どもを養い育て、また受容する存在です。「平和の君」とは、心と生活に平安をもたらし、繁栄と幸いを実現する支配者ということです。

・信仰の目で
 「みどりご」はただ見ただけならば、無力でちっぽけなな存在にしか見えません。しかし信仰の目で見るときに、4つの主権が1つになった大きな光を認め、私たちのものとすることができるのです。 

2014/12/7 ヨハネ福音書11:30~37 イエスは涙を



・悲しみ
 死の現実の中で、絶望と共に悲しみの感情が人を支配します。深い悲しみは、人の心と肉体をむしばみ、生命を枯渇させるものです。そして、世界内にはその悲しみを慰める手立てはありません。妹マリヤはラザロの死に際して、この悲しみの涙に暮れいていました。

・み足のもとに
 しかしマリヤはイエス到来の知らせを受けたときに、すぐにイエスのもとに行き「その足もとにひれ伏した」のです。ただ迎えたのではなく、イエスに祈ったのです。彼女は弟ラザロの死のゆえに無力感と悲嘆のどん底にありました。それでも主イエスのみもとで祈ったと言うことです。
・イエスは涙を
 主イエスは悲しみと痛みの中、ご自身のみ元に来る信仰者たちを決して、無視することはありません。彼らに目をとめ、そしてその悲しみと心の痛みを深く知って受け止めてくださいます。「霊の憤り」「心の動揺」「イエスは涙を流された」という姿は、むしろ主イエスが悲しみと痛みを受け止め担ったことを示します。この主イエスの深い同情を原因として次に、死者の甦りの奇跡が起こります。

・憐れみを受けるために
 ヘブル4:16に次のようにあります。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか

2014・11・30 ヨハネ福音書11:17~27 甦りのいのち



絶望感と諦念
 主イエスがベタニヤに到着したとき、ラザロは墓に入れられて4日も経っていました。マルタはイエスを出迎えましたが、彼女はラザロの死に対して、諦めと絶望の中にいました。主イエスを信じていながら、絶望感と諦めの世界に留まる態度は、不信仰です。

・甦りのいのち
 「わたしは、よみがえりです。いのちです主イエスは「わたし」と「あなた」という個人的関係の中で信仰の奥義を伝えます。また主イエスの恵みと生命は、そのようにしてのみ人の心の中に届くのです。「よみがえり」とは死の力に屈しない生命です。主イエスは地上の生命(プシュケー)を身にまとって地上に誕生しましたが、その奥底にはそれを超えた甦りの生命(ゾエー)を持っていました。また、その生命を人に示し、与えるために地上に来られたのです。

・信じる者は死んでも生きる
 主イエスから甦りのいのちを受ける手段は、ただ一つで、それは「信じる」ということです。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」とあるとおりです。
 主イエスを信じる者は、生まれながらの生命(プシュケー)を持っているのですが、それ超えた生命(ゾエー)が与えられます。そして、彼もまた、主イエスと同じように、よりすぐれた甦りの生命の中で生かされるのです。そこにはもはや死は何の力も持たず、そこにあるのは生命と希望と光のみです。