2009/12/27神の忍耐と励まし ローマ15:1~7

説教者:鈴木弘司師でした。右のmp3ファイルでお聴き下さい。

09/12/20 マリヤの讃歌 ルカ1:46~55

・マリヤの讃歌
 マリヤの讃歌は魂と霊の賛美です。人は表面的に喜ぶことがあっても、魂と霊という奥底から賛美、喜び讃えると言うことはありません。マリヤが霊から賛美するのは、マリヤが受けた恵みの本質は霊的だからです。霊的な賛美は深く、永続し、すべての時代に、すべての世界に響き渡ります。

・卑しいはしために目を留め
 マリヤの賛美は、神が「卑しいはしために目を留めてくださった」という信仰から起こっています。
 神は崇高者で人間から隔絶した方です。その方が、「卑しい」自分に目を留めて奇跡をなしてくださったのです。「目を留める」とは好意を持ち、選び、深い契約関係に入ることを意味します。この神との個人的な体験についての確信が彼女をして賛美に向かわせています。

・力ある方が大きなことを
 神は無から有を創造した天地創造の神です。すべて良き業であり、恵みの業です。その一切の力を自分の内で働かされたのです。「大きなこと」とは神の子キリストを自分の胎に宿すと言うことでした。さらに彼を通して救いを万人に与えると言うことも含まれています。

・神のあわれみ
 マリヤは自分の神体験を「あわれみ」という言葉で表現しています。値しない者が受ける好意であり、救いです。律法の下では神は厳しさと怒りの姿がありました。しかし神の子による救いは一切が「あわれみ」です。マリヤは「神のあわれみ」を受けたのです。かつてはアブラハムとその子孫にしめされ、やがて未来の人々に及んでいくのです。

2009/12/13 インマヌエル マタイ1:18~25


・キリスト預言と処女降誕
 罪からの救済者として旧約聖書の時代を通してキリスト到来が預言されていました。預言者イザヤはキリストのしるしは「処女降誕」であるとしました。処女降誕は、色々な意味で人間にとっては躓きになります。神が人となる躓き、処女が子供を産むという躓きなどです。
 マタイはこの躓きを取り払うかのようにアブラハムからキリストまでの系図の中に女性たちを紹介します。いずれも躓きをはらみながら神が「良し」とした女性たちです。 

・ヨセフは信じ受け入れた
 許嫁のマリヤが聖霊によって身重になったときに、ヨセフは「内密にさらせようと決め」ていました。しかし「主の使いが夢に現れて」、マリヤは聖霊によって子どもを宿していると知らされます。御使いは彼を「ダビデの子ヨセフ」と呼んだときに、彼はアブラハム・ダビデに対する約束を思いおこしたと思います。彼の子孫としてキリストが生まれると言うことです。彼は御言葉を信じマリヤをも受け入れました。それでキリストを持つことができたのです。

・インマヌエル
 キリストの別名は「インマヌエル」です。「神は私たちとともにおられる」という意味です。この方が私たちの神となるためには、いつの時代にも躓きが伴います。
 しかしいつの時代も同じです。ただ彼がインマヌエルで、私たちとともにあり、私たち祝福する方であると信じ続ける時、やがてその祝福は確かに私たちとともにあると気づくのです。

09/12/06 マルコ9:43~50 躓きをさける


・躓きをさける
 主イエスは「小さい者たちのひとりにでもつまずきを与え」ないようにさとします。小さい者とは子どもや弱者、あるいは社会的に見下されがちな人々のことです。その人々もまた、神によって覚えられており、かけがいのないのです。教会の中では、くれぐれも小さい魂さえ躓かせることがないように、注意を払う必要があります。

・躓きを取り除く
 「もしあなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨て・・・。」
 主イエスは強烈な言葉で、つまずきを除去するように畳みかけます。つまずきは相手の滅びとなるだけではなく、自分の滅びとなります。身体の場合でも手や足に重い疾患を持つ場合に、切断して生命全体を救う処置がなされます。ちょうどそのように罪とつまずきを与える習慣は他人と自分の致命傷となるのです。

・キリストの心 
躓かないように配慮する心はキリストの心です。「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」とあるように神であり、王である方が、小さな者たちのために細心を払われたのです。
 私たちはキリストによって自由で権利を持つ者ですが、キリスト者の自由と権利は人に仕え、建て上げるためのもので、その心がけの中で多くを獲得することになるのです。つまり小さな者の生命が育まれ、自らもまた育まれるのです。

09/11/29 水一杯の好意にも マルコ9:38~41


・反対しないものは味方
 弟子たちは自分たちの仲間でないものがイエスの名を用いて奇跡を行おうとしているのを見て、やめさせようとしました。しかし主イエスは、「わたしたちに反対しないものは、わたしたちの味方です」と語られました。
 「キリストの名」は溢れるほどの恵みと力を持ち、私たちの仲間でない者たちの中でも、それ自体でキリストの働きをなしていくのです。

・水一杯の好意にも
 「キリストの名」「キリストの弟子」「キリストの教え」、何でもキリストを反映しているものは、キリストの祝福を担っています。そこにはキリストの香りがあり、キリストの恵みが流れ出るのです。「水一杯を飲ませ」ると言うことで、弟子たちに対して好意を示す人は、なおさらです。その人は、「決して報いを失うことはありません。」

・溢れるキリストの恵みと救い
 私たちはキリストの教えと教会を守ろうとするあまり、自分自身を狭めてしまう場合があります。確かに、純粋な福音と教会の交わりは保たれなければなりません。しかし「キリストの名」に対する大胆な楽観も必要です。私たちの思いを超えて、神は「キリストの名」を用いて、恵みと救いを前進させる方なのです。

***説教で引用した詩/「ひびいてゆこう」八木重吉作*****
  おおぞらを
  びんびんと
   ひびいてゆこう

09/11/22 幼子を受け入れる心 マルコ9:32~37

・だれが一番偉いか
 主イエスが十字架の死を目前としていたときに、弟子たちは「だれが一番偉いか」について論じ合っていました。彼らはイエスを地上の王のようにみなし、自分たちの誰がその大臣の地位につくかの論争でした。確かに責任ある地位につくことは大切ですが、地上においては「だれが一番偉いか」と争いをおこし、高慢と妬みが渦巻く状態になります。

・先に立ちたい者は、しんがりに
 主イエスは弟子たちの交わり、つまり教会では、地上とは全く異なる原理を持つべきことを示します。
 「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなしんがりとなり・・・」
 集団の中で先に立つ人材は必要です。しかしその人は他を支配するのでも、称賛されるのでも、利得のためでもありません。むしろ「しんがり」となって他に譲る姿勢、仕えるが重要になります。

・幼子を受け入れる心
 主イエスは「子どもを・・・彼らの真中に」して、弟子たちに例示します。普段は目に見える形では、子どもは真中におりませんが、教会の中心は「幼子」です。小さく無力な存在ですが、彼らが尊ばれ、守られていくところに教会の本質があるのです。
  世は弱肉強食の原理がまかり通る社会です。教会が「幼子を受け入れる」場として機能するときに、キリストの臨在と香りが際だちます。そのようにして世に対して証となるのです。
 「幼子・・・わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。」

***説教中で引用した「モモ」冒頭の詩(アイルランドの子どもの歌より)
 やみにきらめくおまえの光、
 どこからくるのか、わたしは知らない
 近いとも見え、とおいとも見える、
 おまえの名をわたしは知らない。
 たとえおまえがなんであれ、
 ひかれ、ひかれ、小さな星よ!

09/11/15 信じる者には マルコ9:14~29



・弟子たちの現実
 主イエスたちが帰ってきてみると、大勢の群衆がおり弟子たちは律法学者たちとイエスの権威について論争していました。彼らは病人から悪霊を追い出すことができなかったために皆の非難の的となっていたのです。これは世における弟子たちの現実です。

・不信仰な世
「ああ、不信仰な世だ。」主イエスは人々の不信仰を強く嘆きます。ちょうど、出エジプト記でモーセが山から下りてきたときに、人々が偶像礼拝をしていた情景を思いおこします。主イエスもまた、神の前に不信仰をさらけ出している人々に対して激して怒り、嘆いているのです。
 「いつまであなたがたにがまんしていなければ・・・」この言葉も主イエスの嘆きです。主は弟子たちと群衆の中に信仰が育つことを切望していました。その主イエスの心の内がハッキリと示されています。

・信じる者には
 主イエスは病人の父親に子供の状態を尋ねます。人の痛み苦しみを聞いて受け止める愛の姿が現れています。しかし父親の不信仰な言葉には再び叱責します。
 「できるものなら、というのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
 実に明快な言葉です。主イエスが切望していたのは、信仰でした。主イエス御自身は栄光の姿を持ち、愛に満ちた神です。その力と権威を導き出すのは、私たちの側の信仰のみです。

・現実の中で信仰を働かせる
 私たちを取り巻いている現実も、人間の力ではどうしようもない悪と悲惨の世界です。この現実を乗り越えるためには是非とも、主イエスの力と権威が必要なのですが、それは私たちの信仰によります。主イエスは「祈り」の必要に触れていますが、私たちも祈りを通して私たちの信仰を強めましょう。

09/11/8 ラザロと金持ち/ペロペロワンちゃんルカ16:19~31


 次をクリックして下さい。スライドになります。
ペロペロワンちゃん
・貧ぼう人ラザロ
 ワンちゃんは、おできだらけの貧ぼう人ラザロの所にきては、おできをペロペロとしてあげました。
 ラザロさんは貧ぼう人だけれども、やさしい心の人で神に愛されている人した。でもラザロさんはいつもおなかがペコペコで金持ちの家の食じの残ぱんでも食べたいと思っていました。 

・ケチでぜいたくな金持ち
 金持ちはぜいたくな生活をしており、高価な着物をきて、食べ物、飲み物もごうかで、毎日を遊びくらしていました。
 そしてケチで誰にも何もあげず、特に貧乏人にはそうで、また軽べつしていました。

・死後の世界の逆てん
 ラザロは死んで、天国のアブラハムの所に

行きました。彼はアブラハムにたいへん愛され、慰めを受けました。金持ちも死にましたが、彼はハデス(じごく)に落とされ、裁きの火で苦しみました。
 彼はアブラハムに助けを求めましたが、アブラハムは言いました。「おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていた。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。」「それに大きな淵あるので・・・助けることはできない。」

・5人の兄弟の救いは?
 じごくの金持ちは、何も知らない5人のケチな兄弟の救いを求めました。しかしアブラハムは次のように答えました。
 「もし、モーセと預言者(聖書)の教えに耳をかたむけないなら、たとい、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」。

09/11/01 マルコ9:1~8 変貌の山


・変貌の山・・・顕現
主イエスは3人の弟子たちを連れて高い山に登り、そこで栄光の姿に変わリました。衣が白く輝いたのはイエスが神の子キリストであり、天の栄光を持つ方であることを示しています。主イエスは下僕として地上の生涯を過しますが、本質は神と同質の栄光を持つ方なのです。

・モーセとエリヤ
山では、モーセとエリヤが現われてイエスと話していました。ニ人とも旧約聖書を代表する入物で、旧約の一切の預言が神の子キリストを指し示し、さらに「イエスこそキリストである」ことを証ししているのです。
この光景は肉眼で見えたことであると同時に聖霊が弟子たちの心を照して明らかにされたのです。私たちの場合も、旧約聖書を読んでそこにキリスト預言を見いだしてイエスと認めるとき聖霊もまた恐れと感動により証しします。

・神の声
さらにイエスを証しするものがあります。それは神の声です。「これは、わたしの愛する子...彼の言うことを聞きなさい。」これは明暸に「イエスが神の子キリスト」であることを証言しています。弟子たちもよく覚えており、ペテロもその手紙(Ⅱペテロ1:17)で触れています。イエス以上に神について、救いについて、裁きについて啓示する方はありません。

・栄光のイエスを覚える
この顕現は、弟子たちが試練の中でも栄光のイエスを覚えさせるためでした。やがてイエスは十字架につけられますが、弟子たちは、復活の姿に出会うこと共に、この栄光のイエスを想起して、聖霊によって強められたのです。
 このことは、同じ試練の中におかれている私たちの場合も全く同じです。イエスが神の子であることを心に刻むことにより、聖霊はその栄光を顕わにします。(Ⅰペテロ4:14)

09/10/25 おりにかなった助けヘブル4:14~16

 11/25礼拝説教は、鈴木弘司先生でした。

09/10/18 豊かな実を結ぶ秘訣 ヨハネ15:1~17 

 佐々木 炎師の礼拝説教でした。

09/10/11 自分の十字架を負う マルコ8:31~38


・人の子の苦難と復活
 信仰告白した弟子たちに対して、主イエスは「人の子の苦難」について示されます。「人の子」とはキリストのことで、贖い主であり、真の人の姿を示します。
 キリストは予知したとおりの生涯を歩みます。ユダヤの指導者たちによって、憎まれ、捨てられ、十字架上で殺されます。彼の地上の生涯は、世の流れによって完全に否定され、抹殺されたのでした。
 しかし苦難の中で、信仰と従順を貫くことは、神の生命が注がれる契機となります。「三日の後によみがえられなければ」とはそのことです。このようにして、主イエスは真の人が辿るべき生命の法則を示します。

・下がれサタン
 しかしペテロは「イエスを・・・いさめ始めた」とあります。彼は信仰告白後も、キリストと御業について不鮮明で、世の人生観に支配されていました。世の人生観にとらわれる者は、神の御心よりも人間的願望を大切にしてしまうのです。  
 「下がれ。サタン。」と主イエスはペテロを厳しく叱責します。弟子である者が、心に銘記すべきことだからです。人間的分別と優しさのようでありながら、その心はサタンの下にあり、神に敵対する者となっているです。

・自分の十字架を負う・・・生命の原則
 「自分を捨て、自分の十字架を負い」と主イエスは語ります。主イエスの地上の生涯は贖いのための生涯であると同時に、信仰者の生き方の模範となるためでした。世の流れに抗してのみ、イエスの道を歩むことが可能となるのです。誤りの否認によってのみ正しさが貫かれます。
 また神が祝福する生命とは世と人間の虚偽の中には生じません。十字架の法則に歩む者だけが復活の生命を得るのです。また同時に、歴史の真髄も十字架の法則に従った人々によってうち立てられているです。

09/10/4 あなたはキリスト マルコ8:27~30


・心頑(かたく)なの中で
 マルコ福音書の背景には、人々の心の頑なさがあります。「目がありながら見えず、耳がありながら聞こえない」と主イエスが語られるとおりです。主イエスの願いは心の目と耳が開かれることです。聾唖者の耳と盲人の目の開くという奇跡の背後に、弟子たちの心を開こうとする願いが込められているのです。
 
・あなたはわたしを誰と
 「では、あなたがたはわたしをだれだと言いますか」。主イエスは一般論ではなく、「あなたはわたしを」と主体的な信仰を求めます。私たちはいろいろな「あなたと私」の関係を持っていますが、その中心は神との関係です。この中心の関係が正しいときに、私たちの目は開かれてすべての領域においてもよき関わりを持つことができるようになります。
 主イエスとの関係は神の領域における関係です。私たちが主イエスを正しく告白できる時に、私たちの目が開かれ、生活のすべての領域に光が差してくるのです。

・あなたはキリスト
 「あなたは、キリストです」とペテロは信仰告白します。この告白の背後に神の霊の働きがあります。神によってのみ人は心の目が開かれるからです。キリストとは「油注がれた者」という意味で旧約の王、大祭司、預言者のすべてにまさる神の子を意味します。「わたし」は彼を通してのみ、一切から救われ、一切の罪をきよめられ、神の一切を知ることができます。

・さらに明瞭にキリストを刻む
 ペテロの信仰告白はマルコ福音書の分岐点となり、これから後半の十字架と復活の場面に進みます。それに従って、ペテロと弟子たちのキリスト信仰も正され、深められていきます。
 これは私たちの場合も同じです。つまり私たちにとっても信仰告白が一つの目標であり、さらにこれを基点としてキリストの姿をさらに明瞭に、正しく心に刻んでいく信仰生活が始まるのです。

09/09/27 開け エパタ マルコ7:31~37


・耳と口が閉ざされた者
 主イエスがデカポリス地方に行かれたときに「耳が聞こえず、口がきけない人」が連れてこられました。「耳が聞こえない」と言うことは、外界の音と言葉から閉ざされていることであり、「口がきけない」ことは、自分の言葉を外に伝えることができないと言うことです。全く、世界から閉ざされた世界に放置され、隔絶されていることです。

・その人だけを連れ出して
 主イエスは「その人だけを連れ出して」、深いお取り扱いをします。一人だけ取り出されることは、神との関係を深め、救いを深めるために大切な手順です。
 「両耳に指を差し入れ」「唾をして、その人の舌にさわられた」と閉ざされた部分に深く関わって下さいます。耳と口が開かれるためには、イエスに深く関わっていただかなければならないのです。イエスは汚れもいとわず、その人を徹底的に愛して御業をなすのです。

・開け/エパタ
 「深く嘆息し」「『エパタ』と言われた」。嘆息とは「うめき」とも訳されます。エパタは「開け」という意味です。ヘブル語の「パタ」の命令形です。イエスの言葉に不思議な響きがあったので、言語のまま紹介されています。イエスが「開かれる」ことを心から願って叫ばれたことが分かります。
 さらにこの奇跡はイザヤ35:5の預言の成就となっています。ただ肉の耳だけでなく、心の耳、口もイエスの臨在と恵みに「開かれ」るべきことが示されています。

・イエスの愛に開け/エパタ
 私たちの心の耳と口も閉ざされがちです。主イエスが私たち一人一人をも「連れだし」、親密に関わって臨在と恵みを知らせようとしていることに霊の耳を開き、口によって証する者となりましょう。

09/09/20 主の聖徒たちの死は尊い  詩116:15


・主の聖徒たち
 「聖徒」とは「ヘセドの民」という意味です。神の恵み、誠実、愛の約束を心から信じ、自分でも神を愛して生きる人々のことです。旧新約の信仰者たちは、皆、この信仰姿勢を持っていました。
 「私は主を愛する。主は・・・私の願いを聞いて下さる」とは聖徒たちの基本的な告白です。聖徒たちはその通りに生涯、主の恵みと愛を体験してきました。たとい絶体絶命の時でも、主が救って下さり、魂を救い、悲しみを取り除き、実際の問題も見事に解決して下さったことを体験しています。

・主の聖徒たちの死は尊い
 「聖徒たちの死は主の目に尊い」とあります。聖徒たちも地上の生涯を終えることがあり、その際には、本人も周囲の人々も、主イエスをいよいよ信じて、告白して、死の間際まで切なる願いをします。
 その死は、肉の目には空しく見えますが、主は「尊い」とご覧になります。それも主の恵みと愛の所以です。地上の生涯に恵みを与えられた方は、死という危機に際してこそ、完全なる恵みと愛の眼差しを「聖徒の死」に向けられるのです。地上の死を迎えた「聖徒たち」は主の目には何よりも尊い宝石のように輝いて映っているのです。

・私たちの「聖徒たち」
 私たちの「聖徒たち」も地上の生涯において主の恵みを信じ、また自分でも誠意を持って従っていました。死の間際まで、信仰を貫き、しかも切に祈りと願いを捧げたのです。
 主は、その祈りを忘れておられません。むしろ「尊い」とご覧になり、永遠に心に刻んでおられます。そして来るべき日に、新しいからだに復活させるのです。復活の体もまた、イエスに似た「尊い」ものとなるのです。
 

09/09/13 生きるはキリスト ピリピ1:21

・キリストにある「私」
 私たちは人生の色々な局面で、地上の益と喪失のどちらかを体験します。古い「私」は益が良し、喪失を苦痛と感じます。その最たる局面は生と死です。
 しかし使徒パウロはキリストによって新しくされた「私」として人生を捕らえるべきであると教えています。

・生きるはキリスト
 「生きることはキリスト」とあります。キリストはすべてであるということです。御言葉の約束において、キリストは「私」の罪を赦し、新しい生命を与え、「私」の生涯に豊かな実を与えてくださる方です。
 使徒はキリストにあっての提供されている恵みをただ知っているだけではありませんでした。自分自身でも心から信じて、キリストを人生の土台としていくという告白をしています。キリストの恵みは単に受け取るだけではなく、私たちの側でも応答することでハッキリと分かるのです。

・死ぬことも益
 一般的に「死」は大きな苦痛と捕らえられます。それは地上で得た一切を喪失する時と考えられているからです。しかし使徒は「益です」と言い切ります。私たちは生きている楽しみを覚えるのは「益」を獲得ているときです。ところがキリストにあるものにとって死こそ最高の「益」の「獲得」であることを示します。その理由は死によって完全にキリストを獲得し、その愛の御顔を直視できるからです。

・楽しみの板挟み人生
 使徒にとって、キリストを信じて生きる人生を凝視したときに「二つの・・・板挟み」でした。彼にとって喪失というものはなく、一切が「益」となり「実」となるのです。私たちも与えられている恵みを凝視して、生も死も、何事も恐れず、むしろ喜びとして日々歩みましょう。

09/09/06 小犬でも マルコ7:24~30


・ギリシャ人の女
 イエスが異邦人の地であるツロに行かれたとき、ギリシャ人の女が来て、娘から悪霊を追い出すように願い続けました。悪霊を追い出すことは人間の力では不可能でフェニキヤ文明もにもギリシャ文明も無力でした。そこで女はイエスの噂を聞き、キリストと信じてやってきていたのです。

・イエスの拒絶・・・小犬には
 ところがイエスは女に対して沈黙しているように見えました。さらに「・・・子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と拒絶します。「子供たち」とはユダヤ人のことで、小犬とはギリシャ人をはじめとした異邦人のことです。聖書では「犬」を汚れた者、俗悪な者を意味します。そこで「小犬」は、さらに存在の小さいものと受け取ることができます。
・女の信仰・・・小犬でも
 しかし女は「小犬」という言葉に、イエスの恵みを見つけます。「食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
 自分を見るのではなく、イエスのあわれみの大きさに訴えて切に願っています。
神の大きさと恵みによって救いを受ける手段に訴えて願ったのです。それこそがイエスの救いを受ける唯一の手段です。

・「そうまで言う・・・」
 女の信仰にイエスまでが驚いています。「そうまで・・・」言い「そうまで」信じて、祈る祈り手を主は求めていたのです。
 私たちも祈りがすぐに答えられない、「無視され、拒絶されているのでは」という経験をしますが、それでやめてはなりません。祈り続ける中で、私たちが「そうまで言う」「そこまで信じて」祈る祈り手になることを、主イエスは願っておられるのです。

09/08/30 心(内側)の罪悪と解決  マルコ7:14~23


・外側からではなく
 ユダヤ人たちは聖めと汚れについて誤った考えを持っていました。汚れは外側のものであるから外側の洗いを徹底し、汚れた食物を食べず、異教徒とは接触しないように心掛けていました。彼らの心は「頑(かたく)な」で律法の教えを表面的に捕らえ、しかも外面の聖めを守ることで神の民であるという特権意識に囚われていました。
 主イエスは、彼らの心の覆いがとれて「悟る」ようになることを切望していました。また私たちについても、「外側」に囚われる者たちなので、その「頑なさ」から解放されて、悟るものとなることを願っておられます。

・心(内側)から出る罪悪
 「人から出るもの、これが、人を汚す」「内側から出て、人を汚す」とあります。聖書は旧約以来一貫して、内側からの汚れと罪悪について問題にしてきました。主イエスもこの点を明瞭にしています。
「悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさ 」。主イエスは内側の罪を具体的に現します。人の心の奥底には「破れ」があって、そこから罪と悪魔の汚れが噴出して人を汚染し支配するのです。まさしく人は心の内に「地獄の門」を持っています。この支配を免れる者は誰もいません。 

・心(内側)の罪悪の解決
 内側の罪は自分の努力では解決できません。ただ御言葉と御霊の照明の下で罪を認め、神の前に告白し、そして主イエスの十字架の血潮できよめていただく以外に解決の道はありません。
 主イエスの血は、今の時代でも、聖霊によって悔い改める者たちの心に注がれ、完全に汚れを焼き尽くし、聖めることができるのです。

09/08/23 「自分たちの」ではなく マルコ7:1~13


・先祖の言い伝え
 ユダヤ社会には、モーセ律法とは別に「先祖の言い伝え」がありました。それは食べ物の規定から手洗いなどの聖めの規定まで生活の細部にまで及んでいました。パリサイ人と律法学者たちは、その専門家で、ユダヤ社会で権威を持っており、「先祖の言い伝え」に従わない者たちを罪人として断罪していました。
 主イエスの弟子たちは「先祖の言い伝え」について十分に知識がなく、しばしばパリサイ人らによって非難されました。

・「自分たちの・・・」へのイエスの非難
 しかしながら、主イエスはイザヤの預言を引用しながら、彼らを反対に非難します。「彼らは「先祖の言い伝え」を守ろうとするが、ただ「人間の教え」に過ぎず、心は神から遠く離れていると」。
 さらに「自分たちの言い伝えを守るために・・・神の教えをないがしろにしている」と。実際に律法には「あなたの父と母を敬え」と命令されているのに、コルバンという規定を作って、神のことばを空文にしていました。それはほんの一例です。

・「自分たちの」の罠
 私たちは集団を作るときに「自分たちの」と言うことを大切にします。それは大切なことです。しかし「自分たちの」という集団心理は、やがて絶対化され、「神の」ということさえも、無視し、さらには敵対するにまでになってしまう危険をはらんでいるのです。特に私たち日本人は、この集団性に弱さをもっています。

・「自分たちの」ではなく
 私たちは「自分たちの教会」であるゆえに、熱心に活動をします。しかしそれ以前に「神の」教会であることを良く覚える必要があります。そのためには神の言葉を真摯で、純粋な心で読み、それを自分たちの教会形成の土台とするように、いつも心掛けることが大切です。

09/08/09 湖上の幽霊騒動 マルコ6:45~56


・湖上の

幽霊騒動 主イエスはガリラヤ湖上の弟子たちを訓練します。彼らは向かい風で漕ぎあぐねていました。同時に真夜中の暗さの中で恐れを持っていました。
 イエスは湖上を歩いて彼らに近づき通り過ぎようとされました。それは彼らを試みるためです。案の定、彼らは「幽霊だと思い、叫び声を上げた」のです。当時の人々も幽霊の存在を信じて恐れていたのです。その恐怖心はちょっとした恐怖体験において浮上したのです。
・イエスは永遠遍在の霊
 「・・・わたしだ。恐れることはない。」
 主イエスの言葉は力強く彼らの心に響きました。彼らは幽霊に対する恐れではなく、神である方の存在の大きさを体験し「彼らの心中の驚きは非常なもの」でした。
 「わたしだ」とはギリシャ語で「エゴ・エイミー」といいます。英語で「I am.」ということです。そこで「わたしはある」という風に解釈されます。永遠の存在、遍在、つまり霊である存在を意味するのです。神は旧新約を通じて御自身の本質をこの言葉で表現されます。
 このようにしてイエスは湖上の幽霊騒動を通して、ご自分が永遠で遍在する霊なる神であることを示されたのです。 

・様々な恐れを克服する
 私たちには色々な恐怖心があります。人に対する恐怖心、天変地異に対する恐怖心、そして死霊悪霊に対する恐怖心があります。特にこの時期、死霊に対する恐怖心が私たちの社会を覆っています。それは信仰の落とし穴になります。
 そこで私たちは、私たちを守ってくださるイエスが、それら一切の霊どもより優越し、力があり、近くにおられる霊なる神であることを明瞭に覚えましょう。「わたしだ」との御言葉を心に刻むときに、私たちが恐れるものは何一つありません。

09/08/02 パンと魚の奇跡 マルコ6:30~44


・パンと魚の奇跡
 主イエスはご自分がモーセ以上のメシヤであることを示すためにパンと魚の奇跡をなさいます。人々を組にして青草の上に座らせてから、手元にあった五つのパンと二匹の魚を取り、「天を見上げて祝福を求めて」配りました。そこに恵みの奇跡が起こり、男だけでも五千人の人々を満たしたのです。
 極度の欠乏の中にあった人々は、辺鄙な野原で主イエスを通して思いもよらない恵みの体験したのです。

・イエスの生命とみ言葉の配給
 この奇跡は第一に神の言葉の配給を象徴します。「神の言葉」は単なる言葉ではなく「イエスの生命」そのものです。それが人々に語られるときに大勢に生命を与え、さらに生命は伝播します。
 教会での礼拝は神の言葉が語られ聖餐が守られる場ですが、この本質はキリストの生命の配分です。そこに神の恵みの奇跡が伴います。

・神の交わりの拡大
 第二に交わりの拡大を意味します。交わりはコイノニアと言いますが、共なる食事、物のやりとり、共同の奉仕、愛の交流、宣教協力などの意味が含まれます。キリスト中心の交わりでは、わずかな食物/賜物/奉仕/人から始まって、それらが増え拡大するのです。そこにも神の恵み、奇跡が現されるのです。

・原則は感謝と祝福
 これらの恵みと奇跡の場には、必要な要素が1つあります。それは「祝福」と「感謝」です。祝福とは直訳「よい_言葉」です。与えられた御言葉/食物/賜物/人々を自分たちでも「良し」として、さらに神に対しても「良し」としてくださるように祈ることです。私はそのような交わりには現代においても恵みの奇跡が起こると信じています。

09/07/26 聖者と俗悪人 マルコ6:14~29

・俗悪人・・・ヘロデ王
 ヘロデ王はガリラヤ地方の統治者でした。不法に兄弟の妻と結婚する罪をヨハネによって非難されていましたが、敬虔な気持ちが幾らかあり、ヨハネに保護を与えていました。しかし、敬虔より体面を重んじる人間でした。彼は、人々の手前、ヘロデヤの娘の申し出を断ることができませんでした。そして「ヨハネの首をはねさせ」るという大罪を犯します。

・ヘロデヤ
 ヘロデヤは名家ハスモンの血を受け継ぐ女性ですが、我欲の強い女性でした。先夫と別れたのも彼が政治的失脚者であったからで、ヘロデを通してユダヤの王女となる野望があったからです。彼女はヨハネを憎んでおり、狡猾に殺害します。彼女は自分の願いを達成できたと思ったのでしょうが、彼女は俗悪な者として「裁きの書」に明記されました。

・少女サロメ
少女とはサロメのことです。彼女は巧みな踊りを通してヘロデを喜ばせました。しかし母親に唆されて「ヨハネの首を」その褒美として要求するのです。なお純粋さが残る少女でしたが、確たる真理を持たないために、母と同罪の罪を犯します。

・聖者の死
 バプテスマのヨハネは、キリストの魁となった預言者でヘロデ家の罪を逃すことなく告発しました。その結果、首を切られて死刑に処せられたのです。彼の働きは頓挫したのでしょうか。そうではなく、それにより彼の預言は完成し、彼は聖者とされ、生命の書に永遠の名が記されることになりました。
 私たちも人生に於いて義人として「生命の書」にしるされるか、俗悪人として「裁きの書」に名が記されるという瀬戸際の時があります。その時、判断を誤らないように志を明瞭にしましょう。

09/07/19 霊的な礼拝 ローマ12:1~2


・「そういうわけですから」
 「そういうわけですから」とはこれまでに示されてきたキリストの救いを受けています。神がイニシャティブをとり罪深く無力な私たちのためになしてくださったあわれみの業です。それはただ信じるだけで与えられる救いでした。
 神が主導する救いというパターンは礼拝式の中にも反映されています。招詞、交読、朗読、説教がそうです。

・霊的な礼拝
 「霊的な礼拝」というのは「理にかなった礼拝」という意味です。神が主導する救いに対して、私たちが当然のこととして応答すべき礼拝は何かということです。
 礼拝とは「神を価値ある方として仕えること」です。キリストの救いに相応しく礼拝するとは、身も心も一切を神にささげることです。

・心の一新によって変える
 礼拝の基本は「心の一新」から始まります。私たちは信じていても全体的に古い体質を持っています。神は内側から外側に向かって古い人を新しい人に変えていきます。信仰心は次に自ら魂/精神を変える方向に向かわせます。
 「変える」とは幼虫から蝶々に変わるのと同じことです。内から働くキリストの生命に従って私たちは自分で古い人を脱皮して新しい人にされるのです。

09/07/12 洗礼の恵み ローマ6:3~11


・洗礼の恵み
洗礼は信仰者がキリストによって救われていることを象徴的に現す礼典で、イエスが命じ代々教会が行ってきました。福音自由教会12箇条でも聖餐とともに洗礼を守るべき礼典としています。
 私たちの教会でも洗礼を尊び、信仰者の公の告白の場としまたキリストの救いの恵みをともに覚える時としています。

・キリストと共に十字架に
 洗礼はキリストの霊的救いを視覚的体験的に示します。つまり私たちはキリストを信じるときにキリストと御業に結びけられるのですが、それがどのような意味を持つか具体的に示します。
 第1に、洗礼者が水に入れられるのはキリストともに古い自分が十字架に付けられ死んで葬られたことを意味します。同時に罪がキリストと共に砕かれ葬られたのです。第2に水から上がるときキリスト共に新しく生き返ったことを意味します。同時に、復活の生命を受けて神の子となったのです。
 
・キリストと共に生きる
 洗礼は霊的事実と信仰告白の場であるだけではなく、受洗者の献身の場です。霊的事実を認め、自分でも意志的に罪に死に恵みの中に献身することで、実際にキリストの新しい生命は受洗者の生活と生涯に及んで来るのです。次の通りです。
「キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活ともおなじようになるからです。」

09/07/05 マルコ5:21~24,35~43 タリタ クミ


・ヤイロの求め
 会堂管理者のヤイロはイエスの元に来て「私の小さい娘が死にかけています」と救いを求めます。「私の」「小さい娘」ということばにヤイロの娘に対する並々ならぬ愛情を垣間見ることができます。事実、彼にとって娘はこの世の何にも増して自分が愛する対象であり、守るべき存在でした。その「死(終わり)」は彼の生き甲斐の終結でもありました。

・恐れないでただ信じて
 ヤイロの家に行く途中、娘の訃報が届きます。親がいかに愛情を注いで育てたとしても人間の愛情である限り限界があります。その現実に直面しようとしたときの人間の恐れと不安、絶望感は底知れません。しかし恐怖感の渦の中でヤイロは御言葉をいただきます。
「恐れないで、ただ信じていなさい。」
 御言葉をとおして主イエスはご自分が死に勝利する神であり、復活の生命であることを明らかにしています。主イエスを信じる者は、どのような時にも恐れないで信じ続けることが大切なのです。

・密室
 イエスは少女の部屋に両親と3人の弟子しか入ることを許しませんでした。その密室で、彼はご自分の恵と愛と力と権威のすべてを明らかにします。
 このことは私たちの場合も、主イエスの力を深く知るためには、不信仰が入らない密室が大切であることを示しています。私たちも自らの子供たちを愛し子供たちのために祈っていますが、密室でその恵みの現実を知るのです。

・タリタ クミ
 「タリタ クミ」とはアラム(ヘブル)語で「少女よ 起きなさい」との意味です。福音書著者は生の言葉を示して、愛の深さ、大きさ、強さを表現します。イエスは信じ祈る親たちにまさるとも劣らない愛をもって、子供たちを愛し、生命を注いでくださっているのです。そして御言葉の通りに少女の肉体も生き返ります。

09/06/28 長血女の信仰 マルコ5:25~34


・12年の間長血の女
 「12」とは女の長血ゆえの痛み、辛さ、惨めさ、絶望感のすべてが象徴されています。はじめ幾らかの財産があったのですが、治療費で一切を使い果たしてしまいました。しかも長血は宗教的にも不浄とされる病でしたから、その間家族からも社会からも疎外されていました。罪と死の辛苦の一切を背負った女だったのです。

・女の信仰・・・近づく信仰
 人間の救済手段に絶望した時に、女の心にイエスに対する信仰が生じました。小さいのですが確実な信仰です。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と。イエスの回りには大勢の人々が押し迫っていたのですが、この女だけがイエスに近づいたのです。イエスに近づく唯一の手段は信仰と言うことです。

・イエスを知り知られる信仰
 さらに長血女だけがイエスを知ることができました。それも信仰によります。女は「直ったことを・・・感じた」と。「イエスも・・・気づいて」とあります。どちらも「知る」と直訳できます。全人格的に深く知り、交わりが生じたのです。しかもイエスの「知る」は深く明瞭です。
 私たちの場合もイエスを全人格的に知り交わりをもつ手段は「信仰のみ」です。
 
・救いの信仰
 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」イエスは女に癒しの手段が信仰であったことを明示していますが、同時に死と罪の力から救う唯一の手段も「あなたの信仰」であることを明示しています。「直した」は「救った」です。
 私たちは色々な手段で困難を乗り越えようとしますが、何よりも「あなたの信仰」が「あなたを救う」ことをよく覚えたいものです。

09/06/14 ゲラサ人の地で マルコ5:1~20


・ゲラサ人の地で
 ゲラサ人の地はギリシャローマ文明の地で宗教的には汚れた地でした。神なき世界では悪霊が跋扈(ばっこ)します。墓場から出てきた「汚れた霊」の人は、悪霊に翻弄されて悲惨な中にありました。「彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」のです。地の人は誰も彼を悪霊から解放することができませんでした。

・悪霊の軍団レギオン
 レギオンとは数千人の兵士からなるローマ正規軍のことです。それだけの多くの悪霊が一人の人の心と魂に駐屯し陣取っていました。神のかたちに似せて創られた人の心の深さ大きさを覚えます。それ故悪霊に陣取られた場合には一層悲惨です。
 レギオンを宿す人は、あらゆる異教文明に存在します。神なく真理を失った人々の心には容易に悪霊どもが巣を作り翻弄することができるのです。それは現代日本も例外ではありません。

・イエスの救い・・・一人の救いの尊さ
 イエスは悲惨な人から御言葉と霊により悪霊を追い出します。事実、二千匹の豚を滅ぼす程の悪霊どもが出て行きました。この人は正気になり、イエスによって新しい人聖霊の人に変えられました。聖霊の人はその地の神の要塞です。彼はデカポリスの地方でイエスを証ししました。
 イエスは一人一人が徹底して改心することを願っておられます。一人であっても悪霊の巣から御霊の人となることは尊いことで、彼を通して神は偉大なことをなすことができるのです。

09/06/07 心のガリラヤ湖 マルコ4:35~41

・ガリラヤ湖の嵐
 イエスは弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と語られました。そこで彼らは舟で出発しました。しかしガリラヤ湖は気象に影響されやすく一日の内でも湖面の状態が急変することがあります。この時も「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって」危機的状態になりました。
 イエスは「枕をして眠っておられ」危機に関知しないように感じられ、弟子たちはパニックになりました。

・心のガリラヤ湖
 この状態は私たち信仰者の姿です。主イエスの約束を信じて信仰生活をはじめ目的に向かって進んでいます。ところが「突風が起こり」危機を覚えることがあります。この時に、私たちは信仰を失ってパニック状態になることがあります。それが心のガリラヤ湖です。何もないときは穏やかなようでも、少しの突風で激しく荒れた状態になるのです。

・信仰をもつこと
 主イエスは「信仰がないのは、どうしたことです」と弟子たちをしかりました。同じように、私たちを叱責しておられます。それは主イエスが私たちに対して求められる信仰は「イエスの言葉は必ず実現する」という信仰です。「主イエスが向こう岸に渡ろう」と語られたとき、目先の事態がどう急変しようとも、心まで荒れた状態にする必要がありません。むしろ信仰を堅くたもちたて琴のように穏やかに神を讃えていたいものです。

*ガリラヤ湖の別名キンネレテの海=竪琴の海

09/05/31 からし種と神の国 マルコ4:30~32


・からし種と神の国
 「神の国は・・・からし種のようなもの」とあります。からし種は直径0.5ミリでゴマの1/5ほどの小ささです。どのような野菜の種よりも小さく、その生命力もちっぽけなものに過ぎないと錯覚しがちです。しかし成長するとどの野菜よりも格段に大きくなり3~5メートルに達します。空の鳥も巣を作れるほどです。

・神の国の小ささと大きさ
 神の国も外見は小さくとるに足らないもののように見えます。言葉に過ぎないこと、十字架の躓きが伴うこと、そこに信仰だけで入れるという手段も頼りないもののように感じられます。
 しかし外見に囚われずに御言葉を信じて忍耐して育み育てていくときに、それは世のどのような人、団体、民族も太刀打ちできないような格段に大きな存在となります。世のものは滅びさるのに、神の国は永遠という格段の対比があります。

・神の国と生命の御霊の原理
 また御言葉には神の力、すなわち生命の御霊の原理が働きます。「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」ローマ8:2とあるとおりです。世の生命力も営みも一切は罪と死の原理の中で滅び去ります。しかし神の国の種を宿す者たちには生命の御霊の原理が働き神の力と愛が注がれ永遠の生命に至ります。
 神の国の大きさは世の終わりにならないと分からないのではなく、今の時にも心に宿る御言葉の約束を深く覚えるときに明瞭に味わうことができるのです。

09/05/24 「悪い地 良い地」 マルコ4:1~20


・種まきのたとえ
 主イエスは神の国を種まきのたとえで話します。たとえは神の国に入れられる人と除外される人とを見事に分離する作用をします。つまり良く聞いて悟ろうとする者は神の国に入れられ、聞き方に注意しない者は除外されます。神の国は言葉によって、私たちの外からもたらされるものだからです。
 種まきのたとえはその典型であり、3つの悪い地は聞き方の悪い者たちを暗示し、聞き方の良い者は良い地にたとえられています。それは初めから決定しているのではなく、聞く者の不断の姿勢によって決定していきます。

・悪い地
 悪い地の初めは道ばたです。道ばたはむき出しになり堅く種が根を伸ばす余地はありません。御言葉を聞いても全く受け入れようとしない人にたとえられています。サタンが鳥のようにやってきて、救いの言葉を取り去ります。
 岩地は聞いてすぐに喜んで受け入れる人のことです。御言葉が心でも受け入れるのですが、表面でしか受け入れていないのです。その結果、外界の要因に簡単に左右され困難が来たとき、御言葉と神の国を捨て去ります。
 いばらの地は御言葉を受け入れてある程度、神の国を養い育てる人です。ところが悪い種である世の欲、世のしがらみ、名誉欲なども潜んでいるです。そのままでは神の国も生命も実を結ぶことはありません。

・良い地
 良い地とは「みことばを聞いて受け入れる人」のことです。心に深く根ざし生活の隅々で成長していき、遂に実を結ぶのです。人の場合は、初めから良い地はありません。日々の信仰の従順と戦いの中で悔い改めつつ心を深耕し根をし、御言葉にある祝福を信じ通して遂に神の国の実を結ぶのです。その祝福は地上の生命と比較して量的質的な飛躍です。

ヨナ書より「神の愛を知る 」  

ヨナは神によってニネベ宣教を委ねられますが、「御顔を避けて」海の向こうの町タルシュシュに船で逃げようとします。神は嵐を起こします。水夫たちは天地創造の神がヨナを怒っていると知り、ヨナを海に投げ込みます。

 ヨナは大きな魚にのまれ、三日三晩腹の中で苦しみ、悔い改めの祈りをします。再び神はニネベ宣教を命じます。ニネベの人々はヨナの予想とは異なって悔い改め、彼らは神の怒りから救われてしまいました。ヨナは怒りました。

 神はヨナがご自分と同じような心で異邦人の町ニネベを愛することを願っていました。そこでまた虫に命じて、ヨナの日陰となっていたトウゴマを枯れさせました。ヨナは当然のように神に対して怒りますが、優しく神の思いを伝えて諭したのでした。神は周囲の万象を通して私たちに語られます。私たちも神の語りかけに心を傾けましょう。

 ヨナの物語スライドショー↓クリックしてください

 

09/5/10 「痛みと祈り」 1サムエル1:9~11

・心の痛み
 ハンナは子どもが生まれないということで心の痛みを覚えていました。その痛みは夫も癒すことができず、ただ神によってのみ癒されるものでした。
 出産ということだけではなく子育てにおいても、母の「心の痛み」「憂いといらだち」があります。子どもを愛しているゆえの痛みですが、それも神のみが癒すことができる心の痛みです。神は母の痛みを通して、深い交わりを求めているのです。

・祈りで心の痛みを打ち明ける
 ハンナは「主に祈って、激しく泣いた」とあります。神の前で自分自身の痛みをそのままにさらけ出したのです。神と深く交わるためには、自分の心の痛みを認めて、「注ぎ出す」ことが大切です。
 私たちが神の前に痛みをさらけ出すときに、神の霊も共鳴するように「深いうめき」「私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)
 また御霊の導きの中で、神と深い慰めを得ることができます。神御自身が痛みを知る神だからです。(Ⅱコリント1:4)

・祈りを通して聖められる
「私はその子の一生を主におささげします」とあります。ハンナは祈りの中で自分も自分に与えられる子どもも一切を神にささげました。
 母の心の痛みには、自分の欲も絡んでいる場合があります。私たちの欲は神に受け入れられません。そこで祈りの中で欲を焼き尽くして、聖められた願いとすることが大切です。それは神にささげるという姿勢で可能となります。その時に私たちの思いはきよめられて、神に受け入れられる祈りとなります。

09/5/3 「大庭を慕う」 詩篇84



・大庭を慕う
 神は自然界に生命と自由の空間を与えているように、私たちの魂のためにもそれを備えておられます。「主の大庭」とはエルサム神殿にある庭のことですが、そこは礼拝の場で人々の魂が生命と自由を得る場でした。旧約の詩人はそこで神に礼拝することを切望し恋い慕っていました。
 この「大庭」は主イエスによって成就したキリスト教会の礼拝の場の予型です。私たちはキリストによって成就した「大庭」で霊とまことによって礼拝をささげることが許されています。

・礼拝者は生涯に恵みと力を受ける
 「何と幸いなことよ」と礼拝者について祝福を約束しています。神は真の礼拝者を求めておられます。神は彼らの礼拝をかぐわしい香りとして受け入れ、彼らの地上の生涯に幸いを与えます。「涙の谷」の経験も「泉のわくところ」となります。彼らを覆っているのは神の恵みと力で、彼らの歩みは神に支えられて力強いのです。

・礼拝は、千日にまさる一日
 さらに礼拝する時間は一時ですが、地上の楽しみの時間と質的な優位があります。地上の楽しみはやがて過ぎ去りますが、礼拝の時は永遠につながります。「あなたの大庭にいる一日は千日にまさります」とあるとおりです。
 旧約の民は樹木の生命力を羨望しましたが、新約の民はそれ以上の生命と自由の養いの場を与えています。私たちは礼拝の価値を心に覚え、旧約の信仰者以上の「慕う心」「霊とまこと」をもつ礼拝者となりましょう。

09/4/26 「イエスの兄弟」 マルコ3:31~35


・イエスの肉の兄弟
 「イエスの兄弟が来て・・イエスを呼ばせた」とあります。これはヨセフとマリヤのの間にできた血肉の兄弟たちです。彼らはイエスは血と肉の絆の中で育ったので「イエスを呼ぶ」権利があると思っていました。しかし公生涯の中にあるイエスにとって、彼らの元に向かうことはアダムの絆に復帰することでした。光の子が暗闇の子の中に戻ることはありえませんでした。血肉のアダムの絆(きずな)にある限り罪と死という呪いの連帯にとどまることになります。

・イエスの霊の兄弟
 神はイエスを地上に遣わして十字架の贖いをなし、新しい絆である神の家族を作られました。神の家族となった者たちは古い絆にとらわれることなく、この新しい絆に入ります。そしてイエスと共に永遠の生命と神の国の相続が約束されています。
 新しい絆に入るためには「神のみこことを行なう」ことです。それは第1にイエスを信じて主と告白すること、第2にイエスを信じる者たちとの愛の交わりに留まること、第3にイエスの福音のために生きることです。

・イエスの元に留まり導く
 私たちにとって地上の家族は大切な存在ですが、彼らを救う手段は彼らに「呼ばれ」彼らの元に返ることではありません。むしろイエスの元に留まり、愛の交わりを築き、私たちの家族をも光の中に導くことです。

09/4/19「2人の放蕩息子」 ルカ15:11~32 鈴木弘司師

 放蕩息子は父の家から出て行き、父からもらった財産を湯水のように使い果たしました。挙げ句の果ては豚飼いとなり豚の餌を食べたいと思うまで落ちぶれていきました。しかし彼はどん底で悔い改めて父の元に帰還します。
 父は真の姿は愛でした。彼が帰ってくるのを遠くで見つけると走り寄って彼を抱き、息子として最高のもてなしで帰還を祝ってくれました。父は息子のすべてを赦し、息子としての立場を復帰させたのです。
 兄息子は父と同じ心で喜ぶことはありませんでした。彼は父に不公平であるといってつぶやいています。彼はユダヤ人達の姿でもありますが、同時に先に救われた者たちの反面教師です。私たちは先に救われて信仰者としての多くの労苦をしています。それはそれですばらしいことです。しかし父と同じ心で後から来る者、弱い者を赦して祝福して上げないなら、父なる神から遠く離れた者になってしまいます。

09/4/12 エマオへの途上 ルカ24:13~26,32

・エマオへの途上
 エルサレムからエマオという村に下っていこうとしてた弟子たちの面持ちは暗いものがありました。主イエスの復活を心から信じていなかったからです。
 この弟子たちの暗い絶望的な心は、すべて復活を受け入れていない人の心の姿です。復活を受け入れていないとたとい主イエスが面前にいて救おうとしておられても、主イエスと認めることはありません。

・聖書全体から復活を示す
 主イエスは、目が遮られている2人に近づいてなされたことは、聖書全体からキリストの死と復活を示すことでした。10数キロの道のりを歩く間、克明に示していったのです。弟子たちの心の目は、次第次第に開かれ、心も燃えて明るくなっていました。
 私たちの場合も復活信仰を強めるためには、ただ御言葉の全体を通してキリストの死と復活を克明に知り、理解することが大切です。

・礼拝と聖餐
「食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで彼らの目が開かれ、イエスだと分かった」
 これは小さな礼拝の姿です。礼拝の中心は、御言葉と聖餐です。ここで私たちは、心の目が開かれ、復活の主キリストを認めるのです。またそこで憂いも、不安も恐れも、主イエスによって取り除いて頂くのです。
 私たちは毎週毎週の礼拝を重んじて、御言葉と聖礼典を通して復活信仰を強め、キリストの死と復活はすべて私の罪の贖いと新しい生命のためということを覚え、心を燃やしましょう。

09/4/5 キリストの受難 ピリピ2:3~11

・自己中心と虚栄心の時代に
 私たちの時代は個人の自由を大切にする時代ですが、同時に自己主張が強い時代です。また自分が目ざす人物像というとテレビの有名人であることが多く、それは一歩間違うと自己中心と虚栄に向かわせてしまいます。そこで私たちは、私たちの目ざすべき人物像であるキリストから学ぶ必要があります。

・キリスト受難と謙遜
 キリストは神の子で、神の御姿を持つ方です。しかし地上に来られた姿は、それらの栄光をかなぐり捨てた姿でした。「ご自分を無にして、仕えるものの姿」とは、そのことです。
 皆が、偉くなって誰かに仕えてもらいたい。輝かしく脚光を浴びたいと願っている時代に、神の子が示した姿です。
 「ご自分を卑しくし・・・実に十字架の死にまでも従われた」とあります。父の神に対する従順ゆえに、意志的にご自分を卑しく、低くしていかれました。罪人の傾向は、自分を高くして「神のように」なろうとするのと反対の姿勢です。
 「十字架の死にまで従う」というのはキリストでなければできないことでした。しかしそのようにして、神が望まれる人間の基本的姿勢を示されたのです。

・神が望まれる人間像
 キリストの十字架の姿は肉の眼には卑しく惨めに見えますが、神の目には何よりも栄光に輝く高価な姿でした。神の外面的栄光以上の深い輝きとみなされたのです。それゆえ神はキリストを「すべての名にまさる名」を与えたのです。
 私たちもまた「イエス・キリストは主です」と告白する者たちです。キリストの従順に少しでも学んで、本当の栄光の姿を刻んでゆきましょう。

09/03/29 神の国と聖霊 マルコ3の13~

・様々な非難に対して
 福音宣教が進展するに従って、主イエスについての色々な非難やデマそして悪い噂も広がっていきました。「気が狂った」「悪霊の頭ベルゼブルで悪霊を追い出している」などとです。
 主イエスは、そのような非難や噂に対してもキチンと対処しました。神の国は霊の働きとして進展すると同時に、非難に対する対処の言葉も伴いました。信仰者たちも、そのようにして噂に惑わされず、確固とした信仰生活をなし、証をなしてゆきました。

・神の国と聖霊
 ベルゼブル云々の非難に対しても、主イエスはたとえで彼らの非難の矛盾を指摘し、非難を退けます。
 「サタンがサタンをどうして追い出せましょう」とあります。地上は表面はどのような勢力が起こったり対立していたとしても、根底にあるのはサタンの支配です。ユダヤでも事情は同じです。律法学者自体もサタンの手先になっているのです。地上におけるサタンの絶対支配は地上の力では揺るぐことはないのです。地上にある限り、悪霊たちが内部分裂も内輪もめもすることはありえません。
 それではどうして悪霊が追い出され手いるのか。それは地上の支配者であるサタン以上の霊が働いているからです。それこそ神の霊です。

・霊的洞察をもって信仰生活をする
 私たちの周囲でも、しばしばキリスト教信仰についての非難やデマ、悪い噂が流れることがあります。しかしそれに惑わされることなく、私たち信仰者の周囲において神の国が勢力を広げ、聖霊の働きが胎動していることを覚えるべきです。
 この例的洞察で、私たちは確固として惑わされることなく聖霊の器として信仰生活を築き、福音を証することができるのです。

09/3/22 12弟子の任命 マルコ3:13~19

・12弟子の任命
 主イエスは、山の上で12弟子を選んで任命しました。人の思いではなく、神の選びであるということを覚えさせるためでした。彼らが選ばれたのは、能力があるから、人格が立派だからというのではありません。むしろ小さい者であるがゆえに、神の恵みの対象となったのです。
 また12という数字は、神の民の完全数を象徴します。主イエスは彼らを後継者として定めて、ご自分の福音宣教を担わせ、彼らを通して新しい神の民を集めるためでした。

・12弟子の務め
 第1に12弟子の務めは、イエスの身近にいることです。共にいることで福音を学び、交わりを通して霊を受け、イエスに似た者とされるのです。
 第2に、遣わされて福音宣教をすることです。彼らはイエスによって直接に派遣されました。それ故に明瞭な召命感をもって、生涯を福音宣教に捧げます。どのような時にも「立派な足」として赴き、神の臨在を覚えて語ったのです。
 第3に「悪霊を追い出す」という勤めを持ちます。地における支配者は悪魔であり、悪霊が跋扈します。弟子たちは福音宣教を通して神の国を伝え、事実、「地にもなさせたまえ」という祈りを実現するのです。福音宣教と彼らの働きの一切は、悪霊の力を打破するのです。

・弟子たちの実際
 弟子たちの名が列挙されています。どの名を見ても、元々すぐれた者はいません。ただみな誠心誠意、イエスを信じて従っていこうとする人々でした。弟子たちは、それぞれ神のお取り扱いの中、立派な12弟子となっていきます。ただユダだけは完全に悪魔に心を奪われて裏切ることになります。
 私たちもイエスの弟子です。神の選びを無にせず、精一杯、従いましょう。

09/3/15 安息日の主 マルコ2:23~28

・安息日
 モーセの十戒の第4戒に安息日を聖として、守るように命令されています。福音書時代のユダヤ社会では、宗教的熱心のあまり、人間の疎外問題を起こすほどに厳格に命令されていました。仕事をすること、火を灯すこと、調理することなど、一切が禁止されていたのです。

・麦畑で
 ある安息日に、主イエスの弟子たちが麦畑を通っているときに、穂を摘み始めました。当時のユダヤの慣習では、禁じられていることでした。律法を厳格にとらえるあまり、ひもじかったとしても、禁止していたのです。 しかし主イエスは弟子たちがなしていることは違法ではないことを宣言します。キリストがそこにおられると言うことで、律法が支配する世界から恵みが支配する世界に弟子たちが移されているからです。

・安息日の主 
「人の子は安息日の主」とあります。人の子とは、神から遣わさる救い主キリストのことです。彼によって律法の儀式や掟は撤廃され、全く新しい世界がもたらされたのです。 このことは、すべての社会において実現した恵みの支配です。キリストがおられるところでは、人間の生命のためには、すべてが許され、恵みが支配して、満たされ、癒され、養われるべきなのです。

・私たちの社会でも
 私たち日本人は、規則にとらわれてしまう国民です。しかし不完全な規則以上に、人間の生命が重んじられるべきなのです。それは肉の生命と霊の生命の両方です。

3/8 新しい皮袋に マルコ2の18~

・花婿と友人のたとえ
 主イエスは弟子たちの信仰スタイルと他の宗教集団のスタイルとが違う理由を尋ねられた時、いくつかの譬えで理由を説明します。
 「花婿と友人のたとえ」では旧約の律法主義よりも優れた喜びの大きい新世界をキリストがもたらしたことを示します。昔も現在も、友人の結婚式といえば、会社も誰もが休暇を認めます。友人は花婿とともに、喜びの宴会に加わることができます。

・着物とぶどう酒のたとえ
 次に「着物とぶどう酒のたとえ」では、ミスマッチの危険性について忠告しております。「新しい継ぎ切れ」は、縮むので古い布地に継ぎをすることはありません。「新しいぶどう酒」は、発酵するので、古い皮袋に入れることはありません。そんなことをすれば、ぶどう酒も皮袋も台無しになります。
 主イエスはたとえを通して、ご自分がもたらされた新しい世界は、生命に富む世界であり、古い型にはめることができないことを示します。

・新しい皮袋に
 主イエスがもたらした新しい世界というのは、福音による聖霊と生命の世界です。それは信じる者すべてに与えられる「神の子」としての霊と生命です。それぞれの信仰者は、神の子として自律の心と自発の心を持ちます。それ故、それぞれの自由が最大限に尊重されるべきであり、それに合わせて、教会は柔軟な信仰スタイルと交わりを作るようになるべきなのです。
 時代は、大きく変化していきます。教会は、常に一人一人の内に働く聖霊によって、それにふさわしい「新しい皮袋」を作るのです。

3月1日 罪人を招く主 マルコ2:13~17

・取税人レビ
 レビは後のマタイです。主イエスと出会う前は取税人で、社会から罪人として疎外されたいた人物です。彼も罪意識の中に放置されていましたが、惰性と執着心、さらには社会の拒絶ゆえに、そのどん底から抜け出ることはできないでいました。

・主イエスの招き
 主イエスは彼をご覧になりますが、そのまなざしは優しさとあわれみに満ちています。「わたしについて来なさい」との招きもまた、罪人を無条件に受け入れる優しさと力ある言葉でした。レビは、その招きに応答して「立ち上がって従」います。神の言葉に対する応答は、彼を新しい人に創り変え、罪人として捨てられたものから、神に愛される子にします。

・パリサイ人たちと罪人たち
 レビは主イエスを自分の家に招き、仲間の取税人たちと共に食卓に着きます。それを見たパリサイ人たちは、主イエスを批判します。パリサイ人たちもまた、神の前では同じ罪人です。さらに悪いことには、彼らは自己義認しているために、自分が罪人であることに気がついていません。社会的に罪人されて罪意識の中にある人よりも、手が悪い輩と言うことになります。

・罪人を招くため
 「罪人を招くため・・」
 病人達は、病を自覚するゆえに医者の所に行きます。医師は任された生命を精一杯の努力で救おうとします。丁度同じことが主イエスと私たちの関係です。主イエスは罪人の私たちを絶えず招きます。私たちが自分の罪の深刻さを自覚するなら、その招きに答えずにはいられないのです。

09/2/22 見よ 神の小羊  ヨハネ1:29

・世の罪
 バプテスマのヨハネは「世の罪」を鋭く指摘します。罪の自覚がなければ救いもないからです。現代の私たちの時代も深刻な罪の中にありながら、その自覚が少ない状態です。辺見庸という作家は、この時代の罪をパンデミック(爆発感染)と表現します。価値観が崩壊しだし、傲慢さと狂暴さが隠然として存在します。秋葉原の事件は氷山の一角です。すでに低層では、破壊的な状態であると。

・罪を取り除く神の小羊
 罪に気づく人は、何とかして罪をぬぐい去ろうとします。しかし人間の努力はことごとく空しいものです。努力の後は絶望感に浸るだけです。罪の聖めはただ、神の恵みによって与えられるものです。ヨハネは「罪を取り除く神の小羊」と言って、指さすイエスこそ、その方です。
 イエスは神の一人子で神と同じ聖さと尊さを持つ方です。しかも罪の贖いのために「実に十字架の死までも忍ばれた」方です。永遠の存在が無限の犠牲をなしたと言うことです。それは絶対の罪の贖いとなります。

・イエスを見ること
 「見よ・・」とヨハネは、叫びますが。イエスを霊的にしっかりと見ることが大切です。そのためには、自分の罪を自覚すること、イエスの尊さと贖いの事実を心で見つめることです。「キリストの打ち傷によってあなたがたは癒された」とあるとおり、イエス・キリストが心に示された人は、罪から聖められ、癒され、生命と希望が与えられたのです。

09/02/08 中風と4人の友 マルコ2:1~12

・中風と4人の友
 中風は現代でいうところの脳梗塞/脳出血のことです。昔は不治の病でした。「ひとりの中風の人」は身も心も魂も、すべての側面で思い苦しみの中にありました。その苦しみを知る4人の友人は病人に対する愛と共に、主イエスに対する熱心な信仰とを働かせます。彼らは家が人であふれかえっているので、屋根をあけて天上から病人をつり降ろします。破天荒ですが、主イエスは友らの熱心な信仰をよしとします。

・主イエスは罪を赦す権威を持つ
「子よ。あなたの罪は赦されました。」 
 主イエスは病人の根本的解決を「罪の赦し」という形でなされました。罪こそが悲惨と苦しみの根源です。また罪の赦しを基盤として、人間は全人的(whole man)に新しい生命を回復するのです。
 この後、主イエスは病人を立ち上がらせて、肉体の病気をも癒されます。それは罪の赦しが基盤としてあり、全人的救いが、その人にもたらされていることを示します。「人の子」とは主イエスのことですが、当時の人々の考えとは異なり、彼が到来した第1の目的は、罪の赦しだったのです。

・私たちも4人の友のように
 この物語は、私たちも4人の友のようにして、ひとりの魂の救いのために信仰を働かせることの大切さを示します。ひとりの人の魂は重く、また多くの側面の痛みがあります。複数の助け手があって初めて、主イエスの元に導かれるのです。その時、主イエスは「あなたの罪は赦された」と宣言し、その人に対して全人的な癒しの御業をなしてくださるのです。

09/02/01 らい病人のきよめ マルコ1:40~45

・ライ病人の求め
 ライ病人は旧約律法では宗教的にも、社会的にも、汚れた者とされ、一般の人々との接触も禁じられていました。それゆえ彼らは、肉体の疾患とともに魂に苦痛を覚えていました。新改訳第3刷の「ツァラト」とはヘブル語で「ライ病(汚れ)」を意味します。
 「ひとりのらい病人」は、その苦痛にあって主イエスにきよめられることを願います。ひざまずいて「お心一つで、私はきよくしていただけます」とは、強い信仰です。イエスが神の子としての権威と力を持つ存在ということを信じています。

・「わたしの心だ」
 「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」」
 らい病人の求めは、イエスの心の琴線に触れ、「イエスのきよめる心(意志)」を引き出しました。手が触れたのは、明瞭にイエスの意思を表すためです。その心と言葉が接点となって、彼はきよめられ癒されたのです。

・ライ病人のきよめ
 しかしライ病人は、本当の「きよめ」を知らないまま、イエスの元から去ってゆきました。それは肉体ではなく魂のきよめ、罪からのきよめです。この方が人に永遠の生命と平安、そして喜んで神に仕える心を与えるのです。
 もとハンセン病患者の谷川秋夫さんはこの点を証ししています。病気が癒されたこと以上に、主イエスによって罪からきよめられ、神に仕えることができる幸いについてです。そして主イエスを知る毎日について次のように語ります。「確かに肉体的には辛いこと、苦しい事もありますが、なにか日々新たにされているという実感があります。」